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第85回 2017年4月

 

 

不動の曲線に永遠が…

 

 

鈴木創士

  

宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
ベルナール・ラマルシュ・ヴァデル『すべては壊れる』エートル叢書23

 

「ひとつの動きの曲線に永遠が押し寄せ…」
ジャン・ジュネ『薔薇の奇跡』

 

 宇野邦一の新著『土方巽 衰弱体の思想』を読んだ。上のジュネのエピグラフもこの本からの孫引きなのだが、土方巽の舞踏と言語をめぐる、注意深く繊細な、急いで書評すべきこの宇野邦一の本について私はいま書評めいたことが何も言えない。私はこの本を最後まで読みながらまとまった思考がまったくできないでいたし、この本で深く掘り下げられた土方の言語作品、もう一度しっかりと何度目かの再読をしようと前々から考えていた『病める舞姫』の読書も果たせないままでいる。

 宇野邦一の土方本を読みながら、私はいわば完全に引き裂かれてしまった。「衰弱体の思想」をめぐるこの本を病院のなかで通読するはめになってしまったからだ。ここのところある病院に見舞い客として通っていて、私は死の床についたある人を毎日ただ眺めて時を過ごしている。ベッドに横たわるその人を見ることに疲れると、病室かロビーに出て、できるだけ集中してその本を読んだのに、私は空っぽのバケツのままである。ずっしりと重ささえ感じる宇野邦一の本を手引きに、土方の舞踏と彼自身の言葉の謎について考えようとしても、土方の「衰弱体の採集」(採集といはいえない採集)のあの暗がり、土方の身体を降りていったところにあったはずのあの深い井戸の在りかは、もうありもしないみすぼらしい舞台の向こうに霞んでしまい、土方の舞踏を何とか思い浮かべようとしても、はじめから迷子になっていた「はぐれた肉体」の幻影がいまは時々この身を霧か透過物のようによぎるだけである。私は思い直して、何とか立て直そうとしてみる。衰弱体の身振りの採集。しかしバケツはいっこうに満ちることはない。この読書に何かしらバイアスがかかってしまったということではない。
 病院の広い窓から光が射している。ひとつの斜光。それがページの紙を照らし反射している。病にも光に似たものがあるのかもしれない。すぐ近くに山の緑が迫っていて、反対側にはいつも穏やかにきらめく海も見える。

 ジュネは先のエピグラフのくだりで、監房のなかでの身の動きについて述べていて、ほとんど無意識かもしれない身振り、悲惨と栄光をまとった囚人としての身のこなし、いってみれば「新しいダンス」によって、監房のなかでの時間と思考を支配し、それを自分のものにすることで、絶望を少しだけ、しかしまったく別のものに変えることについて語っているのだが(よくよく考えれば、ある時期ジュネは生粋の演劇人だったのだし、最初から最後まで彼のルネッサンス的とも言える幾つもの本は演劇の構造を持っていたのかもしれない)、ひとつの動きがあれば、そこにはひとつの不動性があるはずなのだ。
 病のなかに見え隠れするある種の容赦のない動き。そして病人のからだのもつ、偽の、見かけの不動性。それらは両立するかに見えて、鋭く対立し、仮象を退けるように(そのひとつは有機体である)、互いが互いを欺くように分裂を繰り返している。だがジュネのように監房を拡大し、そこに突進するような力はこの明るい病院のなかにはさすがにみなぎってはいない。私は監房のなかにいるわけではないが、それでも病室のなかでまぎれもない一個の身体を目の当たりにしていることに変わりはない。

 からだは曲線を描いている。この曲線に、時間の否定、永遠が押し寄せる。それを見ようとして、それを何とか確認しようとして、私の思考は停止する。私はぼうぜんとする。思考はもう身体から抜け出して、宙をさまよっている。この思考は身体とダブり、それから染み出しながら、ぼんやりと身体の形になろうとしていたはずではなかったのか。だがこの空気状の身体の形はからだ自身の知らない形かもしれない。私のからだ。病人のからだ。衰弱はさまざまな様相を帯びている。交感は起こりそうにない。奇跡はない。だけどここにダンスのようなものは存在しないのだろうか。踊っているものはないのか。

 ここではとんでもなく衰弱しつつあるからだが確かに目の前にあるのだが、寝返り以外にほとんど何の動きもないといっていいこのからだにも、何かが絶え間なく押し寄せているのがわかる。ひとつの動きは曲線を描くが、動こうとしても動けない不動もまた曲線を描いている。横たわったからだは不思議なひとがたの稜線の上で曲線を描くのだ。それは時間を否定するようにして同時に時間のなかにあり、この時間は一見円環をなしているように見えるが、じつはそうではない。永遠が続くことはない。永遠は続かなかったし、これからも続くことはないだろう。永遠が一瞬のなかにかいま見えたとしても、永遠は一瞬ではないからだ。時間と永遠は別のカテゴリーに属している。永遠は一瞬をあざ笑ってさえいる。いや、あざ笑っているのではなく、段違いの生と死の境界を敏感に感じているつもりになっているわれわれ自体を完全に否定しているのだ。曲線はじっとしているか、時間の外でただ無関係に震えているばかりである。
 閉じた目。やにわに開かれ、遠くを見る目。何も見ていないかのように、何も見るものがないかのように(実際、そうなのだ)動かない瞳。瞬き。まるで自分のからだがどこかへ墜落するのを阻止するかのようにベッドの柵をつかんだ痩せさらばえた手。土方巽は「からだの中には、際限もなく墜落してくものがある」と言っていた。重ねられ、折り曲げられた足。寝息。小刻みな呼吸。半開きの口。まだ少し喋ることも少し食べることもできる。しかし言葉はいま見えている幻覚をとらえようとするかのように唐突で、いつも私の知らない別のコンテクストのなかにあるほかはないし、言葉自体の中心から少しずつ、だが完全に逸脱しようとしている。そして食べるという行為はどこか人間離れしていて、酷薄で荒々しいところがある。

 ある力が身体に及んでいることは確かである。死の欲動のことを言っているのではない。この力は論理的に不可解なものだが、なぜこの場に及んで、それは速度を増しているように見えるのか。身体には実際の欠損、そうでないものも含めて、穴が開けられ、そこに生命とは恐らく別種のものが侵入し、部分的に壊死し、小さな死を繰り返し、誤作動を起こした細胞があちこちでゆるやかな増殖と占拠を開始している。意識などただのカカシにすぎない。だが誤作動といっても、それは生がもたらした賜物なのだろうか。そのように考えることもできるが、身体には物質から遠ざかる一方である深みのようなものがあるのかもしれない。生がときには急降下のようにカーブを描きつつ、それが露わになろうとしている。そしてそれはからだの表面に、からだの内部の表面に浮かび上がり、自分で自分を食い破ろうとしているのがわかる。
 こんなにも多くの出来事がからだのなかで起きている。それにつれて時間が振動を繰り返し、ただ脳のなかでだけそれが起きているかのように、その人にとっての時間の質が完全に変質しているのが手に取るようにわかる。不動のまま、その人のものでありながら、非人称的で、もはや素材ですらない何かがからだのなかに開かれ、本人が知らないうちに、からだ自体が無言のままそれを凝視している。私もまたそれをぼんやりと見ているだけだ。だがこのいうところの眼差しでさえ、時間の渋面、ただの見せかけがもたらす錯覚のなかの斜視でしかないのかもしれないし、むしろ絶えず断言を繰り返し、それを反復しているのはその人のからだのほうである。その人は、痛みを訴えているときでさえ、寝返りを打つときでさえ、そのことによって時間に打ち勝っているようにすら見える。私はそのことに安堵する。

 ここはひとつの劇場だ。幕は上がった。もはや手遅れだ。幕はすでに上がったのだ。幕という漢字は、目が悪いのか、墓という字に見えなくもない。そうはいってもここにあるのは生の力なのか、それとも死の力なのか私にはよくわからない。この何かへの移行、この何かの過程は、美しく、残酷で、穏やかで、悲しい。それが生の過程であることはたぶん間違いない。醜悪な生。臭気。いびき。血。悪血。そこにはまぎれもなく生が混じっている。あの鬱陶しい生が! だが私は消えゆく「生」を見ているのか、それとも死に侵された、死という病に冒され、衰弱の下降線をたどる身体、前段階の姿をした死体を見ているのか、もうよくわからないのだ。

 だがここにはやはり死体があるわけではない。からだは刻々と変化する。死ぬ前も、死の瞬間も、死後も。
 十七世紀にボシュエは、『死についての説教』のなかで、「からだはもうひとつ別の名前を持つでしょう。死骸という名前でさえも彼のもとに長くとどまることはないでしょう」と語っていた。「それはいかなる言語のなかにももはや名前を持たない得体の知れないものとなるだろう、そうテルトゥリアヌスは言っていたのです」。なぜならそれほどまでに実際すべてが彼のうちで死に絶えるからである。死に絶える? そんなことは承知の上だ。だがボシュエはほとんど脅迫じみた言葉で畳みかける。「ただ一瞬がそれらを消し去るのであれば、百年や千年が何だというのでしょうか」。やれることをやりなさい、それすらも無駄になるでしょう。「あなたの日々を重ねなさい」。美化しなさい。やってみなさい。虚しいことです。私の「実体」はあなたたちを前にして何ものでもない。わかってるさ、わかってるさ。
 いまここで、その人の実体が私の目の前で何ものでもないことを自ら証明していることを私はよく知っている。私は無知のなかでそれを確かめようとさえしている。だがそれらを一瞬で消し去るのはほんとうにあなたたちがよく知ると主張する「死」なのだろうか。それはどこにあるのか。どこからやって来るのか。いま私にそれを言ってもらいたい。ジャック・ベニーニュ・ボシュエはかつての自分の壮麗で犀利な説教によって、自分の死に際して、自分を救ったのだろうか。自分で自分を救うなど、言葉の矛盾でしかないではないか。なぜならこの自分とその自分は一致しないからである。
 身体はない。身体の制度はない。肉体はない。肉体の言語はない。身体が実践したことなど夢うつつの四肢、あのカカシがやったことにすぎない。衰弱がはじめにあった。後からは、死が迫ったときに、からだからじょじょに抜け出すからだがあるだけだ。
 私は病院の窓の外を眺める。その人のからだは、光のなかにあっても少しばかり悲しげな風景に似ていて、抜け出す前のからだが空中に描いた殴り書きのようなものかもしれない。

 

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  第84回 蒼ざめた女 - 2017.03.04

第84回 2017年3月

 

 

蒼ざめた女

 

 

鈴木創士

  

アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』
アンドレ・ブルトン『ナジャ
アンドレ・ブルトン編『シュルレアリスム簡約辞典
鈴木創士『サブ・ローザ

  

 

マルセル・デュシャン

「毎日は調子の狂った振舞いとともにめざめ、
 わが祈りのなかに取り囲まれる
 (…)
 居酒屋でお前ははぎ取る
 お前の悲劇という趣味の悪い服を、
 森はなく、戦利品はなく、大天使たちはいない…」

                    トーマス・ベルンハルト『こんにちはウェルギリウス』

 最近、ダダ・シュルレアリスムについての対談(『現代詩手帖』2017年3月号)のなかで、朝吹亮二氏がロベール・デスノスの詩「ローズ・セラヴィ」で駆使されたcontrepèterieコントルペートリ、つまり語音転換による語呂合わせの技法について言及しているのを読んだ。これは文字や綴り字の順序を逆にしたり、入れ替えたりする言葉遊びのことであり、ダダイストやシュルレアリストの発明によるものではなく、古くから、よく知られているところでは、すでに16世紀にはフランソワ・ラブレーによってしばしば試みられていた。

 「ローズ・セラヴィ」という名前はもともとマルセル・デュシャンの別名であるが(デュシャンの分身というよりはむしろひとつの別人格かもしれない)、このローズ・セラヴィという言葉自体、「Eros, c’est la vie」の言い換えの可能性があるのだし、音としてはたしかによく似ている。エロス、セ・ラ・ヴィ! 「エロス、それが人生だ」……「愛欲? どうしようもないじゃないか」。デュシャンは女装することによってそう言いたかったのだろうか。
 デスノスは当時シュルレアリスム運動の「眠りの時代」の詩人の第一人者であったのだから、デスノスはデュシャンの人格、美術家としてあまりに堅固だったために私生活ではあえかであるほかはなかった人格に憑依し、それと入れ替わることによってこれを書いたのである。デスノスは、後にアルトーを精神病院から救い出すために奔走した後、ナチの強制収容所で亡くなった。もちろん言葉遊びにもそれなりに重々しい時代があったのである。

 「ローズ・セラヴィの眠りのなかには井戸から出てきた小人がいて夜にはパンを食べに来る」(デスノス)。

 デスノスはデュシャンの可憐な眠りの井戸のなかに棲まうひとりの小人だったわけであるが、夜になればパン食う虫も好き好きであるとは言わない小人がここに存在してしまうことになる。『シュルレアリスム宣言』のなかでデスノスの詩についてブルトンが述べるところでは、パンと小人、井戸と夜はそのままシュルレアリスムの分類できないイマージュの一例となるのであって、詩に託されるべき、ふんだんで、時宜を得た、調子っぱずれの諸契機を与えるという点で、詩の「気まぐれ」はシュルレアリスムの「至高点」と関わりがなかったわけではなかった。

 しかしその詩を読んでしまった私にとっては、すでにコントルペートリはどこかへ消え失せていて、これはまぎれもないひとつの「現実」的な意味を帯びざるを得ないものとして現れてくる。それは精神の些細な作用にとっては明白な矛盾である。読者である私にとって詩がひとたび書かれたものとなったのであれば、いずれ小人(nain)はパン(pain)となり、夜(nuit)は井戸(puits)に変わるかもしれないのだし、つまりあるとき小人とパン、夜と井戸は同じものとなり、またあるときデスノスは、デュシャンの口を通して自分自身を食べ、デュシャンとともに自分から出て行ったのだということになるのだ。
 しかもcontrepèterieは否応なくcontre-péterという言葉を連想させる。つまり「近くで、もしくは反対向きに、屁をひること」、誰かにぴったりくっついて、もしくはさかしまに、反対向きに、逆立ちして(?)、おならをすることでもあるのだ。いや、逆立ちではない。そもそもおならは外に向けて発射されるのだから、この場合は、つまり反対向きということは、でんぐり返しをしながらおならを自分に向けて発射することのほうがより正しいかもしれない。まだ小さかった頃、私の姪っ子がみんなの前で勇んででんぐり返しを披露したとき、プッとやってしまい、大人たち全員が爆笑したのだった。しかし詩を読むわれわれ、「私の悲劇という趣味の悪い服」を脱ぎ捨てねばならないわれわれにとって、爆笑する権利はないと言ってもいいのである。

 

 それはそうと、せっかくだからcontrepèterieを辞書で引いてみた。有名なラブレーのこんな言葉が紹介されている。

 

 femme folle à la messe(ミサ狂いの女)

 

 それをラブレーはこう変える。
 femme molle à la fesse(柔らかい尻の女)

 

 私はラブレーに敬意を表してこれを次のように変えてみる。
 femme pâle à la passe(通りすぎると蒼ざめる女)

 

 詩の語句の出来としてはいかにも凡庸すぎるし、ラブレーのユーモアも何もかも台無しにしていることはわかっているばかりか、しかもコントルペートリとしても不完全で出来そこないとしか言いようがないが、いまのところほかにどうしても良き戦利品が思いつかないのだし、悲劇にも色々あるとはいえ、ともかく悲劇その他の悪趣味な衣装を脱ぎ捨てねばならない我々のことなのだから、いまではシュルレアリストではあり得ない私に免じてご寛恕願いたい。戦利品も収穫も盗人のぶんどり品もどのみちどこにもありはしないのである。つまり趣向を変えることだって何だってわれわれには可能なのかもしれないのである。

 

 通り過ぎるたびに蒼ざめる女
 通り過ぎるたびに
 あそこに窓があった
 きっといつかは
 薔薇の内部が
 君を蝕む日没が
 こじ開けられるだろう
 七つの辺が
 同じ薔薇色に輝いてはいるけれど
 この棘のなかに
 この傾きのなかに
 何年も前から君がいたのであれば
 僕は昨日そこからやって来たばかりなのだ
 仮借ないものとは
 最初の日に手袋のように裏返ったものとは
 ルビー色に変色したシャンパンのように
 この広場に続くうらぶれた小道だったのだろうか
 奏でるたびに
 しだいに色香も褪せる
 未知の楽器のように
 指から指へと
 喪失が瞬いているのが見えるのだ
 自分の胸腔の深い淵で
 君は少しだけ笑っていたっけ
 いろんな事があった
 空色をした蝶
 艶のない青銅の梯子
 糸のように細い時間のたゆたい
 まるで何かを浪費するような
 どうしようもない諍い
 告白すべきではなかったカムフラージュ
 それが何かの含有量ででもあったかのように
 君は激怒していたっけ
 僕たちが好きだった森
 あそこから西日が差してはいたけれど
 慈しみとともに
 取り返しようのない過ちとともに
 僕は思い出すのだ
 だが惨憺たる偶然と同じように
 そんなものなど何でもないのよ
 君はそんな風に僕にむかって語気を強めていた
 玄関で靴下を履きながら
 午後二時の陽の光にさらされた
 君の心のなかには
 紫外線のように
 市街戦のように
 穏やかな水のおもて
 ラファエロの自画像のように透明で
 昨日という最悪の日が隠してしまった
 最後には残酷なものとなるほかはない水が
 流れているのだ
 窓はとっくに開けっ放しだった
 銀色の船の航跡が
 むせび泣くように
 遠くに見え隠れしていた
 陰気なくせに呆けた街角だ
 頭上には一羽の烏が旋回し
 鈍色のアンテナの上
 昔の哲学者のように
 そこにいる白い鳥は
 じっと動かない
 だがそれが飛び去るとき
 光を放つ沼沢から望む
 紫色のアーチが消してしまう奇妙な風景
 そいつがここからも見えるのだ
 そのとき君は
 そのぼんやりとした向こう側に
 帰ってくるのだろうか

 

 

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第83回 2017年2月

 

 

すべての帝国は滅亡するだろう

 

 

鈴木創士

 

ゲルツェン『向う岸から』古典文庫
サント・ブーヴ『プルードン』古典文庫
E・H・カー『バクーニン』(
ブランキ『革命論集』(上・下)古典文庫(*現在は絶版)
ギュスターヴ・ジェフロワ『幽閉者 ブランキ』

 

 

 

 

  ロシア・ナロードニキの先駆けだった十九世紀ロシアの思想家アレクサンドル・ゲルツェンは、のちにヨーロッパ中を転々とすることになったが、さながらヨーロッパという断崖絶壁の上を彷徨う亡霊のようであった。社会主義の父であるこの亡霊はアナーキズムの父プルードンと協力し、アナーキストの亡霊でもあったわけだが、自治政府がプロレタリアート独裁を宣言したパリコミューンの最後の蜂起の前年にパリで没している。もちろんこれは偶然などではなく、歴史のなかから廃棄されるはずのない偶然がいっとき廃棄された証であった。モラルについては「非凡」であったこの作家の文章は、かつてのモラリストたちに似ていなくもない。かのバクーニンは若い頃ゲルツェンに影響を受けただけではなく、一八六一年に、シベリアの流刑地を脱出した後、当時ロンドンにいたゲルツェンのもとに身を寄せている。ロンドンのゲルツェンの家に入っていったとき、バクーニンはこんなことを言ったらしい、「なんだよ、牡蠣を食べているのか、いいなあ、だったら俺にもいろいろ教えてほしい、えっ、いったいどこで何が起きているんだ?」

 『過去と思索』とともにゲルツェンの主著と並び称される『向う岸から』のなかでゲルツェンはこんなことを言っていた。

 

  ――(…)背後には死が迫っている。死なんとする人のところに呼ばれた聖職者が、何をするというのだ? 看病もせず、うわごとに反駁もせずに、臨終の祈禱を読むだけだ。祈禱書を読みたまえ。ペテルブルグのツァーリの専制政治も、ブルジョア共和国の自由も、死刑宣告を下されたものは誰ひとり死を免れないということを、これを最後に確信したまえ。そしてそのいずれにもあわれみをかけないことだ。それよりむしろオーストリア帝国の崩壊に拍手を送り、半共和国の運命にはらはらしている軽薄で皮相な連中にこう言って説得するがいい。すなわちかかる共和国の瓦解はオーストリアの崩壊と同じように、人間と思想の解放にとって巨大な一歩を意味するものであり、いかなる例外もいかなる寛恕も不必要であって、寛容の時代は来なかったのだと。(…)テロルは人びとを処刑した。しかしわれわれの仕事はもっと容易なものだ。われわれは議会制度を死刑に処し、信仰を破壊し、古い世界に立脚した希望を一掃し、偏見を破り、決して譲歩したり容赦したりせずに、以前のすべての聖域に踏み入るように運命づけられているのだ。生まれつつある世界、昇りつつある朝日にだけ、ほほえみを送り、挨拶を送ろう。そしてたとえわれわれがその到来の時を早めることができないとしても、少なくとも、それを見ることのできない人に、それが近いことを教えてやることはできるはずだ。

 ――夜ごとヴァンドームの広場で、通行人にはるかな星を見るように自分の望遠鏡をすすめている、あの老乞食のようにですか?

 

 余談ながら、望遠鏡をつねに持参するこの乞食のことが妙に気にかかるのは私だけだろうか。この老いたる浮浪者とは誰のことなのか。天体好きのオーギュスト・ブランキのことなのか。たぶん違うだろう。まあ、とにかく星を眺めようではないか。

 ところで、一言述べておくなら、このところ日々私たちが見聞しているのは、白人至上主義のアメリカ帝国の瓦解が始まったということであり、あのお笑いツァーリ(君主)がツィッターで何を言おうが、帝国自体がもうそれをとどめるすべはないということである。最近では、笑ってしまうが、君主といえどもどん底まで落ちぶれることがあるらしい。君主の側近たちも、女性を含めて、理屈どおりにご立派なものである。歴史の教訓は無駄ではない。これがわれわれの時代の最低の現実、その禍々しい漫画なのだ。そしてこのぶざまな犯罪的漫画の存続にはわれわれの首相も一役買っていることを忘れないようにしよう。

 ***********************

 

帝国は滅ぶ

 

 ローマは一日にしてならず
 千年にしてならず
 昨夜、ローマ帝国は滅んだ
 黒焦げの大地よ、猛烈な渦よ
 底なしの忍耐よ
 血の色をした満月が天頂にさしかかる
 天を汚す月、月経にまみれたポイペ
 俺たちはけっして働かないだろう
 おお、火の夜よ
 地獄の女は
 帝国の仮の守護神などではない
 玉座にはひからびた団栗がひとつ
 目のない栗鼠が一匹
 オリーヴの大木が轟音をたてて倒れたのだ
 砂塵をあげる駿馬のいななき
 そいつが遠くでさらに灼熱の陽を浴びている
 少年の王よ
 護衛の兵士に喉をかき切られ
 半身を虚しく探し求め
 あるいは自分の頸動脈を食いちぎる王よ
 おまえは玉座からころげ落ちる
 溝(どぶ)のなかへ
 厠(かわや)のなかへ
 未来永劫、空位は王の座である
 
 いかにアテナイが陥落しようとも
 いかに農奴ヘイロテスが生き残ろうとも
 スパルタは存続できないであろう
 頭上を旋回する禿鷹よ
 ハドリアヌスも
 蛮族でさえも
 スパルタの存続を渇望したのだ
 あの大地
 腕を切り落とされ
 首を切られ
 ごぼこぼいう喉の血で窒息した兵士が
 一面のヒースに顔を埋めたあの荒野
 花の匂いを嗅ぎ
 喜びいさんで
 図面を引かれた偽の至聖所、あれらの列柱のあいだで
 襤褸(ぼろ)でつくった深紅の垂れ幕みたいに
 随喜の深淵に落ちていった無数の死者たち
 予言者たちは
 顔を曇らせる
 荒廃した
 ゴミの舞う町はずれで
 冬の大熊座はカサカサ音をたて
 地平線を一周する
 かつてカエサルの見た空
 くだらぬ芝居かもしれぬ
 小枝が折れる音がする
 歴史を寝取られた間抜けどもがいる
 俺たちは昼も夜も広場をうろつき
 けっして働かないだろう
 おお、穢れた血の色をした樹液よ、朝よ
 
 いかにマルクス・アウレリウスの声音をまねようとも
 またいかに彼の叡智をまねようとも
 そんなものはスカンクの屁にも値しない
 エリュシオンの野に悪臭が満ちるだけだ
 やりきれない歳月、千三百年の徒労の日々よ
 血が流れたのは
 青髯の家だけではなかった
 神は歴史ではなく
 歴史は神ではない
 神々はいつも居留守の番人にすぎない
 竃の上で鼎(かなえ)がぐつぐつ湯気を立てるにも
 もはや手遅れなのだ
 裏切りはあったのか
 時を追い越せ
 追い払われたエリニュス、復讐の女神たちよ
 真鍮の爪は研がれていたのか
 すべての復讐はどこへ向かうのか
 何もないし、どこでもない
 民主主義は奴隷の民主主義である
 畸形の熱狂
 惑星は誘惑などされはしない
 俺たちはけっして働かないだろう
 あれよあれよという間に
 民族は歴史の夢から締め出される
 痩せ衰えた亡霊たちよ
 それが無数の民の白昼夢だったのだ
 
 神殿の残骸には風の音がわだかまり
 うずくまる
 老人がうずくまる
 こいつが悪魔の化身だ
 円柱は折れ、粉々になる
 大理石は汗をかき
 汗をかき
 うっすらと血のミルトの汗をかき
 手は震え
 塩の柱が崩れる
 神々の像は八つに割れる
 かけらの断面からは奇怪な顔が生え
 陽の光に溶けてしまうだろう
 昨日の朝露のように
 ゴエティアの書に記されていた悪魔の祖先よ
 夜になれば
 淫靡な仕事を始めねばならぬ
 そこはオアシスなのか
 地底のオフィスなのか
 俺たちはけっして働かないだろう
 腐った食糧が
 悪臭のする古い血が
 青い鼻汁が
 唾が
 汚物が
 糞尿が
 穴のなかに投げ込まれる
 詩人が追い出されたのではない
 そこから出て行くのは
 テレンティウスの喜劇を演じるあの役者どもだ
 むこうに霞む砂漠よ、涸れた井戸よ
 小石が舞い上がる
 神殿は砂と泥に埋もれて
 とっくに跡形もない
 
 パラティヌスの丘には
 ネロの亡霊などはじめからいない
 骨だけになった死骸もない
 猫の死体もない
 だが歴史は歴史が過ぎ去らないことを予見するだろう
 そう言い張ったのは
 神々だ
 すべての予兆は
 破壊されたおびただしいただの彫像のかけらである
 かけらを操るコンスタンティヌス
 世界の首はどこにある
 玉座の上にはぺんぺん草が生えている
 気持ちのいい風が吹いている
 緋色の蛮族たちよ
 迷信をたずさえて
 君たちはここまでやって来たのか
 寂しい八岐の庭園までは
 そう遠くはない
 おお、残骸よ
 もうカラカラの浴場が血に染まることはないだろう
 血のあぶくを水に映る空のなかに見たからといって
 民は何ひとつ感謝しないだろう
 汚れたティベリス河が滔々と流れている
 それが何だというのか
 ヘドロのなかには何があるのか
 俺たちはけっして働かないだろう
 血潮のなかに溺れなば
 我はいかに強からん
 強大なのはそんなものではない
 ミネルヴァの神殿は
 夕暮れにしか開かない
 見えるのは葡萄畑だけだ
 珍妙な祭礼があった
 裸体の若者がいた
 生贄は無駄だった
 ユピテルの月までは生き長らえられないだろう

(後半の詩文「帝国は滅ぶ」は雑誌『HAPAX 06』(二〇一六年、夜光社刊)からの転載です)

 

 

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  第82回 くぼみ - 2017.01.04

第82回 2017年1月

 


くぼみ

 


鈴木創士



渋谷哲也・平沢剛編『ファスビンダー』エートル叢書16
ロラン・バルト『神話作用』 
ロラン・バルト『零度の文学
鈴木創士著『サブ・ローザ 書物不良談義』 
ジャン・ルイ・シェフェール著『エル・グレコのまどろみ』エートル叢書19

 「紙でできた雌鶏や、船や、矢や、飛行機、小学生たちが学校の机でつくるそんな折紙をそっと広げると、新聞のページか白い紙に再び戻る。私はずっと前から漠然とした気まずさに悩まされていたのだが、そんなとき私の人生――つまりしっかりひろげられ、目の前に平たく置かれた私の人生の波乱の数々――が一枚の白い紙にすぎず、それを必死に折って新たな事物に変形できていたつもりが、山や、断崖絶壁や、犯罪や、死亡事故という外観をもつ三次元のものとしてそれを見ていたのはどうやら私ひとりだったことに思いいたったとき、私の茫然自失は極めて大きなものとなった」。
 パレスチナ革命の地にフェダイーン(パレスチナゲリラ戦士)たちとともにいた経験をもとにした本のなかで、ジャン・ジュネはひとり人知れず唖然とした後にこう続けている。
 「こんな風に私の人生は、大胆な行為のうちに微妙にふくれ上がった取るに足りない仕草からなっていたのだ。ところが、このことを、私の人生が窪みのうちに書き込まれていたことを理解したとき、この窪みは深淵に劣らず恐るべきものとなった。象嵌術と言われる仕事はハガネの板に酸で凹状に図柄を穿つことだが、そこには金の糸を嵌め込まねばならない。私にはこの金糸が欠けていた。私が孤児院に遺棄されたことは、たしかに他の人々の出生とは異なる出生だったが、より恐ろしいものだったわけではない。牛飼いをしていた農夫の家での幼年時代はどんな幼年時代とも好対照をなすわけではなかったし、泥棒と売春をやった青春時代も、実際にあるいは夢で盗みを働き売春をやる他の青春と似たり寄ったりだった。目に見える私の人生は巧みに仮面をかぶった見せかけにすぎなかったのだ。監獄は私にはむしろ母のようなものだったし、アムステルダム、パリ、ベルリン、バルセロナの騒然とした街路以上にそうだった。そこでは殺されたり餓死したりする危険はなかったし、監獄の廊下は私の知る限り最もエロチックだが最も心休まる場所だった。合衆国でブラックパンサーと過ごした数ヶ月もまた、彼らと私の間に彼ら自身が気づかなかった共犯性がなかったのであれば、というのも彼らの運動はラディカルな変革の意志という以上に詩的な演じられた反乱であり、白人たちの活動の上に漂うひとつの夢だったからだが、パンサーたちが私を反逆者として見ていたとすれば、私の人生と私の本についての誤った解釈の証拠となるだろう」。



 ジャン・ジュネはもちろんここで自分を貶めているのではない。実際、彼自身は自分の人生を三次元として体験していたことに変わりはない。登攀が不可能に思えた山岳地帯、人を自殺に誘い、あるいは思わず足を滑らせてしまいかねない断崖、深い渓谷、殺人以外のすべての犯罪(ジュネは殺人を犯していない)、自発的であって同時に受動的だった悪事、泥棒、脱走、逃亡、物乞い、多くの死体…。だが彼は自分の人生が、ブラックパンサーのもとにあっても、パレスチナゲリラのキャンプにあっても、ひとつの窪み、ひとつの空洞であり、突如としていままでは想像もできなかったひとつの陰気な窪みに、浅いだけが取り柄の空洞に変化してしまうことを感じ取っていた。救いはない。ジュネのような生き方の例は滅多にないどころか、まったくの例外だったのだとまさに言うことができるにしても、ジュネにしてからがそうなのだ。つまりこの一枚の白紙、この窪み、この空洞は、われわれにとって普遍的なのである。



 フランスにいた頃、モンパルナスのカフェでコクトーの友人だったとかいう老人と知り合いになったことがあった。名前も忘れてしまったが、少しでっぷりしていたように思うその老人は見るからに男色家という風貌だった。家に遊びに来ないか、コクトーたちが来ていたサロンに案内するよ、と言うのでちょっとした好奇心にかられてついて行った。私はそれほどコクトーが好きなわけではなかったが、ファスビンダーの映画を知ったばかりだった。居間にはすでに何人かのゲイとおぼしき若い人たちがいた。彼らはお喋りで、落ち着きなくうろうろ歩き回っていた。あの落ち着きのなさはどこから来るのだろう。裏面だけでできているような、やけくそだが、あのほとんどぺらぺらの信仰に似たものは? 音楽がかかっていたように思うが、私の趣味ではなかったはずだ。夢想家はいないし、大胆な行為もない。虚構のなかで枕を高くして眠っていたのは誰だったのか。私だけが場違いだった。その場に自分をそぐわせるすべはまったくなかった。案外安っぽい感じのするサロンには見るべきものなど何もない。不潔な感じすらしたように思う。「ジュネも来ていたのよ」、誰かがそんなことを喋っていた。ジュネはこんなところにも出入りしていたのだ。朝吹登水子と石井好子がパリでずいぶんおとなしそうに見えるジュネに出会ったときのエピソードを思い出した。気詰まりで窒息しかけの私は早々に引き上げたのだった。



 雲が西から東に吹き飛ばされてゆく。電線から滴っていた雨垂れはもう跡形もない。さっきからものすごい風が吹いていた。雲のなかにはマンテーニャもジョットもピエロもグレコもいなかった。不穏な空。不毛なだけの、「自発的偽装者」の夜。だが不毛なのは夜でも空でもなくむしろ私自身のほうだった。ジュネはパレスチナ人が彼を受け入れたとき、パレスチナ人たちは彼のなかにこの「自発的偽装者」の姿を認めたのだろうかと自問している。
 この私にしてからが、自分の人生が裏返しになるような場面に何度か出会ったことがあった。そこには「自発的偽装者」がいたのか。だが白紙は何度も裏返されたのだから、どれが表なのかわからないし、そのような場面をここでデッサンでもするように素早く描くことはできないのだから、裏返しになったものは結局のところ何も描かれていないただの一枚の白い紙にすぎなかったのだ。カラヴォンの谷間はあまりに遠い。鳥の囀りは聞こえない。だがその谷間に行ったことはないし、それがどこにあるのかも私は知らない。白紙は白いまま、どんな複雑な記号によっても優雅なデッサンによっても埋まることはないだろう。どうやら白紙をこじ開けることはできないらしい。虚構に内部はあるのだろうか。だがこの紙を破ってしまうことはできるのか。



 人生は一枚の白い紙であるか、はたまたひとつの窪み、ひとつの空洞である。何をどう取り違えることができるだろう。だから私はこの観念に固執する。



 この窪み、この空洞には時間が流れ、あるいは流れ込んだまま淀んでしまったのだろうか。昨日、たまたまバルテュスの画集を見ていたのだが、ある絵に目が止まった。いままで私はバルテュスの絵画は人が言うほどエロチックではないと思っていたし、エロティシズムと言うよりはそこに描かれている「時間」にむしろ惹きつけられていた。私にはバルテュスの絵に物語を感じ取ることができなかった、たとえリルケが相手でも、それが『嵐が丘』の挿絵であっても……。物語はもうなしだ。物語ではなく、時間。停止してしまったと錯覚しかねない永遠の現在。それが粒子状にぼやけ始めることもある。何かがかすかに動き始めることもある。色彩やその他の面で、明らかにバルテュスはピエロ・デラ・フランチェスカに影響を受けているが、ピエロの絵の「時間」とはまた別物である。
 その絵を見ていて、私ははっとした。思いがけず、絵に描かれていた少女の胸の膨らみが妙にエロチックなものであることに気づいたのだ。乳房はむき出しではなく、下着の下にあって見えないが、普通、画家たちは、ルーベンスであれ、アングルであれ、誰であれ、こんな風に女性の胸を描いたりはしない。他の事物、部屋や少女のからだの他の部分やそれ以外のものの描き方はまったく違う感触で、そんな風には描かれていない。こうしてバルテュスの絵のなかの時間は停止した。時間は消えていた。ロラン・バルトの言う「プンクトゥム」は、絵画にもプンクトゥムがあるとして、この場合、それがただの錯覚にすぎなかったとしても、胸の膨らみなのか、それともカーテン越しの日差しだったり、謎めいた人物の後ろ姿がそこにあったりするかつて私を凝視させていたかすかに黄色か緑色がかった「時間」だったのだろうか。エロチックなもの……。それがこの世に存在することはわかっている。私は画集を閉じる。だがこの胸の膨らみといえども、ひとつの空洞のなかにしかないのかもしれない。



 勇気などという言葉は、ニーチェのために取っておこう。だが元はと言えば、われわれはすでにすれっからしだからである。自殺未遂も谷底からの山の登攀も経験済みだ。水は生きていた。木も生きていた。だがあの松、あの柊、あの杉は、近くから見ても遠くから見ても死んでいる何かにつながってしまう。風景の細部が、それだけが目に焼きついているとしても、終わることのないものは細部に宿るはずがない。それは細部を抹消してしまう。神は細部に宿りはしない。神はどこにも宿ることはない。それなら風景は私を拒絶しているのか。憂鬱、軽い発作、理性の不埒な選択……、金輪際、それが終わることはないだろう。エロチックなものも窪みにしかない。誰がこの場所に来たのだろうか。君は死を前にしてあらゆることを反省しようとしたのか。それが何になったのか。怖くなったのか。それは恐怖とはまた別物である。断末魔、死、金銭、風景、政治、女……などなど、どれに執着しようが、この模像を前にしては、生命を伝えようとするものなどありはしない。あらゆるものは陥没し、水没する。生は窪みで水浸しになっているではないか。私の「中」から見れば、たちどころにその「中」は消えてしまい、私の「外」のものがあるように思えるにしても、それは窪みをだまし絵のように彩る擦り切れた装飾だったりする。それに一秒先にはもう存在しない生命などとは、そもそもわれわれは口にすることができないではないか。



 あの日、ものすごい地震があった刻限のこと、私はなぜか鬱屈した気分のまま眠ることもできずにベッドに横たわっていた。横になったのはもうずいぶん遅い時刻で、午前四時くらいだったと思う。ものすごい揺れで家が完全に崩壊したとき、ああ、これはもう駄目だと思ったことをちゃんと覚えている。目は見開いていた。見えたのは真っ蒼な青空だった。外は真っ暗だったのに、稲妻が走り抜けたのだ。パドヴァの青。十四世紀初頭にジョットがスクロヴェーニ礼拝堂の壁に描いた空の青。私の目の前にあった壁が一気に崩れ落ちたのだった。まず本が蝶々のように飛んでいった。ついで本棚が水平にぶっ飛んだ。あれはたぶん安物の本棚だった。法外な力が破壊のさなかにあって破壊の瞬間を後退させたように思えた。破壊されつつ、速度を上げながら、破壊が遠のく、そんな不思議な経験だった。そしてそんな風に破壊はずっと続いた。たぶんほんの何十秒かのあいだだったのだろう、私はほぼスローモーションのなかにいた。時間は遅れに遅れていた。手探りでコートと眼鏡を探した。寒かった。人生の窪みはめちゃくちゃになっていたが、それもまた別の窪みでしかなかった。



 僕はいまは足が悪くて、あちこち徘徊することができなくなってしまいました。僕は禁断症状の麻薬中毒患者のように耳をすます。まったく飽き飽きすることですが、夢のなかにいるように音はまったくしないか、ごぼごぼ水が流れるか、ときには耳をつんざくような恐ろしい機械音がします。耳鳴りが星空のほのかな明かりのようにありそうにない不可視の窓から侵入してくる。窓は電気を帯びています。古い円卓の上には本があります。円卓には染みのついたレースの小さなクロスがかかっている。あのダンテル! 血のダンテル! 切り落とされた首から数珠つなぎの花の首飾りのように血が流れたのだ。いま星空がかき消えたので、僕は目を開くことができる。
 最近は、生まれたときからみたいに歩くことを知らないので、いつもは平気です。僕は窪みのなかで大げさなことを言っています。でもたまに外でかけっこをしたり、神社で鬼ごっこをしたりしたくなります。みんなが走り回っているのを見ると、たまにいいなあと思うときがあります。
 鬼ごっこの鬼にもなってみたいなあ。ほんの愛嬌で、暗くなってみんながおうちに帰っても、神社の大木にもたれて、ずっとおじいさんの鬼をやっているんだ。木をさすったり、爪で木に小さな傷をつけたりしながら。おじいさんは死んだし、いまでは絵のなかにいるみたいな死者です。頭のなかで誰かが喋っている。あのマルカム・ラウリーの大傑作小説『火山の下で』のアル中の主人公の頭のなかにいるように、いかに人がそれを幻覚だと呼ぼうと呼ぶまいと、頭のなかにあるものが一目惚れのように現実と遭遇してしまい、帳尻を合わせるようにそれらが収束して、ただひとつの決定的な現実となる。ふと気がつくと、われわれはそこに投げ込まれている。我が身を見ないまでも、そういう風になると相場は決まっています。鬼ごっこはなかなか終わろうとはしません。赤鬼、青鬼。安吾の女の鬼だったりして。殺されるのか、殺すのを諦めるのか、それはわからない。いきなり見てしまったものがあります。それに星空を後ろに、コツコツ木を叩く音がする。もういいかい。まあだだよ。暗くなると、きっとこわくなるね。でも窪みのなかに隠れているからへっちゃらです。

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第81回 2016年12月

 

 

天使が通る

時間の反故についての若干の考察

 
鈴木創士

 

 

宇野邦一『詩と権力のあいだ

 

 

 Le temps passe où est-il passé sans être perçu passe l’ange.

 Au temps figé gelé mais coulé que s’est-il passé alors que rien ne passe.

