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お知らせ(第103回 続・道元迷走ノート)

第103回 2018年10月





続・道元迷走ノート





鈴木創士


石井恭二『正法眼蔵 覚え書
石井恭二『心のアラベスク

 道元は言う、

  心性を説くのは仏道の大本である、仏心仏性を説くことから諸々の仏祖は現成する。仏心仏性を説くことが、覚者の言葉である。(……)およそ諸々の仏祖が保つ仏道の本質は、すべてが心性を説くこと、相によって心性が展転することにある。平常の相として現れる心性があり、物事の相に現れる心性がある。(「説心説性」)
  覚知とは、いつまでも髪の毛一本先を行く「絶対知」ではない。それは理性の仕事ではないし、その意味で「作品の不在」、つまり無為である。したがって覚知、覚醒することは、心理的錯乱の対極にあるひとつの錯乱であり、非常に特殊で稀ではあるが、それ自体意味をなさず、指向性を欠いた一回性の「経験」に属している。この経験が実現する自己には実体がない。
 この経験には物事の相もまた含まれるが、それもまた説かれることによってはじめて現成する。そしてそれが「作品=仕事」と「作品=仕事の不在」の往還のはざまに生起することがあるとはいえ、したがって覚知とはもうひとつの錯乱としての錯乱に開いた穴でもある。この穴自体は瞬時にしてこの経験主義から無意識を追い出す穴であり、記憶なき経験にしか到らない。穴はいつ何時でも出現可能である。
 われわれの心はひとつの絶対的な穴である。われわれの心は超自我でも前意識でもない。われわれの心はわれわれの経験主義と一致することはない。だが、覚知が何かしら心というものに関わるものであることが分かっているとしても、「絶対知」を排するこの心の経験は神を知ることに通じているのであろうか。
 われわれはいったい何から覚めるのか。どうして道元の思想にとって、山川草木、すなわち仏性の思想の理論的核心に覚醒が置かれるのであろうか。仏性がいたるところで息づいているのであれば、それでいいのではないのか。答えは明瞭であると思われる。なぜならこの汎神(心)論的世界の中心には「神」がいないからであり、スピノザの思想ともまた異なり、万物に宿る仏性は「神」ではないからである。
  まさに道元は言う、
  ここで国師に問わねばならない、「一切諸仏は、有仏性であるかどうか」と。このように問うて、試験すべきだろう。その時、「一切衆生即仏性」と云わず、「一切衆生有仏性」と答えることだろう。諸仏も万有の全分であり一分であるからだ。だがそのとき国師は、有仏性の有を、脱落させねばならないのだ。有が脱落すれば余物は混じりこまない、混じりもののない覚りは、遥かに鳥が跡を残さず飛翔する境域である。このようであるから、これを転換すれば、「一切仏性は有としての衆生である」となって悉有[万有]は仏性に帰納するのである。この道理によって「衆生」を説いて衆生を透脱するのみではなく、「仏性」を説いて仏性を透脱するのである。
  諸仏は白日のもとには顕われない。有は有として顕われない。透脱するものは、透脱されるものである。衆生、すなわち心をもつすべての存在があるからである。仏も菩薩も衆生にすぎないではないか。
 もう秋なのに今日の午後は汗ばむほどの暑さだったからだろうか、窓を開けっ放しにしていた覚えもないのに、さきほど虫がブーンと耳元をかすめた。スズメ蜂かと思って、書斎のなかをくまなく探してみた。ほどなくしてテーブルの端で虫がじっとしているのが見えた。殺生は嫌だと思い、そっと手でつかんで、窓の外に放った。飛び立った虫には心があったのだろうか。
 しかし手がやけに臭う。正体はカメムシであった。カメムシはカメムシ目、カメムシ亜目に属する昆虫であるが、カメムシの名で呼ばれる昆虫にはいくつもの科があり、アオクサカメムシ、ナガメなどが含まれる。つまりカメムシは総称であり、これを標準名とする昆虫は存在しない。だが、唯名論と実在論の論争や、「ポリピュリオスの樹」の話をしているのではないのだから、そんなことはちっとも重要ではない。名前はつねに脱落する。カメムシなるものが存在しないのであれば、クサムシ、屁こき虫と言ってもいっこうにかまわないからである。
 問題は、私の手が臭かったことによって、カメムシが図らずも顕われたことである。カメムシが顕われたことによって、カメムシという名をもつカメムシの有は有として透脱され、無に帰したのであるが、それでも私の眼前にはカメムシがいたのである。そして遥かにカメムシが跡を残さず飛び立った境域がそこにはあった。臭いのは、まさにちょっとした愛嬌のような、微笑みのような、その境域のかすかな名残りであり、それもまた衆生の証であった。どうして虫の臭いが虫の心を意味しないことがあろうか。そして名残りと証はもう目には見えなかったし、手でつかむことのできないものであった。仏性とはそのようなものなのか。
 「始まりの無い永劫の昔から、愚かな人々の多くは仏性を不可思議な知慧の活らきだと考え、また、仏性を如来だとしてきたが、このような理解は大笑いするほかはないのである」、四十二歳の道元はそう言っている。
  心意は心を遮ることによって、心として顕われる。句[言葉]は言葉を遮ることによって、言葉として顕われる。遮るものの出現は、遮られるものの出現によって遮るものとして顕われるのだ。これが時である。礙(げ)は他の事物や現象によって生起させられるものとはいえ、他の事物や現象の現出を妨害する礙というものは全く無いのだ。自己は人に出逢う。自己は自己に出逢う。出現した事態は出現した事態に出逢うのである。これらの事態がもし時間のなかにあって時としての現成をえなかったなら、このような事態として現象することはない。
 また意[心]は普遍の理法が現成する時である。言葉は心の向上するバネとして作用する時である。心が言葉に到るのは心の透関脱落する時である。到らない事態とは此れに即(つ)き此れを離れるといった事態の時である。このように学び会得せよ、時を有に覚れ、己れに即してかく覚れ。(「有時」)
  山川草木もまた時として現れる。心もまた有時であり、言葉も同様である。他の事物や現象がそれを妨害することはないが、そうであれば他の事物や現象によって生起した礙とはひとつの出逢いにほかならない。古代の原子論者たちのように出逢いを良しとしなければならない。良い出逢いであれ、悪い出逢いであれ、偶然は偶然によって透脱される。時が遮られることはないからである。だが心に達するには、心を遮らねばならない。それならば、心と意をどうやって遮るのであろうか。自己は自己によって遮られる。「有時」は「有時」によって遮られる。「有時」は去来することがなく、時は流れない。心が遮られるとき、時は流れてはいないのである。
 心が言葉に到達するのであろうか。逆に言葉が心に達するというわれわれの経験は嘘である。嘘は嘘の上前をはねるし、際限がない。透脱された言葉は透脱された心そのものであるからだ。だから普遍の理法から発せられるものは何もない。苦しみはそんな風にして去来しなかったではないか。苦しみは現在にしかない。しかし明日は現在の発動であり、昨日は現在の発動であって、苦しみだけがここにあるのではなく、じつに丈六金身(じょうろくこんじん)の仏が己れであったということもあるのである。
(この稿、さらに続く)


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