——Kuniichi Uno, RENGAINE OU MOU RIRE

(時が過ぎるどこに過ぎたのか気づかれることなく天使が通る。

 凝固し凍てつきしかし流れた時間に何が起きたのか何も過ぎ去ってはいないのに。)

 

  つねに時間の「問いはついで二重になり波打ちズレてしまう」。知らぬ間に時間が過ぎる。そのことが確かかどうかはわからない。死線がただ続くだけだ。一見、死に向かうかのようなライン。それは分岐するのだろうか。分岐は収束するだろうか。死線を分断すると瞬間が現れ、すぐさま消え失せる。時間のなかで死はヤヌスの双面の片割れとなり、もう一方の顔のなかに紛れ込む。それは何かの入口ではあるが、どこを見渡そうと出口はない。見ると、実際、顔はひとつしかない。外観としても、仮象としても、死は生とそれほど異ならない。たしかに時間の問いは白けた問いである。いつも大きな空白が現れ、それが時間の基底となる。こうしてわれわれもまたそこで立ち止まったのだと考える。だがわれわれは瞬間のなかに何を弁別しているのだろう。別の瞬間への移行はすでに過去のなかに隆起したひとつの虚偽である。ひとつの過去。ひとつの虚偽。

 シオランが言っていたように、時間から失墜することなどできるのか。この失墜は人間を脅かしはしない。時間からの失墜は別の時間への失墜とほとんど同義である。それはほぼ無際限に繰り返される。私は思い出す。私は失墜する。たとえこの不毛な状態のなかに小さな欲望がきざしたとしても、時間を回復することはけっしてできないからだ。時間がとつぜん凝固することがあるとしても、時間は流れてはいないし、止まってもいない。時間を感じ取ることなしに時間を認識できるとすれば、これはほとんど一種の痴呆状態である。明後日のほうを向いても、何をしようと、どうなるものでもない。私の血と私の時間が交わることがないとすれば、ほんとうにそうであれば、人はただ時間を観察していることになるのだろうか。だがそんなことはありえない。

 

 私はただ時計の秒針だけを見つめている。一秒、また一秒。一秒、また一秒と。時は過ぎゆくように思えるが、実際に起きているのは、私がそのとき厳密に何もしていないということだ。時計の針は動いているようで、何も過ぎ去ってはいないも同然である。何も起こらない。何も過ぎ去らない。秒針が過ぎ去っているとすれば、それはわれわれが何もやってはおらず、ささやかな行動への焦燥を感じているからである。そんな風にしてときには悔恨や慚愧や放心のなかにいるからである。そして時間が人に悔恨を迫るのは、未来を変える可能性が現在の不変性のなかに不意に現れるときだけである。かくして何かしら根源的な同一性らしきものがほんの小さな差異のなかに現れては消えてゆく。だから時間は無為のかたちをしている。そのとき私の血は血管のなかを流れているのだろうか。時間が回答であれば、私にはこの問いを問うことはできない。これはただの抽象的な問いにすぎない。私はその瞬間に決定的に時間を奪われている。この世の始めに時間を創造した神が、自らの時間を想像できないあの状態、あの沈黙を私は聞いている。

  

 かつて私は時間に属していたのだろうか。時間は存在も非在も知らないが、永遠の現在はたえず自らを否認し続けている。凍結した時間のイマージュはそのつど私をこの世の時間から締め出そうとする。過去へのノスタルジーがあるとしても、一度に与えられる時間の全体はこのノスタルジー自体を排除する。未分化のものが生起していたとしても、そのことを私はすでに「知らなかった」し、今となってはいかなる確信も持ちようがない。そのことはわかっている。少なくともわれわれはわかったふりをしている。われわれはぼやけた両立不能性である。それには曖昧さの余地はない。時間には復讐などない。恩寵もない。地獄を愛惜するふりをしながら、われわれは大きな思い違いをしているのかもしれない。人は記憶の病のなかで自分を看病しながら、死を誤魔化している。もしそうであれば、もし時間のなかですべてが死んでいるのであれば、実のところ、逆に生きることを潔しとしない理由はないではないか。

  

 メキシコの作家フアン・ルルフォの『ペドロ・アラモ』は、現在と過去が混在し、それ故に生者と死者が同一の時間の反復のなかに存在してしまう小説である。この反復のなかには「かつて在ったもの」があるが、それは回帰しないものでもある。それは同時にそこにあって、回帰する必要がないのだ。ここでは生者と死者が時間の迷宮のなかで交錯しているのではなく、生と死が、むしろ死が、あるプラトー、町も自然も風土もそこに含まれるある時間のプラトーを形成している。開かれた眺望、そのなかで死が死を生じさせる。そのことが生をつくりあげる。したがって生はもはや死の一様相でしかない。

 その町はいろんな谺でできている。軋る音や笑い声さえ聞こえてくる。古くてくたびれたような笑い声。声も長いあいだに擦り切れてしまうのだろう。壁の穴や石の下からそんな音がずっと聞こえている。風の日には木の葉が舞い上がる音がするけれど、ここには木など一本もないのだ。祭のどよめきが聞こえることもある。夜のどこかで犬が吠えている。気味の悪いことに、割れ目のなかからときどき人の声が漏れ出てくる。時間とはこの割れ目のようなものである。

 

 時間の純粋な形式というものがあるとすれば、それは死がいたるところに継起しているということである。なぜならこの冷酷な形式は経験的なものとは相容れないからである。しかもこれらの時間の諸形式、死とそっくりな諸形式はそれぞれ共存することができない。反復は、この場合、行動の内的諸条件に即してはいるが、しかし実際にはかつて経験されたことのない死のイマージュであり、ここでの生と死の差異はこの反復のさまざまな類型のうちのひとつでしかない。反復そのものが反復の経験によっては知覚されないのはこのためである。世界の記憶を反復できないのは、経験の主体、あの主人公が夢を見ていて(あるいはわれわれの観念のなかでは夢を見ているのとまったく同じ状態にあることを反駁できないということである)、自らの未来の行動(あるいは錯乱?)を夢からの覚醒だと錯覚するからである。それにどうして時間がこの錯覚の連続を自分のことだと錯覚してしまわないことがあろうか。われわれは後ろを振り向いたり振り向かなかったりする。恐怖がきざす。世界の記憶に対してその記憶と同一の行動が可能だというのであれば、彼は発狂するかもしれない。そしてこの錯覚は未来のその先までずっと続くのである。おそらく死もまたそれに関与することはできないのだ。

 

……………………………………………

 

 ここでは奇妙なことが起きている
 夜のイダルゴ公園
 コヨーテ像の前で
 インディオの女シャーマンが煙の杯を掲げた
 光は横に流れ
 煙が凝固する
 眼鏡の上にむこうの光暈が反射する
 煙は残像だ
 騒音のなかで夜が遠のく
 一瞬前の
 だが今ではない
 今は一瞬前となり
 今は一瞬後となる
 言葉はいつも途切れてしまう
 耳のなかには断末魔の蟬の声
 擦過音
 天使がうずくまり
 その両脚が半分向こう側に消える
 天使が通ったのか
 誰が見ていたのか
 反吐のように吐き出された沈黙の耳が聞いたのだ
 けっして知覚されないこと
 誰にも気づかれることなく誰かが見る
 誰にも気づかれることなく誰もが釘づけになる
 ここで
 うわの空のまま
 白けた暗がりのなかに
 踊りは空漠を拡げ
 円は寸断される
 それがいかに強いリズムに刻まれていたとしても
 力づくで
 絶望的に
 彼らは死んでいる
 踊りの間隙を縫って
 死者たちが次々と消え失せる
 輪になって踊りながら
 誰も踊ってはいない
 通りすがりに
 亡霊がおまえを見る
 人の波、おまえにそっくりな死者たちの波
 太鼓の音は分解されずに怒りに満ちている
 反故の合図
 一瞬前の
 一瞬後の
 大気は不穏なままだ
 何かが起きたのか
 時間などサボテンに比べれば何でもない
 ピラミッドの下には
 傷ついた栗鼠
 埋葬された彫像
 新しい骨
 そいつは愛をもって砂のなかに見捨てられるだろう
 それなら掘り出された夜が降りてきたのか
 死人の穴だらけの皮膚の上に
 取り返しがつかないほど透けてしまった
 大気の紙のような皮膚の上に
 だが何も起きてはいないのだ

   

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第80回 2016年11月



日時計の上のトカゲ
舞踏・室伏鴻・アルトー



鈴木創士




アントナン・アルトー『神経の秤と冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『サブ・ローザ

 

 

  

 


 室伏鴻が言うように、身体のなかに、身体にとって、「外の思考」があるならば、舞踏家はこのからだをどこに連れ去ろうとしていたのでしょうか。


 初期のアルトーを即座に理解した土方巽は、肉体のなかに梯子をかけて降りて行くと言っていましたが、このことは、アルトーの言う「思考の不能性」と深くむすびついていて、それは明らかに踊るためではなく、踊らないためであったように思われます。身体を掘り進むには、一度動きを止めなければなりません。身体の縁をかろうじて示すはずの痙攣はそこからしか生じないからです。この痙攣は時間のなかにあって、それに穴を穿つものとしてあります。
 健康であれ、病気であれ、身体は、誕生と眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。


 いかにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。六百年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念があったのでしょうか。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにして夢幻能は成立しました。
 動きにおいてすら不動であること。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、この強迫観念は暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。土方の最も優れた弟子のひとりであった室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望があったように思われるからです。不動性への予感によって、動かないことによって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするからです。別の次元とは、この場合、歴史の別の次元のなかにあることは言うまでもありません。身体が政治のなかにあるとしても、政治とともに踊ってはならない。動いてはならない。


 すべてのものが兆し、顕現し、産出されるのは、自然のなかなのでしょうが、一方、身体はそのままで別の自然の歪形を指し示します。器官なき身体、すなわちあるときは無機的な身体、様々な意味において有機体ではない身体をわれわれがすでにもっていることは、アルトーとともに了解済みです。だが室伏鴻の踊りがわれわれに見せる身体には、さらに「生まれる前のもの」、「生まれる前のものの苦しみ」があって、これこそが不動性への彼の渇望の中心にあるのだと私は考えています。


  「踊りとは命がけで突っ立った死体である」。 Butoh est un cadavre qui se met debout à corps perdu. この土方の教えは文字通りの意味で受け取らねばなりません。死体。はじめに死体があった。死体はいまここで生きている身体とともにあった。そして死体は身体であった。死体であること、死体になること……。死体とは一個の分身です。
 死体の振りをすることは、ここではそのことと矛盾しませんし、死体のほうこそが文化に形態を与えたのですから、それは外から与えられる残骸、言うところの文化的形態とは何の関係もありません。室伏の回想によると、すでに子供の頃、彼は死体の振りをするのがとてもうまかったらしい。


 室伏は、出羽三山の湯殿山で即身成仏の身体に出会います。鉄門海のミイラです。鉄門海はあるとき人を殺し、寺に逃げ込み、出家します。彼を慕って山を降りてくれと懇願する女郎に、切り取った自分の男根を与えて下山を断りました。彼の決意は揺るぎません。その頃、日本中で地震が起こり、疫病がはやりました。病気平癒のために、彼は左目を自分でくりぬき神仏に祈願します……。そして最後に死期を悟った鉄門海は木食の行に入り、即身仏となったのです。われわれが見ることのできるこの即身仏とはミイラです。
 しかし重要であるのは、この鉄門海が何者であったかということではなく、それがある決定的なイマージュ、質感も臭いもあるイマージュ、一個の生々しい分身を室伏にもたらしたということです。影は身体から出たり入ったりします。ここには絶えず振動し、変性状態にあるもうひとつ別の身体があって、身体の限界と不分明な境界を指し示します。
 このミイラのからだはただ死んでいるわけではありません。それは同時にわれわれに、われわれの無にむかって、贈与されています。無のポトラッチはじつに身体の次元においてこそ生起するのです。
 「ミイラの即身成仏」という文章のなかで、室伏はこんな風に言っています。

 

崩折れる 瀕死の贈与と息の 非人称の その外に ひきつったまま身を横たえた
遠のいてゆくのか 近づいてくるのか
定まらぬわたしたちの無限定の境界の 螺旋上で
はじめて 私は あなたの目を見た はじめて あなたは 私の目を見た

 

 身体は、それがどんな風にあろうと定まることはありません。首はねじまがり、手は折れ、足は追放されています。室伏は言います、「肉体はここにあって、とどかない」、と。ジャコメッティのような画家にとっての、対象との隔たりと同じように、同時に生起するはずのこの肉体の近さと遠さを、この即身仏のミイラはすでにそれ自体のうちに含んでいたのです。舞踏にとって、踊ったり、踊れなかったりする肉体が近くにあり、同時に遠くにあることは、すでにわかり切ったことだったのではないでしょうか。
 室伏は書いています。

 

どのようにして こんな遠くまで
来てしまったのであろう
どうして このような遠くまで
私の もっと 近い遠くを
運んできてしまったのだろう
この問いを実現スルタメニダ


 
 この問いが実現されるには、したがってミイラの息が吹き込まれ、室伏に乗り移らねばならなかったのです。きれいはきたない。きたないはきれい。近いは遠い。遠いは近い。そして、ここが重要ですが、息から身体が出てくるのです。

 この息からは何度となく新しい身体が生み出されるでしょう。古代ギリシアの哲人クリュシッポスが言ったとおり、「馬車」と言えば、口から馬車が出てくるように……。同じことは身体イマージュの位相でも起きています。素晴らしい眺めです。蛇足ながら、日本の仏像にも、口から人がぞろぞろ行列しているものがあったではないですか。
 舞踏家にとって、だからうまくいけば、身体は身体から抜け出すでしょうし、身体は身体から出てゆかねばならないのです。どうやら「身体の身体」というものがあるらしいのです。幻影は大挙して押し寄せるが、それを朝も昼も晩もよく見極めなければならない、と室伏は言います。身体は動かない。これも幻影です。ただ抜け出すことができるだけです。「身体の身体」、「身体から抜け出す身体」は、この身体にだぶっています。普段は重なっているが、そいつはじょじょに滲み出し、あるいは一気に外に出て、われわれをなぎ倒すはずです。


 

 ここメキシコの地に、かつてアントナン・アルトーがやって来たとき、彼はいったい何を知ったのでしょう。彼が見たのは「記号の山」だけではなかったのです。

 

肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。――自分自身へと〈出てゆく〉、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ。
                    「ペヨトルのダンス」

L’empire physique était toujours là. Ce cataclysme qui était mon corps… Après vingt-huit jours d’attente, je n’étais pas encore rentré en moi ;——il faudrait dire : sorti en moi. En moi, dans cet assemblage disloqué,
ce morceau de géologie avariée.

                   (La Danse de Peyotl)


 〈私のうちへと出てゆく〉。「外」はいたるところにあったのだし、身体は「損傷した地質学の断片」でした。だからアルトーが言うように、われわれは身体のなかに出てゆかねばならないのです。これは別の言い方をすれば、身体という「外」へと出てゆくということです。
 アルトーはずっと後になってこの経験について再び述懐しています。

 

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
 ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためであるが、
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。
                (「アルトー・モモのほんとうの話」)


 Je n’ai pas toujours retrouvé mes souvenirs concernant ma vie passée
jusqu’à des époques indéfiniment reculées comme je tiens depuis dix
années.

 Et c’est au Mexique, dans la haute montagne, vers août septembre
1936, que j’ai commencé à m’y retrouver tout à fait.

 J’étais monté chez Tarahumaras avec un signe, une espèce de petite
épée de Tolède, attachée de 3 hameçons, qui m’avait été indiquée par un
nègre sorcier de La Havane.

 Avec ça, me dit-il, vous pouvez entrer.
 Mais je n’avais pas désiré entrer.
 Or qui va pour voir quelque chose c’est pour entrer dans un monde
donné, mais jusque-là clos, insoupçonné,

 ce n’est pas l’idée que je me fait des choses,
 pour moi il ne s’agit pas d’entrer mais sortir des choses,
 or qui se détache c’est aussi pour entrer,
 sortir peut-être, mais dans quelque chose, quitter l’ici pour fondre
ailleurs,

 fondre et se libérer hors de l’ailleurs,
 ne pas fondre, mais se libérer dans nulle part,
 ne plus savoir,
 renoncer à avoir existé,
 alors ne plus souffrir jamais,
 les alternatives sont innombrables et ce n’en sont plus, chaque religion et individu a la sienne,
 or tout cela est idiot.
            (Histoire vécue d’ARTAUD- MÔMO)

 

 タラウマラ族のもとで過ごした数日間は、人生のうちで最も幸福な三日間であったとアルトーは言いましたが、山岳地帯のアルトーにとって身体はすでに錯乱したお荷物でしかありませんでした。
 そしていま引用したとおり、アルトーのペヨトル体験は、「外」、あるいは自分自身のなかへ「出てゆく」という点で、例えば、ミショー、カスタネダ、ヒッピーたちの経験とは異なるものだったと言うことができるかもしれません。ペヨトルによって、ヒッピーたちは自分のなかへとわけ入って、「意識」を〈拡大〉できると考えました。「記号の山」があまりに強力なので、彼らは自分のなかに逃げ込むしかなかったのです。アルトーもわれわれも中に入りたいなどとは思いません。しかもアルトーの場合、むしろ「意識」は〈縮小〉されるように思われます。彼は言います、「それはやすりにかけられる」、と。道を指し示すのはけっして意識ではなく、アルトーや室伏が言うように「外」と混じってしまう肉体の縁なのです。

 
 室伏鴻は亡くなりましたが、彼の舞踏の身体が滅びることはないでしょう。
 彼のからだを思い浮かべるたびに、私の眼前に一匹のトカゲが現れます。壁の暗い裂け目から出てきたばかりのトカゲは、陽の光を浴びた日時計の上でじっと動きません。錆びた鉄、ブロンズ、乾いた大気、反射する鱗、粘液、静寂。トカゲはさっきまで闇を食べていたところなのです。
 悪魔の陽のもとにまで旅をしたのは誰だったのでしょうか。強い日差しの下で、大地は赤く、トカゲは地面に横たわった私をじっと見ています。
 トカゲは言います、
 「おまえは誰だ?」

メキシコにて

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  第79回 絶腸亭日乗 - 2016.10.04

第79回 2016年10月



絶腸亭日乗



鈴木創士


 

アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
撰集抄 上 

 

 

 十月二日〔大正十四年〕。午前驟雨来る。天候猶穏ならざりしが日暮に至り断雲の一抹の晩霞微紅を呈するを見る。今宵は中秋なれど到底月は見るべからずと、平日より早く寝に就きぬ。ふと窓紗の明きに枕より首を擡げて外を見るに、一天拭ふが如く、良夜の月は中空に浮びたり。                     
                           永井荷風『断腸亭日乗』


 前口上。別にとりたてて荷風に恩義を感じているわけではないが、荷風のことはいまでも好きである。昔、生田耕作先生にさんざん荷風のことを聞かされたが、私にとっていまも愛惜措く能わざる「雨瀟々」は、難解ではあるが、いつまでも忘れられない捨て難い作品である。時々、不埒にも、酔っ払ってぱらぱら繙くこともある。生田先生と付き合っていた当時、私は下戸で、毎晩しこたま日本酒を飲まされては、勤めていた小出版社近くの小料理屋の表の溝でゲロを吐いていた。酒を飲めるようになったから言うわけではないし、下痢ばかりするということではないが、「脱腸亭日乗」というタイトルのものも書いたことがあって、それでは荷風にあまりに失礼だと思ったので、今回は荷風に敬意を表してこのような題にした。日々絶腸とはいえ、直腸癌のことを言いたいのではない。悪しからず。

 
 九月二日。高田馬場にてアルトーの会。題して「未知のアントナン・アルトー」。会場は舞踏家であった故室伏鴻のアーカイヴ・カフェ。窓からは明るい欅並木が見えていた。喋ったのは宇野邦一、荒井潔、岡本健、私。全員がこの度完結の日の目を見た『アルトー後期集成』(河出書房新社)全三巻の訳者たちである。私が翻訳を行った第三巻に共訳者としてもうひとり佐々木泰幸がいたが、残念ながら彼はすでに故人であり不在であった。悲しいことだが、仕方がない。合掌。

 自分たちをけっして甘やかすわけではないが、アルトーの翻訳は相当にしんどいし、病気になるくらい困難を極める。かつて70年代初頭に錚々たるメンバーによって企まれた『アントナン・アルトー全集』(現代思潮社)は第一巻を刊行した後、そんな話がはじめからなかったかのように頓挫し、消滅した。当時としては、無理からぬことであった。だがわれわれのほうは完結することができた。これは僥倖であると言わねばならぬ。
 会の当日、私はできれば新しいアルトー像を談話の中空になんとか結ぶことができればよいと考えていたが、なかなかそうはいかない。アルトーは結像しない。ずっとアルトーを読んできたが、この人は玄武岩のように存在していながら、たまに机にもたれて腕組みをした恐ろしい顔が空気を透かして見えるくらいが関の山である。アルトーの分身ですら容赦するところはない。もちろんいつも恐ろしい顔ばかりというわけではなく、そこがまたアルトーの一筋縄ではいかないところであるが、そもそも彼の顔自体が謎なのである。見たことがあるようで、見たことがない彼の不思議な顔! 亡霊は見てのお楽しみである。いったいいつの時代の人なのか。いや、アルトーはわれわれの同時代人であり、隣人なのである。


 
 われわれが何を喋ったかは、あらかた忘れてしまったし、ここには詳らかにしない。このような会はライブであり、ライブにはライブとしての意味があるからだ。喋った言葉はしかるべく消え失せるのである。覚えていることをひとつだけ言えば、たしか私はアルトーとギリシア悲劇との関わりの話をしたはずであるが、しかしそんなことがなんになるだろう。

 宇野邦一の提案で、室伏鴻のマネージャーだったWさんが企画してくれた小さな会であったが、よい会であったと思う。知った顔があった。知り合いばかりを探しているのではないし、それがよいというわけではないが、ずっと付き合いのある編集者だけではなく、新しい編集者、そして旧知の、長いこと会っていなかった編集者諸氏が来てくれていたのがうれしい驚きであった。他にも編集者や画家をやっている知り合いの女性たち、評論家たち、作家、若い舞踏家、私の参加しているEP-4を聞いてくれている人、学生、研究者、活動家などなど。余談ではあるが、かつての私のように何もしていない人、何もできない人はいないのであろうか。日本には、アルトーに関心があって、芸術や文学などやらずに、飲む、吸う、射つ、だけの人はいないのであろうか。
 終わってから若い編集者のAさんとテキーラを一壜空けてしまった(ここで身の程知らずのことを述べておけば、このテキーラ編集者は、私の最新刊の著書『分身入門』をつくってくれた御仁である)。宇野邦一夫妻と次の店に行ったときには、Aさんの目は動かないままあらぬ方に飛び去っており、まだ底のほうでキラキラしていた瞳の向こうにはサボテンがまっすぐに見えていたくらいである。サボテンはメキシコの大地の上で微動だにしなかった。言っておくが、私はサボテンと言っているのであって、ペヨトルやそれから抽出されるメスカリンの話をしているのではない。棘のたくさんついた美しいサボテン。マカロニ・ウエスタン。エル・トポの世界である。うれしいことにホドロフスキーはいまだ健在である。
 彼らと別れて新宿のホテルへ。Wさんを呼び出して深更の蕎麦を食う。まずかった。Wさんと別れてひとまず部屋に向かうが、それからが良くなかった。悪事。病気なのか。病膏肓に入る。何をやったかはここで言うことは到底できない。人に言えないことは、神のみぞ知る、というわけでもあるまい。悪い事は、最近はめったにやらないが、神といっても、悪の神だったのかどうかは知る由もないし、グノーシス主義の神がどんなものか見たことはないが、いまとなっては猿だって反省くらいはするのである。

 
 九月二十四日。神戸で「アルトーと音楽」の小さな会。最近ちょくちょく私がやっている音楽ユニットEP-4 unitPでノイズとトランペットとテルミンを演奏しているYが企画した会である。彼の新しい事務所兼音楽図書室みたいなロケーション。自分が喋ったことで覚えている話題は、作曲家エドガー・ヴァレーズとアルトーのこと。幻のオペラ。アルトーはヴァレーズのオペラのために「もう大空はない」という台本を書いたが、このオペラが実現することはなかった。

 このオペラは私にとってもはややけに親しげにも思える幻聴にすぎないが(だって存在しないんだもの)、最近、私はノイズ・ミュージックを(他に形容のしようがないのだ)、あるフランス人に言わせれば、エレクトロニック・アヤワスカ・ミュージックなるものをやっていて、いつもこの聞いたことのない幻のオペラが念頭にあると言っても過言ではない。耳の穴、というか頭にあいた穴を吹き抜ける空っ風のようにそいつが聞こえたり聞こえなかったりすることがあるのだ。ありていに言えば、私の聞いているつもりになっているものは偽オペラである。無理矢理耳のなかに音響仮想敵国をつくっているようなものだ。このポストパンク工場式偽オペラ風ノイズバンドで、ほんとうはシューベルトやショパンやカッチーニ、もしくはロネッツやゲンスブールのカヴァーを爆音ノイズで味つけしつつやってみたいのだが、ほぼ練習もしない、基本即興バンドでは、なかなかそうはいかない。メンバーはプロもしくはプロに近い連中ばかりなので、できないこともないのだろうが。
 この会で何を喋ったのか。アルトーが音楽に関心があった、とかそういうことではない。だがこれもライブであったし、自分の分身が喋ったことなど、はっきり言って私の知ったことではない。音楽と同じように、すべては壊れ、何度も言うようだが、すべては消え失せるのである。それでよしとしなければならない。
 健康な妙齢の女性もそれなりの年齢の素敵な夫人も若者もいたが、神戸の不良少年たちが何人か来ていた。少年ではなく、元少年たちである。彼らはみんな教養あるインテリで、インテリを商売にしていないところが清々しい。例外として、ひとりは商売にしていて、ロシア文学者のTもいた。まあ、いいだろう。会の後、そのうちのひとりインテリ・ハーレーダヴィッドソン野郎Tが知っている近所の安くてうまい中華に行った。インテリ和菓子職人もいるし、彼らは私の新しい友人たちである。この歳になって、これを僥倖と呼ばずして何と呼ぼう。古い友人である、つまりフーテン族の竹馬の友だったバーのマスターでミュージシャンのOもいる。彼と最初に会ったのは70年代の道端やジャズ喫茶である。神戸の連中は、どこか時間の流れ方が違うようだ。私は神戸にいなかった時期もあるが、私にとってほっとするところがあるのかもしれない(老人の証し、これは一個のチンケで儚い明証性なのだろうか)。昔の神戸はこの中華料理屋のような店が山ほどあったが、野坂昭如が言っていたとおり、震災以降、惨憺たる状況になってしまった。悲しいかぎりである。私の若い頃は、稲垣足穂や西東三鬼が書いているような神戸がまだ残っていたというのに。
 その後も呑み続け、帰ったのは朝の四時だった。トークショーなどというものをやると、ろくなことはない。トークに限らずライブはしんどいから、神経が剥き出しになるから(そのために怒り始め、手当り次第に喧嘩を始めるなんてことは近年はさすがに控えるようになったが)、後は酒を呑み続けるしかないのである。永井荷風は無論のことながらヘロインとかモルヒネとかLSD25とかはやらなかったのだから、推して知るべしである。

 
 九月二十五日。二日酔いの状態で、東仲一矩と娘さんの東仲マヤのフラメンコ・リサイタルに行った。「オイディプス王〜最後の日〜」である。何を隠そう、自慢するわけではないし、自慢にもならないが、私が原作脚本を書いたのだった。オイディプス王は、母と息子の近親相姦である。だが、今回の東仲親子フラメンコは父と娘である。ソポクレスの『オイディプス王』をそのまま使うわけにはいかない。親子の愛憎劇にしろ、というのが東仲さんの注文である。もちろんそれに近親相姦的色合いを加味することは暗黙の了解であった。関西フラメンコ界の重鎮である御大直々の申し出だったので、嫌ですと言うわけにはいかない。仕方なく『アンティゴーネ』を参照し、『コロノスのオイディプス』を混ぜ合わせて、まったく違う話をでっち上げた。

 自分で目をくりぬき、追放され、諸国をさまよい、尾羽うち枯らしたかつての王オイディプスは乞食となってコロノスのはずれに辿り着く。近親相姦によって生まれた娘アンティゴーネは甲斐甲斐しく父の世話をしている。父は娘を溺愛している。だが、娘の憎しみは? 彼女は不義の子なのだ。このラブダコス王家は呪われている。いや、彼女自身の怒りを越えて、父につき従うアンティゴーネはすでにして亡霊だったのである。その後、父オイディプスは死者の国ハデスへと召される。……
 ソポクレスのオイディプスは自分の運命とともに神をほんの少し呪いかけては、改悛する素振りを見せる。いっときの呪詛は改悛とセットになっている。天の象徴的秩序がオイディプスを縛っている。少なくともソポクレスにはそういうところがある。『コロノスのオイディプス』もそうである。ソポクレスは実際オイディプスを救っているし、最後に救おうとしたことは明らかである。そういうソポクレスはなまぬるいし、はっきり言って全然つまらない。それに比べて、画家のフランシス・ベーコンも言うように、アイスキュロスのほうが断然残酷である。私の場合はもちろんオイディプスを救わなかった。カタルシスはない。運命を嘆くのではなく、オイディプスは運命と戯れている。その点で私のオイディプスはけちょんけちょんである。彼はさっさと冥府ハデスへ死にに行かねばならなかったのである。
 私の戯曲は言葉だし、これはダンスなのだから、実際の上演はまったく違うものとなる。極度の抽象化が新鮮であることは言うを俟たない。紙に書かれた二次元はダンスと音楽によって三次元になり、あわよくば四次元に突入できるかもしれない。それは演出家の手腕によるものでもある。娘を演じたほんとうの娘であるマヤさんは、父への憎しみを美しくも激しく踊っていた。死にゆくよれよれのオイディプスを演じる東仲氏の踊りには鬼気迫るものがあった。歌も音楽も良かった。フラメンコ音楽とストラヴィンスキー。私は昔ヨーロッパにいた頃、スペインのグラナダでフラメンコを踊っていたジプシーの娘に恋をしたことがあったが、フラメンコはいつ見ても絶望と怒りの仕草が素晴らしい。死にゆく王の忘れ難い手、指、そして足さばき。
 一緒に行ったHは感動したと言っていたし、めったにないことだが、フラメンコを見たいと言っていた私の老母も私の姪っ子と一緒に会場に来ていて、死にかけの東仲さんが素晴らしかったと言っていた。会場には多くの顔見知り、親しくしている知り合いがいた。私が10代だった頃の、ジャズ喫茶バンビ時代からの古い知り合いのOにも会った。彼は私の最新刊の本の感想も言ってくれた。うれしいことである。われわれはみんな生き残りなのである。神戸だとこんな感じになるのかもしれない。

 
 十月一日。つい最近、詩人正津勉の好著『乞食路通』(作品社)を少しずつ読み始めた。路通は芭蕉門下の乞食坊主の俳人であった。乞食俳諧師といえば山頭火や井上井月のことが思い浮かぶが、路通のことはよく知らなかった。著者の正津勉は若い頃から路通に親しんできたらしい。ああ、そうなんだ。ほんとうのことを言えば、私は若い頃、日本の現代詩なるものを馬鹿にするきらいがあったかもしれないが、私の大いなる間違いであった。現代詩人といえども、心して姿勢を正し、刮目して読まねばならない。

 路通に戻ろう。

 
 死(しに)たしと師走のうそや望月夜

 草枕虻(あぶ)を押へて寝覚(ねざめ)けり

 
 浮浪者、放浪者を地で行く者の句としか言いようがない。路通は蕉門下では嫌われ者だったらしい。著者はそこには差別があったと言っているが、まさにその通りだと小生も愚考した。ここには深い問題がある。私も襟を正さねばならぬ。まだこの本を半分くらいしか読み通せていないので口幅ったいことは言えないが、師匠に対する路通の葛藤、そのもじもじとした心の機微、悲しみ、愛、諦め、放擲。そして同じように弟子に対する俳聖芭蕉自身の葛藤、戸惑い、怯懦、慚愧、悲しみ、そして男色…。

 ずっと前、フランスのハイ・クォリティーな詩の雑誌『ラ・デリラント』というのに芭蕉の『嵯峨日記』の素晴らしいフランス語訳が載っていて大いに驚愕したことがあったが、フランス人もさすがに路通は知らないだろう。それにしてもこの正津勉の本は良い本だなあ。いろいろ書くべきことはあるだろうが、それはまたの機会に。

 
 日乗には日常の旅のようなところがある。日記を書いていると、他人の旅のようで、心を絶ち、意を絶ち、身を絶ち、その場にとどまって酩酊のような旅ができるとでもいうのだろうか。できるような気がすることもきっとあるだろう。そんな風にも思う。でもこの日記は他人に見せるために書いているのだから、いま言ったことにはほんの少しの嘘が含まれているかもしれない。

 路通の代わりといっては何だが、同じく果ては乞食坊主と変わるところがなかったはずの旅の人西行を最後に引用しよう。
 西行はいろんなものを見てきた。反魂の術を使って山中に散らばった死体の骨から人造人間もつくったが、怖くなって壊してしまった。諸国漫遊などというが、なまやさしいものではなかったろう。西行その人自身はどうだったのか。ねがはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ。西行は詠んだ歌のとおりに死んだ。やったね! いろんなものを見て、西行はさぞ面白かったであろう。

 
 ……此事無限哀(かぎりなくあはれ)に覚(おぼえ)侍り。何と、げに世を捨(すつ)といふめれど、身の有(ある)程は、き物をばすてずこそ侍るに、哀にも賢(かしこく)もおぼえ侍る哉(かな)。凡(およそ)、此聖人は万(よろづ)物ぐるはしき様(さま)をなんし給へりける也。或(ある)時は、清水(きよみづ)の滝の下に寄(より)て、がうしと云(いふ)物に水をうけて、かくれ所をなむあらひ給ふこと、つねの態(わざ)也。いみじくしづかに思澄(すまし)給ふ時も侍るめり。一(ひと)かたならず見え給(たまひ)し。すみ渡る心のうちは、いつもおなじさきらなれ共(ども)、外(ほか)のふる舞は百(もゝ)に替わ(かはり)けるは、無由(よしなき)人の思を、我のみ一方(ひとかた)にはとゞめじとおぼしけるにや。

                           『撰集抄』

 
 明日、十月二日はEP-4 unitPの神戸でのライブがある。先日、古い知り合いのTがやっている京都のバーで、ルネッサンスの専門家である大学教授のYと一緒に飲んでいたのだが、泥酔してひっくり返ってしまい、突き指した親指がまだ治らない。あまりよく覚えていない。明日は、満身創痍の親指姫みたいな親指その他の身体パーツとともに轟音のなかに私も鍵盤で出演しなければならない。冒頭に引用した荷風の風情ある十月二日の日記とはえらい違いである。

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第78回 2016年9月

 


記号の山のアントナン・アルトー

 


鈴木創士

 


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『サブ・ローザ

 

 


 アントナン・アルトーには、精神と肉体が奇跡的な一致を遂げる瞬間がたしかにあったように思われる。この一致にあっては、精神はもはや精神ではなく、それどころか精神はもはやほとんど意味をもたないばかりか 、無に等しく、健康、病気であることを問わず、肉体は明らかに通常の状態を脱してしまっている。
 これは何らかの統合の結果や、その反対に分離ではなく、アルトー自身の言葉によれば、「諸事物の深い統一の感覚」であり、それこそがアナーキーな状態なのだ。それ以外のものはすべてカオスのなかにあり、だからこそこの統一を得るためには、「諸事物の多様性」、その「塵の感覚」をもたねばならなかったのである。大方の予想に反して、したがってアルトーの言うアナーキーの感覚はカオスの対極にあったと思われる。
 このアナーキーは別の側面から見れば「歴史」的思考から、歴史の原理から抽出された観念であったが、『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』を書くことによって獲得されたこの思考は、さらに何度となく責苦のような思考の分裂を経めぐり、長い経験の果てに、やがて晩年に至って「器官なき身体」と言い換えられることになったのだと私は思っている。

 
 世界は複雑だ。このカオスを注視しなければならない。われわれの肉体の外、同時にそれはとりもなおさず肉体のなかにある外部だった。カオスは肉体を食べるが、われわれはそれに抵抗することができるのだ。ただし通常とはまったく別の手段、手段ならざる手段によって。


 一九三六年、アルトーはメキシコの高地のタラウマラ族のもとを訪れる。『ヘリオガバルス』を書いてから二年が経っていた。メキシコでペヨトル(ペヨーテ)の儀式に参加するためである。ペヨトルはメスカリンなどのアルカロイドを含む幻覚作用のあるサボテンだが、これが「本物の」威力を発揮するためには、メキシコの大地、太陽、雨、そして何よりもタラウマラの秘儀的知識が必要だった。夜店で売っていたような日本産のウバタマからは大した効果が得られないのはそのためである。

 
 タラウマラの国は、記号と形態と自然の姿に満ちているが、これらはまったく偶然から生まれたものではないように思われる。ここでいたるところに感じられる神々は、あたかもこれらの数奇な署名を通じて、彼らの権能を示したかったかのようだ。この署名においてあらゆる面で追跡されているのは人間の形象なのである。

  (「タラウマラの国への旅について」、『アルトー後期集成』Ⅰ所収、以下同様)

 
 この文章は「記号の山」と題されているが、これをよく言われるような単なる心理的錯覚などと思わないでいただきたい。ただし心理的錯覚といえども、そもそもわれわれが信じて疑わない「現実的知覚」なるものと何ら質的な違いはないのだから、それにわれわれ一人ひとりの「現実的知覚」には言うところの科学的で確固たる「共通性」があるとは何ら証明できないのだから、自信たっぷりに現実の知覚とやらについて大見得を切ることはやめておいたほうがいい。

 私と君たちは現実のなかにいるのだろうか。なるほど日々の食べ物や電車の時刻表、あれこれの仕事、金銭、その他山積された現実的主題についてはそんな感じがすることもある。しかし現実はそんなものだけで構成されているわけではない。例えば、君の運命は現実なのか。現実のなかにあるのか。君の感情は現実的障壁にぶちあたってどうなってしまったのか。「現実」にはさまざまな次元があり、未知の様態があり、「塵の感覚」があり、それらはさっきのいわゆる現実的主題とは別のものである。
 知覚の領域ではとりわけまったく様相を異とする。例えば、絵画も現実である。そうでなければ、アルトー自身も言っているように、どうしてピエロ・デラ・フランチェスカやフラ・アンジェリコやマンテーニャの絵画を他のルネッサンスの「人文主義的」思想と区別することができるだろう。
 アルトーはさっきの文章に続けてこう言っている。

 
 確かに大地のいたるところに、自然はある種の巧妙な気まぐれに動かされて人間的形態を彫刻したのだ。しかしこの場合は違っている。というのも自然はここで、一つの種族の地理的な広がり全体について語ろうとしたからである。

 そして奇妙なことに、ここを通る人々はあたかも無意識の麻痺状態に襲われたかのように、あらゆるものに無知であろうとして彼らの感覚を閉じるのである。自然が突然、数奇な気まぐれによって岩石の上で責め苛まれる人間の身体を見せつけるということ、それは気まぐれでしかなく、この気まぐれは何も意味しない、とさしあたって考えてもよい。しかし来る日も来る日も馬で旅を続けるなかで、同じ巧妙な魅惑が繰り返されるとき、そして自然が頑固に同じ観念を表明するとき、同じ悲壮な形態が繰り返されるとき、すでに知られている神の頭部が岩の上に現れるとき、死の主題があらわになり、人間がひたすらその犠牲となるとき、——そして人間の引き裂かれた形態に、より明らかになり、石化する物質から出て、よりあらわになった神々の形態が応答するとき、——一つの国全体が石の上に人間の哲学に並行する一哲学を展開するとき、最初の人間たちは記号の言語を用いていたということをわれわれが知り、この言語が岩石の上に拡げられているのに目を見張るとき、確かに、これが単なる気まぐれであり、この気まぐれが何も意味していないとはもはや思えない。

 
 これらの記号群はアルトーを誘惑し、アルトーに襲いかかり、最初はアルトーを拒絶していたように思われる。アルトーがヨーロッパ人だったからだけではない。彼は馬に揺られて山岳地帯を登攀していたとき、最後のヘロインの一包みを急流に投げ捨てたと言っていた。これは生理的次元の問題でもあった。彼は「さら」の状態で事物との新たな接触を求めていたのだ。もちろん禁断症状がなかったわけではない。山岳地帯を馬に揺られながら、「五日目に私は地獄に足を踏み入れたと思った」とずっと後になって述懐しているほどである。このとき記号はこの「さら」の状態を埋め尽くしたに違いなかった。しかしこれはまた「呪いの網状組織」の別の側面を示すものだったのかもしれない。

 ともあれ、われわれの想像を絶する旅が続けられていたのだ。

 
 一歩進むということは、もはや私にとって一歩進むことではなく、どこに頭を運んでゆくかを感じることであった。誰かこれがわかる人がいるだろうか。次々服従し、次々前に運ばれる四肢、大地の上で保たなければならない垂直な静止。というのも頭の中は波動にあふれ、もはやその渦巻きを統御することはできず、頭を狂わせ、まっすぐ立つことを妨げる下方の大地のあらゆる渦巻きを、頭は感じるからだ。

 二十八日にわたるこの重々しい支配、この私という拙劣に組み立てられた器官の塊に立会っているという印象を私は持っていたが、それはいまや崩壊しかけている巨大な氷河の風景のようであった。

 
 そしてアルトーはシグリ(ペヨトルを吸飲し、踊りをともなうタラウマラ族による伝統的祭儀)の密儀に参加を許される。ここでアルトーが何を見たのかは、あまりに多くの濃密なことが含まれているので詳述できないが(ぜひ「タラウマラ族におけるペヨトルの儀式」と「タラウマラの国への旅について」を読んでいただきたい)、たぶんアルトーは超人的な努力によってその大地と自然と人間を含めたすべてを凝視し、「読み」尽くしたのだろう。

 
 彼らは私を地面にじかに、あの大きな梁の下に横たわらせた。そこに三人の魔術師が次々踊る合間に坐るのだった。

 地面に横たわっていたのは、私の上に儀式が降りかかり、私の上で、炎、歌、叫び、ダンス、そして夜そのものが、生命を吹き込まれた人間的な穹窿のように生き生きと回転するためである。したがってそこには回転する穹窿、叫び、抑揚、足音、歌の具体的編成があった。しかし何よりもまず、すべての彼方で、巡ってくる印象があった。これらすべての背後に、これらすべて以上に、そして彼方に、まだ別のものが、原理的なものが隠れているという印象が。

 
 この原理的なものは、タラウマラ族が「原理の種族」であるということだけを意味するわけではなかった。この原理的なものの現れにともなう長い苦闘は、彼が『ヘリオガバルス』で綴った、古代の歴史のなかに現れた「諸原理の戦争」とまったく別のものではない。アルトーはメキシコの山岳地帯でペヨトルを吸飲したとき、「私の人生の中でもっとも幸福な三日間を過ごしていると思った。それ以前にもう、うんざりしながら、私が生きる理由を探しており、自らの身体をたずさえるという義務を停止していたのである」と書いていたが、この原理の観念を理解しなければならないために、それを生きんがために、古代ギリシア時代に少年皇帝ヘリオガバルスがそうだったように、アルトーの身体、アルトーの生体組織が飛び散るモナドのように破裂し、ひきずり回されたことに変わりはなかった。彼はメキシコの大地で「やすり」にかけられたのだ。

 そしてアルトーは「自分を洗い流すために」、「中に入るためではなく、外に出る」ためにペヨトルに向かったのだった。しかしペヨトルを通じても、アルトーのあらゆる意味における分裂、原理の分離の悲痛な体験はもちろん避けることはできなかったのだ。これには、後にアンリ・ミショーやル・クレジオ、あるいはまたヒッピーたちがやったようなメスカリンの使い方とは決定的に違うところがあるように思う。
 アルトーは、ペヨトルのダンスを経験したときにすでにこう言っていた。
 「肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。——自分自身へと出てゆく、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ」。

 
 「自分自身へと出てゆく」。すぐれた暗黒舞踏家であれば、肉体のエキスパートたちであれば、ただちにこの言葉を理解できるだろう。アルトーはアルトー自身のなかへ出て行った。「出て行かねばならない」というのは、アルトーの旅が黎明期における人類学的とも言える旅であったこと、いや、それ以上に、こちら側の人間による人類学の限界を遥かに超えるものとしてあったことも示しているのだろうが、このことはここではあえて強調するには及ばない。

 それはアルトーのまったく独自のものといっていい思考の出発(『ジャック=リヴィエールとの往復書簡』の頃だ)、あの最初にあった思考の崩壊、存在の基底に生起していたあの「殺害」とは無関係ではあり得なかった。「この世があの世の逆ではなく、ましてやその半身ではない以上」、アルトーの宇宙卵はつねに「反卵状態」になければならなかったのである。簡単に孵化できるものなど何もないのだ。

 
 原理は手つかずのままでは存続できなかった。分裂した原理はさらに分裂し、この世があの世の逆ではないように、最後に至った自身の記憶を含めて、この世を死の反対側から、「墓の反対側」から見なければならなかったのだから、それは当然のことであったし、この苛烈な旅程は、アルトーの偉大さと不幸な天才(ほんとうに不幸であったかどうかは誰にもわからない)の一端であったのだと私は思っている。

 ゲームの規則が例外を証明せざるを得なくなるのは必定である。アルトーはメキシコから帰ってアイルランドへの旅を決行し、フランスへ強制送還となって、精神病院に監禁され盥回しにされることになるが、監禁を解かれた死の前年にはこんな風に言っていた。

 
 私は野次馬としてペヨトルに向かったのではなかった、そうではなくて自分からさらに最後の希望の切れ端を取り除き、肉の霊的希望の最後の赤い小さな繊維を切り離そうとする絶望した者として向かったのだ。

 ペヨトルとは、すでに言ったように、ひとつの卸し金、切り込みの入った、すべての除草、すべての記憶の小さな刻み目の入った木片であり、それはがちがちに凝り固まったその身体に穴を穿ったのだ。
 そこにひとつの観念を見つけようと欲する者は、精神の一肢よりさらに少し、生きている一個の骸骨よりもさらに少し失うことになるのだ。
      (「アルトー・モモのほんとうの話」、『アルトー後期集成』Ⅲ所収)

 
 失ったものは甚大である。ほんとうは誰が何を失ったのか。文明は失われたのではなかったか。アルトーには最後までユーモアがなかったわけではない。だがそれを感じたとしても、またそんな風に感じなかったとしても、われわれが笑えないことを必死になって主張すべきではない。笑えない奴はわれわれの敵であることがあるのは知っている。だがわれわれの意見などどうでもいい。問題は「笑い」などではないこともたしかである。こういったアルトー的「現実の」次元にあっては、備給される心理的エネルギーなどまったく問題にすらならないのだから。

 「ほんとうの話」は、どこで、いつ、どんな風に語られるのか。ギリシアがあった。バリ島があった。チベットがあった。メキシコがあった。マヤがあった。アステカがあった。アイルランドがあった。われわれは、これらのものすべてが無駄であり、徒労であったと考えているのではないし、それを蔑視しているわけではけっしてない。だが、それでどうなるのか?

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
  ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためである。
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。

           (アントナン・アルトー、同上)

 
 メキシコの高地には、われわれの知らない太陽がある。「そしてまさにここで、メキシコ人の老いた酋長は私の意識を新たに開こうとして私を打った。なぜなら私は生まれ損なったので、太陽を理解することができなかったからである」。

 アルトーはそれを全身に浴びて山を進んでいったはずである。ヘリオガバルスも太陽王だったが、しかしこのタラウマラ・インディオの地の太陽は、アルトーが生涯の最後に語ったヴァン・ゴッホの太陽とどんな違いがあるというのだろう。ヴァン・ゴッホのタブローのなかには亡霊はいない、ヴィジョンもなければ、幻覚もない、ただ午後二時の酷熱の太陽があるだけだと語ったあの太陽と。記号は経験のなかに消えてしまい、むろん象徴的なものも含めてその意味を変えてしまったが、これらの二つの太陽は結局のところ同じひとつの太陽だったのだ。

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第77回 2016年8月

 



病院、アルチュセールのことなど





鈴木創士

 

 


エリック・マルティ『ルイ・アルチュセール 訴訟なき主体

 

 

 

 今日は病院に行かなければならない日だった。夏の病院はどこかいつも夏の終わりを思わせる。蟬の鳴き声は聞こえてこなかったが、蟬の抜け殻が私の妄想のなかに散乱しはじめていた。この妄想は穏やかなものだが、私自身も蟬の抜け殻のようなものだったのかもしれない。いつもより混んではいないが、それでも綜合病院だから、大勢の人がうろうろ行き交っている。待合室でぼんやり車椅子の老人たちを見るともなく眺めていた。痩せこけた老人、笑っている人、明らかに不満げな人、介護人に一方的に喋りつづけている人、じっと前だけを見据えている人、うなだれて半分眠っている人。彼らは人生の最後に差しかかっているのだろうか。
 だが人生の終わりは、年齢に関係なくどこにでもある。終わりは生の条件を規定するが、生の条件が終わりのなかで何事かを主張することなどほとんどないといっていい。終わりは後ろからやって来るのか。目の前にあるのか。終わりがただの強迫観念でないことは蟬の脱け殻が証明しているし、しかも始まったものは終わるに決まっているが、終わりはいつも「事後」にしか自明なものとならないではないか。延期された行動、絶望を装う諦め、放棄と少しの希望。そしてささやかな喜びの予感。それから終わりがやって来る。確信がどこにあって、それが何を促しているかは、いまここではっきり述べることはできない。その段では、患者である私も、患者を診る医者だって同じようなものである。


 不吉な事柄すべてをそれとなく隠しているのは、この平和な病院だけではない。最近、重度の障害者を殺害したあの男の犯罪は心神耗弱による犯罪などではなかった、と私は声を大にして言いたい。ごく少数のプロによる殺人をのぞけば、戦争も含めて、どんな殺人でも、それが実行される刹那、「狂気」が介在しないことはなかったであろうが、殺人の動機と言われるものは、たいていの場合「理性」のなせる業であって、「狂気」とは無関係である。あの男が「狂人」ではなく、ただの「差別主義者」であって、あの犯罪がヘイト・クライムの一環であることは一目瞭然であるのに、大マスコミはそのことに触れようともしない。これはいったいなんなのか。われわれ全員が、たぶんあの男と同じように、「早発性痴呆」のもたらす根絶やしにされた「感情」の虜になってしまっているからなのか。私の意見では、あの犯罪があの男の痴呆的な「思想」によって引き起こされたことは間違いないと思う。

 病気にもいろいろあるし、病気も様変わりする。テレビでは、精神科医と称する輩が例えばあの男の「ファミリー・ロマンス」をしかるべく調べ上げるかわりに、思いつきのように、あるいは待ってましたと言わんばかりに、大麻精神病などというきわめて非科学的なシロモノまで持ち出している始末である。そんな精神病のことを云々するのはまともな医学のすることではない。あの男の殺人の衝動に感情的なスイッチを入れたひとつの要因をドラッグだと言い張るのなら、大麻などではなく、むしろ脱法ドラッグの誰も知らない複雑怪奇な薬理作用のほうを研究すべきである。そう進言しておこう。だが問題は、言うまでもなくそんなところにあるはずがない。
 不要なものを抹殺していいという考えは「合理主義」などではない。馬鹿も休み休み言ってもらいたい。有用なものから成り立っている世界では、重度障害者たちではなく、むしろわれわれ全員が不要なのである。それなら有用な社会をわれわれに示してもらいたい。それを見せれるものなら見せてみろ、と社会それ自体に言いたい。したがってこの事件は差別主義者による虐殺でしかない。アクチュアルなものも含めて歴史を眺めてみれば、そんな例には事欠かない。われわれはそれを不幸なことだと思っているが、おぞましさは普通にわれわれの日常のなかにあって、日常のあれこれを骨抜きにしてそれをつくりあげてきた。何度となくだ! それどころかあの男はヒトラー主義者であるらしいし、実に言うも恥ずかしいことだが、たしか憲法改正に関して、副総理である麻生太郎による「ナチスの手法を見習うべきだ」という発言が公の場でなされたにもかかわらず(麻生がかわいいなどと言われるのは、麻生がとんでもない馬鹿だからである)、あきれてものが言えなかった人を除いて、マスコミの誰もが問題にしようとはしなかったような「特殊な」社会にわれわれは暮らしているのだから、あの男がやったような犯罪が実行されるのは、残念ながら、言ってみれば時間の問題だったかもしれない。これは、慚愧に堪えません、などと言って済まされることではない。その意味でもこの事件は、アルチュセールの言葉を借りれば、「国家のイデオロギー装置」の囲いのなかにあると言っていい。国家的イデオロギー装置があの哀れな許し難い男をつくりあげたのだ。総理や、副総理や、死して護国の悪霊となってもなお自分のガールフレンドには絶対したくない靖国国防女衒大臣が誰であろうとどうでもいいが、事ここに及んで、そんな連中が現実の政治を牛耳っている社会では、「国家のイデオロギー装置」は以前にも増してますます幅を利かせ、ショートして出火するまでつけ上がるばかりである。早発性痴呆がそんな政治に憧れても不思議はないのだ。


 いま名前を挙げたフランスの哲学者ルイ・アルチュセールもかつて「早発性痴呆」と診断されたことがあったらしい。病名はすぐさま取り消され、重度の鬱病と訂正されたようだが、ずっと後の一九八〇年十一月十六日、朝の九時頃、アルチュセールはその妻エレーヌの首を絞めて殺害する。そのとき十一月の灰色の光が射していた、と彼は自伝のなかに書いている。

 この事件が起った時のことはぼんやりと覚えている。世界中が驚愕した。私もまた事件の一報を聞いていささかショックを覚えたことを思い出す。時代を代表するきわめて独創的で、犀利な、気鋭の哲学者であっただけではなく、アルチュセールは全世界の左翼の大星雲における希望の星ともいえるマルクス主義理論家であったからだ。私が彼の哲学、その「マルクス主義哲学」も、そして「偶然性唯物論」もちゃんと理解していましたとここで胸を張って言うことはとてもできないが、彼の哲学者としての文章がとにかく気に入っていた。彼はすばらしい書き手だった。才気煥発を地で行くマルクスの文章を思い起こさせた。レヴィ=ストロースは文章を書く前に必ずといっていいほどマルクスを読んで自分を鼓舞していたらしいが、(一部のマルクス主義研究者を激怒させることをあえて言うなら)ロマン主義的なところがあったといってもかまわない高揚したアルチュセールの文章にも、そんなマルクスの文章に近い抑揚があった。
 この事件の後もアルチュセールは読まれ続けた。それどころか若い世代によって「左翼のための」彼の哲学はいっそう有名になった感がある。勿論、この事件によって彼のかつての思想が根底から揺らぐということはないし、またそうでなければならなかったというのは私にも理解できる。しかし私が目にした限りでも、彼ら、若い研究者を含めたほとんどがこの事件を棚上げしにかかっているのではないかという印象を私は受けざるを得なかった。率直に言って、このことは一読者として私の不満を募らせた。一読者として、その理論装置だけではなく、アルチュセールの全体を知りたかったし、すべてがなければ部分を目にすることができないのは普通のことではないか。
 アルチュセールは事件の後「免訴」となったが、免訴の決定の後、措置入院によって精神病院に収容されることになる。免訴は、それに対する評価がどうであれ、この社会のなかの居場所を完全に失うということである。事件の本質はおろか、事件の当事者の弁も明らかにはされない。彼は「行方不明」を余儀なくされる。免訴によって裁判は行われなかったのだし、彼は病院に入ることによって、つまり「狂人」になることによって、その弁明の機会、自分の起こした事件への返答を社会によって拒絶されることになる。そうこうしているうちに、自宅に戻ったり、再び精神病院に入院したりした後、アルチュセールは死去する。そして彼の死後、その自伝『未来は長く続く』が刊行されることとなった。これは哲学者の自伝としては破格のものだったし、必然的にも思える彼のひとつの回答であったことは間違いないだろう。このような明晰な回想録は親族三人を殺害したピエール・リヴィエールの手記(フーコーを参照せよ)以来のことであろうし、自分の犯罪を含めてこれほど詳細な自己弁明にはなかなかお目にかかれるものではない。殺人を犯したルネッサンス後期の芸術家チェッリーニの『自伝』といえども、この超絶的彫刻家は途中で筆を折って投げ出しているし、事件と自己の歴史についてのこのような詳細な記述、ましてや回答じみた記述は望むべくもなかった。しかし、このアルチュセールの自伝は非常に興味深いものではあるが、その面白さゆえに、どこかしら宙に浮いたようなところがあった。前言を翻すようなことを言えば、彼の作家としての力量がそうさせたのだろうか。そんな風には言いたくないし、必ずしもそうは思わないが、彼の「哲学」と「狂気」が、エピソードの外ではかえって見えにくくなってしまったように私には思われた。


 ところが最近、少なくとも私にとってさらに興味深い本が翻訳された。ルイ・アルチュセール『終わりなき不安夢』(市田良彦訳、書肆心水刊)である。彼が自ら綴っていた夢の記録である。これでわれわれのためにアルチュセールの仕事の環が一応閉じることになったが、この本が驚天動地のものであることに変わりはない。

 おまけにこの本のエピローグには「二人で行われた一つの殺人 主治医作を騙るアルチュセールの手記」という、私の知る限り、どんな哲学、どんな文学の歴史にも他に類を見ない、瞠目すべきテクストが収録されている。アルチュセールが自分の主治医に見せかけて、殺人を犯した自分についてアルチュセール自身がまるでテクストの外にいるかのように語っているのである。「きみ」と「ぼく」を巧みに使い分けて。ただし「きみ」と「ぼく」をいくら使い分けようとそんな嘘はすぐに見破られることであるし、このテクストを書いたとき、アルチュセール自身がこの奇妙なテクストの構造を強く意識していなかったなどとは考えられない。このテクストは恐らくは「かつての妄想」の外で書かれたのだろう。だがそれが書かれた瞬間はいざ知らず、アルチュセールはいずれこれが刊行されるだろうということすら見越していたとも思われる。この点で匹敵できるものがあるとすれば、サドの遺言くらいしか思いつかない。彼はこのテクストで、「書き手」つまり「私」、そして「きみ」と「ぼく」という奇妙な構造のまま自分自身の「精神分析」を行っているのである。詳細は、周到にして非常に示唆に富んだ訳者市田良彦の解説を読んでいただくとして、いま私には読んだばかりのこのテクストと夢の記述について理論的な考察を加える余裕も力量もないが、気づいたことをほんの少しだけ述べたいと思う。


 例えばこんなくだりがある。「極論すれば、二人〔アルチュセールと殺害された妻エレーヌ〕が無意識にそれぞれ望んだこの役割の逆転は、事後にしか存在しない。出来事が起きたから、それはある。きみが無意識に彼女の死を望んでいたとすると、殺人は計画的であった(無意識による)ことになるかもしれないけれど、それでは無意識の幻想に本来もっていない役割を与えることになる。事後(役割の逆転という)が意味をもつのは、出来事が起きたからでしかない。役割の逆転という表象がその体をなすには、第二の時間(出来事)が決定的だ。取るに足らない人間に、永遠に悪者でいさせてやることは、取るに足らないことからの究極の救出にもなる。批判はすべてぼくが背負い(マスコミを見よ)、彼女はかわいそうな犠牲者になる。とにかく無意識のなかにはあらゆる幻想がある。幻想が行為を決定したなどと言っても、論理的、機械的な演繹にすぎない。出来事や行為のなかで、ものごとがそんなふうに起きるわけがない」(「二人で行われた一つの殺人」)。

 だからといって、アルチュセールは殺害の衝動の瞬間に「ほんとうに」何が起きたのかを語ってはいないし、語ることはできない。この構造の結構にしてからが、原理的にそうなのである。事後の語りとしては、「ほんとうに」何が起きたのかは誰にも知ることができないのは言うまでもないではないか! 事後的に袋小路を指し示す殺人者のこんな言は犯罪の被害者やその家族を怒らせるだけだろうが、出来事に、事実に、「そと」がないのであれば、アルチュセールは、スピノザ主義者として、全体の外には実は何もないのだ、神さえも、ということをわれわれに突きつけているとも言えるのである。「事実」にはたしかに形式らしきものがあるが、彼の見ていた「夢」と同じように、あるいはそれと対をなすかのように、この形式は空っぽであり、空虚であるほかはないということなのか。


 やけに細部が際立つ彼の夢はエロチックなものとそうでないものもあるが、彼が女性との性愛、あるいは女性自身の性愛に強くとらわれていた人であることはよくわかる。共産党の心強い同志であり、レジスタンスの闘士でもあった、年上の嫉妬深い妻エレーヌとの関係に彼の性癖が強く影響を及ぼしていたこと、アルチュセールが多くの女性を「愛した」ことはたぶんその通りだろうが、私にはこの点で言うことは何もない。しかし、ここで詳述はできないが、彼の夢にはもっと別の事柄、もっと不吉な夢との関係、そしてそれとは対称をなすことがけっしてできない非関係が刻まれているようなのだが、この夢のなかで「主体」はすでにして無意識の主体ではあり得ないように思われるのである。

 市田良彦の解説からアルチュセールの文章を孫引きしよう。この文章は「言説理論に関する三つのノート」(『精神分析論集』所収)のなかの一節である。
 「「自我分裂 Ich-Spaltung」に関して「無意識の主体」を語ることは間違いである、と私には思える。分裂した、分割された主体はない。まったく別のものがあるのだ。すなわち、「自我」のとなりに「分裂」がある。言い換えると、まさに深淵、断崖、欠如、裂開がある。この深淵は主体ではなく、主体のとなり、「自我」のとなりに開ける」。彼の夢の記述と手記はこのことを証明して余りある。


 アルチュセールは精神分析を受け続けた。自分の哲学の糧としながらも批判的に読解したのはラカンの思想だったが、分析を受けるために彼が通いつめた精神分析家はラカンではなかった。自伝『未来は長く続く』に書かれていたとおり、ラカンとの関係は思想家どうしの付き合いだけではなかったのだし、その関係が複雑であったことは想像に難くない(一例として、ラカンの娘に恋をしてしまったマルクス主義人類学者リュシアン・セバーグが自殺したとき、分析医であったラカンがあわてふためいたエピソードを参照せよ)。


 しかし、いずれにせよ、被精神分析の経験はまるで招かれざる客のようにアルチュセールの夢のなかにまで入り込んでいる。むしろ私にはそれは長い間むりやり性行為に及んだレイプ犯か押し込み強盗のように思えてくる。フロイトが報告しているシュレーバーの神のおかま堀りのことを言っているのではない。ラカンが日本語のシニフィアンの特性として日本人は精神分析を受けることができないなどと言ったことを信じているわけではないが、精神分析を受けたことがない私は、この本を読み進めているうちに、精神分析それ自体が彼の妻の殺害と無関係であったとはどうしても思えなくなったのはほんとうである。精神分析的思考の道筋が、その硬直した強迫、分析家あるいは精神科医との関係と非関係が、アルチュセールに殺人という行為の最後の引き金を引かせる結果になったのではないか。これではヴァン・ゴッホと同じじゃないか! こんな意見が突飛であることは重々承知の上だが、最後にそのことを指摘しておきたい。
 アルチュセールが好んだ比喩を使うなら、彼は走っている列車から飛び降りたかったのか、それとも停まっているにしろ、全速力で走っているにしろ、その列車に飛び乗りたかったのか。私にはそのどちらでもないような気がするのだ。その列車の運転手は精神分析家であったように思われる。行き先は、ありふれた、しかし殺伐としたどこかの終着駅でしかないからである。汽車から降りても、未来はずっと続くのである。

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第76回 2016年7月

 

 

身景累ヶ淵

フランシス・ベーコン

 

鈴木創士

 


ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
鈴木創士『サブ・ローザ

 

 


 身体のカサネガフチがある。身体の風景が深淵を取り巻いている。それは深淵に、あるいは時には重力を無視し、上方へ向かって落下する。落下。それは感覚の特質であり、崩壊や悲惨さとは何の関係もない。
 三遊亭圓朝の怪談落語『真景累ヶ淵』の「真景」とは「神経」のことであるが、神経の累ヶ淵と身体の累ヶ淵はさほど遠く隔たってはいない。神経の淵と身体の淵はむしろ同じものである。いたるところで、ここで問題にしようとしている絵画以外の場所でも、そういうことがある。というか、そもそもそのようにして、つまり神経の淵と身体の淵が同じであるような地点で、身体は絶えず変容を繰り返し、蘇生し、触手を延ばし、涎を垂らし、排泄し、ときには糞尿まみれになって、死滅し、灰になる。しかもそれが身体の外縁、身体の外側を決定するのだ(病理学的に言っても、身体の内側を確定することはかなり困難である)。それが身体である。
 キリストは「これが私の身体である」と言ったが(ゴリラのように胸を叩きながらそう言ったかどうか私は知らない)、この場合はキリストにならってこう言わねばならない。「これは私の身体そのものであって、同時に私の身体ではない」、と。だがたとえ究極的に栄光の身体が人間的事象についても言えることだとしても、栄光の身体だけがあるのではもちろんない。歯が痛む。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。心臓が手術台の上で取り出される。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。ただし断っておくが、私は社会的、政治的、制度的構築としての身体のことを言っているのではないし、この身体は医学的身体や美学的身体ですらない。それでは話が逆なのだ。蛇足ながら、「器官なき身体」を社会的網状組織のモデルのように考える人がいるが、まったくの誤りである。論点後取の虚偽である。
 「いかにして絵画は神経組織に直接触れるのか」とフランシス・ベーコンは問いを立てていたが、ベーコンの絵を見ていると、神経と身体がほぼ同じものであるいくつもの契機が彼の絵画のなかには確実にあるのだということがよくわかる。それがベーコンの「絵画」の常態であり、彼の芸術である。これは両者が単に同一の平面にあるということではない。直接的介在がひとつの直接性によってひとつの全体を一気に生じせしめるということではないし、直接的接触がひとつの統合を形づくるということではない。神経が身体を外に出そうとしたり、追い払おうとしたり、あるいは身体が神経を保護的存在、ひとつの有機性、あるいはひとつの道具のように見なすこと、そのこと自体は日常的である。これは確かに「感覚」の問題であるが、絵の側にも、画家の側にも、それを観る側にも感覚の問題があって、タブローを前にしているときでさえ、ひとつの感覚の次元を措定することはできない。そして感覚が身体とひとつに結ばれる瞬間が突然タブローのなかにやって来る。あらゆるものが表象的であることをやめるのだ。ジャン・ルイ・シェフェールはベーコンについての文章のなかで、事実の粗暴さや情動の絵画の直接性を信じることができなかったと書いているが、それらが感覚のひとつの次元の執拗さとまったく同じものを指していないとは私は断言することができない。
 ところで、神経と身体が同じものであることによって何が起こるのか。何が在るのか、ではなく、何が起こるのか、としか言いようがないのだが、しかもそれは現象学的身体とは無縁のものであって、身体から出てくるひとつの身体があるのだ。身体の位置をそのつど確定し得ない身体がある。ドゥルーズはこう言っている。
 「もはや問題は場所ではなく、出来事である。もしそこに努力があり、強度の努力があるとしたら、それは決して特別な努力ではなく、身体の諸力を超えて、他と区別される対象をめざすようなものでもない。身体は厳密に努力し、あるいは厳密に脱出に備える。私の身体から脱出しようとするのは私ではなく、身体それ自身が何かを通じて脱出しようとする。いわば痙攣であり、つまり神経叢としての身体であり、その努力その痙攣の期待である」(『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、宇野邦一訳、河出書房新社)。


 身体がつねに身体から抜け出そうとしていることは言うまでもない。私が身体から出て行くのではない。身体が身体から出て行くのであるし、それを私が見ているのだ。なるほど私も君たちもそれを見たことがあったのである。しかし痙攣がいつも起こるとはかぎらないし、強直性痙攣はなにもアルトーの専売特許ではない。そういう事態とは反対に、例えば能の身体のように、首尾よく身体から抜け出しかけた身体が、身体にダブって見えてくるということも、奇跡的ではあるが、あるにはある。演者の身体は演者の身体ではない。というか、少なくともそれはもはやすでに演者の身体ではない。うまくいけば、それはじわじわと滲み出てくるのだ。この場合、痙攣は起こっていないように思われる。

 
 圓朝ゆかりの日本の幽霊画、応挙、それとも、もっと近代なら上村松園の幽霊画ならどうだろう。日本画の特質ということを差し引いても、ここにも身体から抜け出しかかっている身体、別の身体になろうとしている身体があると言えなくもない。

 「図像の領域において、陰影は身体と同等の存在感をもっている。しかし陰影がそういう存在感をもつのは、それが身体から脱出するから、それが輪郭の中に局在する何らかの箇所を通じて脱出したからである」(ドゥルーズ)。
 幽霊は、ネガディヴな統一的側面において、つまり陰画的に、身体から出て行ったのである。そしてそれにもかかわらず、それ自体が充満する一個の身体なのである。充溢身体は、当然のことながら、デュシャンの言うアンフラマンスのように稀薄な身体であることもある。幽霊の身体、でもそれは身体なのだ。ここでなら、それが死せる肉であったとしても、「肉への慈悲」について語ることができるかもしれない。ベーコン自身が肉屋にぶらさがった肉であったように、私はひとりの幽霊であるからだ。


 しかし図像の歴史においてキリスト教的身体、イスラム教的身体(この幾何学的身体は身体であると言えないかもしれない)などなど、あるいは異教的にしろ、そうでないにしろ、その他さまざまな身体があるように、日本の身体というものがあるのだろうか。幽霊画の幽霊が美術史的に見ればかなりの点でそうだったように、例えば、舞踏の領域においてなら、それがあったと言っていいのか。土方巽が舞踏『疱瘡譚』で踊った病んだ女郎を見ていると、病んだ遊女の「存在」が踊られただけではなく、舞踏家は病んだ女郎の身体が身体を抜け出そうとする葛藤を、そのジレンマを、その日常の地獄を踊ったのだと思えてくる。しかしそこには日本人の身体、日本人の身体的特徴というものがあったとしても、日本なるものは身体をもつことなどできるのだろうか。だがその前に、こういう問いを立てることができるかもしれない。そもそも舞踏家土方巽の身体は日本の身体だったのか、と。彼の身体が秋田の身体を纏っていたことはたぶん間違いないだろうが、だからといって彼の身体のさまざまな状態と時間を外側から内側へ向けてあえて下降するかのような踊りは、日本ではなく、むしろ日本の「あの世」で行われていたのではなかったのか。

 
 上村松園を引き合いに出したので、現代画家である松井冬子をとりあげてもかまわないだろう。彼女の絵に登場する女性の身体は、女性性の現実性を表しているにしろ、レオナルド・ダ・ヴィンチの『アナトミア』から一歩も出て行こうとはしない。その意味ではルネッサンス絵画の視覚的「紋切り型」から一歩も出ていないということになる。紋切り型は別の紋切り型を生み出すことができるだけである。無論、かつてルネッサンス絵画に描かれた名だたる数々の身体がそれを免れてはいなかったなどと私は決して言うつもりはない。例えば、ジォットやウッチェロやピエロ・デラ・フランチェスカの身体を思い浮かべているのだが、彼らはかなりドゥルーズの言うベーコン的な意味での「図像」(フィギュール)に近接したものを描いたと考えることができるかもしれない。しかしながら松井冬子の作品では、臆せずクワトロチェントに始まる伝統のなかにあるかのように主張するこの現代の「解剖学的身体」は、あえて言うなら、内臓をさらけ出し、恐怖を植えつけることによって、逆にわれわれの身体の思考にとっては一種の後退を示すものでしかなく、「器官なき身体」の対極にあると言っていい。松井冬子の死せる身体は、ベーコン的な「図像」ではなく、それが凡庸であるにしろ、そうでないにしろ、「物語」の身体であり、その意味において、松井氏にとっては大きなお世話だろうが、ベーコンの絵画的冒険とは似ても似つかぬものである。具象との戦いに挑むことはないし、その意味ではイラスト的であるし、残念ながら、物語はそこでただありきたりの例証を繰り返すだけである。

 ルネッサンスの「解剖学的身体」はもうひとつの重要な発明、遠近法の発明とセットになっていたように思われる。解剖学と遠近法は似たような姉妹である。なぜなら解剖学的身体は器官の綜合から成り立っていて、空間とは「神の器官」(ニュートン)であるからだ。しかし実際には、空間の綜合は生起しない。われわれは有機的な器官の綜合を探し求めているわけではないが、神は、遠近法の消点の向こう側に隠れたままになっているらしいからである。時とともに、この空間は病んで、ところどころ完全に壊れ、ぼろぼろになって、すたれてしまったのかもしれない。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画を見ればわかることだが、むしろデジタル的であると思われるこの空間の伝統は、直観としてではなく、伝統としては、未来においてそれほど重要な意味をもつとは思われないが、それでも厳密な遠近法の空間は視覚的にも触覚的にもどこかしら奇妙な空間であるし、確かにそれを逆転して、伝統を逆に遡るようにするなら、有意義なものとして考えることもできるだろう。しかしここでわれわれが知りたいのは、「器官なき身体」に基づいた空間であり、空間の概念である。

 
 「身体から抜け出す身体」に戻ろう。

 ドゥルーズは書いている、「叫ぶ口を通じて、身体はまるごと脱出しようとする。法王や乳母の丸い口を通じて、身体は、まるで動脈を通り抜けるようにして脱出する。しかしながら、ベーコンによれば、口のシリーズにおいて、決定的に重要なのはこのことではない。叫びの彼方には、微笑があるが、彼はそれにたどりつけなかった、と暗示して言うのだ。ベーコンは確かに謙虚である。実は、絵画における最も美しい微笑を描いたのである。しかもそれは身体の消滅を保証するという、まったく奇妙な機能をもっているのだ。ベーコンはただこの点において、ルイス・キャロルを、猫の微笑を再発見している」。


 法王のどちらかといえば醜い「叫び」を描いたはずなのに、絵画における最も美しい微笑がそこに出現する。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に登場する猫、木の上にのぼっていたチェシャー猫は、じょじょにからだが消えていったが、すべてが消滅した後、空中に「にやにや笑い」だけが残ったのである。微笑は消滅を前提としていた。叫びのあとには、微笑が……。それは身体の消滅を前提としているのである。口から叫びが出ていき、叫びから身体が出ていき、身体が消え、すべてが消えて、微笑だけが残される。これほど豪奢なことがほかにあるだろうか。絵画の頭脳、その頭脳的解決は消滅に委ねられるのである。
 そして消滅を前提としてあらゆるものの現前がある。ドゥルーズは、現前がヒステリー的であるのはあり得ることだろうか、と問いかけている。私にはそれはつねにあり得ることだと思われる。
 「私たちがほんとうに言いたいのは、絵画とヒステリーのあいだには特別な関係があるということである。実に単純なことだ。絵画は、表象の背後に、表象を超えて、もろもろの現前を取り出すことを、直截にみずからの課題にするのだ。色彩の体系そのものが、神経系統に対する直接的作用の体系である。それは画家のヒステリーではなく、絵画のヒステリーなのである。絵画を通じて、ヒステリーは芸術となる。あるいはむしろ画家を通じて、ヒステリーは絵画となるのだ」。
 身体から抜け出した身体は、ここでもう一度、セザンヌが見たようなすさまじい生の風光、「線と色彩のあらゆる歓喜」に出会うことになる。そしてこのヒステリーを追い払ってしまうかどうかはまた別問題である。

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第75回 2016年6月



ひげの吸血鬼



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
鈴木創士『アルトーの帰還

 


 「イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を摘み取って、ユダヤ人たちの怒りをかった。彼らを駆ってそうさせた飢えは、それらの穂でたいして満たされるはずはなかった。もし安息日に対する畏敬の念があったなら、彼らは準備された食物を見いだすことのできる場所へ来るまでに必要な時間だけ、このわずかばかりの満足を延ばすことができたであろう」。
           (ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』より)

 ヘーゲルが取り上げたこのイエスの弟子たちの話は、カフカの短篇「断食芸人」と対照的である。イエスの弟子たちはさして食べたくもないのに、人々の目を食べ物のほうに向けさせた。パンだけを食って生きているわけではない、と師匠は言ったのに。一方、断食芸人のほうは、結局、食べたいものがなかったから、断食芸をやり続けたのだということである。食い物の話は恐ろしい。だがどこかにもっと別のものがあるはずである。フロイト派に言っておくが、ヘーゲルの取り上げた話も断食芸人も欲望とは無関係だった。

 
 むこうに、茶色に変色して、くしゃくしゃになったヘーゲルの頁が砂にまみれて落ちていた。読まなかった頁だ。これらのヘーゲルの重々しい頁は永久に読まれることはないだろう。たいそうな話じゃないか。中味をくりぬかれた言葉がある。私の生きた現実の時間が消え失せてしまうまでそいつはひとりで勝手に喋り続けることだろう。頭にくるといつもやっていたように、湿った土の上をずるずる匍匐前進したくても、いまはそんなことはできない。散歩中のばあさんはさも軽蔑した顔をわざとこちらに向けてから、いそいそと立ち去った。ばあさんに手を振るかわりに、ゲイの連中が花束にそうするみたいに俺は榛(はしばみ)の茂みに顔を突っ込んでみた。二度とはやらない。蝉は鳴いていない。世界は小さい。原則はすたれた。ばあさんの後ろ姿が見えた。

 全身癌で亡くなった俺のばあちゃんの黒ずんだ顔を思い出す。ばあちゃんは母が嫌いだったのか。母ちゃんがいじめられているのを見ると、いつも近くの親戚の庭まで駆けていって、玄関の靴を全部かっぱらって庭のしょぼい池に投げ入れた。それが子供にとっての道理というものだった。とうとう池の魚は全部死んで、どろどろのヘドロの底なし沼になった。しょぼい庭など猫だって見向きもしないのだから、それに気づく者なんていやしない。神社の裏手の土くれから掘り出した女の恨みの櫛のように、何足も何足も靴やスリッパが池から出てきた。俺はわざとそれをコンクリの塀の上に並べて乾かした。陽が照っていた。犬が吠えていた。塀のむこうにバリバリになった靴やスリッパが散乱していた。

 
 しょぼい植え込みのところまで走っていって、さっきうんこをしたのだった。雲雀が頭上をかすめて、ピッという鋭い鳴き声だけが落ちてきた。榛の葉っぱの香りがした。茂みの向こうにばあさんがいるのがわかった。ばあさんはうんこをする俺をじっと見ていた。何も見えないくせに、何かをことさらに見ている風に。笑っているのか泣いているのかわからないばあさんの顔はぼやけて広がり、薄い空気に霞んで溶けてしまいそうだった。あたりは深閑としていた。ばあさんのほうを見ながら、ポケットに突っ込んでいたヘーゲルの文庫の頁をひきちぎってお尻を拭いたのだ。微風が頬を撫でる。精神現象学。産みの微風。モロッコのララシュの寂しいスペイン人墓地が脳裡をかすめる。黒い頭巾をかぶった男がひとり海辺に立っていた。どの墓もいずれは砂浜の砂に埋もれてしまうだろう。知らんぷりを決め込んで急いで藤棚の下に行くと、あの娘の髪に顔を埋めるように藤の匂いをかいだ。むせ返るような春の髪の毛。千の絵。俺は自分の手をじっと見つめた。遠くに海を望むこの高台は俺の手相のように殺伐としている。風の音だけがして、光に溢れた砂浜の墓地にいるように斜めの光線が見えた。ここはララシュの寂しい墓地にたしかに似ている。黒頭巾と光がある。黒頭巾? ハレーションを起こした目玉のなかに見知らぬ小人(こびと)が映っていた。ひげの吸血鬼。ぞっとして、俺は空を見上げた。俺はしらばっくれた。誰に対してなのか。雲雀や榛に対してでも、ましてやばあさんに対してでもない。空は青い。ララシュの幻影はすぐに消える。突然、蟬が一斉にやかましく鳴くのがひどい耳鳴りのように聞こえた。蟬が鳴く季節ではないので、ありえない。誰かがかつて首を吊ったにちがいない古い樫の大木が目の端にちらっと見えた。木に梯子が立てかけてあった。


 
 時代などいつでもいい。いまだにペストの時代だ。中世の町並み。ぬかるみ。すべてが不潔きわまりない。ぼろぼろのフリルの衣装。黄ばんだダンテル。雨が降っている。尿の臭いで目が痛いほどの路地。鼻汁と痰と唾。鼻くそ。そいつをあたりかまわず吐き捨てる。やりきれない毎日だ。彼女のことを思い出す。なぜか空はよく晴れている。

 静まり返った夜のパドヴァのピアッツァ・デル・エルベが目に浮かぶ。広場を照らしていた一昨日の月明かり。月明かりはいつも過去のなかに射しているのか。冬の冷たい光が透き通る。それだけだった。なんて美しいのだろう。中世なのか中年なのかもう誰にもわからない。そのときも月明かりの下であいかわらず自分の手相を飽きずに見ていた。ささやかな日課だった。広場のまんなかで、ハムを包んでいた黄ばんだ包装紙が風にあおられて舞っていた。影が揺れている。むこうで立ち小便をしている輩がいる。汗をかいた彫像。ここにはない、崩れて跡形もない神殿。パラティヌスの丘の神殿。ほんとうにかつてそんなものがあったのか、という思いが俺をよぎる。そのまたずっとむこうに寄せては返す潮騒。不吉な波また波。見えないのに、押し寄せてくることがわかる。真夜中だというのに、いまでもそいつが窓を開け放った眠れぬ病床にいるようにしつこく聞こえてくる。
 ほんとうにユリシーズは帰還したのか。あの嘘つきの放蕩息子は。いくら知謀にたけてはいても、息子って歳じゃない。死にかけの愛犬、蚤とシラミだらけのアルゴスがほんとうに待っていたとでもいうのか。犬はいつだって俺の味方だった。だがユリシーズといっても、いろいろいるさ。ならば俺や君たちの時代はあったのだろうか。それともいつか来るのだろうか。耳と足がかゆくてしかたがない。耳と足が君はもう終わりだと言っている。終わったことは終わったことだ。足から肛門にかけてミミズ腫れのような戦慄が走る。

 
 夜であればいつ田舎の祖父の家に行こうとも、厠(かわや)に通ずる吹きっさらしの木造の渡り廊下にはあたりの闇からじめじめした冷気が伝わって、ヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのがいつも見えていた。虫がちっちっと鳴いていたのを覚えている。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのはとても怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。ひげの吸血鬼。小便をするのを諦めることもある。そんなときは知らん顔して風呂場で用を足した。

 昔の厠は怖かった。厠の小さな明かり取りの窓からもヤツデが見えた。しゃがんでいると、否が応でも耳をすまして、目をこらす。雨が降っていたりすると、時にはヤツデの葉っぱが黒一色のなかで白っぽく見えることもあったが、その幾層をもなすこの闇の層のことは今でもよく覚えている。闇の層は重なることなく目の前で幻覚の奥行きのようなものをつくりだし、闇が闇の質料だけでできているのではないことを知らしめる。目をじっとつむっていると、闇のなかに時おり白いヤツデが現れる。ヴェネツィアの画家ティントレットが天使を描くときに使った幽霊線のような白い輪郭が不意に現れる。もやもやしたヤツデの白は闇のなかでさらにもっと黒い部分を浮き上がらせ、気まぐれにずっと下のほうへむかって、まるで俺を誘うように目のなかをゆっくりと降りてくる。麻ひものようなものが下のほうへ飛んでゆく。火の玉が見えることもある。それは風に少しだけ震えるようにゆらゆらと消えてゆく。だが突然、白いヤツデは奇妙な百合の花に変わっていたりもした。恐怖から逃れようとして、だから目をつむるのも考えものだった。

 
 いつも俺は急いでいた。霙まじりの雨が思い出したように降っているのに、家路についていると、スイカズラの匂いが急にしてきた。スイカズラは漢字で忍冬と書くくらいだから、塀から垂れ下がった蔓草のような枝は冬でも毎年けなげに緑の葉っぱをつけている。それにしてもきつい香りである。頭がくらくらする。スイカズラの花を思いっきり吸うと蜜の味がしたことを思い出した。子供の頃は学校の帰りにいつもそれをやって、道端にスイカズラの小さな白い花をひきちぎってはまき散らしていた。遠くから見ると、物心ついた俺が効き目を強めようと外側のいらない成分を捨てるために剥いていた鎮痛剤の錠剤の粉をまき散らしたみたいだった。チョークの粉のようにも見えた。後になってそれを思い出した。スイカズラという言葉を前頭葉のあたりで反芻すると、いまでも頭がぼおっとなるのはそのせいかもしれない。

 冬だから花は咲いていないはずなのに変だった。そう思って歩いていると、家の近くまで辿り着いていた。雨は小降りになっている。見ると我が家がない。てくてく歩いてきた家並みはいつもと変わるところはなかったはずなのに、いつもと違うところがあるとすれば、ひどい腰痛をかばって斜めに傾いたまま歩いていたからなのか、我が家に近づくと、暗闇に浮かぶ家並みが映画カリガリ博士の書割りの影のように斜めに見えていたことだけだった。書割りは段ボールでできているのか、ぺらぺらだった。ほんとうに家なのかよくわからない。四つ辻はけっして直角には交差しない。いたるところに三角形がある。薄暗い平行線はすぐに交わり、鼻がぐすぐすするほど埃っぽい。ドイツ表現主義映画の書割りだな、こいつは、などと考えていると、自分の着ている服から黴のような臭いがとってつけたように漂ってきた。雨の臭いだった。俺は途方に暮れた。こんなことがしょっちゅう起きるなんてほんとうに辟易する。南米の町の郊外にでも行けば、きっと夕方に、ずっと続くピンク色の壁からかわいらしいスイカズラの花がのぞいているのが見えたかもしれない。俺は不幸な気分を振り払うように立ち止まった。いや、けっして不幸な気分などではない。うれしくなって、あたりにはひと気はないはずなのに、輪遊びをする少女に手を振ってみた。目の前をこうこうと照らしている、はじめて見る明かりの灯った家からは、死んだはずの友達が咳をするのが手に取るように聞こえていた。少女なんかどこにもいなかった。

 
 アルトーは見ようによっては謎の戯曲のようにも受け取れる本、彼が自分で構想した最後の本のひとつのなかにこんなことを書いていた。ところで、アルトーはある意味でギリシア人だった。たぶんニーチェが言うような意味で。




    ひげの吸血鬼。
    
    目覚めもなく、眠りもなく、
    腐った卵を運ぶダンプトラックの列があるだけ、
    それらは議論には答えもしない。
    
    黒い板、
    植物たちの粘液、
    身体とはすべて、
    空間、空間とは想像しがたいもの、
    その外には何もない、絶対的に何もない
    (…)
                         アントナン・アルトー『手先と責苦』

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  第74回 悲劇・・・ - 2016.05.04

                                                            第74回 2016年5月




         悲劇…



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
シェストフ『悲劇の哲学
バタイユ『ニーチェについて

 



 「ヘーゲルはどこかでこんな指摘をしている、すべての歴史的大事件と人物は言ってみれば二度繰り返される、と。彼はこうつけ加えるのを忘れたのだ、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。マルクスはこの有名な言葉で『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』をはじめているが、歴史のなかから死者たちを呼び出してみると、際立った違いがあることに気づくとも言っていた。カール・マルクスが? 際立った違い? それはそうだろう。
 この場合、反復は微妙な差異によって台無しにされた戯画となる。そしてこの戯画のオリジナル・デッサンは、えも言われぬ動揺、微妙な風合いとともに、のちの反復をそのつど「別の装いのもとに」反復させる。歴史はただ繰り返されただけなのか。だけど人間たちは自分たちの歴史を知ってか知らずか自らつくり出すことができる、というのはほんとうなのか。死に絶えた世代のあらゆる伝承の伝承は生きている者の頭脳に重くのしかかっているとしても、反復された頭脳のほうはそれでも破裂しないのだろうか。誰もがその反復のなれの果てをただ個人の歴史においておや経験しながら、それでも過去のあからさまな亡霊を知らぬまに呼び出し、あげくのはてにそれに愛想を尽かしているのはわかっている。
 悲劇はたしかに二度目以降は茶番であるかもしれない。だが結局のところすべての茶番は悲劇ではないのか。

 
 柄にもなく、とってつけたように悲劇などと口にしたのは、最近、ソポクレスの『オイディプス王』を再読する機会があり、またアントナン・アルトーの中期の作品『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』の新訳に取り組んでいるからなのだが、それにしても悲劇の残酷さ、残虐さにもいろいろあって、つくづくこの飽きずに反復しつづける人間というものが嫌になってしまう、と言えば大袈裟にすぎるだろうか。われわれは何をここで反復しているのか正確に知るべきだろう。

 あんな機会、こんな機会は、極限においてなされる置換のようにわれわれに何かを強制するとしても、歴史が書かれたものである限り、歴史は「私の歴史」を書くほかはなく、それは無数の「私の歴史」でしかない。私の勘違いでなければ、そんな風に言ったのはフランスの歴史家ジョルジュ・デュビィだったと思うが、「私の歴史」とは唯名論的な歴史、無数に増殖するそのなかのひとつのことなのだろう。



 だが、実在したのか、しなかったのかと、歴史の前でわれわれが戸惑っていようがいまいが、天罰に対して何度か態度を変えようとしたとも受け取れるオイディプスにあっては、悲劇が天から降って湧いたように、明らかに天上的なものの象徴的秩序が下界にむけて折り畳まれていて、それこそがそもそものオイディプスの怒りの原因であり、悲劇である。だが『コロノスのオイディプス』を読むかぎり、彼はヘルメスに手を引かれて冥府に連れてゆかれるのだから、彼の怒りもまた曖昧なまま終わってしまうようである。反復は断ち切られない。ソポクレス自身はこの戯曲を生涯の最後に書いたのだから、ソポクレスはいったい天上の何と和解しようとしたのか。

 
 画家のフランシス・ベイコンはソポクレスよりもアイスキュロスのほうを好むらしく、インタビューでもさかんにアイスキュロスの残酷さと現代社会の残酷さを比べたりしていたが、残酷さはさておき、たしかに悲劇作家としてはアイスキュロスのほうが、ソポクレスよりもタガが外れていて、実験的で、しかも難解だが格調高くポエティックで、面白いのかもしれない。ホモセクシャルでもあったベイコンの深刻きわまりない、つまり時にはかなり悲しげに見える豪放磊落さには、なるほどアイスキュロスがぴったりだと思う。




 ところで、悲劇とは人間性と因果律の歪曲である。悲劇は何かを偽造しようとする。アイスキュロスは、鷲が空から思わず落とした亀の甲羅が頭にあたって死んだらしいが、それもまた悲劇だったのだろうか。大空にはわれわれのことなどつゆ知らない鷲が旋回していたのだ。
 ギリシア悲劇。アルトーが最晩年を過ごした部屋の写真をよく見てみると、もうひとりの悲劇作家エウリピデスの本が置いてあるのがわかる。アルトーは死の直前までギリシア悲劇を読んでいたらしい。なんということだろう。阿片チンキを飲みながらひとり部屋でギリシア悲劇をしずかに読んでいる、内側から焼き尽くされたような最期のアルトー! 反乱開始は昔のことではなく、そのつど幾度となく繰り返されたようにスリッパを片手に死の直前に開始されたのだろうか。焼けただれ、石灰と化した旗印! いつの世も若者たちはそれを自分のものとして認めるだろう、と実際にはペシミストだったブルトンは言っていた。



 アルトーの血のなかには母方のギリシアの血が流れている。だからというわけでもないだろうが、アルトーの演劇論の細かな部分ですら、随所に古代ギリシア演劇の、影響ではなく、激しい余波を、あの残忍で、神的で、狂っていて、それでいてどこか静謐なたたずまいを思わせる長い波長を感じることができると私は思っている。私はそのことに少しは感動する。電波はどこからでもどんな方向からも飛んでくるのだ。

 
 人間の残酷さはとどまるところを知らないように見える。だがこの残酷さは歴史のちんけな原動力であったと誰もが考える。性の歴史や資本主義の歴史がそうだったように。だがこんな不埒な原動力などかつて存在できたためしはないのだ。死は死であり、殺害は殺害であり、大量虐殺は大量虐殺なのだが、それでも残酷さにもいろいろあって、われわれは何ひとつ学ぶことができなかったのかもしれない。われわれは悲惨なただの阿呆である。人がひとり死ぬたびに、世界が死ぬ、と言っていたのはジャン・ジュネだが、悲劇はいったい誰を、どんないたいけな子供たちを巻き込んだのか。巻き込んだなどという言い方はよしておこう。悲劇は誰の食べ物なのか。そのことは誰もがわかっていたはずなのに、ローマ帝国は滅んだ。すべての帝国は滅ぶ、そして未来永劫かならずや帝国は滅ぶだろう。万歳! 三唱! おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

 アルトーの『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』はこんな風に始まっている。

 
 「墓場なき死者、しかも己れの宮殿の便所のなかで護衛の兵士に喉をかき切られて殺されたヘリオガバルスの死骸(むくろ)のまわりに、血と糞便の激しい循環があるならば、彼の揺り籠のまわりには精液の激しい循環がある。ヘリオガバルスは誰もが誰とでも寝ていた時代に生まれた。しかも彼の母親がどこで誰によって実際に身ごもったのかはけっしてわからないだろう。彼のようなシリアの王子にとって、血統は母たちによってつくられるのだ——それに母たちに関していえば、生まれたばかりのこの御者の息子のまわりには、ユリウス一族の綺羅星のごとき女たちがいる——そして彼女たちが王権に影響を及ぼすにしろそうでないにしろ、これらのユリアたちはみんな高級淫売なのである。

 この淫蕩と汚辱の大河の母方の源泉、彼ら全員の父は、祭司になる前は辻馬車の御者であったに違いなかった、そうでなければ、ひとたび玉座に就いたヘリオガバルスが御者たちに自分のおかまを掘らせたあの執拗さが理解できないからである。
 ともあれヘリオガバルスの母方の起源にまで歴史を遡ると、間違いなくあの老いぼれのはげ頭とあの辻馬車とあのあご髭に行き当たるのだが、それこそがわれわれの見聞録のなかに示される老バッシアヌスの姿である。
 このミイラがひとつの宗教に仕えているとしても、その宗教を断罪することにはならないが、しかしユリアたちやバッシアヌスと同じ時代の愚かで気のぬけた祭儀は、そしてヘリオガバルスの誕生した頃のシリアは、この宗教をついにだめにしてしまっていたのだ。
 だがこの死せる宗教、バッシアヌスが身を任せた、儀式的仕草の形骸になり果てていた宗教、それが、エメサの神殿の階段に幼いヘリオガバルスが姿を現わすやいなや、信仰と新たな装いのもとに、いかにして凝縮した黄金の、鳴り響く小さな光の活力を取り戻し、奇跡的に影響力をもつようになるのかを見なければならないだろう」。

 
 あまりにわかかり切った、凡庸なことを繰り返すようだが、この少年ローマ皇帝のアナーキズムはもちろん気のぬけたユートピア思想などではなく、ひとつの悲劇の誕生を画するものであったとあらためて私は考えている。数々の残忍な罪人を生み出したのは歴史のほうである。神の歴史のほうである。アルトーはそのことをよくわかった上で、話を始めたのである。彼はそれを「諸原理の戦争」と呼んだ。当時の歴史家ランプリディウスから18世紀の歴史家ギボンにいたるまで、たぶんアルトーが読んだ歴史家たちはヘリオガバルスの乱行を嘲笑し、断罪することはできても、それでローマ帝国が、そしてローマ帝国の威光がほんの少しでも救われたわけではない。どう転んでも、詩も、ましてや形而上学も解さない歴史家たちは…、などとアルトーは苦言を呈している。アルトーは激怒しているし、歴史家の言うことになど、究極的にはこれっぽちも信を置かない。話はつねに半分、だから半分しか耳を傾ける必要はないのだ。

 事実? 事実の歴史だって? ほんとうなのか。いや、いや、ただの教訓など何の教訓にもならないではないか。われわれはそれを毎日嫌というほど目にしている。われわれは歴史を生きているのだ。そのことはわかっている。オイディプスもまた見ることが嫌になったから、自分の目をくりぬいて、自ら盲目となったのだった。だが人間と世界は踵を接していないし、隣り合ってもいない、とニーチェは言っていた。ニーチェは爆笑していた。この爆笑という言葉は、バタイユに逆らうようだが、それなりに悲痛で、しょぼい。自ら盲目となるのは世界ではなく人間のほうなのである。

 
 ロシアの哲学者シェストフの『悲劇の哲学』のなかにこんな言葉を見つけた。「ソクラテス、プラトン、善、人道主義、理念等——穢れのない人間の魂を懐疑主義やペシミズムの凶暴な悪魔の攻撃から護ってくれたかつての天使や聖者の一隊はことごとく跡形もなく空中に消え失せ、身の毛もよだつ敵を眼前にして人は生まれて初めておそろしい孤独を感じるのだ。最も忠実な、愛する者でもそこから彼を脱出させることはできない。悲劇の哲学が始まるのは、まさにここにおいてである(…)おまえは地獄に堕ちた者たちを愛するのか、俺に言ってくれ、おまえは赦されない者を知っているのか」。

 レフ・シェストフはドストエフスキーとニーチェを最後の希望の哲学的人間、つまり哲学者として尊重しているのである。だがそれだけではもはや十分ではないだろう。それに哲学者のことなどどうでもいい。悪魔は歴史的に見ても凶暴ではあるが、懐疑主義やペシミズムはもちろん悪魔の攻撃などではない。
 シニシズムや懐疑主義もまた悲劇と同じくらい古いものなのだろう。犬儒派たち。キュニコスの里は地球のそこかしこのことかもしれない。大いなる地球。グローブ座。さらば、ちっぽけな惑星よ。たまには、おお、マクベスよ、そいつのことも思い出してやろうじゃないか。キュニコス派の哲人クラテスが最古の地球儀をつくったのだった。彼らは地球の上に寝そべっていた。それこそ日なたの犬のように。だがシニシズムや懐疑主義と悲劇は何の関係もない。そればかりか、アカデメイアは大学のことではなく、ゴミ屑が時おり舞い上がる、いにしえの浮浪者たちの広場である。
 マルクスは、古代ローマの階級闘争は奴隷たちによってではなく、特権的な少数者、貧しい自由人によってだけ行われたと言っていたが、犬儒主義もまたイタリアへと逃げのびたのだろうか。やがては芸術のほうへ。

 
 知らぬ間にピアッツァ・デル・エルベに冬の月が懸かっている。この広場はギリシアからはそう遠くなく、この月はギリシアと同じいつもの月である。赤茶けた下弦の月。夜もだいぶ更けてきた、微醺に顔を赤らめ、犬の遠吠えが聞こえる…


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                                                        第73回 2015年4月





    彼は死のうとしている
              —ロラン・バルト




                                                                        鈴木創士




ロラン・バルト『神話作用』『零度の文学
清水穣『白と黒で-写真と…』『写真と日々』『日々是写真』『プルラモン』『シュトックハウゼン音楽論集




 一度読めば、そこには本質的な事柄が書かれていることが一目瞭然で、つまりもっとつぶさに見れば、どちらに転んでもそれが豊穣な何物かであることがわかっていても、なかなか再読する気になれない本がある。その本を本棚から取り出してなるべく手の届きやすいところに置いてみたり、しばらくするとまた本棚に収めてみたりする。すでに言われた言葉が、口の端に出かかるように、すでにもっと前の過去のなかでこれから起こる未来の錯乱に似てしまうことがある。本は読まれもしないで(再読でも同じことだし、絶えず現在進行形の作品のように肩越しに読まれなければ、読まれたことにはならない)、何かを語っているのか。そんな不埒な! 本がこちらをじっと見ている気がして嫌気がさすこともある。私にとってロラン・バルトの『明るい部屋』はずっとそんな本だった。
 写真論にことさらに興味があるわけではない。この本に書かれている写真についてのあれこれを重箱の隅をつつくように批判できることもわかっている。だがそんなことはどうでもいい。一度読めば、この本には悲痛な真実があることがわかるというものだ。たとえ真実がフィクションの形をまとい、本質においてそれを踏襲していたとしても、小賢しいそのフィクションの全体はこの真実の端緒でしかない。私は真実とフィクションの、深くて、なんというか非常に日常的でもある錯綜のなかに投げ込まれる。この錯綜が一気にからだに浸透してくる。
 私はこの真実から逃れようとしていたのかもしれないなと考えてみる。だが何も変わらない。本は相変わらず静まり返った静物画のように、まるで偶然のようにそこにあるのだし、まだページは再びめくられてはいない。だがそれは後ろ髪を引くように、知らずしらずのうちに私を既知の、危険な親密さのなかに引きずり込もうとする。この親密さのことを思うと、破局を迎え、何かが破綻してしまう前に、空には見たこともないような光が射してくる感じがするみたいに思える。もはや存在しない故郷がそのままそこでくっきりとした輪郭をまだ示していたとでもいうように、誰もがそこへ帰ろうとする。でもそれはほんとうに既知の親密さなのだろうか。それならこのひそやかさはすでに凌駕されてしまっているのではないか。親密さは裂傷や亀裂のなかから現れることもあるし、それらと見分けがつかないこともある。

 
 作家ロラン・バルトが、背中を丸めて、毎日、ライティング・ビューローに向かい、この本の一章一章のメモをカードに書き綴っている姿を目に浮かべてみる。……まだ私は彼の本を再読してはいない……。日によってブルーにも茶色にも見えた彼の眼差しを思い出す(ずっと昔パリで何度か彼を見かけたことがあった)。バルトのこの本自体が、私の(個人的な)「時間」に突き刺さったままの棘が残した「傷痕」になってしまったのか。……いまだに私は彼の本を再読できてはいないし、しかもよくよく考えてみれば、通りやカフェでバルトを見かけていた当時、この本はまだ刊行されていなかったはずである……。普段着の彼は自分の周囲や目の前の青年をいつもじっと目を凝らして見ていた。目を凝らして、というのは少し違うかもしれない。じっと見ていたのに、瞳のなかは空っぽだった。この眼差しはすでに過去のなかにしか時間の尾っぽあるいはその先端を見ていないかのようだった。彼はいつもセーターかジャンパーを着て(実際、そういう印象しかないのだ)スカーフをしていた。その眼差しにはささやかな快楽への期待がひそんでいたかもしれないが、そんなものよりも、そこには何かしら諦念に似たもの、やりきれない疲労に似たものがあったと言わざるを得ない。バルトはうんざりしていたに違いなかった。……まだ私は彼の本を再読してはいない……




 彼もまた私を何度か見たはずであったし、私の目を鋭く覗き込んだし、私も彼を見たのだが、視線はすべてを透過するように、どんな黒々とした記号の上でも停止しなかった。かつてバルトを見ていたときの私は何をしていたのだろう。覗き見をしていたのだろうか。何を覗くのか。世界のなかを、肩越しに? それはディテールなのか。細部もまた崩れ去るではないか。近眼であろうと、望遠鏡を覗くのであろうと……。写真のなかにいるように、〈彼は死のうとしている〉。この日本語は一見不正確に思えるかもしれない。そこには何の意志も含まれてはいないし、含まれようがなかった。彼が現在のなかで死のうとしているのか、それとも過去のなかで死のうとしていたのかもわからない。彼は死ぬだろう。偶然のように。だがこの偶然は必然性がもたらすいくつかの帰結の渋面のひとつにすぎない。バルトはそれから数年して事故死した。

 
 世界を覗いて何になるのか。何も見るべきものなどない、と別の悪魔が耳元で囁く。だが何人かの詩人たちは暗い万華鏡のなかに入り込むようにしてそれ自体が乱反射する世界を見ていたはずだった。疲れ切って、丘の上に座って、夜が明けるところをじっと見ていたはずだった。まだ若者だった彼はただ見ていた、微妙に不確かに曖昧に夜が明けて、夜が裏返り、夜が開けそめるところを。

 そうは言っても、穴をあけられ、あるいはひっ搔き傷をつけられた時間もまた、それ自体における過去のあれこれをそのつどつまらぬ妄想のように廃棄してしまっていたのではないか。時間は流れてはいない。停止もしない。君も私もある一点において過去のなかにいたはずなのに、もう今はそこにはいないのだ。もとあった場所は消えている。この過去と、そこは、ぜんぜん違う場所だった。


 そもそもこんな駄文を書くきっかけは、ある人のブログをたまたま見たからだった。人のブログをあまり読むことはないが、この辛辣でちょっとイカれた、現代風のディレッタントのブログをたまに覗くとはっとさせられることがある。ほとんどの職業的評論家や作家にはっとさせられることなど最近ではまったくないというのに! 勿論、ディレッタントという言葉を悪い意味で使っているのではない。バルトがどこかで言っていたように、われわれは全員がアマチュアなのである。そこにはバルトの『明るい部屋』のなかの文章が引用されていた。引用された文章は「39 プンクトゥムとしての「時間」」の一節だった。
 私はついに『明るい部屋』を手に取った。何十年ぶりだろう。ページをめくってみる。千夜一夜物語のようにアラブ風のジンが現れるわけではない。日本語訳があるのはもちろん知っているが、せっかくなので自分で訳してみたくなった。


 「いくつかの写真に対する私の愛着について自問していたとき(この本の冒頭で、すでにずっと前に)、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりこの場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様を区別できると思っていたが、私はその縞模様を〈プンクトゥム〉と呼んでいた。いま私は、「細部」とは別の〈プンクトゥム〉(もうひとつ別の「傷痕」)が存在することを知っている。この新しいプンクトゥムは、もはや形式ではなく、強度であるが、それは「時間」であり、ノエマ(「かつてそれがあった」)の悲痛な誇張であり、その純粋な表象なのである」。
 何を誇張しようというのか。それに続けてバルトはこう書いていた、



 「一八六五年、若きルイス・ペイン〔パウエル?〕はアメリカの国務長官W・H・スワードを暗殺しようとした。アレクサンダー・ガードナーが独房のなかの彼を撮影した。彼は絞首刑を待っている。写真は美しい、青年もまた。それは〈ストゥディウム〉だ。だが〈プンクトゥム〉は、「彼はいまにも死のうとしている」である。私は「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」を同時に読む。私は恐怖をこめて前未来を見つめるが、死はそれにかかっている。ポーズの絶対的過去(不定過去)を私に伝えることによって、写真は未来の死を私に告げるのだ。私に兆しはじめるのは、この等価性の発見である。子供だった母の写真を前にして、私はこう思う。母はいまにも死のうとしている、と。私は、ウィニコットの精神病患者のように、〈すでに起こってしまった破局〉に身震いする。被写体がすでに死んでいてもいなくても、どんな写真もこの破局なのである」。


 写真は偶然のように破局を示すのではなく、破局である、とバルトは言っている。写真とは、われわれひとりひとりをそのうちに捉えて離さない、それどころかそこにわれわれを釘づけにする破局そのものなのだろうか。分岐した偶然性のラインはそこで停止し、破局に向かってひとつのラインが決定される。
 私はやっとこの二ページだけを再読することができた。それ以上は読まずに、本を閉じた。最初からこの本に真実があることは知っていたのだから、ページをめくったからといって、何かが変わったわけではない。見るべきものはない、とまた悪魔が囁く。私は本から目をそむける。写真は閉じられる。
 プンクトゥムが、思いがけずピンの先であけられたような穴や、ひっ搔き傷、かすかな裂傷であるなら、光がそこから漏れ出たはずである。光学的に言って、「彼はいまにも死のうとしている」のだとすれば、すでに光はいまにも通り過ぎかかっていたことになる。光はもうない。前過去は消滅し、現在は前未来と過去完了のなかに食い込んでしまったのか。
 だが「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」は、同時に写真のなかにあって、それをたぶんいささか悲痛な思いで今見ているのは、そうなることもできず、かつてあったとしても、そうであったかどうかもわからない今の私でしかない。私が見なければ、写真は選り分けることのできない膨大な思い出のひとつにすぎなくなる。それは幸福な忘却のなかに落ちてゆく。私は必ずしも未来と過去に引き裂かれているわけではない。悲痛なのは、かつてあったものすべてが破局を前提とし、それをすでに含んでいたというそのときの現在である。ずっと続いてきた結果、現在になりかかった過去は、恐らくこれから前未来のなかへと続く現在と見分けがつかないが、このような時間はすでに断ち切られて、消滅している。過去完了も前未来もほんとうは存在しないのかもしれない、とまた別の悪魔が囁く。
 私は死ぬだろう。私はかつてあったのだから。
 だがもうそんなことはどれも写真の話に限ったことではない。
 私はここにいる。しかるに私はかつてあった。故に私は死ぬだろう。でもイマージュの真実を別にすれば、つまりこれは写真のイマージュという分身の話であるのだから、この三段論法が真実である保証はどこにもないのである。

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  第72回 氷の亀 - 2016.03.05

                                                            第72回 2016年3月



                                                                               
                                    氷の亀


                                        
                                        
                                                                        鈴木創士





アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『シュルレアリスム簡約辞典』『ナジャ

 




 つい先日、短期の入院から退院した。入院中はまったく眠れないことが自分でわかっていたので、看護師に無理を言って、多めに睡眠薬を服用した。病院では死んだように眠ったが、退院してから二日間、二、三時間しか眠れなかったので、飯を食って昼間に横になっていたら不覚にも完全に寝入ってしまった。

 
 ……その駅は地方のどこにでもあるような小さな駅だったが、かなり人でごった返していた。すでに終点の温泉地行きの電車がホームに停車している。僕は女性と一緒だったようなのだが、それが誰なのかぼんやりとしてわからない。母だったかもしれない、それも若い頃の母ではなく、年老いて、杖をついた母だったかもしれない。

 その女性は先に列車に乗り込んだらしく、姿がない。しようがないなあと思いながら、列車の一番後ろから乗り込んだ。どこかにいるだろう。列車の窓から日が差し込んで埃が舞っていた。塵のまた塵、という言葉を思い浮かべた。過ぎ去った時間の片鱗のなかでしか舞うことのない粉々になったダイヤモンドのようだ。埃の舞っているあたりだけが現実感があった。他はぼやけてしまっている。列車が混んでいたのかどうかもわからない。そのうち列車は動き出した。僕はどこに行くつもりだったのだろう。心臓を患ってから、温泉に入るのは嫌だった。血液の循環がおかしくなるのか、気分が悪くなって、目がまわる。下手をすると、吐いたりすることもある。
 ガタゴト揺れながら、通路を進んで女性を探した。地方の電車だから三、四輛しかないはずなのに、ずいぶん進んだような気がする。列車は延々と続いている。女性の姿は相変わらずない。僕は途中で探すことを諦めた。彼女が途中下車することはないだろうと思いながら、何か焦っていた。何かが、そしてすべてが、うまくいっていない。外は明るく、空は晴れている。それだけはたしかである。空いた席に座って窓の外を眺めていたが、どんな風景だったのかまったく印象に残っていない。考えごとをするでもなく、頭は完全な空白のままだった。居眠りをするわけでもないのに(普段まったくと言っていいほど電車で居眠りをすることができない)、それで電車を乗り過ごしてしまうことがたまにある。はっと気がつくと次の駅だ。空白があれば、空白の外というものはないのだが、現実に戻る前にすでに説明のつかない焦りだけがずっとくすぶり続けていた。
 終点に着いた。まだ現実に復帰してはいなかった。プラットホームのはずれまで歩いていると、人がまったくいないことに気づいた。光はどこからともなく燦々と降りそそぎ、空は相変わらず晴れ渡っている。乗客も駅員も誰もいない。見るともなくふと目をやると、駅の出口に向かう道の正面の植え込みに何か光る物がある。近づくと、氷の亀、氷でできた亀が置いてあった。氷の亀は溶けることもなく、日の光にピカピカひかっていた。日の当たっている場所だけに現実感があったように、この氷の亀も妙に生々しかった。……

 
 去年の秋に刊行された、自身詩人でもある朝吹亮二の『アンドレ・ブルトンの詩的世界』にはいろいろ教えられるところがあった。なるほど著者の言うように、ブルトンは何よりもまず詩人なのだ。




 ブルトンのフランス語! 高揚して、大きな波が打ち寄せるように激しくうねり、透明で、真摯で、それでいて慎重で、あちこちを警戒し、しかめ面で、時には強い閃光のように詩の激怒を感じさせずにはおかないあれらのブルトンの「散文」は、紛れもないひとつのジャンルをつくり出したのだし、結晶化した波間から無数の怒り狂ったヴィーナスのあぶくが生まれたように、そこからすべてが出て来たのだと私は思っていた。近くで影響をこうむりながら彼に敵対したこともあったフランス人たち、シチュアシオニストからテル・ケルの作家にいたるまで、そのことに反論はできないだろうし、後のシュルレアリストたちは言うに及ばず、ヌーヴォー・ロマンにいたるすべての作家がこの「ジャンル」から出て来たのだと讃嘆とともに私はずっと考えていたが、しかしそのためにはなるほどブルトンはまず詩人でなければならなかったのである。彼の詩は彼のエッセンスである。このことは動かし難いことなのに、それにもかかわらずわが国でブルトンの詩に正面から向き合った本を読んだことはなかった。どんな作家も批評家も、どの時代であれ、どこにいようと、何パーセントかは詩人でなければならないことなど分かり切ったことではないか。だがそのなかでもブルトンは特別なのである。

 
 朝吹氏のこの本にはあらかた目を通していたが、もっとも重量がありそうな詩論の章「ブルトンの詩の読解」だけは後で読もうと思って残しておいた。病院を退院して普通の生活に戻りかけた数日前、頁をめくっているとある言葉に目が止まった。「氷の亀」だって! それはブルトンが書いた詩のなかの「氷の亀」という言葉だった。

 ブルトンの詩集『白髪の拳銃』の冒頭の詩「薔薇色の死」の末尾にはこうある。


    そして氷の亀からなる汽車のなかで
    きみは警笛を鳴らす必要すらない
    きみはひとりこのひとけのない浜辺に到着するだろう
    そこでは星がひとつきみの砂の鞄のうえに降りてくるだろう
                         (朝吹亮二訳)


 私もまた列車のなかで探すことを諦めたのだし、降りる前の汽車のなかで警笛を鳴らしはしなかった。ひとけのない浜辺は遠くに温泉町を望む駅であり、星はただの日の光だったが、砂の鞄に見えることになるはずのものは一個の氷の亀だったのだ。


 これでは詩の辻褄が一巡したことになるのだろうか。私は詩の意味を追いかけてしまっているのか。私にとってこのブルトンの一節はウロボロスの蛇のように自分の尻尾を噛んでいる。ここには唯物論的にして神秘的でもあるアナロジーがあるのかもしれないが、もちろん一気にそのアナロジーの向こう側に「倫理的意味」を読み取ることは私にはできない。だがこの逆転というか転倒は、朝吹氏が言及していたように、ブルトンが「上昇記号」というエッセーの最後に引用した芭蕉とその弟子其角のエピソードをちょうど思い起こさせるではないか。
 弟子の其角が詠んだ「あかとんぼ羽をむしれば唐がらし」という残酷な俳句を、芭蕉はこんな風に直したのだった。「唐がらし羽をつければ赤とんぼ」。時の経過を越えて(そんなものは何でもない)、してみるとブルトンの詩もまた私の夢の辻褄に改変を加え、手直ししたことになるのではないか。


 『白髪の拳銃』はもうずいぶん前に読んで内容はすっかり忘れてしまっていたのだし、そのときに「氷の亀」に目が止まったことはなかったはずだった。私の無意識のなかにこの言葉が入り込んでいたのだと言えばそれまでだが、もちろんこの言葉を普通の意味で覚えていたわけではなかった。これはブルトンの言う「客観的偶然」の一例だったのだろうか。もちろん私の出会ったのは言葉であるし、ブルトンが『ナジャ』のなかで次々にその事例を示したような「現実」の事件や出来事そのものではなかったが、この夢の亀は目覚めの後も異様なほど目の前にちらついて現前していて、その光る氷は特殊なクロマチスムさえともなっていた。夢の情景のなかで手が触れんばかりのものが、これから読む読書の一種の核心を形づくる「現実」を準備したのだと言えないこともないのだ。しかもこのことは、こんな毎日を過ごしている私にとっては、非凡ともいえることだった。


 「客観的偶然」。詩はたしかにそれを誘発するものとしてある。それはシュルレアリスム的思想の要のひとつであるが、「客観的」という形容詞にも、「偶然」という決定的な言葉にも私はずっと引っかかりを覚えていた。どのように客観的なのか、事物と事物、なかんずく人と事物の出会いは偶然によって包囲されているとしても、それは単なる「通常の」印象にすぎないし、どうしてそれは偶然でしかない偶然であって、必然ではないのか。マラルメが何と言おうと、それは思考のゆるやかな敗北ではないのか。だがそれは恥ずかしながら長年にわたる私の早とちり、誤解にすぎなかったようである。誤解は朝吹氏の本によってあらかた氷解した。
 読んだはずなのに読み飛ばしていたのか、ブルトンは『通底器』のなかでエンゲルスを引用してすでに「客観的偶然」についてこう述べていたのだ。「因果関係は、必然の顕現形態である客観的偶然のカテゴリーとの関係においてしか理解されない」、と。はじめからブルトンは、それは「必然の顕現形態」であると言っていたのである。「この種の偶然は、無意識の道筋においては、偶然ではなく必然ということになる」、と朝吹氏も述べている。そうであれば話は早いし、話はより複雑なものとなる。
 ……しかも偶然が必然性の個々のエピファニーであれば、これらのちぐはぐに次元の異なる必然が錯綜する因果律のなかで、客観的偶然とは、研ぎ澄まされた、説明不能の、極端な主観性の錐揉みのような切っ先が、現実のなかに穴をあけ食い込み、あたかも観測者の存在が、観測している世界に根本的な影響を与える量子論的世界のように、現実というものに何らかの決定的最終的影響を及ぼすことだと思っていた私の考えもあながち間違いだとは言えなかったことになる……。
 だがアンドレ・ブルトンは客観的偶然をもっと高緯度に位置づけてもいた。かつて私はシュルリアリスムは一個の政治思想だと考えていたが、この政治思想が現実との関わりにおける詩の衝撃からなっていたという至極当然なことをいくら強調してもしすぎることはないだろう。もう誰ひとり言わなくなったことではあるが、この点をいまこそ何を措いても全面的に肯定しなければならない。


   

ごらんのとおり、このイメージが、前にはまだ不確実だったかもしれない点に関してどれほどはっきりすることか。光を創造しているのはまさに反抗そのものであり、反抗だけなのだ。そしてこの光はただ三つの道しか知らない、すなわち同じ熱中を吹き込み、この熱中を永遠の若さの断面そのものにつくり変えるべく、人間の心のもっとも秘められた、もっとも照らし出すことのできる地点に集まることになる詩、自由、そして愛。

                            (ブルトン『秘法十七番』)


 こんな文章を読むと、ブルトンのように語ってみたくなる。愛は、アナンケーへの愛と自由は、ひまわりの夜に沈んだ、裏箔のない、裏側のない鏡に映し出されるオブジェの方程式が示しているように、つる草のごとく巻きついた私の偶然からなる必然の打ち震える待機に、優雅な揺れる手をそこで差し伸べていたのか。ああ、詩、自由、愛。だがブルトンやゲーテの真似はよしておこう。むしろ暗く、不吉である事物の様相においては、例えば、なかんずく女性との出会い、それだけが悲しいかな私に客観的偶然を授けてくれるわけではないからである……。


 先ほどの文章のすぐ前にブルトンはこう書いていた。

  

《ルシファーが墜ちてゆくあいだに彼を離れた一枚の白い羽根から生まれた自由の天使は、闇のなかにわけ入ってゆく。彼女が額に戴く星はまず流星に、ついで彗星と猛火になる》。



 ところで氷の亀はもうすっかり日の光に溶けてしまったのだろうか。

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  第71回 旅の記憶 - 2016.02.03

                                                            第71回 2016年2月




                                 
旅の記憶




                                                                        鈴木創士




四方田犬彦『蒐集行為としての芸術』『俺は死ぬまで映画を観るぞ



 モーリス・ロッシュという作家がいた。もう持っていないので確かめようがないが、たしか80年代初頭に『流行通信』に載った、すでに老齢に差しかかった彼の写真をよく覚えている。撮ったのは写真家田原桂一だったと思う。モーリス・ロッシュは痩せていて、何も見ていないようなうつろな目で少し怒ったように上を向いていた。とてもいい写真だった。インタヴュアーによると、モーリス・ロッシュは若者が着るような太いストライプのシャツを着て、ウォークマンをしたまま、会うたびに、からだのどこが悪い、ここが悪い、といつも文句ばっかり言っていたらしい。
 最初、彼はジャーナリストで作曲家でもあった。音楽評論を書いたし、舞台音楽も作曲した。新聞のコラムか何かでフランスの作曲家プーランクのことを悪しざまに言ったので、プーランクの友人だった文壇の大御所アラゴンの逆鱗にふれて、仕事がなくなった。モーリス・ロッシュの最初の本はイタリア・バロックの作曲家モンテヴェルディについての素晴らしいモノグラフィーである。ジャン・パリが言うように、モーリス・ロッシュは「モンテヴェルディ、それは私だ」と言いたかったのか。



 彼は前衛的な文学雑誌『エレマン』や、ジャン=ピエール・ファイとともに『シャンジュ』を創設し、『テル・ケル』などにも寄稿していた。小説ともエッセイとも詩ともつかない奇妙で滑稽な本を書いた。自分で描いた幾つもの骸骨のデッサンのおまけ付きで。彼はつねに死に取り憑かれ、そのことばかり語っているのに、モンテヴェルディのマドリガーレのように軽妙なところがある。絶望とあらゆる次元の困窮は、ヴェネツィアの石畳の上か、どこかの墓石の前でまるで延期されているかのようだ。久しぶりに彼の本を探し出して、頁をめくってみた。降って湧いたようにたまたまこんな一文に行き当たった。
 「おまえは視覚を失うにつれて眠りを失うだろう。(…)うつろだ、おまえの眼差しは。今では言い表すことのできない、ある過去のすべてがある。おまえは待つだろう、大きく見開いた、からっぽの目を、この不在に注いで…」。

 
 何を待つというのか。おまけにこの「待つ」の時制は未来形だ。それなのに眠りは失われることなく、眠りは眠りを紡ぎ続けている。われわれは暗くて陰気な巨大な霊廟のなかを歩いていたのではなかった。ギュヨタの回想録めいた本に『昏睡』というのがあるが、記憶のなかに潜ったままでいることは昏睡状態に似ている。真っ白の昏睡状態。そこから覚める時がやって来る。死も同じである。死は何かから目覚めることかもしれないのだから。

 ある過去が頭をもたげる。ひとつの過去のすべてが。そっくりそのままで。だが言葉は口に端に出かかっているのに、いまここでそれを言うことがどうしてもできない。いや、言葉が出かかっているなどというのは嘘である。言葉は自らを吞み込み、自分を食い尽くすだろう。後に残るのは真っ白な昏睡というぼんやりとした記憶だけ。ある記憶が復讐しにやって来るのか。旅の記憶が? 私ではなく、記憶のほうが何かを待っているのか。不在であるのはどちらのほうなのか。復讐? 幸福な記憶が? そんなことはあり得ない…。

 
 四方田犬彦の新著『土地の精霊』が面白くて一気に読んだ。この本は旅行記で、ソウルからタンジェ、クラクフからカルナック、ハバナからパラオ、ウルルからタナ・トラジャ、ラサからルルド、奥出雲からノーンカーイまで、三十三の町をめぐる旅の記録である。著者には、ダンテの「煉獄」篇と同じように三十三の詩からなる『わが煉獄』という詩集があるが、その意味ではこの旅随筆も煉獄の記録なのだろうか。「私はこよなく聖なる浪から出てきた、新しい葉をつけ、すっかり衣がえした新身を浄め、いざ登るべく、かの星々へ」(寿岳文章訳)、煉獄の旅の最後に、ダンテはそう書きつけていた。

 記録などというと味も素っ気もない感じがするが、そうではない。戒厳令下のソウルや、きつい忘却にさらされたチェジュドや、ベイルートや、西エルサレムや、ユダヤ人の強制収容所のあったテレジンと、それらに比して、例えば廃アパートを乗っ取り勝手に住みついたパンクたちのたむろするロンドンのカメドンの家(私もよく聴いていたバンド、フライング・リザーズのメンバーの恋人の留守部屋でなんと四方田犬彦は寝泊まりしていたらしい!)、ハバナからのおかしな逃避行、インディオの町クスコのコカの葉譚では、その書きっぷりに違いがあることはもちろんであるし、旅がいつも同じトーンで彩られているはずはない。だが幸福な思い出はいつも苦い味がするし、太陽と月が苦いように、同じことである。
 著者の人格は時間と場所を引きずって旅そのものに憑依される。いずれもう誰のものかもわからなくなるはずの記憶のなかには、通りすがりに、日も照るし、雨も降るのだから、旅の随筆集というのはこうでなくちゃならないのである。主観的なノスタルジーのことを言っているのではない。その点ではこの本の文章はどこか緊迫していて、切り詰められている。この本には悲痛さの木陰にあっても真率さと爽やかさの大気が満ちている。ある種の口惜しさを伴いはしても、日本からやって来たこの「人生の乞食」も、まるで自然にそうなったかのように旅人であることを受け入れたように見えたこともあったに違いない。この本の四方田犬彦は何よりもまず土地を、場所を、人々を、世界を愛してしまったのだろう。われわれが生きているのはこの世界なのである。
 旅は「知識」を授けてくれるのだろうか。ニーチェを引用しなくても、たぶんこれらの喜ばしき知識は貴重なものとなるに違いない。ともあれ著者の記憶の鮮明さには驚くべきものがある。例はいくつもあるが、例えばイタリアの町レッチェについてのくだり。
 「レッチェの魅力は、長い午後がようやく終わり、いつしか忍び寄った夕暮れが夜へと転調していく短い時間の間に、いや増していった。昼間は老人の黄ばんだ歯のようにしか見えなかった建物の色調が、ひとたび夜間の照明を投じられると、深遠なる静謐さ湛え始める。静謐さは怜悧にして柔和であり、複雑な装飾を携えていながらも、手を触れれば溶融してしまうかのように流麗でもあった。建物のある部分は凍てついた花火のようであったが、その隣は溶けだしたままふたたび凝固した、黄金のクリームのようだ。
 不思議なことに、夜ともなれば広場でも大聖堂の前でも、人を見かけることがほとんどなかった。迷路を廻り無人の広場に躍り出たわたしは、そこが昼間訪れたのと同じ場所だと気付くのに時間がかかった。別の道を辿り、別の証明に導かれて到達した場所は、まったく異なった相貌をわたしに示した。わたしは自分が長らく育ててきた孤独が、この町に入り込んだ瞬間からより純粋に、より深く研ぎ澄まされたような印象をもった。とはいえ、邸宅の壁面や円柱に刻み込まれ、純白に輝く彫刻たちは、わたしにむかって永遠の喜びを説いてやまなかった。
(…)
 あるパラッツォのメンソーラ、つまりバルコニーの下の持ち送りの部分には、上部の突出を支えるため四体の女性の立像が設けられていた。彼女たちは目を見開き、腕にかかる台座の重量をものともせず、永遠の任務に就いていた。左側の台座の下にある二体の像は、美しい顔と肢体、そして細やかな襞をもった衣装を保っていた。だが右の二体はといえば、不幸な偶然から長年にわたって雨風に浸食され、ひどく傷んでいた。一体は鼻梁が半ば剥離し、片腕が惨たらしく欠落している。そのために優雅であった衣装は削ぎ落とされ、やせ細った肉体に浮かび上がる肋骨のような姿を見せている。だがもう一体はさらに悲惨なありさまであった。顔は損なわれてこそいなかったが、全面にわたって鱗ともケロイドともつかない泡粒に覆われ、それが首筋を伝わり、掲げられた両の腕から胸元の衣装にまで及んでいる。その奇怪な姿は、あたかもこの地を襲った悪疫が、任務遂行のためにこの場所を離れることを許されなかった彼女を、唯一の犠牲者として選び出したかのように思われた」。

 
 私はこの場にいながらにして、同じように鮮明な旅をすることができるだろうか。たぶん無理だろう。私は著者の旅のこの鮮明さに感嘆の念を覚える。旅人もまた風景のなかにいるように見えることがあるだろうが、旅人にとって自分は風景のなかにはいないのだ。

 だがここで私が私を思い出し、覚えているということは、私がそこにある風景のなかを通り過ぎたということとどう違うのだろう。私が風景のなかを通り過ぎるには、私は私を忘れていなければならない。私はどこにいたのだろう。どこにいるのだろう。どこにいることができるのか。だが厳密に言って、私が私を思い出すことなどほんとうにあるのだろうか。どの「私」なのか。

 
 記憶の鮮明さはどこへ向かうのだろう。それは発作のように突発的なものなのか。発作はずっと続いているようにも見受けられる。この場合の鮮明さは必ずしも固有名や実在論的な歴史=物語についてのそれではない。少なくともそれだけではない。そして無数の唯名論的な歴史は大文字の「主体」、歴史的主体と呼ばれるものを欠いてしまうのだろう。

 だがわれわれ全員が健忘症にかかっているのだ。それはプラトニズムの病いの結果なのかもしれない。「そのとき」というものはもうないのだから、瞬間が物語を開始し、物語が瞬間を動かしたというのは確かなことではない。むしろそんなことは「悪い」小説かもしれない。ぶよぶよの大頭の書いた小説。われわれが気に入っているのは、何の役にも立たない事物であり、ゴヤの描いた幽霊やゴヤの見た幽霊のほうである。三途の川を渡る六文銭はもっていないし、好きなのは三文オペラや三文小説のほうである。

 
 旅人はユリシーズのように帰還するだろう。待っているのは、ノミだらけになって死にかけている愛犬アルゴスだ。四方田犬彦は別の本『蒐集行為としての芸術』のなかにこう書いていた。

 「最後に真白い忘却が到来する。事物は来歴からも、寓意からも解放されて、どこまでも横滑りを続ける瞑想の対象となる。それは記憶をめぐる擽(くすぐ)りであり、永遠に辿り着けない想起の行為となる」(「洪水の忘却」)。

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                                                            第70回 2016年1月




もうひとつの陰翳


                                        
                                                                      鈴木創士




ベルナール・ラマルシュ = ヴァデル『すべては壊れる
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ

 

 


 年末、咳をごほごほしながらモランディ展を見に行った。
 この美術館は安藤忠雄の建築だが、いったいどこがいいのだろう。それどころか私にとっては最悪だ。必要以上に歩かされる。ほとんど無意味なだだっ広いだけのスペース、途中で休めるソファも、絵を遠くから眺めるには低すぎる。陰気で無味乾燥な近代的霊廟のなかをぞろぞろ歩かされている気分になってくる。気持ちがかさかさしてくる。ひどく疲れる。おまけに夕方ともなれば何ともいえない不気味さがあちこちから漏れ出ている。埋葬されかかっているのか。どこの誰が? 絵を埋葬するというのだろうか。いや、絵を埋葬できるのは画家だけである。展覧会を見終わると、コンクリートの貧相な霊廟の通路からすごい夕日が見えた。
 最近、大阪心斎橋にある大丸の建物、ヴォーリーズの最高傑作を取り壊すの壊さないのとすったもんだやっていたが、われわれはほんとうにどうしようもなく愚かである。あきれて、微熱のせいでよけいに無力感に襲われる。未来のため、未来の市民のためと言うならば、陰気な霊廟こそが破壊の対象になるべきなのではないのか。
 でもモランディ展なのだから、気を取り直そう。

                                      *

 光のなかに、淡い光のなかに溶けてしまったのだとずっと思っていた。だがそうではなかった。私の思い違いだったのか。

 
 イタリア・ボローニャの画家ジョルジョ・モランディの描く物も、物の置かれた平面も背景も、光の粒子に分解されてはいなかった。光の粒子は凝集し、背景の荒い筆の痕跡が消えないままに、それでいて絵の前景は丹念に塗りこめられ、そのまま別のあえかな発光体となって、ぼんやりと影を含めた影の反対側をつくり出していた。だが灰色がかった、歳月によって汚れたままのピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画を思わせる色調といえども、そこに強く物が在ることを弱めることはない。埃をかぶったままの壜や花瓶や水差し、これらの物が言葉を語らずに自らを、自らの本質を主張するためには、背景のどこか、あるいはまた別のところ、つまりタブローのなかに、見えない光の「白い穴ぼこ」が、あるいは「白い背景」のようなものがそれとなく口を開けていなければならないのだろうか。そうとは名指せない灰色とは、「白い穴ぼこ」なのか。この白さは闇をもたない暗がりの一種、すなわちある種の明るさだろうか。この無意味な白い穴ぼこのせいで、物はへこんで、後ろに少しだけ後退し、そのことによって一気に物は前のほうへと現前する。物はつねに前にある。小さくかしこまって、ちょこなんと、かわいらしくもあり…。私は矛盾したことを言っている。だがモランディの絵画は矛盾だらけなのだ。


 
 そこに描かれた物の本来の影もまた、ただそこを時が過ぎ去ろうとしていることを、そこがこの世であることを、そして物が生活のなかに、なにものにも邪魔されることのない静かな生活のなかに置かれていることを示しているだけだった。光と影と物は分解するどころか、薄明かりのなかで、それぞれがそれ以外の言葉をもたずに不思議なコンポジションをつくり出していた。これは明らかに画家が意図したことだった。そしてタブローのなかからは物音はほんの少ししか聞こえなかった。聞こえるのは窓の外の遠くの鳥の囀りくらい…それに誰もいない…。すべてが淡い光のなかに溶けるいわれはなかったのだ。光はそのままただぼんやりとそこにあって、そうして稀薄なまま何事もなかったかのように薄く淡く満ちているだけである。


 

 私はふらふらしながら絵を見て回る。一緒に行った連れは画家だから、彼女なりの見方がある。私には関知できないことである。私は絵をひとりで見ている。モランディの宇宙は選択されたものである。少なくともわれわれが見て知っていると思い込んでいる世界は、つねにわれわれの世界とは別種の世界なのだ。画家たちはそれを見ている。これは画家にとってほとんど公理と言えるものであるが、この世界には、画家が見ている世界には、いったい何があるのだろうか。われわれはそこに住んではいないが、私はそこにしばらく住んでみたいといつも思う。そしてウンベルト・エーコが言うように、モランディの絵は連続していない。マチエールであることをそれとなく主張するマチエールは連続を免れるのかもしれない。だがそれだけではない。それは不連続の物の世界であるし(この点ではやはりモランディが形而上学派を通過したことは無駄ではなかった)、同時に物の世界でないとも言える。



 「静物」はイタリア語ではnatura morta、つまり「死んだ自然」である。英語ではstill life「静止した生、または生活」である。これは同じものを指しているのか。もののけの物でもあることを考えれば、日本語の「静物」という訳語は折衷的でなかなかいい。モランディはイタリア人だったのだから、彼の静物はまずは死せる自然であったことは覚えておいたほうがいい。ところで、花瓶に生けられた、モランディが描いた花はつねに造花だった。では、風景画に描かれた風景も含めてモランディにとって「自然」とは何だったのか。少なくともそれは画家の目にとって選択された自然、選択されざるを得ない自然である。埃はそのままなのだから、淘汰されるのではない。自然はけっして淘汰されず、フレームのなかに選択されるのだ。たぶん望遠鏡を使わずとも、モランディの目は望遠鏡の機能も果たしている。だが、それならそもそも「形の生」というものがあるのだろうか。
 モランディの静物を近くから、そして遠くから何度も見てみる。形は好みどおりにそれぞれ違っているが、たしかにそこには円錐、円筒、球がある。だが、セザンヌが言うようにそれだけなのか。私にはいまのところ何も言うことができない。言葉は予兆になる寸前に、喜ばしくも地に墜ちる。モランディの沈黙は知性であり、知性の外面を必要としない知性の賜物であり、この不退転の頑固さには厳しさも激しさも愛嬌もある。

 

 暗い色調の絵は、実物を見ると、誰の絵ということもなくどこか伝統的なイタリア絵画を思わせた。これはモランディがピエロやジョットに心酔していたということとは別の意味である。ああ、それにしてもあれらのルネッサンスの画家たち! モランディの暗い色調の絵がそれほどずっしりとしていることに私は今回あらためて気づいたのである。明るいほうの絵とはまったく別物である。そして暗いほうの絵にはすべてを抹消しかねない「白い穴ぼこ」は描かれてはいない。水彩画と比べてみれば、それははっきりしている。われわれには見えているはずのものを誰も見てはいない。私はモランディとよく比較されるシャルダンを比べようとは思わない。シャルダンの静物も素晴らしいが、私にとってはまったく違う絵にしか見えない。

 

 光による類似。光を透過する、光に透過された物による類似。差異が際立つのはしたがって当然のことである。モランディの絵画のなかの類似性は、批評家たちがかつてこぞって差異について言っていたこととは反対に、汲み尽くし得ないものとしてある。光は、淡い光もハレーションも含めて、すべてを似たものに近づける。たしかジャン・ルイ・シェフェールが『エル・グレコのまどろみ』のなかで言っていたように、光による類似があるのだ。コンポジションが変えられたとしても、それでいて類似性は充満する。もうひとつの平凡さ、もうひとつの平板さが姿を現す。その様は誰も見たことがないものであり、もはや凡庸とは似ても似つかぬものだ。もうひとつの陰翳、つまりもうひとつの暗がり、もうひとつの明るみがこれに関与する。これらの壜の単独性、その明るさは、細部が全体と相似であるという条件において、まさに類似のなかで現実化される最終的な光の様態なのである。魔術の解説をしているのではない。私が言いたいのは、現実は、少なくともモランディの絵画のなかに描かれた現実は、そうなっているということである。

                                      *
                                        
 久しぶりに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み返してみた。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは写真家田原桂一について「写真的行為の諸様態」という見事な写真論を書いているが、そのなかに、写真家の目とカメラが捉え、写真が写し出す光の様態と特質をめぐって、谷崎のこの本についての言及があったからである。田原桂一の写真についてここで詳しく論ずることはできないとしても、彼の作品集『窓』もそうだが、それより前に見たはずの作家たちのポートレートを集めた写真インタビュー集『ホモ・ロクウェンス』もまた私にとってとても印象深いものであったことを言い添えておこう。私はそれらの作家たちのポートレートをいまでもありありと思い浮かべることができる。そればかりかラマルシュ=ヴァデルは、田原桂一の「窓」をマチスやロスコの「窓」の命題を覆すものだったと言っているのである。これが絶賛にほかならないことは言うまでもない。

                                       田原桂一『窓』より

 宇野邦一は新著『〈兆候〉の哲学』のなかで、このラマルシュ=ヴァデルの田原桂一論がほぼ完璧という印象を与える精緻なエッセーであると書いているし、また川端康成や芥川の言う日本人の「有終の美」や「末期(まつご)の目」、はたまたラマルシュ=ヴァデルの言う「日本人のベネディクト会的パラノイア」については、「かなり繊細な思考や感性をもつ西洋の人でさえも、アジアを外からながめるときには伝染してしまう〈エキゾティスム〉に彼もまた陥っていることを否定しようとは思わない」と述べているが、私もそれらのことに同感である。だが、ふざけた言い方ながら、われわれはラマルシュ=ヴァデルの味方である。さしあったてここで私が取り上げたいのは、ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのエキゾチズムについてではない。

 

 ここで谷崎潤一郎のことを長々と書くのは嫌だし、私は大谷崎の文章のうまさを認めることに吝(やぶさ)かではないが、彼のエッセー、この『陰翳礼讃』や『饒舌録』が、ラマルシュ=ヴァデルとは違ってどうしても好きになれない。
 たしかに光にはさまざまな質があり、闇にはいくつかの層があることを、谷崎は自家薬籠中の物を懐からでも取り出して、光と闇の手まりをうまく手なずけでもするように、説得力をもって、出だしは繊細な筆致で描き出しているが、それがどうして日本人と西洋人の光の捉え方の違いなどという結論に落ち着くのか私には合点がいかないのである。おまけに厠の話を筆頭に、光と影の質というきわめて繊細な問いかけからこの随筆が始められたにもかかわらず、あげくの果てに陰翳をとらえる能力が、あたかも肌の違い、黒人や白人や黄色人種などというものに関わっているなどという結論じみたことを言われた日には、そんな馬鹿な、大谷崎もただの俗物でしかなく、彼の美学はその悪趣味を映す鑑であったのではないかとしか考えようがなくなるではないか。彼の「趣味」とやらを百歩譲って尊重するにしても、この『陰翳礼讃』のなかで述べられた彼の和風美学から鑑みれば、神戸の岡本にあった恐らく彼が建てた唯一の家屋、阪神大震災でつぶれてしまった和洋中折衷のかなり奇矯な家のことを考えれば、いかにそれが歴史的には貴重なものであったとはいえ、まあ、余計なお世話であろうが、趣味の世界においておや、言行一致はなかなか難しかったのではないかと同じ日本人として少しだけ意地悪も言ってみたくなるのである。

 

 薄暗がりは薄明かりでもある。
 もちろん西洋絵画のなかの光、というか絵画のなかの光の質も、それ自体すべてが独特のものである。それに関しては光と影について谷崎の言うことに一理あるとしても、まったく反対の含意としてである。例えば、南フランスや地中海の風光、その光と影の質とは無関係であるとは考えられないニコラ・ド・スタールの晩年のタブローの明るさについて思ってみるなら、結局は自殺してしまったこの亡命ロシア人の絵には、明るさと、明るさだけによる陰翳がほとんど取り返しのつかない形で塗り込められているからである。このことは動かし難いし、ある意味では異様なことだった。グレコにとってのトレド、ヴァン・ゴッコにとってのアルル、セザンヌにとってのエクス、モランディにとってのボローニャなどなど、ある場所が画家にとって決定的であるということはあるだろう。その場所には独特の光が射していて、独特の暗がりがあるからである。谷崎があえて日本の暗がりについて言うまでもなく、画家たちの目からすれば、至極あたりまえのことではないか。

 

 夜であればいつ祖父の家の厠に行こうとも、あたりの闇からじめじめした冷気が伝わって来る木造の渡り廊下から、いつもヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのが見えていた。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのは怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。私には白っぽくも見えた幾層をもなすこの闇の層のことはよく覚えているが、谷崎潤一郎が言うように、だからといって自分が真に風雅の骨髄を心得ているなどとはとうてい思えないのである。

 

 最後にベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの「陰翳礼讃」ともいえる詩の一部を引用しておこう。陰翳礼讃とは光の礼讃でもある。詩は「カテドラル」と題されている。

    遺灰へと通ずる足音は
    薄暗がりのうちのいったいどこで響いているのか
    一年中陽に照らされて赤銅色になった
    希望のかけらに寄りかかる
    シルエットのなか
    上のほうに置かれた光の象嵌のあいだで。

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  第69回 病気の窓 - 2015.12.04

                                                          第69回 2015年12月




                                  病気の窓


                                        
                                        
                                                                        鈴木創士


                                        


アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『ナジャ
笠井叡『銀河革命』『天使論』『聖霊舞踏
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに




 以前、フランスの作家が、窓の外から、寝具の乱れた、誰もいない寝室を写真に撮って、それに「恢復期」というタイトルをつけたい、というようなことを書いていたが、それでいいのだろうか。窓越しに光の射した、誰もいない明るい部屋は、むしろ死の部屋である。タイトルは「死後」か「死臭」にしたほうがいいと思うけれど、それではあまりにあからさまに過ぎるだろうか。

 

  数日前からひどい扁桃腺炎をやってしまった。子供の頃、いつも扁桃腺を腫らしていたことはおぼろげに覚えているが、こんなにひどいのははじめてのことだった。
 金曜日に大阪の画廊に行って、そのあと近くでコーヒーを飲んでいたら、ずいぶん喉が痛いな、と人ごとのように思っていた。さっき見た友人の描いた静物画以外のことは何も考えていなかった。つまらない現代美術ではなかったので、とても気に入った。できればほしいし、値段くらい知りたいとも思ったが、画廊の人と口をきくのが嫌なので、諦めて画廊を出た後だった。
 コーヒー店は客も一組くらいで、がらんとして、微熱状態にはうってつけだった。ガラスの向こうはもうすっかり暗くなったばかりである。孤独と病いがからだの感覚を研ぎすますことがある。からだが他人そのものではなく自分の他人のようなものと化し、自分が自分を見る他人のようになっている。それでいて当然すべてが自分のなかで起きているのだが、言えることは、ただ時間だけが無駄に流れ去るということだけである。自分が無為のただなかにいることがわかる。これは非常に哲学的な経験なのだが、この感じは案外好きである。ジャン・ジュネは無為のなかで星空を見上げたとき、シーザーが見た星空と同じ空だと思って驚愕したことがあったらしいが、このコーヒー店の窓の外を誰が見たのだろう。相手がジュネなのだから、こんな比較は馬鹿げているが、誰もが、万人が、窓の外を見たのだ。ということは誰も何も見てはいないのか…
 電車で神戸に戻った。しみったれた感じのする電車のなかでひどく肩が凝っているのがわかった。三宮に着いて、入ったことのない居酒屋に入った。食べ物がひどくまずく感じられた。喉のせいではなく、たぶんほんとうにまずいのだろうと思った。金曜日なのでかなり込んでいたが、まわりに興味を覚えるような若者も老人もいなかった。魅力的な亡霊も外道(これは仏教用語で、妖怪その他のことである)もいなかった。類似はあった。灰色の類似ならいい。でも灰色ではない。これはけばけばしい、うるさい類似だった。こんなときにひっそりと愛すべき孤独を感じることができるのか。まったく無理である。退屈が嵩じると、しまいにどうしてこんなところにいるのだろうと考える自分にいらいらしてくるだけだ。早々に引き上げるにしくはない。大阪でも少し飲んだので、もうかなり酔っているなと感じられた。顔がやけに熱い。植物の気持ちはわからないが、花が咲いたみたいである。たぶんかなり熱が出ていたのだろう。
 よせばいいのに、もう一軒知らないところに入った。一種の悪癖のように何かを考えようとしていたが、頭のなかは空洞で、脳軟化症を起こしそうなほど退屈とつまらなさと疲労が押し寄せて来たので、店を出た。友人のやっているバーへ向かった。こういう感じになると、最近は、軽い病気のごとくさっと引き上げることがなぜかできなくなってしまっている。ナジャのことを書いたブルトンの気持ちがわかると言えばおおげさだが、私はいい歳をして何かを「待っている」のだろうか。だが、私は、ブルトンのように「私とは誰か?」などとは思わない(ナジャを書いたときブルトンは32歳だった。まだ32歳だったとも言える)。自分を棚に上げて、ただの通りすがりの人を決め込んで…。酔っていても、通行している人々や、たまにはまぼろしを眺めることはできる。見ているのはこっちのほうである。雑踏はもともと嫌いではなかったのに、どうでもいい世の中だ。一億総活躍社会だって? 本気で言っているのか。心の底から嗤わせる。臍が大やけどだ。いったいこの国はどうなってしまったのか。この国の文学だってつまらないことこの上ない。もう誰かと誰かは同じ言語を喋ってはいない。ああ、そうだとも、元々そうだったのだから。だが今は危機的だし、歴史的惨状と言ってもいいかもしれない。まあ、いいさ、それにしてもほんとうにうんざりする。
 バーで、喉の消毒になると思ってテキーラを何杯も飲んだ。私よりずっと若い友人のTがやって来たので、気分がよくなり、飲み過ぎてしまった。二人で次の店にも行ったのだが、どういう経緯なのか、何が悲しいのか、何が悪いのか、よく覚えていない。悪いのはたぶん私なのだろう。帰ったのは朝方近くになっていた模様だ。その日が最悪だった。土曜なので、もう医者はやっていなかった。寝ないまま午前中に医者に行く元気はまったく失せていた。真夜中を過ぎると、喉が腫れすぎて息が苦しくなった。鼻も詰まっていたので、息ができない。まったく眠ることもできない。救急車を呼ぼうかと思ったが、扁桃腺くらいで救急車を呼ぶのもアレだろうと思ってやめた。月曜朝一番に医者に行ったら、そういう場合はすぐに救急車を呼んで下さいと叱られた。死ぬことがあるらしい。
 以前、文楽について「息をつめる」という文章を書いたことがあるが、こちらは、浄瑠璃や人形が、息をこらす、息をこらえる、息を殺す、息を吞み込むということである。浄瑠璃の歌というか科白が途切れ、そして人形が絶句するのである。だけど今回は息をつめたのではない。文章が絶句するように、言葉と言葉のあいだで絶句したのではけっしてない。パニックは言葉を全部消し去ってしまう。
 以前、心臓が悪くなり、肺に水がたまって息ができなくなったことがあったから、二度目だった。二度あることは三度あってほしくない、とつくづく思う。
 息ができない。この怖さはそんな経験をするずっと前から感じていた。阪神大震災を経験してからよけいに窒息を恐れるようになったかもしれない。でもエドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」という短篇が昔からめっぽう怖かった。棺桶のなかに生埋めになる話である。落語にも河豚毒(テトロドトキシン)で仮死状態になって棺桶のなかで目が覚めるという似たような話もある。アルトーは、棺桶の四つの板があるから人は死ぬのだと言っていたが、一理ある。

 

  ずっと床に臥せっているので、俺のからだはどうなっているのだろうと考えざるを得なかった。昨今は喉だけではなく、ご愛嬌のように、あちこち悪くなっているが、最初にひどくからだが悪くなり、ほとんど歩行困難になった頃、ダンスを見たことがあった。笠井叡の弟子筋に当たるとかいう人が振付けをして(失礼ながら、お名前は失念した)、クラッシック出身の女性ダンサーばかりで構成されたモダン・ダンスだった。美しい跳躍。伸びた脚。軽い肉体。空中というものが、空気が、そこにあった。私はひどく感動した。舞踏を見て感動したことはそれまでにあったが、そのときは少し違った。変な気持ちだった。私は、どうやってその会場にまで行ったのか、この人はどこへ帰ればいいのか、というくらいひどい状態だったはずである。その感動はたぶん野蛮人の感情だったのだろう。繊細と野蛮はもちろん両立する。



 だが病いは何らかの欠損や欠如ではない。じつはほとんど充溢の状態である。タマゴのように充満している。マルセル・グリオールの本にドゴン族の宇宙タマゴのことが書かれていたが、そんな感じである。そんな感じと言われてもわからないかもしれないが、こんなからだは日常のなかにもいくらでもある。アルトーがそうしたように、つまり組織や構成や構造のないからだというものを考えることができるし、実際われわれはそれを生きている。病んだからだ…そこから始まるものがあるのだ。
 病んだからだは不動であるが、不動は動とまったく対等である。今年急逝した舞踏家室伏鴻の映像を見ていて、彼の美しい肉体が地面で動かなくなったとき、はっとしたことがあった。動かないこのブロンズのようなからだは、日時計の上でじっとしている蜥蜴のようだった。蜥蜴は冥府から戻ったばかりだった。すぐれた彫刻が不動のなかから浮遊や揺れや上昇や沈下、逃亡や消滅をつくりだすように、そこでも同じようなことが起きていた。だがやはり実際には動いていないのだ。

        

 世阿弥は足さばきがうまく、上手に歩く人だったらしいが、年がいってそれが嫌になったのか、少し考えに変化があったようである。現在、われわれの知る能の動きはむしろこちらの考えが元になっていると言える。なるべく動いてはならない。『花鏡』の冒頭近くには、「心を十分に動かして、身を七分に動かせ」とある。「立ちふるまふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ちはたらけば、身は体になり、心は用(ゆう)になりて…」。「用」とは、働き、あらわれのことである。動かなくても、心はさらにもっと現れるのである。河村悟の土方巽論は「裏の身体」について語っていたが、裏の身体がつくりだす裏の動きがある。つまり動かないことから始まるものがあるのだ。舞踏家と病人。

 

  疲れたのでもう筆を擱く。恢復期。なるべくなら動きたくない。

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                                                          第68回 2015年11月





 ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルと小説『すべては壊れる』





                                                                        鈴木創士





ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル『すべては壊れる』(11月中旬発刊)


 

 


 「もう誰もが誰にとっても誰でもない」(ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル)。

 


 ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは1949年フランスのマイエンヌ県に獣医の息子として生まれ、2000年に自らの頭をピストルで撃ち抜いて自殺した。
 今回、『すべては壊れる』を翻訳したのだし、以下は、まだ未刊の訳者後書きに書いたことと重複するところもあるだろうが、まあ、いいだろう。

 

 もうずいぶん前の話になるが、ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルが小説を書いていることを新宿のバーで宇野邦一さんから聞いたとき、ああ、ヨーゼフ・ボイス論の美術評論家だなと思ったくらいで、あまりぴんときてはいなかった。宇野さんはラマルシュ=ヴァデルに会ったことがあり、その小説を原稿の段階で読んだらしく、最初の長編小説『獣医』を翻訳する気はないかと宇野さんから勧められたのだが、私はその小説の存在すら知らなかったので、勿論、その場で返事はできなかった。
 このようにして自分が翻訳すべき著者と出会うことはそれまでまったくなかったので、少しばかり面喰らったが、ラマルシュ=ヴァデルが監修していたクリスチャン・ブルゴワの美術評論叢書や彼のやっていた雑誌『アルチスト』を手に取ったことはあったし、それ以外にも彼の名前に妙にひっかかるところがあった。

 

 フィリップ・ソレルスたちがスリジー・ラ・サルで行ったテル・ケル主催のアルトーをめぐるコロック(「アルトー/バタイユ」)の記録にたしかベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの名前があったことをぼんやり覚えていたのである。自信がなかったので宇野さんには黙っていたが、帰って本を見てみるとやはりそうだった。
 ソレルスの「アルトー状態」と題された発表の後の討論会に彼の名前があった。時代は『アンチ・オイディプス』の影響さめやらぬ、まだ騒乱の気配が残っていた頃である。当時ソレルスはおおむね何を語ろうが喧嘩腰だったし、ソレルスとベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのやりとりもやはり刺々しいものだった。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは、文面から察する限り、紳士的な物腰で意見を述べていたはずだが、ソレルスのほうは、アルトーについての討論会なのにアルトーの名前を一言も出さず、「倒錯」の話をしていてクロソフスキーの名前でそれに答えようとするのはどういうことか、と最初からほとんど喧嘩腰で喰ってかかっていた。今から思えば、当時のソレルスとテル・ケルは、勿論日本の読者にはあずかり知らぬ狭量な事情その他によって(私にはよく理解できたのだが)、必要以上に党派的だったのだと言わざるを得ない。これは余談であるし、彼自身が書いていたことだが、ソレルスはずっと昔にクロソフスキーに会いに行って幻滅したことがあったそうである。



 そのソレルスの全面的な肝煎りで、ラマルシュ=ヴァデルが四十歳を過ぎてはじめて書いた長編小説、三部作第一作の『獣医』と第二作である本書『すべてが壊れる』が、ソレルスが監修する「ランフィニ」叢書から刊行されたのである。ずっと後で知ったことだが、ガリマール社の原稿審査会のメンバーであるソレルスは、ラマルシュ=ヴァデルの『獣医』の原稿の一節を審査会のメンバー全員の前で朗々と朗読して、その文章の価値を力説し、彼の小説の出版を強く推奨したほどだったらしい。除名や絶交や、その裏返しの友愛にたけた執念深いフランス人のことだから、アルトーをめぐるやり取りからもうずいぶん時間が経っていたとはいえ、これには余計に興味をそそられずにはいられなかった。『獣医』は最初の小説に与えられる部門のゴンクール賞を受賞した。


 

 ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは数多くの現代美術の展覧会を組織した著名な美術評論家であり、美術作品のコレクターとしても知られている。ヨーゼフ・ボイスのフランスへの最初の本格的紹介者であったし、ミケランジェロ、ジャコメッティから、ヴィルグレ、パラディノ、クロソフスキー、タピエス、オパルカなどまで、数多くの美術評論書がある。写真についても書いていて、ヘルムト・ニュートンや友人だった田原桂一をはじめとして、ジャン=リュック・ミィレンヌ、ルイス・ベルツ、ベッティナ・ランスなど数多くの写真論がある。



 彼の美術評論と他の美術評論の違いは、まずは対象との独特の距離、つまりその近さや接近の仕方にあり、何を書くにしてもラマルシュ=ヴァデルは生半可な「一般論」を徹底的に排除しているということだ。「もう誰もが誰にとっても誰でもない」のだから、彼は論ずる対象、剥き出しの、裸の対象に近づき、まず評論と作品や画家との関係を繊細に、ときには記号論的なまでに精緻に織り上げることから始めていたようである。いまではわが国の評論の現状を見ればわかるように、美術評論といっても、そこには誰もが簡単に調べることのできる一般論しか書かれていないのだから、ラマルシュ=ヴァデルの評論には読者としても特別の集中を要することになるのは言うまでもない。彼のエクリチュールは厳格である。ラマルシュ=ヴァデルは現代美術を論ずる「前衛的」な批評家だったのだが、彼の評論の背後に、日本ではほぼ考えられないことだが、例えば、彼の属さない(偉大なところがあると私も認めざるを得ない)フランスのアカデミックな美術論の伝統がそれでも厳としてあることを垣間見てしまうことがあるのは、恐らく彼の意に反してであろうが、このことと無関係ではないかもしれない。彼はどんな対象に対しても言葉の正当な意味において真摯であり、きわめて誠実である。その繊細な写真論についても同じである。

 

 彼はいつもスーツにネクタイ姿で、紳士的でダンディーで、慇懃でそれでいてユーモアがあったらしいから、その人となりについても同じことが言えるのかもしれない。誰だったか、作家としての彼とレイモン・ルーセルを比べていた人がいるが、作品の質はまったく違うとはいえ、ラマルシュ=ヴァデルの独特の「孤絶」の仕方から見るなら、この意見には私もどこか同感である。さまざまな証言から察するに、彼の人となりやその物腰は、言うまでもなく、逆に彼の晩年の小説作品からも直接想像できるように思われるが、別の一面というか、もうひとりのラマルシュ=ヴァデルもいる。



 本書『すべては壊れる』にもはっきりとそれを感じ取ることができるが、最晩年に近づくにつれて、ラマルシュ=ヴァデルの書くものからは、さらに「死」に取り憑かれ、死を見つめ、死を研究し、死を前にする姿が容易に見て取れた。かなりの期間ひどい抑鬱状態にあった晩年の彼を知る人たちが口を揃えて言うには、だからこそ彼が自殺したときも、それを当然のことのように受け止め、死を知って騒いだりする者はいなかったのである。三部作の最後の本『彼の生、彼の作品』は完全に死を準備するようなとても奇妙な筆致で書かれた本だったし、最晩年の『芸術、自殺、プリンセスとその臨終』にはダイアナ妃の事故現場の詳細な記述があり、とても印象的なものだった。

 

 彼がどうして晩年に小説を書き出したのかはわからないが、それから十年ほどして彼は自らこの世を去ってしまうのだから、このことに意味がなかったはずはない。彼は死を前にして何を見ようとしていたのだろうか。彼はとにかくずっと長いあいだものを注意深く見ていたのだ。それが尋常ではない本書『すべては壊れる』の訳者である私にまず言えることである。
 すべての美術評論家がものを見ていると考えるなら、それは残念ながら大きな間違いである。トレンドと紋切り型とマーケティングと人から借りたコンセプト、自分の知識ならぬ情報と平凡なインスピレーションを混ぜ合わせただけなら、たいしたものは生まれるはずがない。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルにそのようなところはひとかけらもなかった。文章は恐ろしい。人生は恐ろしい。書くとはそういうことである。
 ラマルシュ=ヴァデルは若い頃に詩集も出していたが、彼にとっては、小説であれ、美術評論であれ、写真評論であれ、恐らく「書くこと」だけが問題であったのだろうから、彼の、彼にしかできない独特の「物の見方」がそのまま小説に投影されていることは避けられないし、動かしがたいことだった。すべては理屈どおりなのである。そうでなければ、彼の作家としての人生は無駄だったことになるではないか。

 

 小説芸術は、そのまま物語や説話やナレーションを意味するわけではまったくないし、そもそもそれらとは全然別のものである。小説『すべては壊れる』は、言ってみれば物語から漏れ出しては再び物語に浸透してしまう「細部」だけで書かれていると断言していいかもしれない。はっきり言って、細部がすべてである。
 ものを見るとはまずディテールを見ることであり、それが「全体」を形づくるかどうかは、後になってからのことだ。この小説にはたしかに全体らしきものはあるが、「全体」は不分明なままであるとしか言いようがない。概念もまた全体ではなく、細部である。審美的対象についてもしかり。そうでなければ、ドゥルーズが言うように、概念を創造し、美学を発見することはできない。小説に関しても、場合によっては、まったく同じようなことが言えるのではないか。
 翻訳しながら、『すべては壊れる』がバロック芸術に似ているという思いを払拭することができなかったのも同じ理由からである。細部は増殖し、分岐し、別の様相を帯び、さらに肥大する。それによって全体のバランスはじょじょに崩れ、別の(小説)宇宙がそれとなく出来(しゅったい)する。この細部を読むことが私にとってほとんど快感に近かったことを告白しておく。読者にとってこの小説を「読む」ことが、しかも翻訳で読むことが、いかにも容易いものでないことは認めるが、それはそうなのである。
 そして驚くべきことに、その不分明さのなかから、静かな、しかし強い怒りと独特のユーモアが醸し出されていることが明瞭に感じ取れるのだ。ラマルシュ=ヴァデルの長編小説を読み出したとき、これはいったい何だろうかと最初に私は思った。どの本もどこかがおかしくて変なのである。妙な通奏低音がずっとかすかに聞こえている。これは彼のポエティック、詩法なのである。怒りもユーモアもそのようなものとしては「表明」されることはないが、この手法というか、彼の文章「芸術」が、他の追随を許さない、真似ができないほど高度で独創的なものであることは間違いない。
 だが何への怒りなのか。勿論、日々の(フランス)社会全体、隠然たる「全体主義」に対する怒りである。「死」は、社会への「死刑宣告」は表明されるのか? その意味では、この小説がいかにそれ自体「臨床的」なものであれ、本全体は現代社会についての立派な「解剖所見」であり、「死体検案書」なのである。ラマルシュ=ヴァデルは美術評論家であり、さんざんその世界にいたのだから、「芸術の世界」、「芸術家たちの世界」もまた同じようにその偽善的な現代社会生活の全体主義に含まれていることにラマルシュ=ヴァデルが苛立っていたことは言うまでもない。彼がうんざりしていたのは間違いないし、われわれもまたそれを共有しているのである。なお、彼の独特の社会批判の言葉はゴダール監督の映画『映画史』のほぼ末尾にも引用されていたことを申し添えておこう。

 

 『すべては壊れる』の主人公は、17世紀のカトリック司祭で説教家で神学者であった大文章家ボシュエ(ボスュエと表記すべきかもしれないが、慣例に従った)が雄弁に述べた歴史的登場人物たちへの格調高き弔辞集である『追悼演説集』を枕頭の書とし、日々それを読み、研究し、その本と、彼が偏愛する犬たちだけを拠り所として暮らしているのだが、私自身、このアナクロニックな設定がとても気に入ったのもたしかである。そしてこれが単なるこの本のお話の設定だけではないことは、ラマルシュ=ヴァデルのどの小説を読んでも、文章自体にあらわれていたし、ボシュエが作家ラマルシュ=ヴァデル自身のお気に入り以上の存在であったことははっきりしている。
 ずいぶん前、この説教家の「死についての説教」という有名な文章にはじめて接し、その文章のブレスト調、早さ、同時にその緩徐法に、そしてその哲学的で感動的な調子に私もまた魅せられていたのだから、なおさらこのボシュエの登場が気に入ったのも本当である。20世紀になっても、ボシュエはポール・ヴァレリーに讃辞に近い称賛の文章を書かせたのだし、そればかりか現代フランスの前衛的な作家たちにも隠然たる影響、どういう影響かはしかとはわからないにしても、とにかく影響を与えているらしいのである。ギー・ドゥボール、フィリップ・ソレルス、アラン・バディウといった人たちである。

 

 たぶん骨の髄までペシミストであったはずのベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの、これまた尋常ならざる動物への愛、とりわけ犬たちへの偏愛についてもここで触れておかねばならないのだろうが、これは本を読んでいただくとして、その深遠で複雑な現代的問題をはらんだ主題については読者に委ねたいと思う。

 

 最後に、小説の一節を行き当たりばったりに紹介しておこう。寄生虫のくだりである。

  われわれを占領している女たち、そして占領されたわれわれに対して占領を遠隔操作する男たちにとっての主要な困難は、毎日われわれを占領することである。われわれの地方へ向かう虫下しの飛行機はないし、貨物船をチャーターしたりはしないというはっきりして筋の通った決定、われわれをしつこく悩ますあらゆる本性をもったダニを撃退する殺虫剤、それにノミもシラミもだが、その貴重な殺虫剤の荷物を積んだ貨物船のボートはわれわれのほうへ向かって大河や川をきっと遡るのだろうし、死んだ獣の毛や羽根から出てきた、からだからからだへと移動する漂う褐色の外套膜、激しく刺されて死んだ獣の皮膚は、より温かい骨盤へ向かう彼らなりの猛り狂った大陸間亡命に向けて、寄生虫の茶色く黄ばんだ波のような表皮の毛穴のなかに最初の寒気がやって来るとすぐに裸になるのである。繁殖する輸送隊がそこを通ってマールバッハに侵入する道の端へ向かう、マールバッハの占領者全員を毎日養うなどというひどい約束を敵にまわして殺されずにすんだわれらが犬たちは、最も確実で最も直接的な伝令である。死んで嗅ぎつけられた鳥小屋のなかの鶏から、黒革の外套の上に寝転がった身体の脇の下と腹の皺まで、あるのはひとつの線、赤足たちの暗い背中の線だけであり、皮膚から吸い取り、別の場所に卵を産むという絶望の波打つ航海である。運の悪いノミや、体毛にちゃんとしがみつかず、ドラやファウスト、あるいは他の大きな犬の背中の丘の縁(へり)から落っこちた呑気なケジラミにとって、湿ったクローバーのなかの最後の希望は、最終救命ボートであるヘルツォークを待ちかまえることであり、そのヘルツォークの小さな身の丈は、おぞましい虫に対して、計算された跳躍によって、そして毛むくじゃらの足が通りかかった際には、列車に再び乗り込むことを許すのだが、その列車こそが、私の犬たちのうちの一匹の前腕の上や、何らかのより秘密めいた隠れ場所に、下顎骨を吸ってはさらに卵を産もうと縮こまったままそいつを連れてゆくのだ。パラシュートの末端に結わえられた空から落ちてきた小包は、地面に激しくぶつかって口を開けたか、それとも森のなかへ枝から枝へと落ちてくると、幹に垂直にぶつかって壊れてしまい、幹の皮を剥いでしまうが、われわれはそれを待ち望んだのである! スプレーよ、軟膏よ、腸のなかの砲撃よ、多種にわたる虫たちの幅広のスペクトルのための弔鐘の時刻よ、微細な爬行で渋滞した深い亀裂を詰め込むことのできる粉末状物質の小瓶よ、研磨剤よ、両手でしっかりと押した噴霧器のひゅうひゅう音を立てる毒性の煙よ、導入管付きの主チューブよ、われわれは十分に空を注視しているだろうか? 希望はわれわれによって下手に甘やかされているのだろうか? ひとつの策略とひとつの計画が支配しているのだ。つまりひとつの悪意とひとつの戦略、原子爆弾についての新しい視点、投獄、強制収容、だが贅沢な出費はなしで。今日では、誰ひとりもはや誰の心も個人的に占めたりはしない、それはあまりにも高くつきすぎるのだ、誰が番人たちの番をするのかを知るという古典的な問いのしつこく際限のない反響を考慮に入れないとしても。誰にもこれ以上時間はない、時間もまた崩壊したのだし、会計欄の衝撃によって吹き飛ばされたからだが、その会計欄というやつは時間を頭蓋冠の下で格闘する数字の怪物じみたごたまぜのうちにばらばらに解体し、その頭蓋冠の中味は取り返しがつかないほど分割され、その結果陰険にも無に帰せしめられたのだ。人間の目的の「占領」は次のことを命じている、すなわち人間を監視しながら、不可視の、そして誰にも知られていないが、それに向かって全員が急いでいる振りをしているひとつの数字が、人間の終局のいくつかの任務を十分すぎるほど課すことを、その終局のすべてを麻痺させ、そして反逆の唸りを呼び覚ますかもしれない苦痛をより少なくするために、この終局の任務がちゃんと選ばれるようにと。われわれの目にはテレビ、われわれの手にはシラミの卵とノミ、われわれの勃起には人を誘(いざな)う傷がへこませた骨盤、内側にある終わりのない破傷風がわれわれの頭上でとても生き生きとした木蔦の様相を呈しているが、その節くれだったねじれがわれわれの関節のまわりでそれらを凍りつかせているのである。

 

  (お断りしておくが、最後は洪水にすべてが吞み込まれてしまうこの小説は、このようなばばっちい場面ばかりでできているのではないし、おおむね格調高いものであることを言い添えておきます。)

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                                                              第67回 2015年10月
                                        
                                        
       

 
 

土方さん、死出の道連れのような散歩でもしましょうよ


                                                                       

 

鈴木創士



 

河村 悟『舞踏、まさにそれゆえに——土方巽 曝かれる裏身体

 

 

 私は江戸時代など嫌いだが、幻想の辰巳の里はもうない。土方巽は書いている、
 「春先の泥に転んだ時の芯からの情けなさが忘れられない。喋ろうとしているのに喋られたような、泥に浸されて下腹あたりにひっ付いた木の瘤が叫びを上げているような、自分という獲物がそこに現れているのだった。癇癪(かんしゃく)玉も、破片のように考えられるものも、泥で湿ってしまっていた。転んでいるからだは確かに餌食のようでもあったし、飛びかかってやりたいようなものでもあった。しかしそれもまた心の中の出来事がかたちをおびて見えてきているのではなく、ただ泥にまぶされた切ない気分となってそこに現れているのであった」(『病める舞姫』)。

 

 俺は三歳だった。サロペットというのか、新調した半ズボンを着せてもらって、喜びいさんで遊びに行った。背丈くらいにぼうぼうに草の生い茂る近所の野原でかくれんぼをやった。俺は地べたを匍匐前進していた。空が晴れ渡っていたことは言うまでもない。蒼天。雲ひとつない。記憶もない。俺はずるずる地面を這っていた。一緒に遊んでいたのが誰なのか、気のきかない幽霊なのかもう覚えてはいないが、みんなが、突然、わーと叫んだ。立ち上がってふと春うららの自分の姿を見ると、我ながら、俺はうんこまみれになっていた。まっさらのズボンがうんこの虜になっていた。恋をしていたわけではない。べとべとだった。犬の糞ではない。人糞を踏んづけて、その上をずるずる匍匐前進していたのだった。戦いはすでに終わっていた。空は翳った。臭気は宇宙の果てに行き着いたみたいだった。臭いなんてもんじゃない。口先三寸、目を閉じさえすればいい、するとうんこはもう目の前だ。卑怯にも大人のくせに、こっそり誰かが野ざらしのババをしたのだった。

 

 野ざらしや髑髏の眼窩にクソ蠅死に

 

 春先の情けなさが忘れられない。殺されかけのスパイになったみたいだった。喋ろうとしても喋れず、喋らされもしなかった。別の誰かが喋り、耳元でわめいていた。うんこに浸されて下腹あたりにひっついた人間(じんかん)の業と宿痾が瘤の叫びを上げていた。瘤はぐちゅぐちゅにつぶれてペースト状になっていた。自分という獲物がそこで、三歳だというのに、バターがわりにレバーペーストを塗られたパンのように、無惨に食いちぎられていた。人間を憎しみで歓待してやりたかったが、歓待など子供の俺は知ったことではなかった。俺は泣きべそをかいていたかもしれない。覚えていない。忘却もまた俺を食い尽くす。転んだからだはたしかに獲物の涎のようでもあったし、飛びかかって、めちゃくちゃに殴りつけ、自分を噛んでは血の唾を飛ばし、さっさと自殺させてやりたいようなものだった。心のなかで出来事がかたちを崩して、目の前どころか瞳孔が、網膜が、真っ暗になった。うんこにまぶされた気分は何十年後の最悪の気分となってそこに現れているのであった。あっという間に友だちはほとんど消えていた。いまからやろうという鬼を、かくれんぼうの真の鬼を、うんこまみれの鬼をひとり残して。鳥丸君がひとりだけとぼとぼ家までついて来てくれた。
 俺は三歳だった。それが人生で最も美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。

 

 普段の生活をしていると肉体が絶えず「死」のようなものに見入られていることを忘れてしまっている。肉体は呑気に動き回っている。それが生のかそけき条件だということもつねにないがしろにされる。散歩できなくなったり、病気になったりもするが、あるいはけっしてそんなことはないと心のなかで言い張る人たちもいるが、これは死に魅入られるというのとは少し違う。人はそれを通過儀礼だなどと能天気に言うが、実際に人は何度も死んでいる。
 死にそうな経験をしたということではない。うんこのせいではなく、私はすでに死んでいてもおかしくなかったことが何度かあったが、そういうことが言いたいのではない。そうではなくて、ふと気がつくと、生きるために死ぬのか、死ぬために生きるのか、それともそのどちらでもないのかがわからなくなっている自分に気づくことがある。死は不死によってしか思考できないからだ。

 

 河村悟の新著、『舞踏、まさにそれゆえに——土方巽 曝かれる裏身体』と題された瞠目すべき土方論を読みながら、舞踏のからだは、何故に「ことばの外部にあるものが、「私」のことばのうちに「私」の同一化を拒むものとしてありつづける」ということを白日のもとに暴き出したのかをあらためて考えさせられた。
 「私」と「私」の類似は、この同一化のことではない。この類似のどまんなかに、肉体は知らん顔を決め込んで居座っている。そいつは最初からはぐれて、ぐれてしまったのに、舞踏などというものを、たぶん舞踏病よりもっと古いものをつくり出してしまった。肉体が勝手に動いているぶんには問題はない。あるいは肉体は勝手に動くのではない。あらゆる自動症は、脳ではなく、結局は肉体自体のささやかで、いたずらな欲求であり、ある種の自己統御である。ただ肉体が最初に脳に命じ、ついで脳が肉体に命じたにすぎない。危機はもっと後になって訪れる。
 だが「肉体」はいずれ復活するのか。いや、そうでもないだろう。肉体は負の様相を帯びれば帯びるほど、己れを主張しはじめる。痛み、痛み、痛み。欠損、最初からの欠如、脱落、堕落、腐敗、崩壊。しかし肉体にはほんとうは部分がないからこそ、フェティシズムが存在し得るのではないか。それはすべてを消し去る衝動を抑えとどめる技術なのかもしれない。だがこんなことは余談にすぎない。

 

 足は曲がり、手はねじれる。腰は壊れる。肩は鉄の鎧と化し、首が回転し、とれる。すべての動きと均衡は歴史を背負ったさまざまな瑕疵にしか見えない。ギリシア彫刻のあの理想的なからだはナチスの専有物などではなかったが、いったいどこへ行ってしまったのか。それはそもそもどこにあったのか。
 「なるほど、「私の身体」は「私の脚」「私の手」「私の肩」というように「私」固有の皮膚と筋肉と各器官の有機的な構成で成りたっていることはたしかであろう。しかしそうした「私の」肢体や「私の」器官の裏に、それぞれ影の肢体や影の器官が「私」をとりのぞいた影の身体として蔵されている。つまり、「私の足」なら「私の足」の裏に「私」固有のものの轍(わだち)からはずれた、非-人称の、だれのものでもない影の足があるということである。それは「私の手」においても同様である。ただし、それは幻影肢のたぐいではない」(河村悟、同上)。



 舞踏が身体を裏返すところを何度か見たことがある。私はそれを見たと思った。そこにあったのは裏の手や裏の足だったのだろうか。アルトーは裏返しのダンスと言っていた。それなら裏の首、裏の目、裏の耳もあったはずである。とりわけ裏の舌も。この裏の手や足が誰のものでもないとすれば、それは突然「私」になる可能性があったということである。例えば踊っている土方巽の「私」ではなく、私の「私」に。
 手は手から出てくるのではない。足は足から出ない。首は首から出ない。われわれは誰もが目玉の劇場にいると思っているが、目玉も裏返っているのだから、そこはただの舞台裏であった。この薄暗い舞台裏に「肉体」はじっとして潜んでいたはずである。それをつまんだり、つねったり、引っ張ったりすることはできるが、それをうまく言うことはできない。舌も裏返ってしまっているからである。

 

 「暗い空を背景にして、光を受けた雪の上に取り残されたように坐っている私の尻のあたりから、からだの電気がすっかり放電され尽くしていた。そのうえ額に氷嚢をのっけたようなだるいからだになっていた。のほほんとした鴉が私のそばで餌をつっついており、私の坐っている雪の下からは幽かな声が聞こえていた。ぴったりと雪に耳をつけて、虫のしゃべってるようなその声を私は聴き取ろうとしていた。そこらあたりの雪は光線をすっかり吸収した残り滓のように散乱していた。そのとき、立ちあがった私の頭のてっぺんで、コンパスのようなものが輪を描きながらくるくるとそのまま輪を縮めていった。わけのわからない合図が私を襲った。あやふやな雪道をただぼんやりと歩いている私に、眼には見えぬ芒のような弱い光が届いていた」(土方巽、同書)。

 

 掛け値なしにいい文章である。私は北国の出身ではないから、雪の反映に包まれ、そこに取り残されたからだというものをよくは知らない。だが、からだから何かが放電されるその刹那、からだが身震いするような、あるいは、どう言えばいいのか、身震いとは反対の、意志をもたないかすかな仕草ともいえない仕草を示すことは知っている。示す、というのは少し違うかもしれない。それは何も示さない。からだがその示すという行為をすかさず飲み込んでしまうからだ。
 私の場合は、思い出せるかぎり、京都建仁寺のなんの変哲もない、さして美しくもない境内でぼんやりしている時にそれが起こった。放電と同時に私のなかで何かが溶解するのがわかった。静けさのなかで遠くに幼稚園児たちの歓声が聞こえていた。他にも何度か謎の放電があった。
 雪の下からはかすかな声が聞こえたが、土方自身によれば、彼は蝦蟇の匂いを嗅ぎ、蝦蟇の合唱を聞こうとしていたらしい。だがもしかしたらそれは土方の思い違いかもしれない。土方はからだを動かしていたからだ。脳の襞がさわさわしていたからだ。だからそれは彼の体内にいる鴉や蝦蟇の声かもしれなかった。鴉はそばにいて見えない餌をのほほんとついばみ、かつ鴉は彼の体内にいるのである。リルケがどこかで言っていたように、内部の空間にも同時に鳥は落ちるのである。
 この刹那が信じられないくらい「親密な」瞬間であることは間違いない。親密さはひそやかな幸福の証であり、ここにいるのは私だけであり、他の誰でもなく私だけであり、かつ「私」はほとんど意味を欠いているだけでなく、とっくに意味の器であることを自らに許さなかった。過去も未来もそれらの瞬間は髪の毛一本先にあり、同時に同じようにあたりに溶けてしまっている。つまり私が、私の「私」が溶けたのである。
 芒。すすき。のぎ。イネ科植物の実の外殻に生える針のように細い毛。ぼう。芒にはもともと弱い光線という意味もある。すすきはこの過去か未来へ分裂し溶けてゆく毛一本の弱々しい光を透かしてしか風にそよいでいることはできないかのようだ。これはれっきとした「風景」である。肉体の風景である。肉体は「宇宙の一番遠いもの」である。どこにでも目には見えないすすきがそよいでいる。空は暮れなずんでいる。声はこの益体もない喜劇を全滅させる一本の弱々しい光線だったのか。
 コンパスのようなものは魔術の道具を指すのではなく、たぶん尖ったものが二重になってそう見えたのだろう。私の溶解には必ずや尖ったもの、人を刺すものがともなうのである。それは輪を描き、輪を縮め、最後には頭の上で消えてしまう。コンパスは鴉の不吉な残像であり、二匹の鴉であったかもしれない。この鴉は魔術の道具より恐ろしい。いや、そうではない、という声がする。わけのわからない合図が土方巽を襲ったからである。頭上を旋回して土方をつけ狙っていたのは、踊り出しては消えてしまう物語ではない。物語は最初から隠されていたではないか。肉体の物語は語るに落ちるというものだ。だがそんなものはどこにでもある。幼年期や舞踏家だけが持っているものではない。それは物語ではなく、物語がそのつど終わったという合図なのだ。わけがわからないのは、そいつがいきなりやって来るからである。

 

  「二本脚で立っているので、右にしようか左にしようか迷ってしまう。迷いだけが争って、野ざらしになるのはわたくしのからだなのだ。もともと脚は一本なので、こうして脚の上に乗っている骨盤も一つ。ぐるりと身体をそり曲げれば、身体の極限の口腔の中で舌を転ばしているだけの舌の由来、脚の上に脚を重ねてみれば脚の由来が知れよう。うらめしそうに運動を眺めている姿勢を支えるのがやっとだ。この文章が終わるのはこれが寝床の中で書かれているからだ」(土方巽「犬の静脈に嫉妬することから」『美貌の空』)。

 

 二本の脚は日本の脚ではなかった。土方が田んぼで鴉についばまれる案山子(カカシ)をやっていたとしてもである。田んぼのそばに置かれた、赤ん坊を入れておく「飯詰(いづめ)」のなかにたとえねじ込まれていたとしても、籠のなかで手はねじれ、足は曲がっていたとしても、そこは東北ではなく、東北のあの世だったからである。野ざらしになるのは土方のからだであって、日本の身体などではないからである。肉体の由来は死にあるのか、生にあるのか。二本足があるのに、一本脚の土方巽。なかなか壮観な眺めだ。すべては異郷に変ずる。ただちに、いまここで。足は大地についてはいない。足の裏は風の便りであり、未来の風聞であり、異郷の消息どころか、それを越えて異郷そのものだったことはわれわれだって知っているではないか。



 肉体は迷っている。どちらに行こうか。それは病気になろうとしているのか。これではまだ観念だ。肉体はうらめしそうに勝手に動くものを眺めて暮らしている。何かがうごめく。肉体は普通は蟹のように進み自分の横を向いている。兵隊の真似をしてはならない。匍匐前進してはならない。横に進むものはたまにクソまみれになるのだ。一本脚の日本の舞踏家はだから肉体のなかの井戸を下に降りていったのである。

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                                                            第66回 2015年9月




                                    瓦礫
                        ジャコメッティとジュネ その二




                                                                        鈴木創士




ジャック・デュパン『ジャコメッティ――あるアプローチのために
鈴木創士『サブ・ローザ――書物不良談義

 



 もう通りのゆるやかな上り坂も最後までのぼりきれないような気がする。坂の傾斜は私に湾曲して涸れた一種の底をつくりだす。底は無底であり、むろん目には見えない。すでにそこへ向かってのぼることも降りることもできない。私の周囲にあるものは一切が生彩を欠いてしまっている。もう明日の脚がないかのように、すべてが目のなかで壊れる準備ができたかのように、私は坂をのぼることを諦める。オベルカンプ通りもメニルモンタン通りも消えている。


 常軌を逸したものが生きていて、光をはね返す梢の下で、カケスが鳴いてやかましい。カケスの真似をして、言うことができることすべてをいまこの瞬間に言うことはできない。私はそのことをすでに言ったのだろうか。


 だが彼は簡単には通り過ぎない。けっして通り過ぎることはないだろう。彼はきっと疲れ切って、あるいは何を措いても急いで戻ってくるだろう。誰のもとへでもない。幽霊が数人だけ足早に通り過ぎる。彼はただ埃だらけの古めかしいアトリエに戻ってくるだけだ。昨日と今日、外では、陽だまりにあったように、言葉がぐちゅぐちゅに腐って悪臭を放ち続けていたというのに。


 あらゆるものが瞬時に違って見える。この感じをどう言えばいいのだろう。毎日見ているこの通りもあの通りもあの曲がり角も異国の風景のように見える。何もかもが、あるときは強く、あるときは弱々しい光を受けて、違っているのだ。そこを歩く女の薄手のスカートの襞の光沢にいたるまで。さっきまで風にそよいでいた金髪の髪はもう消えている。松果体が混乱を起こす。店はなぜか閉まっている。永遠が誰かを誰かに変える前に、永遠は目の前をよぎり、いっときしかめ面をしたのだ。バスから見える通りを行く灰色の老人は、あの隠された類似を受けて、この同一性の揺れと錯乱のなかで、静かに別人から別人へと姿を変える。いま見たはずのすべての印象をぺしゃんこにしてしまうような、もはや彼とも呼べない見ず知らずの人がこちらを見ている。いつもありえないような場所に人が立っている感じがする。錯覚なのだろうか。ここでもあそこでも、夕暮れの行方が誰にもわからないように、画家たちの言う空間と時間は見分けがつかないし、すべての瞬間が周囲からさっと逃げてしまうのだ。どこに逃げるのか。こちら側の灰色で薄茶色の世界のなかには、その溜まりがあるように思われる。それは動かない。


 フランス風に煙草で穴だらけになったツイードの上着を頭からかぶり、斜めに降り込む雨が、肩の上に石が降るように、突如として血の雨に変わったりするのを見てしまったような気がする。彫刻家がいるのだ、雨のなかに。
 愚かなことだ。硫黄が降り注ぐ空の下、「芸術のすばらしい錯覚でしかまだなかったものを雲散霧消させてしまう」雨のなかを走るなどということは。
 だが雨は一本の木ではないし、木立でもないし、二、三人の若い娘でもなかった。結局、彼が見るままに見たその刹那、果てしないもの、不動のもののなかで果てしなくかすかに揺れ動くものだけが、それでいて何か固い核のようなものを持つものがあったのだ。芸術の錯覚も現実の錯覚も何ら変わるところはなかった。違うだろうか。そうでなければ、いかに画家自身の言葉に反してであれ、アッシジのジォットやヴェネツィアのティントレットを穴があくほど見つめることに何の意味があっただろう。
 彼の見た、矛盾に満ち、暴力と呼ぶしかなかったものが充満する幻影を通して、目の前の雨の跳ねがかたちづくる蜘蛛の巣を振り払い、そうしつつ不器用な口ごもりのこちら側で、蒼白い出現に似たものを透明な帳をかきわけるようにして私もまた垣間見たいと思ったのだ。


 脆くて、軽くて、死ぬほど貴重で、望みもなく、羽のあるもの。私はひっそりと静まり返った夜の美術館にいる。何かを無頓着に写しとらねばならなくて…、と彫刻家にそそのかされるようにして、こんな風に反り返った姿勢で地べたに倒れてしまう前に、エジプトの古代彫刻を叩き割る。そんな夢を見る。ガラスのない窓から黄色い土煙をあげて王家の谷のいたるところが陥没していくのが見える。谷からはごーという音が聞こえる。雲間に隠れたアメン神の肩をつかんだネフェルティティの手が粉々に砕け散る。彫像の首が、肩が、脚が、手が地面に落ちている。やつは、隠れた太陽神のほうは、『ゴエティア』の書に記された悪魔だったのか。断片となった片目の残骸が馬の首に突き刺さっている。だが彫像はいまだに無傷のままなのだ。ばらばらになった無傷の断片。ジャコメッティの教えのように、それを見て心底感心したり、口ごもって、他の芸術、とりわけ美術を馬鹿にして笑ったりすることができるのはわかっている。


 「たえず作っては壊す、ということは、減ずること、動作を連続の中、数の中に、おだやかに沈めることになる」(ジャック・デュパン)。そうだ、減ずること。こうして立像が塑像されたのだった。晴れた空の下でも、曇り空の下でも、ペストの時代の大昔に修道院の回廊の蔭に隠れて、遠くから微風に乗ってかすかに聞こえてくる途切れ途切れのホモフォニーに耳を傾けていたかのように、それは確かにかろうじて旋律と言えるものではあったのだが、この切り詰められたような旋律さえも忘れるようにして、けっしてむやみに実体の数を増やしてはならなかったのだから。
 だが見かけの上でだけ現実がそれを強要する動作は、連続のなかに回帰するように見えようとも、しかし数の連なりのなかからそのつど数字をひとつの非連続としてはじき飛ばし、孤立させることになる。それは連続性の外に出てしまう。個々の数字はしどけなく、すべての無理数のようにそれ自体としてはまったく意味をなさなくなる。あたかもすべてが不動の中心であったかのように、こうしてありとあらゆる動作は消えてしまうが、それは、ジャコメッティをよく理解した詩人の言葉に反して、けっして数の恍惚のなかにおだやかに沈んでいったりはしない。後にはかならずや皆殺しの残余が、残骸が、湿った粉のこびりついた藁屑や、針金の切れっ端や、石膏の屑が残される。


 ジュネは、ジャコメッティの彫刻が、ある秘密の場所に、引き潮の海が岸辺を打ち捨てるように引き退いていったと言っていた。それはカフェで白痴のような痩せた盲目のアラブ人が世界とフランス人を罵倒しているところに遭遇したときに彼が思ったことだった。「彼を万人と同一にするあの地点」とジュネは言っていた。その類似の地点は、彼が彼自身のなかにもっとも遠くまで退却するとき(中世のカバラ主義者によれば、世界のなかに世界というひとつの場所を創出するために、かつてユダヤの神は自己から自己のなかへと退却し亡命したのだった)、存続し維持されたのだ。
 このアラブ人はジュネとジャコメッティのあいだにただ気詰まりな沈黙を与えただけだったのだろうが、しかしジュネはこれに似た感想をいたるところで持ったはずだった。この印象はきわめて独創的なものだった。一見、世界のなかにいるかのような彼は、ジャコメッティの向こう側に、画家の目を透過して、崩れ落ちる前の最後の世界を見ていた。画布はとっくの昔に落ち着きを失っていた、とジュネは言っていた。
 遠さによっても近さによっても測れないものがある。そこでは接近と遠ざかりはほぼ同時に起こるからだ。尺度はなく、岸辺は打ち捨てられるのだ。流されなかった流木も、洗われた砂も、残りの世界の一部にすぎなかった。


 立像が、石膏像が、ブロンズ像が、ある退いた地点からやって来ることは確かだった。われわれがどこにいようと、立像はわれわれを巧みに回避し、結局、われわれは一段下にさがってしまう、とジュネは言う。



 昼下がりに、誰もいないとき、ジャコメッティのアトリエにこそ泥のように忍び込むことを私は夢想する。アトリエはひっそりと静まり返っている。外の喧噪が遠くに申しわけ程度に聞こえるだけだ。ここには誰とも交わすことのできない奇妙な親密さがある。親密さはどこまでも孤立している。埃だらけの粗末なテーブルの上に無造作に置かれた立像。小さなものも少し大きめのものもある。腰をかがめ、小さな立像の目の高さにまで私は低くなってしゃがみ込み、立像たちを見つめてみる。私は底にいる。そこでしゃがんで、じっとしているだけだ。冷や汗が背中をつたう。立像の目は私を見ているようでもあり、何かをたしかに見ているようなのに、けっしてどこにも向けられてはいない。目は突き出ることによって虚ろに陥没している。


 ここには、この立像たちの埋葬場所には、何か恐ろしいものがある。誕生と同時に埋葬されたもの。生まれつつあるものは、実際、恐ろしい。神聖ではあるが、何かを剥奪された神聖。ものを言おうとしても、それでも言うべきことなど何もない、ささくれ立った神秘。空間がかすかに振動し始めたのか。一瞬のうちに何かがすり替わり、それとは名指せない変容が起きているのがわかる。女神たちがいたのだろうか。ひとりでに位置を変えたのだろうか。退却した自己の芯は溶け始め、立像はつねに遠ざかる。遠くの平面、それが見える。そして物と物の関係が稀薄になり、あらゆる権利を剥奪され、仮面から別の仮面を剥ぎ取るように裸にされたとき、最後まで退却した地点にあの類似が現れるのだ。すべてが絶対的実在のなかで凝固してしまった、とジュネは言っていた。世界のなかにそのまま置かれていたはずの事物に限りなく似ているのに、ぞっとするほどそっくりなのに、よそよそしく、少し翳った、馴染みがあるとは言えない世界の場所が瓦礫のようにぽっかり口をあけている。そこに立像は立っている。ここは空地なのか。林間の空地。立像の置かれたあたり、すべては彼の造った顔と同じように、じょじょに鋭角的になり、尖り、同時に果てしなくぼやけて、中心から外へと流れるように消滅の線が現れ、しみだらけの灰色を背景にして、私をあのディレンマのなかに突き落とすのだ。

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第65回 2015年7月





                          ジャコメッティとジュネ




                                                                        鈴木創士





ジャック・デュパン『ジャコメッティ――あるアプローチのために
鈴木創士『サブ・ローザ――書物不良談義



 通りは不安げで、灰色で、震える大気のこちら側で静まり返っている。オベルカンプ通りの先はメニルモンタン通りに変わるが、それは上り坂のまま未来からやって来る錯乱のように空までずっと続いていて、顔の破片が反射するように、あの世から射してくる細かな光に満たされているように見える。針のようにしだいに細くなり、最後には尖った先端だけになる道。最も不確かで最も軽く、時には最も重々しい、ありそうもない輝きを帯びる恒久不変の実在性。彼らが見たものを私もまた見たというのだろうか。非現実性としか言いようのないものがこの世には溢れている。それは向こうでもくもくと立ちのぼる空の雲のぎざぎざの縁のように、この世のものとは思えない鋭利で曖昧な美しさに縁取られているのがわかる。
 非現実の一種の縁飾りが時おり向こうに覗いている。私は事のついでのようにそれを見つめているが、それを表現することはできない。口でも手でも言ったり描いたりすることはできないのだ。色彩はほとんどない。暗い色彩すらない。レンブラントの描く装飾品のようには。とんでもないものを見てしまったのか。だが雲の立つ空はあまりに明るくて、私ははっとして、その明るさのなかで目を細めると、やはりそれはうまくいけば反射のなかに虹色が見えることもあるただの雲の縁でしかなかった。だがこの灰色の通りはそんな空や雲とははっきりとしたコントラストを示している。対照のなかには対称を破るものがある。まんなかには捉えどころのない亀裂が走っている。目には見えないだけだ。私たちに塵を軽蔑する権利はない。


 通りはすでに彫像であり、彫刻家が造らなかった彫像の雛形であり、それは縦にすくっと立っている。その立像はこれほど甘美で遠く恭しい通りのなかに空気のように充満しているが、実際には誰もその立像を目にすることはできない。ジャコメッティの立像でさえも。イマージュは実現されたのか。キリストは彼のイマージュの実現を阻もうとしたペテロを叱りつけたのだとジュネは言っていた。



 雨上がりのみぎり立像には鳥がとまりに来たこともあっただろう。目の端で水辺(みぎり)に映る日本の円い月を思い出す。請け合ってもいい、ジャコメッティは雨上がりの千夜一夜の視界が何よりも好きだったに違いない。実像などない。それは紛れもなく視界と呼べるものだったはずだ。このみずみずしさに反して、彫像はからからに乾いているようにしか、からからに乾くほかはないようにしか見えないのだ。
 彼は暗い映画館から出て、雨上がりの最初の数分間にそれを見たのだった。舞台のスクリーンではすべての記号が混じり合い、もうどの記号も意味をなさなくなっていたのに、映画館の暗い森を出た途端、すべては信じられないほど鮮明になり、記憶を消し去り、過酷だが風格のある、過ぎ去りゆく世界の一端を彼に見せたのだった。それが永遠に思えたのは、あまりに孤立しすぎた一瞬の出来事だったからに相違ない。



 ちょうどいま私の目から五十メートルくらいのところにある白く焼けてしまったような屋根の上に山鳥が墜落したところだった。ほとんど急降下だった。山鳥は猛暑のせいだろうか屋根の上でさんざんもがいた後でぐったりしていた。このまま焼け死んでしまうのだろうか。私は固唾をのんで見守る。死んだと思っても死んではいないもの、死なないものがある。山鳥はやおら身を起こすと思ったより長い羽をばたつかせ、それから日影にある黒い屋根のほうへ向かって飛び立った。
 だが今この通りに物欲しげに囀る鳥はいないはずである。


 パリの通りにはそれぞれひとつの人格があることがわかっているとしても、むしろさまざまな通りの人格は名前も持たずにどこからともなく現れるか、あるいはたまには暑苦しいほどのほとんど架空ともいえる歴史的登場人物のようなものであって、しかしこの通り自体は優しい灰色をしているのだし、見られれば見られるほどこちらを見返すのにそれでも消え入りそうな廃品同然の風情がある。だがここで急いで名指ししなければならないこの通りの人格とは、むしろ今はそこを歩くジャン・ジュネのことを指している。したがってジュネ自身にはあたかも重さも人格もないかのようであるし、彼は彼を無のなかに突き落とした誰かにもう似始めている。向こうにアーチ状になった奇怪な枝振りの大きなケヤキの木が見える。葉っぱは日の光を透かし、小声でさざめき、聞こえないくらいの死後の光の歌をうたう。昨日まではそこへ種々様々な鳥がやって来ていた。鳥たちは喧嘩をして羽を大きくばたつかせていた。


 木の潜り戸を押して、ジュネは勝手を知った近所の人のように中へ入る。勿論、通りからこんなところへ入っていくのは始めてのことである。蔓薔薇が生い茂って、古い庭のタイルをほとんど隠してしまっている。タイルはすでに残骸であり、ずいぶん古びてはいるが、ところどころコバルトブルーと白と緑とオレンジ色とおぼしい色彩が残ってはいるのだけれど、このタイルが何のためのタイルの残骸なのかはわからない。図らずも庭師はここに埋葬されているのだ。蔓薔薇を剪定する彼の指先がジャコメッティに乗り移り、朝を迎える。石膏のかけら、縄、麻屑、ちぎれた針金が落ちている。ジュネは昼間の押し込み強盗のように、それとも神殿内の物売りを蹴散らすイエスのように、ずかずかと遠慮なくさらに庭の奥へとわけ入る。ほんのりと汗をかいて光った禿頭の後頭部が揺れているのが見える。ジュネの着ている白黒の派手なチェックのコートはクロード・モーリアックからの頂き物である。クロードの妻はプルーストの姪孫だったが、このコートは勿論プルーストのものではなかった。


 それほど広いとはいえないこの中庭でジュネは尿意をもよおす。ジュネは口元にほんの少しだけ笑みを浮かべ、音程のはずれた鼻歌をうたいながら(古いシャンソンだ)、蔓薔薇の茂みに向かって立ち小便をする。まるでずっと青春期にいるみたいに、つまり生まれたときから年老いたままの古代人のようだ。小便は光を浴びて空中に弧を描いている。濡れたのは薔薇ではなく古びたタイルだった。後にパレスチナの地で同じことが起きたように、立ち小便の直立不動のまま、彼は何かしら光に導かれ、空に鼻を向け、パレスチナの地ではフェダイーンたちが手渡してくれた毛布のなかにいたように、自分のコートのなかにじっとして、何かの渦のなかに捕らえられていくのを感じる。この渦はそんなものがあるとして大気の眩暈に似ていなくもない。途轍もないことが起きたのかもしれなかった。彼は何かに慰められていたのだろうか。幸福だったのだろうか。ヨルダンの川が流れる音がする。ジュネは凍えている。わけても季節を感じる大気の感触、風のそよぎ、オリーブの木々のあいだから何年か前に見た、あるいは何年か後に見ることになる埃にまみれた女性たちのぼろぼろの民族衣装、空と土と樹々の色、軽やかな酩酊、純真な少年たちの目の輝き、あらゆるものが透けて見える、突然、笑いさざめくものすべてが耳のなかに波浪のように押し寄せ、死体とともに、モーツアルトのレクイエムの冒頭が切れ切れに聞こえ始めたのだ。
 ジャコメッティのアトリエにいるときとは反対に、ここではすべてがまるで真実ではないかのように見える。死体から死体へと飛び越えて行かねばならなかった。写真には写らない蠅と屍衣の皺とあれらの臭気とともに。死にゆく人々の死はそのまま世界の死である、とジュネは語っていた。


 ジャン・ジュネは、狭い中庭にいながら、そこは古代ローマの遺跡の風穴だと直観する。だが風穴ではない、ただの穴ぼこなのだ。どちらかといえば薄汚くも見える雑然としたこの庭の地下にはきっとそれがある。埃と砂、土と乾いた血だけがある。彼ははっとする。乾いた風が、恐ろしく古い風が、太初の時間の闇から吹いてくる。かつて国家であったものの屑が風に舞っている。カエサルの見た空、ギリシアの哲人たちが地面に吐いた唾。賽は幾度となく投げられたし、乞食の知恵というものがあった。砂を噛むような日々だ。ジュネは神の狂人たちとも言っていた。あれらの狂人たちに囲まれて、柩の蓋は閉まっていた。彼は墓の平石を恐れていたのかもしれなかった。
 それにこの世の生とは反対のものがあったのだ。蔓薔薇は生い茂り、そもそも名前すらわからない遺跡は実際にはどちらを向こうとも跡かたもない。欲望が輪を描き、そこを通り過ぎた者たちがいたのだろうか。モーツァルトはほんとうに永遠の休息、もうひとつの生を願ってこの曲を書いたのだろうか。すべては未完のままだ。すべての遺跡は架空なままのもののなかでわれわれの喉元を締め上げる。血がごぼごぼいう音が現実の琴線を隠蔽する昨日の出来事のように聞こえる。怒りの日々。軽い狂気の発作。心に呟くものがある。臨終のみぎりはミサではなくオペラに似ているとジュネは言いたかったのだろう。なぜなのか。画布は灰色に塗られ、すでにとっくに落ち着きを失っていた。何かが動揺していた。染みだらけの絶対的実在。ひとつの実在性。それを前にして、ジュネは死に絶えた古い土地の遺跡の上で凝固する。石膏のように。


 ジャコメッティがジュネに言ったことには一理ある。立像を造って、それを地中に埋めてやるというのだ。彫像の記憶を、そしてわれわれの記憶を消してしまうには手っ取り早いやり方かもしれなかった。埋葬の際には、誰が彫像に土をかけるのだろう。パスカルが言ったように、それはそのまま「どうか彼にとって土が軽からんことを」ということを直接意味するわけではないが、埋葬の次の日のお天気を私は思い浮かべてしまう。二千年か三千年のあいだ。雲ひとつない晴れ渡った青空。言い知れぬ恐怖を味わった人たちがいる。瞼は閉じられることを拒否している。死者たちに差し出された彫像は、しかし空の下のあらゆる儀式をまぬがれてはいても、それでいて私たちをとても古い儀式のひとつの端緒につかせるのだ。恐ろしく溌剌としたものがある。金輪際もう誰も何も覚えてはいない。生命が極端に蓄積されると、後には生きるべき時間は一秒たりとも残らない。死者たちに差し出すために、死者たちが必要である。それを書き、描くのだ。過ぎ去った時代が、存在が限りなく欠如するようにあったのだろうか。少なくとも彼が象るものには。


 中庭の引き戸を開けて階段を上がる。神殿がそこにある。いや、神殿であってそうではない。ネクロポリスの黒い西瓜。それは人の頭だった。アトリエの扉を開ける。新しい、見たこともない自由。髑髏の眼窩のなかの執拗な眼差し。それは死んでいるのに、最も生きているものだった。この埃だらけのアトリエの隅に小さな立像たちが打ち捨てられてあるのはわかっている。その目はじっと見ている。こちらを見てはいないはずなのに、間が悪いことにこちらを見ているのだ。眼差しは部屋中に充満する。彫刻というものにはそもそも何かしら禁忌を思わせるものがある。なすべき仕草など何ひとつないではないか。身じろぎしないもの、動く気配を見せる前からずっと不動であったもの。ここにはどちらかといえばみすぼらしい二人の男しかいない。アルベルト・ジャコメッティとジャン・ジュネ。投げ出されたように乱雑に部屋に置かれたこれらの彫像は彼ら以外のすべてのものを取り除く。彼は素描を始める。空白に何かが付与される。何かが付与されなければならないのではない。ひとりでに、いや、ひとりでにではなく、何かが付与されるのかもしれない。そんなことは滅多に起こらず、とても稀なことだが、そうなのだ。素描が優雅なのではなかった。とんでもないことだ。充実しているのは描線ではなくむしろ白のほうだ、とジュネは言っていた。素描は何かを存続させることではけっしてない。それなら、たしかにその通りではあるけれど、モデルだった彼は無のなかの無であったことになる。それを言祝ぐために、絵が描かれることもあるのだ。


 ジュネはスツールに腰掛け、ジャコメッティのほうを向いている。彼らは友人である。少しでも動くと大声で文句を言われる。煙草を吸って一からやり直しだ。死を狩り出すように、からだはどこまでも弛緩している。硬直していなければならないのに。大変な作業だ。からだに命じたからだが抜け出して、明日の通りを歩き回っている。彼がプロのモデルのようにできるはずもない。ジュネはポケットのなかを探る。ネンブタールの錠剤が二、三錠残っていることはわかっている。その点では間違うことはほとんどない。ジュネは自分の半身を探すようにポケットに手を突っ込み、ジャコメッティがトイレに立ったとき、微笑みをうかべてズボンをちょっとだけたくし上げ、それをすかさず飲み込む。窓からモーブ色の空が見える。半ばオリエントの地とはやがてそこへ行くことになるヨルダンのことだったのか。


 残りの世界のすべてと離れて彼がいる。脱色したようなジャコメッティの目。彼が万人と同じに、等しくなる一点を逆にモデルであるジュネが見つめている。それがあるいは醜さかもしれないとしても、ジュネは何かの番人ではない。自分だけが見分け、見破った光と影の分岐線があるのだ。このままスツールに座って、夕日の最後の光の名残りのように、できるだけ遠くにまで退却しなければならないのだと考える。笑い転げていたのは誰だったのか。言うまでもなく死は何度となく確実だったのだ。この埃だらけのアトリエで、引き潮の浜辺が見えるようだった。



 空っぽの空間をつねに見ていたいと思う。それに憧れる。ほんとうなのか。だが庭園は荒れ果てて、見るかげもない。木立の下ではいつも裏返しのトランプを、あの駆け引きの続きをやっている人たちがいた。監獄はへこんでいる、とジュネは言っていた。これを最後に見たと言ってもいい、いや、その都度、そう言い切ることのできる世界の最後のイマージュというものがあって、モデルのジュネはジャコメッティの瞳のなかにそれを覗き込んでいたのだ。砂漠に散らばる銀河の下で、ジュネは小熊座のなかのいつもの場所にある北極星を見ていた。

 あるインタビューで尊敬する人は誰かとジュネは訊ねられる。彼はためらうことなく即座に答える。
 「アルベルト・ジャコメッティ」。

 

*以上の文章はジャン・ジュネの著作『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室)、『恋する虜』(人文書院)、『シャティーラの四時間』(インスクリプト)の幾つかのページを元にしている。鵜飼哲氏をはじめとして訳者の方々に感謝を申し上げたい。

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                                                        第64回 2015年7月




                      舞踏家・室伏鴻の白いズボン




                                                                        鈴木創士





宇野邦一『詩と権力のあいだ
鈴木創士『サブ・ローザ





 舞踏家の室伏鴻が急逝した。死を踊り、死を演じ、死をねじ伏せてきた者の死。ソロ公演があったブラジルのサンパウロからドイツへ向かう途上だった。


 メキシコの空港。日常の雑踏。
 ゆっくりとくずおれる舞踏家の肉体。弧を描く大きなシルエット。
 シルエットの輪郭は灰色を背景に際立ち、鋭い。だがその縁を流れる時間は緩やかに、突然あらゆる動きは緩慢になり、音は消え、心臓は鼓動を止めた。あらゆるものがゆっくりと停滞してゆき、そして一瞬、ぴたりと停止する。室伏鴻がそこにいた。するとふたたびすべてが騒音のなかに動き出した。
 肉体。そこにあり、そこにあったはずの肉体。肉体は肉体だけのものである。そうなのか? その肉体と対をなす蒼白の顔。室伏鴻の死顔はとても美しかった、と彼女は言う。彼は突然いなくなったのだ、と。


 暗黒舞踏の踊りがかつて私に花を思わせたことはなかった。大野一雄になら、花の喩えも、花言葉も、そして一輪の花も、彼の仕草に捧げることができたろう。丘の上の一本の古木に鳥がとまりにやって来たのだから。だが、室伏鴻の死の一報を耳にしたとき、私の脳裡をダリアの花のありそうにない映像がかすめた。少しくすんだ薄紫色のダリア。そんなダリアをかつてほんとうに見たことがあったのかどうかはわからない。


 金属の肉体が空港の床の上でダリアの花に変化(へんげ)したとしても、花に罪があったのだと誰も言うことはできない。室伏鴻のかつての舞踏の肉体には、どのように見ようとも、合い言葉のように、威厳と優雅が流れていた。血と乳が流れていた。


 花は枯れただろうか。花が枯れ、朽ちたとしても、それ自身が他の残りのものすべてとともに消えたとしても、昨日の薔薇はその名のみだとしても、そして肉体が死してもなお、舞踏家の肉体が滅びることはないだろう。


 舞踏は恐らく肉体を、ほら、そこの、虚空のなかの肉体に刻んだのである。肉体はかつて肉体のオーラを纏っていたが、この生命のオーラは、とっくに死の芳香を大胆に放っていたからだ。それはいつも別のかたちを必要としていた。われわれはそれを懐かしいと思ったことさえあったではないか。


 この死んだ肉体を見ることを拒否できる者はいない。室伏鴻の師であった土方巽が言っていたように、舞踏家の肉体とはそもそも死に物狂いの死体であったからである。それは丘の上に、軒先に、地下室に、路傍に、水辺に、陽だまりに突っ立っていた。この肉体の廃墟のなかに。この井戸のなかに。この消滅のなかに。この不敵な別のかたちのなかに。別の誰かがそれを知ろうが知るまいが。


 室伏鴻の誰が見ても美しいと思うはずの肉体を瞼の裏側で再現しようとしたら、なぜか吉田一穂の「后園」という詩を思い出した。裏側に写映されたものがもし言葉だったとしたら、それは僥倖であったと言わねばならない。万一、この詩が彼にはそぐわないように思えたとしても、それはただのつまらぬ肉体の錯覚というものである。


    明るく壊(こわ)れがちな水盤の水の琵音(アルペジオ)
     (日時計(サンダイアル)の蜥蜴よ)
    
    光彩を紡(つむ)ぐ金盞花や向日葵の刻
    泪芙藍(サフラン)がその黄金を浪費する時
    
    微風に展(ひら)く頁を押へて指そむる蒼翠(みどり)の……
    御身、額の白く香ぐはしの病めるさ。
                                                            (『海の聖母』より)


 陽を浴びた日時計の上でじっと動かぬ蜥蜴は、さっきまで闇のへりを食べていた。かすかに発光するかのような暗がりから出てきて、背中を曲げ、油を流した背中はてらてらと赤銅色または青銅色に光っていた。優雅な蜥蜴はいつまでもぴくりともしない。


 ついさっき土方巽についての宇野邦一のエッセイ「土方巽の生成」を読みながら、肉体の生み出す軋轢について考えていた。土方の精神はその軋轢をほとんど楽しむほどの大きさと倒錯をそなえていた、と宇野邦一は言っていた。それならば、だからこそ肉体は肉体の軋轢をいたるところに生み出すのだと私には思われる。したがってこの精神とはまた肉体のことなのではないか。それはコレオグラフィーの外にある。精神から離脱した肉体は何度か私にそう教えてくれたのだった。



 そしてこの倒錯は肉体の彷徨い自体のなかにあって、はぐれてしまった肉体は、今度は、巨大な肉体に「わが肉体」それ自体を象嵌するように、自身の古い肉体を裏返しに拒否し、もう一度あらゆる肉体に命令するのだ。ダンスは明瞭な無為なのだから、それが苛烈な闇と接し、この暗黒に溶けてしまうのをとどめることはできないし、同時にいつもその手前に踏みとどまっていたのである。


 室伏さんを個人的に知ったのはわりと最近のことだが、見たのはずいぶん昔のはずだった。彼は1972年に麿赤児氏とともに「大駱駝艦」の旗揚げに加わった。見たといっても、たぶん「大駱駝艦」でのことなのだから、あの混乱のなかで、誰が、あるいはどれが、室伏鴻なのかは知る由もなかった。
 当時、私がまだ不良少年の頃のことだが、神戸の溜まり場だったジャズ喫茶に「大駱駝艦」のメンバーが勧誘にやって来たことがあった。君たち、舞踏やらないか?
 暗黒舞踏がどういうものであるのか何となくはわかっていたつもりのまだ生意気盛りの私が、即座に、丁重に、お断り申し上げたことは言うまでもない。……。自分の肉体のことなど何が何だかわからなかったし、ましてやそいつをどう扱うのかなんてわかるはずもなかった。私がこの肉体とは別の肉体を探していたことは確かであるが、当時、自分のことなどどうでもよく、いつも私はうわの空だった。
 実際に声をかけてくれたのは、ビショップ山田氏か天児牛太氏かのどちらかだったと思うが、はっきりとは思い出せない。そのことを室伏さんに話したら、少しは驚いてくれると思ったのに、彼はちっとも驚いた顔を見せなかった。ただ優しく笑っただけだった。ほんの少しだけはぐれた肉体がかつてどのような体たらくであったのか、それがどんな風に自分を殴りつけていたのか、自分の皮膚をどんな風につまんだのか、そんなことなど彼は熟知していたからだと思う。


 急いで室伏鴻の舞踏公演の映像を見直してみた。2003年にアスベスト館で、故土方巽夫人の元藤燁子さんと一緒に即興で踊った映像がある。元藤燁子と踊るのは始めてのことだったらしいが、この土方の未亡人であった舞踏家はその同じ年に死去することになる。
 帽子と蜘蛛の巣の踊り。舞踏家たちの背後には三枚の真鍮の板がぶらさがって揺れていた。その一枚は師土方巽のためのものである。その舞踏の後半、室伏の踊りはいっとき激しくなり、声を発し、真鍮板をなぐりつけ、蹴り、ときには優雅に、ときには暗黒舞踏を忘れたように背中を伸ばし……、それを見ながら私は感動を覚えるのをどうしてもおさえることができなかった。最後のほうで、室伏鴻の目に涙が光っているのがわかった。映像を前にして、明るい残酷な鏡に自分を映すみたいに、思わず私もまた椅子に座ったまま手と上半身だけで踊っていた。ひとりで、室伏鴻とともに。彼岸の室伏さんはきっと失笑していたことだろう。君は今頃になって僕と一緒に踊るのかい。そんなひどい病んだからだで……。


 去年の十二月、京都でお会いしたばかりだった。四月の終わりになると花水木が白い花をつける狭い通りにある地下のレストランに入った。ビールとワインを飲んで、食べた。われわれは五人だった。室伏さんとマネージャーのWさん、丹生谷貴志、Hと私。私は何度も彼の顔と目をまじまじと見た。室伏さんの目は優しい。何となくまた一緒に何かやれると思った。


 じゃあまた、と言って通りで別れた。振り返ると、Wさんと一緒に遠ざかってゆく彼の後ろ姿が見えた。コートの下から白いズボンが見えた。世界とズボンがあり、世界のなかに白いズボンが見える。舞踏家のズボン。それが世界のなかを、雑踏を通り過ぎていった。


    鳥は落ち、マントーは黙り込み、ティレシアスは何も知らない。
    無知、沈黙、そしてじっと動かない青空、そこに謎かけの答え、ごく最近の解答が   あるのだ。
                                             (サミュエル・ベケット「世界とズボン」)

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                                                            第63回 2015年6月




 ペスト、ルネッサンス




                                                                        鈴木創士





イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還




 ダンテ
 詩人ダンテが地獄へ旅立ったのは1300年4月8日の夕刻であり、「地獄篇」の執筆は1304年頃から始められたようだから、友人であったルネッサンス芸術の最初の真の革新者であるジョットは、もうフィレンツェで絵筆を縦横に走らせていたことになる。この友人をダンテが自分の作品のなかに登場させたのが、「地獄篇」でも「天国篇」でもなく「煉獄篇」だったことは、ジョットへの一種の称賛か、ユーモアたっぷりの微妙な揶揄だと受け取ったほうがいいと思われるが、どのような絵であれ、絵画が地獄をしたがえていたことにかわりはない。
 すでにわれわれの知るルネッサンスの時代は始まっていた。それどころか、いうところの「春の謳歌」と「人文主義」の新しい時代は、この世とあの世のどちらにも地続きだった地獄とともに始まっていたのだ。思想は思想としてはつねに何ほどのものでもない。地獄もまた絵画と同じように幾つもの時代をしたがえていたが、物質的にして非物質的なこの酸鼻の極みは、見て見ぬ振りをするわれわれにつねに冷水を浴びせかけてきたのである。

 

 地獄の門
 この初期ルネッサンスの時代にダンテはすでに道案内のウェルギリウスにこう言わせている。
 「望みの絶えた叫び声が聞こえ、呵責を受けるいにしえの亡霊たちが見え、すでに死んでいるのに、もう一度死にたいとさえ願う輩たちのたむろする所へ君を案内しよう」、と。
 こうしてルネッサンスの時代にいるわれわれはすでに地獄の門をくぐり抜けていたのである。どこへ向かって? 「嘆きの町」、「永劫の苦患(くげん)」、「滅びの民」のほうへ、である。
 ものぐさな「煉獄」さえもまだ遠いところにあったし、あれらの星々にまみえるのはまだまだ先のことである。花は地獄に咲いた。ルネッサンスが何百年にもわたって続いたというのは、私にとっていかにもおかしなことに、異常なことに思えるのだが、どうだろう。花の命は短いのだし、秘すべきものであるし、それ以外には狂い咲きするほかはないのである。

 

 死と生
 いかなダンテであっても、地獄の番犬ケルベロスの三つの頭を眠らせることはできなかった。一つが眠っていれば、二つが起きていた。ダンテ自身がまだ地獄にいたからである。
 ルネッサンスの時代、ケルベロスの三つの頭は「三位一体」を表しているとも考えられたようだが、こんなことはいかにも馬鹿げている。それにこの犬は一説によると五十の頭をもっていたとも言われているのだから、「三位一体」も、眠りと覚醒の話もよしたほうが身のためかもしれない。眠りは、ましてや眠りの眠りなど、とうぶん訪れることはないだろう。
 ダンテは出発したばかりだった。だがどうしてまた生きている身空で地獄に旅立たねばならないのか。だから冥府の河アケロンの渡し守カロンは、ダンテに当然のことながら腹を立てたのだった。
 「禍いなるかな、おまえら獄道の亡霊ども!」
 こいつらはどいつもこいつも死のうにも死ねない境遇にあるというのに、おまけにそれが掟であるというのに、そこのおまえはまだ死んでもいないじゃないか!

 

 混乱
 統一されたイタリア国家はまだ存在してはいなかった(それどころか国家の態をなすのは19世紀である)。この長靴のような半島はいわば戦国時代にあり、ルネッサンスの都フィレンツェでも、皇帝派と教皇派が血みどろの戦いを繰り広げていた。
 ダンテは政治闘争に敗北し、フィレンツェを追放となり、再びこの都に足を踏み入れるなら、火刑台での火炙りが彼を待っていた。『神曲』全体はまだ完成してはいなかった。ダンテはあちこちを転々としていた。後に神学者ジョルダーノ・ブルーノがそうすることを余儀なくされたように。だがブルーノは最後にはとうとう火炙りの炎に焼かれることになる。彼は火刑に処せられるときも堂々としたままだった。世界は無限である。これだけは撤回できない。「この場に及んで、地獄の業火をもって私を断罪する君たちのほうが、どうしてそんなにも震えているのか」。ガリレオはそれを見て、逡巡せざるを得なくなった。彼は情けないことにもぐもぐ言うしかなかったのである。「それでも…地球は廻っている…」、と。
 カトリック教会もまた腐敗のなかの腐敗に陥っていたと言わざるを得ない。歴史のなかに何度も押し寄せるこの腐敗の極みにあった教会に対して、真の意味で対抗した聖人、彼自身にとっても民衆にとっても、また小鳥たちにとっても、あらゆる点で何もかもが裸であった聖フランチェスコは、すでに一世紀ほど前に生まれていた。そして聖フランチェスコを崇拝するフランチェスコ派は、それが「天国」を準備したのかどうかはわからないにしても、最も優れた最も過激な神学者たち、ボナヴェントゥーラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアムをすでに輩出していた。
 普遍論争どころではない。ルネッサンスは最初から「一」と「多」の完璧な闘争状態のなかにあったのである。

 

 綺想
 ルネッサンスの「春の謳歌」のイメージの大部分をわれわれにもたらしたと考えられる「春」や「ヴィーナスの誕生」の作者サンドロ・ボッティチェリでさえも、晩年の傑作『神秘の降誕』の銘文にギリシア語でこう記していた。「1500年の終わり、このイタリアの混乱のなかで、わたくしアレッサンドロはこの絵を描いたのである」。



 当時のボッティチェリはサヴォナローラ派だった可能性がある。かつてメディチ家を批判し、激烈な説教を続けていたドミニコ派の修道士サヴォナローラが、フィレンツェのシニョリーア広場で焚刑に処されたのは数年前のことだった。サヴォナローラへの賛否をめぐって市民も二つに分かれた。ボッティチェリはこの修道士の影響のために華麗な絵を描くのをやめてしまったと言われているほどである。
 では翻って、さかしまに考えるなら、いうところの「春の謳歌」とは、それはそれで終末論を準備する、つまりその場限りの一種の終末論的綺想だったということになりはしまいか。同じく後の作品であるこの『神秘の降誕』が不安に満ちたひとつの綺想であったように。それはむき出しにして深遠な不安であったはずである。この不安を心に刻み込んでおかねばならない。

 

 老ミケランジェロ
 ミケランジェロの美しい「ピエタ」。だがピエタにもいろいろある。新プラトン主義はどうなったのか。パノフスキーは、ミケランジェロだけが幾つかの局面ではなく全体においてこの新プラトン主義を採り入れた、と言っているが、それにしてもミケランジェロが晩年に迎えたのも奇妙な「秋」ではある。このことを文字どおりにとれば、学者パノフスキーが予想以上に軽々しく見えるほどである。優れた学者も時にはつまらないことを言うものだということを覚えておくべきかもしれない。
 ミケランジェロ自身だけが秋を迎えていたのではない。春から秋へ。中世ではなく、ルネッサンスの秋。メディチ家礼拝堂の秋。霊廟はアレゴリー以上のものである。「しかもなんと厳しい冬を後にひかえた秋だろう」と詩人で美術評論家のイヴ・ボヌフォワは言っていた。
 ミケランジェロは八十一歳であれらの偉大なる「ピエタ」のひとつを彫ったのだから、彼は何を見たのだろうか。大理石の肌理(きめ)からもう汗が滴ることはなかったかもしれない。汗は彼の手のひらの皺、彼の困難な手相の脈絡をつたっていただけだった。ああ、ミケランジェロの最期の日々。
 ミケランジェロは一体の「ピエタ」に取り組んだ二日後、具合が悪くなった。神秘的統一は可能だったのか。それは「夜」の像だったのか。いや、彼にとって、像はあったとしても、ないも同然だ、あるのは飛び交う、絶えることのない、しつこいイマージュだけである。ミケランジェロはかつて「昼と夜はかく語りき…」と書いたことがあった。統一は次第に夜の暗がりのほうへ明らかにずれ込んでいたのではないか。私にはわからない。

 

 綜合と逆説
 ルネッサンスのジンテーゼ。綜合はありえないからこそ、それに具体的な形を与えるために、矛盾は矛盾として生きられなければならない、と先のボヌフォワは言う。それはひとつの逆説である、と。
 この逆説はグレコのような画家にあっては顕著である。だがその名のとおり天使のような修道士であったフラ・アンジェリコは、ボヌフォワが言うように、はたしてこの逆説を念入りに避けたというのだろうか。修道士として? 天使のような? だが、そのようなものがあるとして、倫理的完全さの裏面は恐怖で満たされているのではないか。フラ・アンジェリコの描いた、あれらの聖人たちの無惨に切り落とされた首を目を凝らしてよく見てみるがいい。頑な否定はそのためにあったし、いつも観念のなかでは、否定の否定は成功したかに見えた。ヘーゲルよ、ほんとうにそうなのだろうか。

 

 天使の恐怖
 イヴ・ボヌフォワが言うように、それほどグレコとフラ・アンジェリコの芸術は対極にあるのだろうか。グレコの実在性はそれほど不安定で、フラ・アンジェリコの理想主義はそれほど安定しているのだろうか。人間離れした(ほんとうなのか?)天使のような修道士は、それなら、あらゆる点であれほど堂々たる人間を思わせるマザッチョとは対極にはいなかったのか。そんなことはあり得ないではないか。
 信仰は何をもたらしたのか。だが芸術は物語の外部に出て行くことによって信仰すらも外への出口と化すのではないのか。内面化など起こらない、というかそれが起こったと同時に内面化は厳しい外面化の裏地にすぎなくなる。フラ・アンジェリコの絵画が、フィレンツェで若き日のピエロ・デッラ・フランチェスカを魅了したというのはたしかにそうなのだろう。だが道は幾度となく複雑に分岐し、すべての道はフィレンツェに通じてはいなかった。



 それに、例えば、きわめて美しい作品と言えるフラ・アンジェリコの『聖母戴冠』ですらも、この美のなかに恐怖が入り込む余地はなかった、起源のなかにぱっくり口を開けたひとつの裂傷はなかった、と断言できるのだろうか。とにかくほぼすべてのルネッサンス絵画において、私にはそれ自身の外にまったく逆の絵画的効果を必ずや期待できるように思われるのである。絵には別の細部があり、時と場所は選ばれることがない。その意味であらゆる絵画には素晴らしい不完全さがあるのではないか。

 

 ルネッサンスのメドゥーサ
 だがベンヴェヌート・チェッリーニのようなルネッサンス人もいる。この超絶技巧の芸術家は、スタンダールを驚嘆させたらしいかの有名な『自伝』で恐らくは誇張気味に語っているとはいえ、スキャンダルに満ちた生涯を送ったことはたしかである。16世紀フィレンツェ。少年の頃から、喧嘩、傷害、決闘、盗み、殺人、男色を繰り返し、投獄、逃亡、追放、自宅軟禁の憂き目をみる。こんなキャリアはカラヴァッジョ以上である。



 若い頃、ミケランジェロの壁画を模写していたと言われているが、彼の彫刻のポジティヴな「恐ろしさ」、畏怖すら感じさせる積極的「恐怖」と言いようのない「憤怒」は、明らかにミケランジェロの作品に深刻に対抗しうるものだと言っていいだろう。これは彼の自伝の文章の破天荒さから予想されるユーモアとはほとんど関係がない。
 メドゥーサの首を掲げるチェッリーニの傑作『ペルセウス』の冷淡さは、ほとんど時の権力者に対する神の最後の審判の残酷さに匹敵するかもしれない。この残酷さは万人が当然のことながら怖れを抱きつつ待ち望んでいたものである。ルネッサンスはいずれにしても厳しい冬を迎えたのである。

 

 ペスト
 ジョットも壁画に描いているハレー彗星がヨーロッパの夜空を横切った1347年に、クリミア半島にペストが発生した。ダンテと同郷であるボッカチオの『デカメロン』によると、このペストはヨーロッパの人口の四分の一を死滅させたと言われる。1351年には、ロシア。1502年、南仏プロヴァンス。このときには病気平癒のために医者でもあったノストラダムスが大活躍する。1576年、ミラノで大流行。同じ頃、フィレンツェに蔓延。1628年、ロンドンの住人の約半数が死亡し、都市は壊滅状態に陥る。1630年、ミラノで八万人、ヴェネツィアで五〇万人の死者を出す。1655年、再びロンドン。1666(666!)年、ペストはまたたく間にヨーロッパ全土に拡がる……。
 この簡略年表を見ても、クワトロチェントのイタリアだけはペストの影響下になかったなどとはとうてい言えないことは明らかである。ルネッサンスとバロックの時代はまさにペストが勝利した時代であった。死の勝利もまた結局のところ時代をしたがえてきたのである。

 

 ルクレチウス
 紀元前ギリシアの詩人ルクレチウスの『物の本性について』の写本が最初に発見されたのは15世紀イタリアにおいてだったが、面白いことに、この本はウェヌス(ヴィーナス)への讃歌から始まって、最後はペストのむごたらしい描写で終わっている。春から秋へ。いや、たしかにそんな生易しいものではないかもしれない。この本こそは、時を越えて、ペストにおいて、世界の終末において、ルネッサンスの寓意のひとつになったとしてもおかしくはない。
 「苦痛のやむときはなかった。へとへとに疲れ切って肉体たちは身じろぎせずにずっと横たわったままだった。病人は熱でほてり、あらゆる眠りを奪われたその目を大きく見開いてそれをしきりに医学のほうへ向けるのに、医学のほうは無言の恐怖にかられて、ただもぐもぐと口ごもるばかりであった。
 「かりに彼らのうちで万が一死と葬式をまぬがれる者があったとしても、おぞましい腫瘍に蝕まれ、腹から流れ出る黒い液体によって疲労困憊し、それでもやがて衰弱と死が彼を待ち受けていた。さらにしばしば腐った大量の血が、頭痛をともなって詰まってしまった鼻孔からほとばしった。そして人間のあらゆる力、物質のすべてがそこから流れ出した。そしてこのむかつくような血の恐ろしい消失をまぬがれる者があったとしても、病はさらに神経や関節、とりわけ生殖部位に向かうのだった。ある者たちは自分が死の敷居にいるのがわかって怖れ戦き、自らの性器を切除して延命をはかった。手や足を失って、それでもまだ必死で生きようとする者たちもあった。さらに目を失った者もいた。それほどまでに烈しい死への恐怖が彼らに襲いかかっていたのだ! 何もかも忘れてしまった、忘却に冒された者たちさえ見られた。彼らは自分が誰なのかもわからない有様であった…
 「そのうえすでに牧者も、羊の群れの番人も、逞しい鉤型犂の使い手も、みな全員が憔悴し切ってしまい、貧困と病によって死の手に委ねられた彼らの動かぬからだは、掘っ立て小屋の奥に山と積まれて、そこいらじゅうに散らばっていた。命を失った子供たちの上に時おり彼らの両親の死体が積み上げられるのを、そしてまた子供たちが父と母に折り重なって息を引き取るのを時おり見ることができた。
 「神々の聖域にいたるまで、ついに死によって命のない肉体で埋め尽くされていないところはなかった。そしていたるところで、天上の住人たちの神殿はあらゆる主人の死骸でふさがったままになっていた。その番人たちが神殿を主人たちの死骸でいっぱいにしていたのだ。というのも宗教も神々の権威も、このような時にはほとんど重きをなさず、現にある苦しみのほうがずっと強力だったからである。都市においては、死者たちの埋葬のためにそれまでこの民衆が執り行ってきた葬儀はもう見られなくなっていた。半狂乱になった市民たちは動揺のあまり混乱をきたし、誰もが悲嘆に暮れて身内の者を成り行きに任せて埋葬するのだった。幾多の恐ろしいことがなされた。差し迫った時と貧困のためにそうせざるを得なかったのだ。そして大声で泣き喚きながら、他の人たちのために積み上げられた薪の山の上に近親者の死体を置いて、燃え盛る松明をそれに近づけるのが見られた。彼らの死体を捨ててしまうよりはむしろ血みどろの戦いに絶えて…」(ルクレチウス)

 

 アルトー
 演劇はペストである。アントナン・アルトーはそう考えていた。20世紀のルネッサンス人であるアルトーは(私はそう思っている)、『演劇とその分身』のなかにアウグスチヌスの『神の国』第一巻、第三十二章から直接引用する。
 「肉体を殺したペストを鎮めるために、おまえたちの神々は舞台の戯れを己れのために奉納するように要求し、一方、おまえたちの司教は魂を腐らせるこのペストを避けようと舞台の建設そのものに反対する。もしおまえたちにまだ幾ばくかの知性の光が残っていて、肉体よりも魂のほうを好むのなら、どちらがおまえたちの崇拝に値するかを選ぶが良い。というのも悪霊どものたくらみは、肉体における感染がいまにも収まろうとしていることを見越して、肉体ではなく風俗を蝕むが故にはるかにずっと危険な災いを、このときとばかりに招き入れる機会を嬉々としてとらえるからである。はたして見世物によって魂にもたらされた腐敗ぶりや盲目さときたら、ごく最近でさえローマの略奪を逃れてカルタゴに身を寄せた者たちが、不吉な道楽の虜になって、毎日劇場に通っては我先に道化たちにうつつを抜かしていたほどなのだ」。
 どん底の人々が開け放たれた病気の家になだれ込む。彼らは他人の富に手をかけるが、それが何の役にも立たないことを思い知る。アルトーは、そのとき演劇が生まれる、と言っていた。現状のあれこれに対して無益な、まったく無駄な行為に人を駆り立てる無償性。そこは劇場である。ルネッサンス、つまり再生はひとつの無償性である。蘇った死体にとって、この無償性は現実化したあらゆる感情の作用よりもはるかに価値あるものとして現れるのである。第二次大戦中にアルトー自身の身体のなかで同じことが起きたように、外の異変や事件はそのまま身体の次元のあらゆる諸力の放電となって身体自身を組成する、というか一挙に皮膚の外にまで身体を外在化するのである。
 「なぜなら演劇は、不可能なことが現実に始まらない限り、また舞台で起きるポエジーが現実化した象徴に養分を与え、それを加熱しない限り、存在しないからである」。
 もしかしたらルネッサンス芸術、絵画にとっても、これと同じ事態が起きたのではないか。そもそも、アルトー自身が「演劇と形而上学」のなかでフランドルの画家ルカス・ヴァン・デン・ライデンの『ロトの娘たち』に言及していたように、アルトーの演劇の形而上学的イメージはもともとルネッサンスにあったのである。

 

 ウッチェロのマゾッキオ
 「どうあっても自らを見分けることができないひとつの絵画のために身体(物体)を組織すること」。
 ジャン・ルイ・シェフェールは『パオロ・ウッチェロ 大洪水』(第一版は『大洪水 ペスト パオロ・ウッチェロ』と題されていた)という本の冒頭近くで、いきなり奇妙なオブジェに言及している。「マゾッキオ」である。フランス語にも英語にも訳語はないらしい。したがって日本語にもこの言葉を指す訳語はない。
 ウッチェロの『大洪水』の左の前景部分に描かれたこの物体「マゾッキオ」を、恥ずかしながら私はずっと海水浴で使う「浮き輪」のことだろうと思っていた。絵が洪水を描いているのは本当だし、溺れかけている人がこれを首につけているのだから、なおさらである。つい先日のことだが、ルネッサンス学者の芳野明氏から、これはターバンを巻くための「芯」のようなものであると教えられて、自分でもあきれてしまったばかりだった。そういえばルネッサンス時代のイタリア半島の人々はターバンのようなものを頭に巻いている。



 私の無知にもかかわらず、それでもやはり「マゾッキオ」は、絵を見る限り、やはりウッチェロによってこの溺れつつある身体に「浮き輪」として与えられていることにかわりはない。換喩にとっては、無知も時には役に立つことがある。大洪水の際に、手綱を持つ手もまた流されてしまうのだから、泡を食った人間にたぶんターバンはほとんど役に立たないではないか。洪水のさなかにアケロンの河をダンテのように渡るとき、三途の川の冥銭、六文銭は支払われたのだろうか。そうなるとマゾッキオは一種の手形のようにも思えてくる。
 そして当時のフィレンツェの芸術家たち、ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョたちと同じように、最も早い時期にウッチェロは三度の飯よりも遠近法に深く取り憑かれていたのだから、この物体がいかに奇妙なものであるとはいえ、ウッチェロによって、絵画空間のなかの一種の幾何学的事物として描かれたことも事実である。幾何学的手形。ウッチェロは何を考えていたのだろう。いわば数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカによると、「マゾッキオ」は「固有の形態のうちにある図像(フィギュール)」であって、ルネッサンスの洪水=ペストは、すべてのアルカイズムとは無縁の未知なる新たな場所において、「新しい物体」、新しい形象を必要としていたことになる。
 だがやはりこのウッチェロのマゾッキオはピノッキオのように謎の本性を備えているとしか言いようがない。それはうれしいことに、そして残念ながら確かな絵画的事実なのである。

 

 大洪水
 歴史は繰り返された。真実はフィクションであるだけではなく、フィクションは真実である。過去と現在の科学の想像界、つまり妄想の否認をもって任ずる滑稽な妄想のことはこの際どうでもいい。
 『大洪水』と呼ばれるその名高いフレスコ画は、フィレンツェのドミニコ派の教会サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「緑の回廊」と呼ばれる回廊に描かれているのだが、ペストが病気の隠喩であると誰かが言っていたように、旧約聖書のノアの箱船はそのときペストの隠喩と化したとでもいうのだろうか。
 そう、洪水はペストである。
 土左衛門、なかには子供の溺死体も見える。絵の左手には神の怒りによってあてどもなく漂うノアの箱船。落雷で木は裂け、我勝ちに救われんとして箱船に殺到する人たち。箱船には乗せてもらえなかった人たちがしがみついている。
 右手には洪水後の箱船。水は静まり、空は晴れている。穏やかな日差し。だがここにもペストの隠喩がある。鳥が水に浮かんだ土左衛門をついばんでいるのだ。
 ノアは箱船の窓から身を乗り出し、誰かに話しかけている。絵の前景では、たっぷりとした襞のある、ゆったりとした法衣を身に纏い、聖職者かと思われる、そしてなんと五百年前のアルトーのようにも見えるひとりの人物が、東を向いて右手をかざし、おりしも祈りを唱えているところである。
  ここには明らかに新しい神学があった。
 われわれは祈っただろうか。アルトーに似たこの人物も祈ったし、われわれも祈った。まあ、さしあたっては、それで良しとしようではないか。

 

 ペストにもその前とその後があった。われわれが生きているのは、その前なのか、その後なのか、どちらなのだろう。

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                                                            第62回 2015年5月






笠井叡の何もないテーブル




                                                                        鈴木創士




V・ニジンスキー『ニジンスキーの手記』、ロモラ・ニジンスキー『その後のニジンスキー』、G・ウイットウォース『ニジンスキーの芸術
笠井叡『銀河革命』『天使論』『聖霊舞踏



 「私は生き抜いてきたことを書くのであって、何も想像していない。何もないテーブルに腰を掛けている」。
 これは『ニジンスキーの手記』の「死」と題された章からの言葉である。ニジンスキーは、「死は不意にやって来た。私は死にやって来て欲しかったのだ。生きたくないと自分にいいきかせた。私は長生きしなかった」と書いているが、この文章を記したとき、無論、ニジンスキーは生きていたし、恐らくは狂気と正気の狭間で普段の生活を送っていた。彼はバレーをとっくにやめて、というか踊ることを放棄し、狂気の淵に沈み、絵や文章を書く以外、30年以上にわたって何もしていなかった。
 だが動きをやめない肉体にとって、つねにテーブルの上には何もないのである。
 ニジンスキーは一九五〇年四月八日(この四月八日という日付は私にとって重要である。ダンテが地獄に旅立った日であり、釈迦の誕生日であり、ちなみに、ほんとにどうでもいいことではあるが、私が何十年か前に生まれた日でもある)に病院でほんとうに死ぬことになったが、病床で意識を失ったまま、かの有名なバレー「薔薇の精」の手の仕草を繰り返していた。だが栄光も挫折も過ぎ去りなどしない。かつての舞踏の仕草はいま現在の仕草であり、肉体は、それが自分であっても、何かを模倣したりはしない。肉体の肉体が滅びることはないからである。敗北するのはわれわれであって、肉体ではない。
 ニジンスキーの時代はたぶん彼の舞踏をまったく理解できなかった。共産主義ロシアとナチス・ドイツがあった。いたるところで精神病院の患者たちはほとんど根絶の憂き目にあっていた。彼が精神病院に出入りしていた時期とアルトーが精神病院に監禁されていたのはほぼ同じ頃である。ディアギレフがいようとストラヴィンスキーがいようとココ・シャネルがいようと、どうすることもできなかった。クレペリンもフロイトもユングもニジンスキーを診察したが、彼は病院を盥回しにされた。

 ああ、なんという優雅、なんという神経症的優雅、優美な遅延、遅れてきた、あるいは早すぎた跳躍だったろう。これはほとんど物質の恩寵と呼んでもかまわない何かであった。肉体が微動だにしなかったのであれば、すべてがスローモーションのように過ぎたというのか。第二次世界大戦はニジンスキーにとっても「第二幕の始まり」にすぎなかった。ニジンスキーは建物に入ってきた兵士たちに向かって「静かにしろ」と叫んだ。そして死の床のニジンスキーは、頭の上で何度となく両腕を交差させたのである。眠ったままで……。
 私はこのエピソードに思いを馳せる度に、大野一雄の最期の舞踏を思い出す。アルツハイマーを患っていたからなのか、もうちゃんと一人では立つこともできず、腰を支えられ、ほとんど鬼籍に足を踏み入れかけた百歳の舞踏家は、それでも手をひらひらさせていた。手のひらはこっちを向いたり、かろうじて天井のほうへ、天空のほうへ向けられ、しんとして、手は手から放たれることもなく手を離脱していた。鳥は殺されはしなかった。今度は鳥の言葉を聴き取る番である。

 
 つい先日、京都芸術劇場・春秋座に笠井叡の舞踏公演を見に行った。題して『今晩は荒れ模様』。笠井氏がいまでも怖れを抱いているらしい(失礼!)白石かずこの詩集から借りたタイトルである。笠井叡のファンキーさは、60年代のフーテン族などに特有のものであるが、白石かずこのファンキーさもそれほど絶大なものだったのか、と言えば非礼にあたるだろうか。

 今回は錚々たる女性ダンサー六人を従えていたので、ニジンスキーよりもイサドラ・ダンカンを援用しなければならないのだろうが、イサドラ・ダンカンのことはよく知らないし、勿論見たこともないので、いまは余計なことを言わないでおく。ただこれらの素晴らしい女性ダンサーたちとの、笠井叡の言う「振付け関係」は、一見して、肉体の関係とはまた別に、非常に独特な色合いを作品に与えたのだと思う。それは無論エロチックで闘争的な関係にとどまらないはずである。

 

 それはそうと、私が生で(なま!)笠井叡さん自身の舞踏を見るのは実に七十年代の終り、私の記憶違いでなければ、なんと有楽町の古いホールで行われた『ソドムの百二十日』以来のことである。『ソドムの百二十日』はそれまでの笠井叡の舞踏と比べてもじつに印象的な舞台だった。思い出す限りでは、何もない舞台、舞踏家が一人、椅子が一脚、舞踏家の衣装はGパンとTシャツだけ。バックの音はなぜか俳優ミシェル・シモンによるセリーヌの『夜の果ての旅』の朗読。音楽評論家の間章がひそかに百部だけ限定販売していた海賊版レコードが、当時はそれしかなかったのだから、音源だったはずである。この頃は、誰が何を持っているかまで、なぜか手に取るようにわかったものだ。客席には澁澤龍彦がいた。舞台の上の笠井さんは、私だけの感想だろうか、激怒しているように見えた。

 
 今回は京都である。白いスーツの笠井が客席から舞台に上がる。笠井さんはこんなにも小柄な巨人だったのかと思う。私は怒ったような彼の表情が好きだ。この表情には、とても古い、どこか古代的なものがある。「頭上の太陽は燃え尽きて…」。足が床をこすり、腕が空気を切る音がする。「地面が割れて、黒い太陽が出現する」。言葉が肉体であり、肉体が言葉であることを証明しなければならない。何もないテーブルに黒い太陽が昇る。テーブルの上には黒い太陽が置かれている。リュートがそれを宿すより先に、言葉をこの太陽で焦がさねばならない。この太陽とはひとつの此性でありこの世である。

 テーブルはない。何もないテーブルすらない。だがやはりテーブルの上には何もない。黒い太陽が出現する。舞踏家は仕事中である。


 笠井が叫ぶ。女性ダンサーの最初は黒の衣装の黒田育世。黒いチュチュ、ブラックバード。鳥が殺しにやってきたのだろうか。鳥の言葉をしゃべる聖フランチェスコはまだここにはいない。いや、そもそも男などお呼びではなかった。操り人形のように、糸に引かれるように舞台の奥から登場したこの女性は、次第に大地母神の使いか、デルポイの狂った巫女のように見えてくる。根太い怒りの予言が唱えられる。ぶつぶつ呟かれる。言葉はなしで。口にされた言葉は消える。この大地が強力なものであることにかわりはない。空間は鷲掴みにされる。黒鳥、猛禽類、黒焦げの大地。われわれが最近経験した太陽の怒り。ラフマニノフの音楽が始まる…。



 黒田と入れ替わるのは寺田みさこである。衣装は裸体を思わせる。骨格と化した機械仕掛けのディアーナ。最初は、昆虫の手足、それが突然優美な手足となる。完璧な佇まい。踊り子とは、ドガの絵から飛び出したり、ルノアール描くところの、女の子のように振り返ったあの裸の背中を見せた男の子のように見えるものなのだろうか。水浴びしていたディアーナは優雅な裸体を見られてしまったのである。黒田のソロダンスの後、もう一度水色のドレスを纏った寺田が登場する。空気の精のような、あるいは軽い水のような動き。オフェリア。水には陽が上から差し込み、水泡ははじけ、水底はゆらゆらと揺らめいている。

 黒田と寺田の戦い。バレー・リュジール。バレーが遠くで轟く。対照的な二人はほんとうに素晴らしい。クラシカルに互いが互いを否定し、それから肯定する。ブラックバードと水の精。振付け師とダンサーたち、笠井叡の「振付け関係」はこの時点ですでに感動的な成功をおさめたのだということがわかる。


 上村なおかと森下真樹のデュオ。南米のサボテン。音楽はアルフレット・シュニトケ。南米は、突如、ワイマール共和国のユダヤ人共同体となるのだろうか。カフカの家のように、小さな家々。空間が区分けされる。踊りながら、動きながら、言葉が発せられる。「・・・サボテン・・・」。熱帯の亀。黒髪と金髪。ダンスは、突然、物語の切れ端を見せ始める。だが物語は始まることも終わることもない。「物語はもうなしだ」。ポップな反古典主義。



 白河直子。長く細い手足が不思議な直線と大きな飛び散る曲線を描く。長い裾のドレス。現代絵画のような肉体の大きな動き。額縁がいたるところに落ちている。われわれは絵を見たことがあっただろうか。予測不能な動きのなかで、空間は回転し、見えない汗が飛び散り、何かが放出される。逆光の中に浮かび上がるのはルシファーでもリリトでもない。深さのある、そのことを知らせにやって来る空間は、おおきく息をせざるを得ない。



 山田せつ子。白い衣装の人形が歩いてくる。歩くことはダンスであり…。子供が歩くのは…。遊んでいるのは…。プラハのユダヤ人共同体の外縁はどこで消えるのか。子供が応答する。今度は、ほぼドイツ表現主義の映画だ。カリガリ博士はいくつもの分身を必要としていたではないか。再び笠井叡が登場する。表現主義的デュオが演じられる。空間は縮み、積み木のようなものとなり、幾筋かのライトに照らされる。荒い粒子は縞模様を作り出すかもしれない。歩行はこれまた目には見えない荒い粒子を舞い上げる。



 暗転。六人の女性ダンサーたちが再び登場し、踊り、跳躍し、倒れ伏す。

 舞踏会はこれで終しまい、と思いきや、突然赤い垂れ幕が落ちて来る。ドラッグクィーンの笠井叡! 悪い冗談のように、君たちの物語をぶち壊すように、彼はやって来る。彼はやって来る。トランス系の音楽に身をよじって。失礼ながら、私は笑ってしまった。笠井さんの茶目っ気はいまなお健在である。
 「すべての被造物を通して、自己愛の無知の眠りに、深く沈んでいる神よ、願わくば、読者がこの錯乱と矛盾と悪意とに充ちた、「地球」という名の「獄舎」に幽閉されている一徒刑囚の哀歌に惑わされぬよう、彼等をして、聖霊によりて正しき道につかせ、やがて来るべき、あなたのその傲慢な眠りの覚める、薄明の光の淵まで導き、至福に充ちたその光の中へ彼等を解き放ち給わんことを」、と、そんな風に若き笠井叡はロートレアモンのように大著『天使論』を始めたのだった。


 舞踏会が終わった後、なんとなく京都が落ち着かず、夜も更けて、神戸の友人のバーに戻った。少し飲んでから、一緒に公演を見に行ったHも疲れて帰った。彼らと彼女たちも帰った。バーにはその主人と客ひとりになった。テーブルには何もなかった。夜の二時半をまわった。行こうか? すぐ近くの地下に若者の(?)クラブがある。彼と一緒に、ステッキをついて、踊りに行った(ほんとうはわれわれの音楽ユニットのライブのためにひそかに箱の下見を兼ねてのことでもあったのだが…)。

 踊りになんて行くのはほんとに久しぶり。テーブルにはやはり何もない。笠井さんに当てられた。舞踏会は素晴らしかった。今宵は荒れ模様。音楽はラフマニノフではないが、まあ、DJのクラブ・ミュージックもいいさ。


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第61回 2015年4月


                                        
                                        
                          ある公演中止の余白に

                                        
                                        
                                                                        鈴木創士


                                        


ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還




 私もかかわっている、結城一糸率いる江戸糸あやつり人形座による芝居『分身残酷劇 カリガリ博士』が、ここでみなさんに詳らかにする気にもなれない理由で、急遽中止になりました。青天の霹靂というか、どちらかといえば寝耳に水という感じでしたが、ハムレットが耳に毒水を流し込んだのさ、などと嘯いて知らんぷりを決め込んでいることができればいいけれど、そんな恰好の良いものではありません。芝居は今年の九月に東京の高円寺で上演の予定でした。
 

 すでに原作脚本:鈴木創士、演出・上演台本:才目謙二、人形演出:結城一糸、音楽:佐藤薫+BANANA-UG、舞台美術:島次郎、照明:斉藤茂雄、音響:幸田和真、人形・衣装:小林ともえが決定していて、もうこんな時期なのだから、言うまでもなく私の脚本もとっくに出来上がっていました。
 俳優陣はといえば、十貫寺梅軒、笛田宇一郎、木下智恵、吉田朋弘、人形遣いは、結城一糸、結城民子、結城敬太、結城栄、金子展尚、他が決まっていたし、私自身、若い頃に見に行っていた状況劇場の役者だったあの梅軒さんにもお目にかかることができて喜んでいました。演出家と音楽家は私の友人であるし、本はできたし、後は高みの見物、人形、俳優、演出、音楽、舞台美術、等々、さあ、お手並み拝見という気楽な立場になるはずでした。




 こんなことになったのはあまりに突然のことで、その経緯をここに書くつもりはありません。勿論、人形座、演出家、俳優、音楽家、その他私も含めて、このまま終わらせるつもりは毛頭なく、来年の上演実現に向けて、新しい形態も含めた模索がまもなく開始されるはずです。そうしなければならないのです。
 

 それにしても、なぜ分身残酷劇「カリガリ博士」なのでしょうか。なぜなら、と言うことはできません。この場合は、作品の説明など阿呆のすることだと言いたいのではありませんが、たとえそもそも作品というものが恐らく半分以上は批評でできているとしても、上演も出版もされてもいない自分の作品を批評したり解説したりする気になどなれませんし、そういう芸当については能力も忍耐も私にはもともと完全に欠如しているからです。もし「カリガリ博士」の脚本をまだ書いていなくて、もともと書く気もなく、それがまったくの幻、でっち上げの架空の作品であれば、ボルヘスのように、ありもしない本について言及することはできるでしょうが、いまは悠長にそんな話をしている場合ではないことはわかっています(その代わりと言っては何ですが、この戯曲のための趣意書めいたものがあるのでそれを後で掲載しておくことにします)。
 

 だが、どうしてロベルト・ウィーネの無声映画『カリガリ博士』に登場するカリガリとチェザーレのイメージが必要だったのでしょう。ジャン・ルイ・シェフェールが『映画を見に行く普通の男』の冒頭で言っていたように、私にとってこの映画が、映画が始まると世界が不意に一種の無時間のなかに消えてしまう、そのような映画の最たるものだったからです。






 無時間と時間の間でそれこそ一瞬にして事物と身体の縮尺が狂ってしまう。たとえ映画が時間の芸術だとしても、記憶をめぐる何かしらがそこから派生し、延長され、ワープするにしても、私にとっては、そこから映画のなかの新しい時間が始まるわけではありませんでした。そうではなくて、事はただイマージュのさまざまな出現、出現の仕方だけにかかわるのです。この事態のもつ貧しさ、唐突さは一種の原動力です。カリガリのドイツ表現主義風イメージの超越性は私にとってそれほど強烈だった、としか言いようがないのです。私はそれに対して愛情すら覚えているのですから。
 勿論、私の戯曲が、アントナン・アルトーの影響のもとに書かれていることは認めざるを得ません。それが目に見える形かどうかは別問題ですし、アルトーが色んなことをいままで私に教えてくれたわけでもないですが、それでもアルトーは私の梯子を急に外したりし続けてきました。私は墜落を楽しんでいたのでしょうか。そんなことはあり得ない!
 

 それはそうと、私はカリガリのイメージを「自身の身体なのに僕自身には見ることのできない部分のように」(シェフェール)用いた、というか用いるつもりで、ある無手勝流の使用法を戯曲のなかに解き放ってみたくなったのかもしれないですが、いずれにしろこの映画からは、カリガリに限らずとも、「分身」のイメージが最初からふんだんに発散されていて、それを黒い太陽の見えない光線のように、つまり何かの固定されたイメージ群とイメージ自体がもつ時間の反映を穴だらけにするように、浴びないわけにはいかなかったのです。分身という、光への回帰を果たせない者たち。遅れてやって来たのか、先にいたのかわからない者たち。このほの暗い影の底を、世界の断片が、叫びが通り過ぎ、言葉、すでにわけのわからぬものとなったそれらの言葉、誰のものとも知れぬ、どこから来たのかもわからぬ言葉が、その底にひらひらと舞い落ち、積み重なって、腐り果ててでも繰り返し誰かの口から再び発せられることになるかもしれない……と。そのためには、そしていくつもの声がそれぞれ語り始めるには、戯曲が必要だったのです。

                                      *

                      分身残酷劇「カリガリ博士」趣意書

 始めにあったのは、そして始めから終わりまで度し難く居座り続けるのは、ロベルト・ウィーネ監督による映画『カリガリ博士』の、突飛としか言いようのない、いまでも色褪せることのないイマージュ群である。ヴェルナー・クラウスによって演じられたカリガリ博士、コンラート・ファイトによって演じられた夢遊病者チェザーレの完全無欠のイマージュである。そして、言うまでもなく、アルフレート・クービン、ヘルマン・ヴァルム等によるドイツ表現主義風の舞台美術、映画内における、つまりスクリーンの内側に、ボール紙の黒いお日様もかくやと思われる、エドガー・アラン・ポーの黒猫さながらに塗り込められた書割りである。それらは一種の謎の光源から射す影のように機能した。これらの美術的効果はカリガリとチェザーレの全存在、全イマージュの一部をなしている。
 

 舞台という現実のなかに大股で侵入するこれらの実現された幻影は、すでにして決定的である。劇場の闇と同じように暗いわれわれの脳髄のなかのスピーカーは、記憶に頼らずともそんな風にわれわれの耳元でわめいているのだし、大声で教えを垂れにかかっている。いかにしてカリガリ博士は、三角形の家、歪んで閉じたままの扉を出たり入ったりするのか。いかにして箱のなかのチェザーレの恐慌(パニック)は、蓋も閉まらない棺桶に憧れるのか。世界が、われわれの世界が、20世紀初頭このかた斜めに傾いているのであれば、いかにしてさらに傾き続ける一本道を、糸巻きオドラデクの断末魔のきりきり舞いのように、迷宮のなかの眩暈がするほど急傾斜した細道をよたよたと行けばいいのか。ねじ曲げられ、ばらばらにされ、崩壊し、へしゃげた幾何学は、われわれの舞台のために何を語るのか。それらをついでに見てみなければならないのである。
 

 とはいえカール・マイヤーとハンス・ヤノウィッツの原作脚本も、フィリッツ・ラングによって後に手直しされた脚本も、もはや部分的にしか、いや、まったく問題とはならない。語られた物語は、すでにカリガリとチェザーレというこれら二人の登場人物のイマージュの片側だけを反射する残骸にすぎない。反射されたイマージュの光は、われわれの散漫さのあまりズタズタになってしまった世界の散文にも似た断片の上に映し出されるだけである。そしてこの映画をめぐって後にドイツで巻き起こった論争、カリガリがヒトラーのような人物であるかどうか、などということにわれわれがほとんど関心がないことはあえて言うまでもない。ヒトラー自身も人類の歴史の死んだ傀儡(くぐつ)にすぎないからであり、一方、カリガリは、ご存知のとおり、フィルムのなかで永久に動き回り、生き続け、そしてわれわれ自身は崩壊後の、断片化された後の世界をいまも生きているからである。
 

 すでにカーニヴァルはおひらきだ。引き潮の後に舞台は成立するかもしれない。地面の上には紙屑しか落ちてはいないけれど、まだ風くらいは吹いているだろう。少しの仕草、大仰でギクシャクとした身振り、そこには天地創造にも比すべきものがある。カリガリ博士と夢遊病者チェザーレは殺人を犯したのだろうか。カリガリは薄闇のなかに血がほとばしるのを、ほんとうに笑いながらチェザーレと一緒に見ていたのか。カリガリはチェザーレを愛しているのか。チェザーレはカリガリを憎んでいるのか。カリガリの、チェザーレのからだは何でできているのか。なぜガリガリでなければならないはずのカリガリが太っていて、なぜ箱のなかでじっとしているチェザーレが痩せているのか。カリガリが診察室のなかでひそかにチェザーレを食っているからなのか。
 夢遊病者などというのは仮の姿である。ではチェザーレのからだは煙でできているとでもいうのか。そもそも、ここはどこなのか。夢遊病者が夜を彷徨う人であれば、彼は黒焦げになった回文のようにそこをぐるぐると廻り続けているだけであり、夜が、暗闇の囁く文章が、チェザーレを生かしているのである。カリガリ博士は狂人なのか。精神科医とはどこの鼠のことなのか。カリガリが機関車の運転手であってもバナナの叩き売りであっても自転車乗りであっても私はいっこうに困らない。診察室のなかでは博士の愛情の末路などどこ吹く風。人に裁きを下す墓場に愛などない。観客に愛がないように…。おっと、話題を変えよう。
 では、どうして映画のなかのカリガリはメタ・レヴェルの物語をすいすいと泳いでゆくのに、夢遊病者チェザーレはチェザーレのままで居続けることができるのか。実のところ彼はとっくに死んでいるのかもしれない。舞台に構造はない。構造は構造が降り立った街路のものだということになっている。少なくとも舞台の上では映画のように階層的幻覚を一瞬のうちに実現することはできない。積み重ねられたメタ・レヴェルは一巡して元に戻るだけである。そのことはわかっている。
 もう物語はなしだ、と20世紀フランスのさる前衛作家が言っていたが、そのことに私も同意しよう。物語はもうなしだ。あるのは、さっきも言ったように、イマージュを反射する散文の黒焦げになった残骸だけである。だが厚顔無恥な物語はいつまでもしぶとく強靭である。物語はわれわれと同じように始めから破綻していたはずだというのに、いったい何が起こっているというのか。物語というこの化物は、別の物語の末路を装いながら、向こうに見える洞窟のように真っ黒い口を空けてわれわれの方をじっと見ているだけである。
 

 カリガリ博士とチェザーレ。彼らは一種の「概念人物」、人物としての「概念」に成りおおせることができるのか。舞台は物体でできているのだから、映画風のイマージュなどと言っても何も始まらないのは承知の上である。われわれが行うのは演劇なのだから、映画のイマージュはちぐはぐな身体を得て、ここ、舞台の上で立ち往生しなければならない。映画のイマージュ? いや、ほんとうのことを言えば、そのようなものはどれも映画のイマージュですらない。私がここで言っているイマージュは、物理的意味においての、時たま光で出来ているようにも見える身体イマージュでしかない。演劇や美術、そしてそもそも映画は、それを偽装し、仮構するものなのか。それは嘘っぱちなのか。数々の留保がつくとはいえ、勿論、そうではない。われわれは喜んでそうではないと考えるほうに賭けることができる。なぜなら現実のなかで汗し、愛し、あくせくし、あくびし、あそび、あやまちを犯し、それでいて現実を手玉に取っていると、丘の上の阿呆のように思い込んでいる愛すべきもしくは憎むべき実在のわれわれ自身もまた、イマージュで出来ているからである。
 

 そのことを最も哲学的に語るのは、あやつり人形自身の確固たる存在である。これは厄介であると同時に、喜ばしいことである。とりわけここでわれわれはそう考えることができる。儚い存在であるのは、その消息を風さえも知らないのは、そして砂まみれの、切れてしまいそうな一本のアリアドネの糸すらもはや手に握りしめていないのは、残念ながらわれわれの方である。一本の糸、無数の糸。重要なのはそれである。演出家と脚本家は途方に暮れざるを得ない。どこのどいつが無責任にそう言っているのか。大変なことになったものだ。あやつり人形は誰に操られているのか。操っているつもりの人形遣いを操っているのはいったい誰なのか。むしろ黒子に結わえられた見えない糸は誰に握られているのか。人形になのか。役者になのか。
 操り人形と黒子の関係は分身と分身の関係である。分身が分身を操っていたのか。分身と分身の関係に主人は介在することができない。ところで、主人はどこかにいるのだろうか。よくよく考えてみなければならない。私は私と出会うことはできない。少なくとも四六時中は。私が死んでも、私の中にいるあいつは死なないのと同じことである。舞台の外にまで広がる茫洋としたこの空き地にいるのは、結局のところ分身だけではないのか。生身の役者はどうなのか。彼はほんとうに生身などと言えるのか。彼の声は分身の声ではないのか。分身はかりそめのからだを持つだけだとしたら、役者もまた同じことではないのか。
 だから舞台の上であれどこであれ、神出鬼没であるはずの顕現としての身体は、栄光の身体の奈落の淵で、すでに瀕死の状態に陥っている。だが、われわれがすべての本を読んだとしても(それは嘘だ)、肉は悲しんでばかりいるわけではない。そもそも人形は肉を持たないではないか。人形たちはそれを喜んでいたのか。悲しんでいたのか。そうであれば、人形が黒子となりかわり、役者とすりかわり、今度は彼らを演じ続けているとでもいうのか。じつに美しく、恐ろしい事態ではある。はたしてわれわれ自身が誰かによって演じられているのか。われわれが息をしているなら、息を吹き込まれたのなら、人形はどこで息をしていたのか。われわれだって?
 そんな風にわれわれに言っているのはじつは人形の方だったのである。霊的なプロンプターを装う黒子は黒子であることをいつやめるのか。彼はいったい誰に科白を大声で伝えていたのだろう。人形になのか? 役者になのか? そうであれば、蘇ってはみたものの瀕死のままである栄光の身体が操っているのは、人形遣いである黒子自身の、役者自身の、つまりわれわれ自身と観客の、どう見積もっても悲惨としか言いようのない身体なのだろうか。
 

 われわれの師であるアントナン・アルトーが言う「身体の橋」とは、ひとつの幻想などではない。形而上学ではない。この橋が、現実の大盤振舞いとして、アリアドネの糸のあえかな結び目として、揺るぎない公理として、まずは人形と役者のあいだにいかに架橋されるのかをじっくりと見てみようではないか

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  第60回 沈黙の破裂 - 2015.03.04

    第60回 2015年3月




                                沈黙の破裂



                                                                      
  鈴木創士




ギー・ドゥボール『スペクタクル社会についての注解』『映画に反対して 上
フィリップ・ソレルス『セリーヌ






 フランスの詩人ジャック・レダはいまでは散歩詩人などと呼ばれているが、私には、いまやガリマール社の重鎮もかくやと思わせるような、もっといかつくて過激なイメージがある。とはいえ、いいかげんなもので、かつて『アーメン』という初期の本も持っていたはずだが、きれいさっぱり、内容についてはまったく思い出せない。だが私であれ誰であれ、人が勝手に抱いているだけのことなのだから、詩人のイメージなどどうでもいい。思考のイメージがどうでもいいかと言えば、こちらのほうはなるほど複雑な思考の往来を含んでいて、『差異と反復』のドゥルーズの議論でも事がすっきり済むというわけではなく、一筋縄ではいかない。
 ところで、ジャック・レダが徒歩で、はたまたソレックス(フランスの原付、日本の原付よりもっと自転車に近い)に乗って、パリ市内や郊外をあちこち歩き回ったり走り回ったりしているのはたしからしいし、ジャズ評論を書いているのもほんとうである。だが誰が発したにしろ、これらの言葉には、そもそも詩人の言葉も足取りもそう軽いものであるはずはないのではないかと思わせるものがある、と言えばいいのだろうか。誰かも言っているように、と人ごとみたいに言ってはおくが、何と言えばいいのか、そう、そう、その軽さには軽さはないらしいというのが、その重さと深遠さにおいてほんとうのところなのだろう。
 もう大昔のことだが、フランスの友人がサン・ジェルマン・デ・プレのドゥー・マゴーとカフェ・フロールの間にあったラ・ユンヌという本屋に勤めていたことがあった。今年中にそのラ・ユンヌのサン・ジェルマン・デ・プレ店がなくなってしまうらしいので、彼に三行くらいのそっけないメールを書いた。妙な紫色の煙が漂うなか、君が美術書コーナーの机にふんぞり返っていたのを思い出すよ、などとわざわざ事務的な伝言をしたら、そんなパリのどうしようもない移り変わりや引っ越し事情についての三面記事などどうでもいいから、ジャック・ルーボーやジャック・レダやアラゴンやレオン・ポール・ファルグがパリについて書いた本があるのでそれを読めという主旨の返事が来た。ずっと会っていないとはいえ、私は彼のことをフランスの唯一の親友だと思っているが、彼がいま何をやっているのか、あるいは何もしていないのか、何も言わないので詳しくは知らない。このフランス人は当時、つまり若い頃から驚くほど知的な男で、ユーモアに溢れ、彼のくれる手紙やメールの文章はいまでもあまりに名文で格調高く読むのにかなり難渋する。つまり返事を書くにはいつもはるかにもっと難渋をきわめることになるわけである。それで思い立ってジャック・レダの『パリの廃墟』という散文詩集をぱらぱら読み返していたのだが、この本には堀江敏幸氏による日本語訳があるのだけれど、柄にもなく、冒頭の一節を自分でも翻訳してみたくなったのだ。無謀にもそのように思わせる本なのである。


 「冬の六時頃、ともすれば私は大通りの左手を下って、公園を通るのだが、椅子や小さな茂みにぶつかるのは、愛のように理解し難い空が近づいてきて、私の目をすっかり吸い込んでしまうからだ。ほとんど消えかかっているその色を説明することはできない。たぶんひどく暗いトルコ石だろうか、目に見えるものから逃れ去り、自らが覆いつくす魂を焼けるように熱く氷のように冷たいものに変えてしまう光をぎゅっと凝縮している。湖の上を物音ひとつたてずに雲の隊列が流れてゆく、物音ひとつたてずに。稲妻でさえ、もはや終りのないこの静寂の爆発ほどには人を驚かさないだろう。しかも嵐の照り返しがお菓子でできた家々を揺さぶり、もっと遠くで、舞台はいまにも吹っ飛びそうな火薬庫のように一点に集中する。いたるところに愛がある、その繊細さとその猛火の揺れのなかに。いたるところに枝々がある、耳には聞こえないこの夜の火をことほぐために。つぶさに見れば、それは鬱蒼たる樹々の塊から身をほどく薄暗がりであり、その暗がりは歌い、そこで消え入ろうとしているのだが、一番細い先端でつまずいて、高音のなかで壊れてしまう。私には頭のなかに同じ声があり、同じ単調な厚みがあるのだ」(「異端者の忍び足」)。



 この同じ高音、急に途切れて次第に忘れてしまう他はないこの単調な通奏低音のことは私にも覚えがある。耳鳴りが止まず、ある不在の厚みが広がっている。あるいはそこで突然、凝縮されたようにそれはひと塊となる。風が何かを、錆びついた何かの鉄を軋ませているのではない。あるかなきかの期待と忘却が、水に濡れた光り輝く緑にあふれた、あるいは灰色の、肝心の絵が消えてしまって額縁だけになった四つ辻で立ち止まり、そこにいつまでもわだかまっていただけではない。それはこちら側とあちら側で同時に起きている。いや、熱や汗や震えや肉体をもったこちら側と、肉体を離脱しそこから何事もなかったかのように立ち去ろうとしているあちら側だけがあるのではない。暗い穴。ひとつの暗い穴であるこちら側と、こちら側がもうないという証にすぎない、雲にぽっかりとあいた穴のまた穴のようなあちら側で、どう言えばいいのだろう、それは起こってさえいないのだ。

 静寂の、沈黙の爆発。
 そこでは雲の隊列が薔薇色や橙色の光を照り返しながら少しずつ形を変えて流れ去っただけではない。ついさっき明るい光が雲間から斜めに射したばかりだった。何も照らすことなく。雲の理論は理論にはならない。ドゥボールの回想録の嵐の記述やソレルスの五月革命の描写を思い出す。あの大騒乱のさなかのあの静寂。前日の夜には敷石を剥がされて、車も燃えていた、早朝の、ひとっ子一人いない、がらんとした通り。静寂だって? 矛盾しているじゃないか? でも、それはほんとうだったのだと著者たちは言っていた。だが煮え切らない夜の光だけがあるのではない。誰もいない。そして同じことを考えている人がいるかもしれないとしても、けっして同じことではないその事柄を忘れてはならない。言葉と行いの両方を穢してはならない。いまやすっかり陽は落ちている。


 別の日がある。坂を上りつめたところにもう人の住んでいない家屋があった。窓は全部壊れてなくなり、雨と風が容赦なく吹き込んだからだろうか、家はひどく傷んでしまっていた。かろうじて家とわかるくらいと言えば少し大げさになるが、中には知られざる目には見えない行きずりの住人がいるようで、家自体がそれでも生暖かい息をしているようだし、とても中に入る気にはなれなかった。
 その奥には林があった。樹々の影がぼんやりと明るいぎざぎざの円を描いていた。すぐ向こうは山の斜面というか、(たぶん)切り立った崖になっている。絶え間のない風のざわめき。鳥の鋭い声がする。私は影でてきたこの円のなかには入らない。私の連れていた黒犬がいつもとは違う様子で林の奥に向かってひどく吠え始めたからだ。吠え声はいきなり唸り声に変わる。紅い舌が見え、牙を出すかのように、唇はめくれ上がっている。犬に引き摺られるようにして、腐りかけの湿った落ち葉を踏みしめる。濡れ落ち葉はぐしゅっという鈍い音を立てている。
 やがて私の黒犬の鳴き声は悲痛な高音になった。犬を抱き寄せ、叱ってみてもどうにもならない。私もすぐに気配を察した。こんな場合は誰も画家にはなれないかもしれない。顔を上げてみると、向こうに半分白骨化した犬が立ち上がった姿勢でいるのが見えた。私の黒犬はこの死んだ野犬に向かって吠え続けている。きっとこの辺の林や森に出没する、痩せて人相の悪い鳥捕り爺さんが仕掛けた罠にかかってしまったのだ。首には針金の輪っかがくい込んで、きっと苦しかったのだろう、その野犬はもがくような姿勢で半分立ち上がったまま絶命していた。折れ曲がった前脚が見えた。嘘みたいに平穏を取り戻したかのように、何の臭いもしてはいなかった。抜けてしまった毛があたりに散乱して、胸と腹のあたりから灰色の骨が剥き出しになって見えている。皮膚の下で犬のからだの形態はゆるやかに崩れていた。ここは避難場所ではない。私の黒犬は無邪気にも仲間を弔うように悲しげな声で鳴き続けていた。黒犬のそんな声を聞いたのははじめてのことだった。


 別の日がある。冬枯れの林を後にして、広い坂道を降りて右手に入ると、もう家屋がどこにも見当たらない、かなり広大な敷地がある。雑草と大きな樹々が生い茂り、昭和13年の神戸の水害で流れ着いた巨大な岩がごろごろしているだけである。葉っぱを落とし、怒ったように大きく突っ立った木を見ていると、空が絶え間なく震え、空気が目のなかで振動しているように見える。見上げると空はだいぶ翳っている。空の地図は作成できないだろうし、空には背後があるかのようだ。表面のその裏側の表面があれば、背後があるのと同じことである。このあたりは案外古い土地らしく、近所には酒船岩らしき巨大な岩が地面から半分顔を出していた。一帯の山々には、文化財などには指定されない、縄文よりさらに古いに違いない巨石群が散り散りになって眠っているはずである。太古の酒船岩らしき岩に彫られた紛れもなく人工的な浅い穴には、時おり雨だれが溜まっていた。私はそれを急に思い出したように見に行ったが、ここの敷地の岩はどれも明らかに水害で流れてきた岩だった。岩は取り乱した時間など気にかけてはいなかった。




 この敷地の正面にはなぜか木の扉だけが残されている。扉には真鍮の把っ手がついていた。このドア・ノブをいくら回してみても、扉は容易には開かないが、扉以外に壁も何もないので、中(中?)に入ることはできる。この中という観念は面白かった。外なのだから。この世には何かしら目的というものがあったのだろうか、とふと思う。扉は歳月にさえ耐えているようで耐えてはいなかった。出たり入ったりするものはもうなかった。気のきいた物語はなかった。
 木の扉の周りには野薔薇やら蔓草やら雑草やらが生い茂り、扉にまで覆いかぶさっている。木の扉の中というか後ろには、錆びた鉄製の椅子が一脚打ち捨てられているだけで、岩以外にたぶん何もない。たぶん、と言うのは、あまりに雑草が生い茂り、野薔薇や木の枝がちくちく肌を刺すので、くまなく探索することなどとうてい無理だからだ。中があったとしても、虚ろな目で空を見上げる死者の目の残像以外にそこには何もないことはわかっていた。それに死者の見たものはとっくに風化して形骸すらとどめてはいない。雨が降っている日にはけっしてそこには行かないので、扉はいつもからからに乾いて乾燥していた。
 私はここにかつてどんな人が住んでいて、どんな生活をしていたかなどとは思い描かなかった。ここにはそんなに長い時間いることなどできない。舞台装置はない。早々に立ち去るべきだ。そこにほんとうに静けさがあったのかどうかは思い出せないが、ただ破裂寸前の沈黙の音がほんの少し聞こえただけである。抗うべきものなど何もなかった。
 

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                                                        第59回 2015年2月





                  ジュルジュ・バタイユと斬首の空景

                                                                             
                                        
                                                                     

鈴木創士




ジョルジュ・バタイユ 無神学大全 全三巻『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて
ジョルジュ・バタイユ他『無頭人(アセファル)
ミシェル・レリス『成熟の年齢』『闘牛鑑』『夜なき夜、昼なき昼



 ジョルジュ・バタイユの『有罪者』。「無神学大全」の一冊である。バタイユは「現下の災厄」という章を以下のように始めている。「現下の災厄」という、あるいはバタイユ風とも言えなくもない言葉に留意すべきである。タイトルの言葉にはそれなりの意味がある、とここであらためて断っておくべきなのだろうか。



                           ジョルジュ・バタイユ


 「第二の手記を、私は北フランスで戦闘の行われている最中に書きはじめる。理由を告げることはできない。ある不可解な必然が私にのしかかっている。私の中で、すべてが暴発し、角(かど)だち、凝集している。すべてが呪われている」。


 「あまりにも大きな、しかもうちつづく事件は、ついには沈黙へと追いやるだろう。私の文章は私から遠く離れてあるように思われる。つまり、そこには息切れが欠けているのだ。今、私は、ことばを失って口ごもりたいと思う。私は今ほどおのれに確信を持ったことはない。私にあっては、私の思考の輝きは、光のたわむれという形でしか、目を灼きつぶす隠密のたわむれという形でしか、私を残りなく表現することができない」。


 「あらゆる意志、待望、戒律、絆、燃えるような生の諸形式、それに不動産、それに国家、どれひとつとして、死に脅かされぬものはない。明日にも消えぬと言い切れるものはない。天の高みにまします神々も、その高みの台座から墜落する危険があろう。戦士が殺される危険があるのと変わりはないのだ。このことを理解し、また確信しつつも、私はべつに高笑いもしなければ恐怖することもない。大抵の場合、私の生は不在のままだ」。


 「かつてないほど遠くまで行きついて、昨夜私は、いっそう透徹した明晰さに手の届くような気がした。私は眠ることができなかった。それは辛いことだったが、また、失くしたものを見つけるような造作もないことでもあった。ものを失くせば私たちは苦しい思いをするが、見つかってしまえばもうそれは面白くもないのである。一日中、生は、私の中で堅固に、おのれを確信しつつ歩みつづけた。探していたことばをついに見つけたのだと考えても、それが私には空しいことと見えたのだ。心を無防備にするような単純さをそなえたそのことばを、私は容易にここに示すことができる。だが、それを見つけたと考えることは、私においては、交感と対立する想念なのだ。今、私は倦怠に捉えられ、勇気を挫かれている」(出口裕弘訳)。


 これらの言葉、苦悩をかすめ、あるいは苦悩に満ち、あるいは苦悩を嘲笑うようなアフォリズム風の手記を延々と引用し続けることはできる。でも私はジョルジュ・バタイユではない。久しぶりに繙(ひもと)いたこの本の幸運が、偶然が時間の擾乱のなかで持ち得たかもしれぬ、時宜にかなったささやかな僥倖を私に差し向けただけである。バタイユは息切れできないことに明らかに苦しんでいる。それが手に取るようにわかると言えば私のうぬぼれになるのだろうか。息切れができない。息切れしなくてはならない。何に、どんな風に息切れするのか。普通に考えれば、奇妙なことだ。ところで生の欠如がいたるところで幅をきかせていることは誰もが知っている。バタイユはそれがまさに自分のなかで、厳格この上ないと思われた自己統御のなかで起きていたことを知っている。それは自己の責任とは何の関係もない、と断るまでもないだろう。バタイユにとって息切れの欠如とは生の欠如と同じ状態を示しているが、バタイユ本人は少なくともそのことを不満に思い、その不満を根絶やしにしたいと考えている。書くことはそのためになされたのだろうか。あるいは、彼の同時代の詩人たちとは違って、書くことは、その痕跡を消し去ってしまうこと、その消滅を熱望することだったのだろうか。


 私には、これらのバタイユの文章について、なにか気の利いたコメントを付け加える気はさらさらない。私は無責任にこれらの文章を放っておく。別にこの引用でなくても、この本からなら別の文章を引いてもよかったのだから、むしろバタイユの文章のトーンを感じ取ってもらえればそれに越したことはない。わが国の大メディアで日々横行しているような、あまりに白痴的なまでに犯罪的なまでに浅薄で、あまりに悪臭紛々たるまでに軽々しい言葉をここにいま列挙する気にはなれなかったからだろうか。白痴的なまでに軽々しいことは、こと事実の見聞に関する限り、人を完全に小馬鹿にし、愚弄することであり、これ以上の不誠実はない。とはいえ、ここで、軽率にも、私はそれによって何かを言いたいのだということをそれとなくほのめかしているのだろうか。そうでもないし、そうではない。何も言うことはない(*注1)。ここでは、これらのバタイユの文章がたまたまそこにあったということを示すことができれば、それで十分なのである。


 バタイユは明らかになぜか偶然というものを恐れているが、偶然をぎりぎりのところで準備したもの、途上にある偶然を完全には廃棄しないまでも、偶然を結局のところ最後の最後に無に帰せしめた何かがあるように思われる。これらの引用はしたがってほぼ偶然の振舞いによるものであるが、それにもかかわらず言葉は、あらゆる期待に反して、そこでおのずと言われたのであるし、言われなければならなかったのだ。マルクスは言った(実際には、彼はこれをわざわざラテン語で書いた)、「私は言った、そしてわが魂を救った」、と。わが魂だって?
 大袈裟に言えば、その偶然とやらに関して、私はすでにシュルレアリストではないし、シュルレアリストたちにとっての、偶然性のそもそもの師匠であるかもしれないマラルメにもまた逆らっているのだと言えるのかもしれない。骰子(さいころ)の一擲(いってき)それ自体を生み出す行為は、偶然とは何の関係もないのである。それはすでに偶然が廃棄された後に現れるだろう。ところで、唐突ながら、偶然は果たして必然という死の死をも齎(もたら)すものなのだろうか。必然は偶然のからくりではないのだし、死に関して言えば、死が偶然をはからずも準備するのである。


 バタイユの『ドキュマン』の新訳(江澤健一郎訳)が文庫になったので、これまたずいぶん久しぶりに読み返してみた。「ドキュマン」とはドキュメント(参考資料、文書、文献)のことで、いろんな意味でかなり異様な、つまり誰ひとり自分たちの雑誌にはつけたがらないようなタイトルだが、バタイユが何人かの協力者とともにやっていた、ひとまずは学術雑誌である。創刊されたのは1929年だったが、参加したのは、美術や考古学や人類学のアカデミックな研究者たちだけではなかった。分野の異なる学者たち以外には、ミシェル・レリス、ロベール・デスノス、ジョルジュ・ランブール、ロジェ・ヴィトラック、ジャック・バロン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ、アレホ・カルペンティエル、ジャック・プレヴェール、レーモン・クノーなど、ほとんどがシュルレアリスム・グループからの離反者である作家や詩人たちがいた。
 当時、ドキュマン・グループはブルトン率いるシュルレアリスム・グループと鋭く対立したが、しかしこれは歴史の一エピソードであり、ありていに言って、いまとなっては大した意味はない。バタイユはブルトンと後に和解し、最後まで恐らくお互いウマが合わないながらも尊敬し合っていたような節があったし、ファシズムに対抗して政治的にも共闘したことがあった。それにブルトン対バタイユ、ブルトン対アルトー、等々、という何の危険もともなわない、日本の研究者たちが常套手段にしていたような子供じみた図式に昔から私は飽き飽きしているし、そんなことはどうでもいいのである。
 勿論、彼ら、バタイユやブルトンたちが大真面目ではなかったなどと言いたいのではないが、だいたいフランス人の思想家や作家たちの対立を、お行儀のよい日本の思想・文学研究者たちがおしなべて右に倣えするように、あまり深刻に受け取る必要などこれっぽっちもないと私は考えている。彼ら、フランス人たちはたいていはおしゃべりであり、これ見よがしの自己中心的な喧嘩好きであり、係争とも言えないようなあれこれの喧嘩沙汰も、たいがいがパリという狭い世界のなかで起きた、笑ってしまうようなエピソードにすぎないのだし、彼らはフランス革命から現在にいたるまで、しょっちゅう喧嘩と和解を繰り返しているのだから。
 その意味では、いつもとは違って、今回のフランスの漫画新聞社襲撃テロに抗議する何十万人もの全員一致のデモは別の意味で異様であり、希望も絶望もともにかなぐり捨てたかのような、無節操でインチキ臭い、愕然とするようなフランスの新たな光景だった。ましてや恐怖政治(テロル)、テロリズムという言葉と理念は、自由・平等・友愛の思想とまったく同じ時節に、つまりフランス革命のさなかに、イスラム過激派によってではなく、まさにフランス人によって発明されたのだからなおさらである。まるで平和のピクニックにでも行くかのように、デモのさなかに自由・平等・友愛を口にしている人たちが映像によって全世界に示されたのだから、それを指摘しておくくらいは別に非礼なことではあるまい。


 雑多さという点で非常に特徴的であり、抜きん出て秀逸としか言いようのないこの雑誌の第一号に、バタイユ自身の手になる「低次唯物論とグノーシス」という文章が掲載されている。
 「人々は、監獄が看守から生まれたのか、看守が監獄から生まれたのかを知ろうと大騒ぎしていた」。
 グノーシス主義はなにもキリスト教に特徴的な異端思想であるとは限らないようであるし、ゲルショム・ショーレムもユダヤのグノーシスについてどこかで語っていたくらいだから、その二元論的起源がマニ教にあるかどうかは別としても、支配的ギリシアの一元論に対する全面的闘争として存在したことだけは確からしい。それは宇宙(ユニヴァース)を強硬突破することであり、ヘレニズム文化と中東の政治的文化的混沌と軌を一にしていた。それは国際バロックの最初の坩堝ともいえる混沌だった。
 この世は悪の神である造物主デミウルゴスによって作られたものであり、魂は地上に失墜して物質となったと言われる。善なる神は遥か彼方に鎮座ましまし、魂はこの世というドロドロの汚穢のなかを転げ回り、悪の執政官アルコンによってすべての精神的物質的ネットワークが統治されることとなる。自律的にして積極的原理である低次元にある物質。悪の原理と悪の絶対的存在。というか物質的存在は低劣な悪によってしか考えることはできず、下劣なものに対しては、高級な原理は結局のところ何もできないのである。
 この物質は理性によってその究極を限界づけることはできないのであるし、要するに存在論を前提とするような、即自的な存在ではあり得ないのだから、したがってこのような唯物論からすれば、理性と存在はより低次のものにしか従属することはできない。低次唯物論とはそのような意味であり、弁証法的唯物論がそこから出発したヘーゲルの思想のなかにもこのような二元論があったのだ、とバタイユは言うのである。


 私の好きなグノーシス研究家であるアンリ=シャルル・ピュエシュはこの雑誌の執筆者のひとりでもあるのだが、彼の本『グノーシスを探して』に収録された「トマス福音書」から一節を翻訳しておこう。この「トマス福音書」は、エジプトで農夫によって土中から掘り出された壷のなかに入っていたパピルスで、『ナグ・ハマディ写本』と呼ばれる写本に含まれるグノーシス文書のひとつである。
 曰く、「イエスは言った。世界を知った者はひとつの死骸を見つけた、そしてひとつの死骸を見つけた者に、世界はふさわしくないのだ」。


                            ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』より

      
 かつては生きていた死骸、どん底まで落とされた死体を通して垣間見られた世界、同時にこのドロドロの汚物である世界といかなる関係を持てば、保てばよいのか。われわれは、自分たちのことを棚に上げて(江戸、京都、大坂で、斬首された首が晒しものにされ、並んでいたのはいつのことなのか。ギロチンを発明したのはどこの国なのか)、無数の死体からなるひとつの死骸を前にして、ひとつのジレンマに陥っているように思われる。死体を見出したのは誰なのか。私はかつての自分への反省をこめて言うのだが、世界はそもそも暴力に取り憑かれている。同様に、平和という「高級な」観念は無力であり、この際何の役にも立たない。この点に関して「低次唯物論とグノーシス」というこの不思議な論文のなかでバタイユはとても重要な指摘を行っていると思われる。
 「グノーシス主義者やマニ教徒がかつて暗黙のうちに観念論的視点を捨てたように、今日それを公然と捨て去るなら、悪による創造行為の結果を自分自身の生に見いだしていた人々の態度は、まさに根本的に楽観的に思える。悪そのものが神を前にして応える必要がなければ、まったく自由でありながら悪の虜になることができるのだ。執政官〔アルコン〕たちにすがったからといって、存在する事物が高級な権威に従属することが、心底から望まれたとは思えない——執政官はそのような権威を永遠なる獣性によって打ち砕くのである」。
 この視点を敷衍すべきなのだろうか。何に関して? さあ、さあ、私のコラムはここまでである。


 最後の余白に。この学術雑誌のなかに、本邦初訳の「空間」と題されたきわめて興味深いバタイユの文章があるので、それをこれ見よがしに引用しておく。これを紹介しない手はないし、なにしろこれは「辞書」の項目だそうなのである! ちなみに「空間」の他の執筆者はアルノー・タンデューとミシェル・レリスであった。
 「(…)残念ながら空間はならず者のままであり、それが生み出すものを数え上げるのは難しい。哲学者というパパが大いに絶望することだが、空間はひとが詐欺師であるように不連続なのだ。
 さらに、職業ゆえであれ暇ゆえであれ、当惑してであれ笑おうとしてであれ、しがらみのない度し難いものの振る舞いに興味を抱く人々に、思い出させなければ悔やむことになろう。すなわち、恥じらいをもって背けたわれわれの目の前で、いかに空間がお決まりの連続性を断ち切るかということを。理由を述べることはできないが、女装した雄猿が空間の分割にほかならないとは思われていないのだ。実際に、空間の威厳はかくも確かに確立され、星々の威厳と関係しているため、空間は他の魚を食べる魚になることもできると主張するのは非常識である。何人かの絶望的に不条理な黒人が行う秘儀伝授のおぞましい儀礼、等々といった形を空間が帯びると言えば、さらに空間は恐ろしく失望を招くだろう。
 もちろん空間は、自分の義務を果たして、教授たちのアパルトマンで哲学的観念を生み出すほうがはるかに良いだろう!
 教授たちを監獄に閉じ込めて空間とは何かを教える(たとえば、彼らがいる独房の格子窓の前で、壁が崩壊する日に)などということは、とうぜん誰にも思いつかないことであろう。」(『ドキュマン』)



* 注1  ここでは何も言うことがないのだが、最近少しだけ言ったことがあるので、わが国の政治に関して私のTwitterからあえてここに転写しておこう。

 
  テロリズムは戦争行為なのだから、テレビで皆が言っていたように、イスラム国がただの追剥ぎなどとは甚だしい考え違いだということがはっきりしたということだろ。親イスラエル国家を歴訪して悦に入っていた安倍がいくらテロリズムを非難しても全くの無意味。安倍の馬鹿政権ども、これが戦争なんだよ!

 
  (続き)全てがパレスチナ問題に端を発していることを、案の定、日本が十字軍と名指しされていることをどう考えているのか。国際平和? 安倍はイスラムと戦う「大義」を持っているんだろうな。西側諸国、フランスやイギリスやアメリカ人には、何百年に亘る一神教の長く暗い歴史があることを忘れるな。

 
  (続き)従って人質の危険が迫っていた時にイギリスの首相と電話会談など笑止千万を通り越している。馬鹿もここに極まれりではすまないが、それにしても戦争やりたくてうずうずしている情けない安倍の名だたる極右取り巻きも、政治に関しても戦争に関してもドシロウトだったことが白日の下に露見した。

 
  なんべんも繰り返すが、だからこそわれわれの友人である坂口安吾が言っていたのだ。「戦争はバカかキチガイがやるものだ」と。戦争、すべての戦争は宗教戦争である。バタイユは、我々は度し難いまでに宗教的であると言っていたが、その通りだ。俺にごちゃごちゃ言ってくるネトウヨ、さあ反論してみろ!


  日本の右翼もご多分に洩れず極端に劣化したものだ。安倍の取巻や女性閣僚や補佐官や屁右翼テレビタレントを見ていると本当に寒気がしてくる。戦犯になった大川周明はそれがどうであれかつてイスラム教やコーランを研究しろと言っていたはずだ。イスラム学の泰斗井筒俊彦氏はその影響を受けたはずだ。

 
  ノマド的戦争機械がいかに「国家」に対抗し得るのかを我々はすでにドゥルーズ・ガタリによって知っていたのではないのか。国家が国家と認めないものこそが国家に対抗する。イスラム国のテロリズムは戦争の一形態でしかない。安倍と屁右翼の取り巻きどもよ、何度も言うがこれが君達の好きな戦争なのだ。
 
  https://twitter.com/sosodesumus

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  第58回 仮面の生涯 - 2015.01.04

第58回 2015年1月




                                仮面の生涯




                                                                        鈴木創士





澤野雅樹『数の怪物、記号の魔





                    作者不詳「イナゴの禍い」(サン・スヴェール修道院ベアトゥス黙示録注解)


 「たぶん〔経験機械〕の利用者は難問を突きつけられている。彼らが自分の思い通りになる人生を経験すればするほど、彼の人生そのものは機械の思い通りになってしまう。コードに繋がれた人間家畜は、むしろ日陰に生えた苔であり、ぬるま湯に浸かったタブラ・ラサと呼ぶのが相応しい。バロウズ翁だけは「クソ野郎」と呼ぶ。クソ野郎には人生がない。」(澤野雅樹「仮面の生涯を命名する」)
 ぬるま湯に浸かったタブラ・ラサ(白紙還元)というのは高級官僚の白痴状態のようでもあり、なかなか無様ではあるが、まあ、そんなことはどうでもよい。


                                      *


 クソ野郎には人生がない。
 もうひとつだけ澤野氏の文章から孫引きを。「〈私〉とか〈彼〉とかは部分を持たないと言った方が良いかと思います。なぜなら同じ実体もしくは自然学的な〈自我〉が実在的に保存されると言いますし、またそれは正しいのですが、しかし事物の厳密な真理にしたがって言えば、部分を失って全体が保存されると言うことはできないからです。それに物体的部分を持つものは絶えずそれを失わないわけにはいかないですから」(ライプニッツ『人間知性新論』)。
 ライプニッツはドゥンス・スコトゥスやデテキントを読まなかったのだろうか。デデキントは無理にしても、部分が全体と同型だということもある。しかしながら、臓器をひとつ失ったくらいでは人はなかなか死なない。一方、薔薇の刺が人差し指に刺さっただけで、死ぬ人もいる。だが人というのは何のことであるのか。生命なのか、生なのか、人生なのか、人格なのか、顔なのか、身体なのか、はたまた出来そこないの自我なのか、歴史の通時性にあいた穴なのか。それとも心? 魂?
 古代エジプト人は、霊魂は七つあると信じていたらしい。つまりこれらの霊魂のなかには最高位の魂があって、それはレンと呼ばれていて、「秘められた名前」を意味するそうである。この秘められた名前が君たちの映画のタイトルである、とウィリアム・バロウズは言う。君たちが死ぬとき、今度はこのレンが(目には見えない煉瓦の角石のように)登場するのだ、と。映画とはよく言ったものだ。バロウズは心得ている。動き回る分身イマージュ。だがこのイマージュに対して、何を、どう命名すれば良いのか。「指示」されたものは支持されなかったものである。秘められ、忙殺された私事のようにも見えるあらゆる指示、そしてこの指示による、この指示それ自体がつくり出す同一性。しかしそんなものはただの見てくれにすぎないのである。幾人もの俳優には幾つもの名前がある。それは唯名論の言う「犬なるものは存在しない、この世にはこの犬、あの犬しかいないのさ、すなわちポチであり、コロであり、太郎であり、ガブリエルであり、ミカエルであり…」と同じような事態を指しているのだろうか。だがその幾つもの名前のどれひとつとして魂の命名として重要なものはないはずだ。名前も千年くらいはもつかもしれない。終末論は千年を単位とする。だが一万年なら? それらはすべて忘れ去られる宿命にある。


                                      *

                                        

 朝からぼんやり空欄を見つめていた。新聞の空欄だったのだろうか。新聞に空欄などない。見つめていたなどと言うのは言い過ぎだ。彼は何にも見ていなかった。青色を見るときのように、目の焦点が合っていなかった。戯れに、いや、彼は別に戯れてなんかいなかったが、何度かひんがら目をやってみた。白目と言うくらいだから、瞳の周囲にも空欄があって、そいつが見ているのである。最も波長の短い色はしたがって空間をつくり出す。ぼんやりと、即座に、ガランとした広大な場所を。
 われわれは月のなだらかな丘の上にいる。向こうのほうに地球が浮かんでいる。暗黒のなかを太陽が昇り始める。見ていると、少しずつ少しずつ地球に陽が射し始める直前である。あたりがぼんやりと明るくなる。すべては微かなブルーのなかに存在し始める。色彩とは空間の謂いである(フランスの哲学者の書いた美術論であるカルパッチョ論にそうあった)。セザンヌは、色彩とは脳と出来事が出会う場所だと言っていた。この素晴らしい画家の言葉にしては、何という言い草だろう。だがさしあたりここでは色彩は関係ない。
 青はほとんど色ですらない。何かがぼんやりと存在していたのだ。そんな感じである。病院の窓から雪が降るのが見えた。このあたりはめったに雪が降らないのだから、昨日はとても寒かった。強い風がときおり唸り声を上げていた。元旦の深夜には、神社のトンド焼きの灰が車のボンネットに雪のように舞い落ちていた。目の端に白いものがちらついていた。雪ではない。彼などいない。空欄が俺を見ていた。


 ホテルのような病院のデイ・ルームからはよく雲が見える。140年前に元々フランチェスコ派がつくったらしいこの病院は高台にある。元をただせば、何しろドゥンス・スコトゥスやウィリアム・オッカムのいた派閥だぜ。隆起した土地。隆起した化石。余談だが、化石堀りは少年時代の武勇譚である。隆起して固体化し、蒸発して気化する前に、その周囲を人が映画のコマ送りのように動き回ることになった蜜蝋のような精神(たしかにフーコーとデリダは狂気をめぐって、デカルトをデカルトとは別のものにした)。精神は何の役にも立たない刻印である。署名したまえ。魂に署名したまえ。映画のひとコマのように。この署名はきっと読んだ端からすべて忘れ去られるだろう。それは忘れられた。これでおしまい。雲のように。さっきから広い窓からアンドレア・マンテーニャの描く雲を探していたのだが、見つからない。はじめから狂っているとしたら、どうなのか。コギトは発狂し、「私」は発狂などしない。今はそんなことはどうでもいい。ルネッサンスは完璧な狂気のなかにある。することが何もない。私が入院しているわけではないので、することもないし、何かをされることもないのだ。病んだ通行人がいる。病気は見出されたものなのか。もともと病気であるわれわれは何をどう命名するのか。名づけ親であったのは実は肉体のほうだったということだってある。優しい病人たち、優しい看護人たち。どうしようもない病人たち。雲を眺める。空調はいつも息苦しい。私は思考を集中させない。チャクラは閉じたままだが、からだは穴だらけなのである。顔のような雲。いや、雲のような顔、雲のような横顔、雲のような体。雲のような馬車、雲のような鬣(たてがみ)


                                                                                              マンテーニャ「磔刑」



 生涯の映画はずっと続いている。誰も死んではいないからである。ここ、人が死ぬ病院でさえ。ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』の最後のほうに出て来たように、登場人物がオペラでも歌い始めることができればまだいいほうだ。主題は悲劇であっても、喜劇で終わる感じが少しはするからだ。混乱は倍加したり収束したりする。退廃にはたぶん複雑な意味がある。あっちにはヨーロッパ映画があり……。だがここのところフロイトもラカンもちっとも読む気が起こらない。その暇もない。ジォットがかつてアッシジの聖フランチェスコ教会に描いた「聖フランチェスコの死と昇天」というフレスコ画には悪魔が描かれているらしい。全然たいした話じゃないが、右側の天使の足下にある雲のなかに、角を生やした悪魔の顔が。アナロジーの遊びをやろうとしているのではない。ここの静かな高台の雲のなかには悪魔を見つけることはできなかった。黄色く反射する雲、たぶん死者たちの住まう、それでも古くて新しい都市がある。朝の光に薔薇色に染まるネクロポリスだと言いたいんだろ。そこで蠢くもの。あれは人間の姿だったのか。彼がいなくても物語そのものが失われることはない。「事件は誰のものでもないが、運命は必ず誰かの人生なのである」。だがここには、この病院には、経験というものがない。もう一度、雲を見る。龍が首をもたげて背伸びしたまま崩れて流れて行く。アジアの龍はやがて見えなくなり、消えてしまう。


                                      *


 隣の和尚が穴子の押し寿司があるから食いに来いと言う。そんな置き手紙が玄関にそっと置いてあった。いつものやり口である。玄関など冥途に送ってやる。和尚はハデスの前に引ったてられて右往左往するだろう。俺は天気予報を見て、雨が降らないことを確かめてから、その手には乗るもんか乗るもんかと心のなかで反芻した。たいがいこいつの誘いは噓に決まっているのである。この手の話にだまされて、隣を訪ねてみると、誰もいないお御堂で線香の煙が立ち上っているだけなのである。猫が座布団の上で寝ている。穴子のかわりに鰻が供えてあることなどまったくない。ふざけるな。一杯食わされて、のこのこ出かけて行った日には、俺は怒りのあまりお経の本を縁側に持って来て、蛇腹のようにぱらぱらめくっては、そいつを延びたアコーディオンのように投げたり、引いたり、鳩がその上にフンをするのをじっと待っている。おっと、これには時間がかかりすぎて、家に戻っても仕事ができないことは承知の上だ。和尚は上田という。承知の上田。鳩はくぅーくぅーいってばかりではない。上手い具合にお経の上にフンを落とすこともある。その類いの僥倖にはスキっとする。我鳩に感謝するが故に我在り、などとは言うまい。俺はその程度のものさ。鳩はスペイン語でラ・パロマというらしい。今日は、いつものごとく腹が立ったに決まっているので、声のなかには声の形骸があり、そのなかで俺はわめきたいだけわめいた。しかし美声が台無しになるのでやめた。声亡き民である。うんこをしながらオペラを歌わねばならない悲しみの蒼氓がいる、と口癖のように言う奴がいる。
 和尚のところに行くのはやめて、手首を見ると、爪で引っ掻いた傷があった。血液非凝固剤を服用しているので、血が革のコートにまで滲んでいた。十二月の暮れも押し迫った頃、誰かが殴りかかってきたのだ。怒鳴り声が聞こえたような気もする。椅子が投げられた。コートが宙を舞う。わが父だったのか。わが父ピエロと言える日が来るのだろうか。気狂いピエロめ、親孝行は三文の徳であり三文オペラである、と彼女は言う。みんな家族小説に関しては噓ばっかりデタラメばかり言っているようだ、とトーマス・ベルンハルトは言った。どいつもこいつも、自分のことだからな。そんなことは先刻承知の上である。父の否認、それをカフカ風にやる方法はあんまり当てにはできないし、ほんとうのことを言えば、そんなものは金輪際うまくいかないのかもしれない。たかが、ほんの秘密の父である。一時期カフカは愛読書だったが、みじめすぎる。減反の麻、いや、元旦の朝、頭を臓器移植するというアイデアについてテレビで激論が交わされていた。アマゾン河の近くでは、心臓だって神の食い物の時代があったくらいである。食い物の話ではないが、第一、テレビで食い物の話ばかりやっているのは下品だから大嫌いだが、そんなことより、おまえは誰ですか、ということになって、頭を取られた奴、頭を植え付けられた奴が、同じ女性を愛せるはずもないし、植え付けられた頭が「私」などと言った日には、誰が私ですか、私はどこにいるのですか、誰がしゃべっているのですか、などとややこしくてかなわないからである。存在しない地図のように双六を拡げた。お正月だからだ。文句あるか。噓をついた。双六など拡げてはいない。双六は意地汚い仮面のように金輪際存在できはしない。和尚の犬だってそのくらいのことは知っている。

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                                                          第57回 2014年12月


                       

一休さん、狂った雲を見る
                                        
                                        
                                                                      

  鈴木創士




一休宗純『狂雲集
石井恭二『正法眼蔵 覚え書』『花には香り 本には毒を』『心のアラベスク




 初秋、一休さんのお寺に行った。京田辺のなだらかな山あいにある酬恩庵一休寺である。もう夏が終わりかけていた。前日は台風、その日は台風一過の青空で、夕方になると肌寒いくらいの風が吹いていた。鎌倉時代が終わる頃、ここは戦火にかかり廃寺同然になっていたが、15世紀の半ば、一休禅師がかつての遺風を慕い、再興した。一休はここで示寂し、遺骨はそのままこの寺に葬られた。





 山門を入ってほどなくすると一休さんの墓所がある。学者のなかには一休宗純が後小松天皇の落とし胤であることに疑義を挟む人がいるようであるが、一休さん自身も父である帝のことを詩に詠んでいるし、この墓所がいまでも宮内庁の管轄になっていることからしても、一休皇胤(こういん)説が正しいことは明らかである。こんな取って付けたような懐疑を抱く御仁は、よほど心理的抑圧の強いヘボ学者かコンプレックスの塊りみたいなガリ勉パラノイアか何かなのだろうが、彼らが何を言おうが、べつにどうでもいいことである。一休さんはそんな学者の浅知恵などどれも歯牙にもかけなかったはずなのだから。このような人たちが一生懸命、学問とやらに奉じているのは、じつに微笑ましい平和な光景である。

 「一休は皇族の出自である。母方は南朝の藤原氏の血筋であるが、北朝の後小松天皇に仕え、側室として寵愛されて身ごもったことから周囲に妬まれ、彼女は南朝の刺客であり、天皇を殺そうと謀っていると讒言(ざんげん)する者がいて、宮廷から追放され、身分を庶民に落とされた。そして、一休は生まれた。人々は、知らなかったが、一休には、自ずと貴人の相が具わっていた」(石井恭二『一休和尚大全』)。

 だから墓所の枝を折ってはならぬ。鳥がくわえてきた枝であっても一本も盗んではならぬ。花一輪、粗末にしてはならぬ。たとえ石ころひとつでさえも、寂滅した一休和尚からかりに何かを取り上げたならば、乞食坊主のような一休には何も残らないのである。何も残らないのはわれわれの定めである。

 薪能をここに呑気に見にやって来たわれわれにも、心せよ、とこの小さな寺は伝えているようだった。心せよ、ここにはなにもないぞ。親切な寺の関係者が、煙草を吸える、観光客には立入り禁止の裏手の場所をこっそり教えてくれたので、そこへ煙草を吸いに行った。一休伝来の一休寺納豆という乙な酒のつまみ(?!)があるが、この裏手でちょうどそれが天日干しされ、まさに生産されている光景を垣間見ることができた。この一休寺納豆はどこででも売られているものではないので、貴重なスナップショットに出くわすことができたのである。半分に断ち切られたような樽がいくつか並んでいた。樽の上には屋根があった。屋根の上には暮れなずむ空があった。乙な光景であった。味噌のような、醤油漬けの新月のような芳醇な香りがあたりに漂っていた。匂いは禅風なのか、それとも一休の遺産なのか、わかるはずもない。香りもまた受け継ぐことのできるものだ。煙草を吸い終わると、くわばら、早々にそこを立ち去った。

 六歳のとき出家した一休さんは確かに賢い子供だったのだろう。漢詩をつくるのが上手かった。間違いなくその幼少時の詩才は、傑出していたあまり常軌を逸してしまった感がある後(のち)の生涯を準備した。アルチュール・ランボーと大差はない。これが美しい生涯と言えるものだったことに変わりはない。水飴だったか蜂蜜だったか、和尚さんの大事にしていた壷を小坊主一休が中味をきれいさっぱり空っぽにしたのは、その水飴だか蜂蜜だかが毒であり、毒だと言われたものだったからである。貴人が食する前には毒味をしなければならない。貴人とは誰か。後から毒を食らう者である。だが皿を食ったのは孤独な子供だった一休だったのである。

 しかしながら、一休さんイコールまるこめ味噌風の可愛い小坊主という図式は、日本の文化が長きにわたって一休の真の姿を隠蔽し続けてきた結果であったのではないかと思われる。入水自殺未遂を経験し、一身をもって名利を否定し、酒を浴びるほど飲み、女色を愛し、男色を好み、同じ臨済宗、あるいは曹洞宗の指導者たち、禅宗の俗物僧侶、偽善者どもに対する激しい批判を繰り返す。偽善者には今も昔も事欠かない。嵯峨野あたりだろうか、死体の山のそばで平気で飯を食らい、薬草に詳しく、民衆に愛され、ヒッピーのようでもあり、またそうでもなく、しかし傑僧はなんと八十一歳のとき大徳寺の住持を請われ、応仁の乱によって伽藍を焼失した荒れ寺を再興する。おまけに大徳寺に住むのが嫌だったからなのか、この酬恩庵一休寺から大徳寺まで、山越え、谷越え、遠い道のりを通ったというのである。半端ではない大変な道中も、一休さんにかかると近所にぶらりと出かける散歩みたいなものだったのだろうか。





 名利を捨てるなどと言うが、誰にもできはしないではないか。そしてついでに言っておけば、ゲスの勘繰りみたいに、名を捨てることはできる、利は捨てることはできる、したがって名に遊び、利に遊ぶことはできないが、色には遊ぶことができる、云々、などと呑気にどんな屁理屈を言おうとも、どうにもならないことはわかりきっている。

 一休は日本文化のひとつの正解である。問いはどこにでも転がっていて、広大な空白を形づくっている。空白も色々であるし、問いも様々である。空白は砂漠であり、そこには井戸が掘られていることもある。それにしても、凡百の解答などではなく正解であるというのは、なんとも清々しいことではないか。

 一休寺のなかに小さな墓地があった。一緒に行ったHは墓場に行くのを嫌がったので、ひとりでぼんやりしばらく墓を見回していた。そこには一休禅師の遺徳を慕ってこの寺に詣でたであろう能楽師や茶人の古い墓があるらしい。阿弥元重や元章や清興、寸松庵ら、名士と呼ばれる人たちの墓だそうだが、墓はどれも苔むし朽ちかけていて、誰のものがどれなのか墓泥棒にもわからない。
 そもそも墓には名士も糞もないのである。それが苔むしていれば、なおさら名士も糞もないように思えるのがまたおかしい。珍しいことではないが、この墓地からも何かしら死した者たちの主張めいたものがいまだに感ぜられ、不気味で、夕闇が迫れば鬼火でも出そうな風情であった。古びた墓はまだそれぞれが息をしているようだった。
 それに比べて、一休の墓所にはこの不気味さは微塵もない。ほんとうになかったのだ。一休の墓所は宮内庁によって立入り禁止になっているので、近くからは見ることができないが、離れてはいても、ここには余計なものが存在しないということくらいはわかった。だから枝一本取ってはならないのである。ならぬことなら信ぜよう。存在は本質に先行する。人は死してなお激しい違いを見せつける。あっぱれである。
 一休は死んだ。いつの日か私も死ぬ。君もまたいつかは逝ってしまう。たぶん一休の亡骸はただの土くれ、ただの塵に還ったのであろう。だから良しとしなければならぬ。俺はしばしそのことを強く思った。

    定中、借問す、死耶(や)生や、
    娑婆に来往し、何似生(かじせい)
    我に截流(せつる)の手段没(しゅとんな)し、
    精魂、此の地に三生を弄す。
    
                 (石井恭二氏による現代語訳を付しておく。以下同様)
    禅定のなかの国師に伺います、
     死んだのでしょうか生きているのでしょうか
    釈迦のように娑婆世界を何度も往来なさっているのでしょうね、
     いかがですか。
    私には煩悩を断ち切る工夫はございません。
    この娑婆で、前世、現世、後世を生きているのです。
    
 あるいはまた、

    大死底(だいしち)の人、心は塊土、
    元来、是れ灯籠(とうろう)露柱(ろしゅ)
    変易(へんにやく)、分段は、只任他(さもあらばあれ)
    新月、黄昏、五更の雨。
    
    大往生した人でも、心は土塊にすぎず、
    もともと、灯籠や露柱と同じだ。
    変易生死とか分段生死とか、聖者の生死と凡夫の生死を
     別にするけれど、そんなことはほうっておこう、
    夕方に三日月が見えたと思えば、夜明け前には雨が降り出した。

 一休の引用はすべて『狂雲集』からである。

 一休、七十七歳の頃、恐らく当時、三十歳くらいであったと思われる遊芸人、森女(モリガールではない)と出会う。盲目の美女の舞いは美しく、歌は艶やかであった。森女は一休を慕い、一休を頼って身を寄せる。一休宗純の恋である。

      婬水
    夢に迷ふ、上苑美人の森(しん)
    枕上の梅花、花の信(たより)の心。
    口に満つる清き香、清浅の水、
    黄昏の月色、新吟を奈(いかん)せん。
    
      美人の陰(いん)、水仙花の香(かをり)有り
    楚台、応(まさ)に望むべし、
     更に応に攀づべし
    夜半、玉床、愁夢の間。
    
      婬水
    夢の中でも、高貴な美人のお森に迷う、
    枕元の梅の花は、花の便りの心を送ってくれる。
    口に浅く清らかな香りの婬水を含み、
    黄昏の月に照らされ、新しい詩をどう詠ったものか。
    
      美人の陰は、水仙花の香りがする
    楚々とした腰に口づけしよう、
     もっと抱きしめて愛おしもう、
    夜半の褥に、夢のような愁いの顔がある。

 森女もまた一休を敬愛した。その証拠に、一休没後の十三回忌、三十三回忌の法要に、身分の違ったであろう彼女自ら大徳寺に参詣し、銭五百文と百文の布施をなしたことが「真珠庵文書」に記されているからである。一休が死んで三十三年後のことである。このことはどうでもいいことではないではないか。一休は森女を愛した。かつて出会った頃の一休の歳に近づいた盲目の森女もまた一休を変わらず崇敬し、慕った。森女はずっと一休を映す鏡であった。私はこの禅宗の歴史の一コマにいたく感動する。
                                   


 夜遅く京都に戻った。帰る道すがら、Hと喧嘩になった。「闕滅の娑婆、事々乖(そむ)く」。出来損ないのこの世では、なにもかもがうまくゆかない。一休さんもそう言っている。

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  第56回 心臓抜き - 2014.11.04

                                                          第56回 2014年11月




心臓抜き



                                             「雨が降るときには何もすることがない」。
                                                  ボリス・ヴィアン『心臓抜き』




                                                                        鈴木創士




ロートレアモン『マルドロールの歌
ギー・ドゥボール『スペクタクル社会についての注解』『映画に反対して 上
石井恭二『心のアラベスク』『花には香り 本には毒を』『正法眼蔵 覚え書




 窓を開けると、小鳥がさかんに鳴いている。いまだ鳥たちの命は取られていない。まだ山の上は鼠色の雲がぼんやり垂れ込めているが、半分空は青色をのぞかせ、雨は上がっていた。
 昨夜は突然のものすごい豪雨だった。鶏頭が倒され、芭蕉を破った。だが見たわけではない。鶏頭も芭蕉も萩も近くにはないし、植物の乱れた姿を見るのは決まって朝である。秋の夜の激しい驟雨は、場末の誰もいない古びた映画館で、一人っきりで恐怖映画を見ているように不気味だった。深夜を過ぎた頃、カーテン越しに稲妻が走り、雷鳴が轟いた。珍しくすぐに眠ってしまったので、それがどのくらい続いていたのかはわからない。昼の間じゅう沼のなかにいるように心臓の調子が悪かったが、それで泥のような眠りにつくことができたのかもしれない。鯉は泥を吐き出したのだ。すごい雷鳴だった。近くに雷が落ちたのだろうか。

嵐の国のことだった。それはまず音もなく忍び寄るのだった。嵐の到来は、草のなかをざわざわと伝っていく一陣の風、あるいはひとしきり水平線が急に明るく照らされることによって告げられた。つづいてそれは雷鳴と稲妻を猛り狂わせたが、雷はこうして長い間、そして包囲された砦にいるかのように、われわれを四方八方から砲撃するのだった。ただ一度だけ、夜、外で、雷が私のそばに落ちるのを見たことがある。それがどこを直撃したのかわかりさえしない。思いがけない一瞬の間、風景がひとしなみに照らし出される。芸術のなかには、この永遠の炸裂の印象を与えるように見えたものは何ひとつない。


 こんな風に語るのは19世紀のロマン派ではない。20世紀の革命的思想家であり映画監督のギー・ドゥボールである。ドゥボールのきわめて格調高い回想録『頌辞』からの引用である。「全生涯を通じて、私が見たのは、混乱した時代、社会における極限の分裂、とてつもない破壊だけであった。私はこれらの騒乱に加わったのだ」という文章から始まるこの傲岸不遜な回想録は、私の知る限り、いままで書かれた最も美しい回想録のひとつであると思う。ところで、ここからは、私もまたこれらの騒乱に加わったのだ、という誰のものともいえない別の声が聞こえてくるのだろうか…。そうではあるのだが、そうであるはずなのだが、これらの文章の冷淡さは同時にそれを拒否するかのようでもある。ドゥボールは「スペクタクルの社会」に反対したが、それは厳密に言って、日常的次元も含めてすべてを拒否することだった。だがあえて言わせてもらおう。私もまたこれらの騒乱に加わったのだ。
 アルコールによる神経の病を患っていたドゥボールは、その後ピストル自殺を遂げた。病が脳にまで達することが(そうなる運命だった)思想家として許されなかったからなのだろう。この『頌辞』という本はなにも回想録とは銘打たれてはいなかったが、その筆致からして、回想録のように受け取らないでいることはしたがって難しかった。だがどうして革命家がお天気に敏感でいけないわけがあろう。
 永遠の炸裂の印象。なぜ永遠なのか。私には半分しかわからない。ドゥボールはひとつだけ例外があると言っていた。ロートレアモンが『ポエジー』のなかで用いたプログラム的陳述の散文がそれである。いまにいたるまで、この『ポエジー』の、作者自身にとっても矛盾に満ちたプログラムの射程を正確に測った者は誰もいないのだから、そう言えないこともない。ドゥボールはマラルメの白い頁もマレーヴィチの白い四角形もそんな炸裂の印象を与えるものではなかったとつけ加えている。これは当然のことだとうなずけるが、どうしてドゥボールがこんな例を挙げたのか真意のほどはわからない。彼のそばにたまたまマラルメの詩集とマレーヴィチの画集があったのだろうか。


                                               ウィリアム・ターナー『嵐』


 先日、台風が迫っていた日、私は病院で長い時間を過ごしていた。心臓の手術に立会ったのである。付き添い人である私もまた人並みにからだの具合が悪いので、お天気にはいささか敏感である。空調は息苦しい。そこは海沿いだったので、水面に浮かぶように新鮮な空気を求めて外に出てみると、さらに風が強くなっていた。時おりばらばらと横殴りの雨が窓を打ちつけている。埋立ての造成地に申し訳みたいに植えられた木が大きく揺れている。外は嵐の気配でも、待合室はひっそりと静まり返っていた。外と内は隔絶されていた。死があたりをうろついていた。
 その前日のことだが、ある集まりで著名な作家画家姉妹の興ざめするような家族小説に接して、別段、特別に人に期待などしないのだが、それでもあまりの思いがけない期待外れに少し愕然として、翌日は早くから病院に行かねばならないし、あまり眠っていなかった。そしてそれは私にとってどうでもいいようなことなのだが、あっさりとどうでもいいとも言えないような嫌な気分のするひとつの回答でもあったので、遅い時間からウイスキー壜を半分空にしたし、朝も早かったので、頭がぼけて、目の前は大きなガラス窓だったし、空っぽの水槽のなかにいるみたいだった。


 「手術台の上でのミシンと蝙蝠傘の不意の出会いのように美しい」。このロートレアモンのイメージは超現実的なものではなく、文字通りに受け取ったほうがいいと思っている。ところで、手術に立会ったといっても、手術室のなかにいたわけではないし、手術台の上で胸を切開されて、ミシンと蝙蝠傘に出会っていたのは、ともかく私ではない。本日の、と但し書きがついた日替わりメニューのような不意の出会い、空中を飛び交うミシンと蝙蝠傘の幻影の最たるものは、その日は、病院のなか、とりわけ手術室のなかにこそそのままの形であったはずである。もちろんミシンと蝙蝠傘の不意の出会いの化身であるナジャのような面会人がお見舞いにやって来るということではない。
 待合室には冷たい手術室の荘厳さはない。待合室ではミサは聞こえない。あたりに死がうろついてはいるのだけれど、私がその日やったことといえば、日曜日だったので誰もいない待合室で、自分の所在のなさと時計の針が進むのを無意味に見つめていただけだった。私は座ったり寝転んだりしていた。私は何もしていなかった。次から次へと無為の空気の精が漂ってきて、そのあと無為の精は次から次へと消えていった。無為は死さえをも受け付けない。八時間に及ぶ大手術だった。地球は勝手に自転していた。


 心臓が外に取り出され、心臓は停止させられる。なんという手品だろう。心臓は電気エネルギーで動いているのだから、これはやはり近代的な手品なのだろう。それとも心臓抜きはババ抜きの一種なのだろうか。人工心肺につながれた身体は、昏睡の向こう岸で、どんな生命の夢を、はたまた死の勇み足を目撃しているのだろう。眠りのなかで死との邂逅は起きるのだろうか。きっと起きるはずである。だが生物学的生命は、果たしてほんとうに人の死と何らかの関係を持っているのか。生命の持続、生命の終り、死の到来、等々は、われわれがそう信じているように、ほんとうにひとつの出来事のなかにあるのだろうか。生と死は同じものの別の様態である、などということがあり得るのだろうか。別の系列、あるいは別々の諸系列があるのではないのか。
 死は到来するのか。蘇生は始まるのか。その兆候を即座に知らせてくれる者はいない。ドゥルーズの言い方を借りれば、この場合、シーニュは、シーニュを捕まえる、つまり自分を捕まえるただの蜘蛛みたいなものである。蜘蛛は銀色の糸の上でじっとしたまま動かない。だが肉体のへりにまで、この蜘蛛によって、目には見えない、耳には聞こえない知らせがなぜか伝えられる。一か八か。裏か表か。蜘蛛の巣に引っかかった獲物のぴくっとした動きを察知しないのか、したのか。それは、シーニュの神秘的な一種の条件反射、あるいは時間に向かって、それに逆らって吠え立てるパブロフの分身犬である。だがそれがどんな風に伝えられたのかはやはり誰にもわからない。
 この知らせがもたらす事の顛末は、肉体のへりにまで届けられた一種の謎の手紙の存在を示してもいる。だがほんとうに手紙自体が存在したのか。何かが書かれていたのか。それは投函されたのか。蜘蛛が兆候を察知し、兆候そのものになろうとも、やはりどう考えても郵便配達夫の蜘蛛はいないし、手紙の文面は真っ白で、宛名はたぶん鉛筆で書かれている。すぐに消しゴムで消すことができるように。


 心臓という臓器を抜き取られた身体は、あらゆる機器、チューブ、電極に連結されている。だが器官のない身体はそこで身動きしないまま動いている連結管だった。個体は機能しない。解剖学的身体はいつも仮死状態にあるか、あるいは死体であるかのどちらかである。ルネッサンス以来、死のイメージは解剖学的身体のなかにある。
 メスの先端が美しい直線を描きつつあった。平行線は瞬時に肉体のへりで交わるだろう。素晴らしい技芸。執刀医の交感神経の緊張はほとんど肉体の物理的限界を越えていたに違いないし、大勢の医師たち、看護師たちのシルエットは残酷人形劇のようにほとんど半透明と化していたはずだ。影絵芝居はスクリーンの反対側から見られ、ヴェーダ哲学で言うアートマン(真我と訳されることもある)は、肉も骨も切開されて表面だらけになった患者というオートマトン(自動人形)の目には見えない深さ、つまりあの「深淵」をただ示していただけなのかもしれない。
 それ自体が分身かもしれないアートマンによって、そしてアートマンが存在したかもしれないというまさにそのことによって、すべては幻影の系列に置かれたのである。そうでしかあり得ないのだ。そしてさらに別の幻影の系列が次々に生み出される。それには機械や器具が混じっている。ミシンと蝙蝠傘もである。手術台の上の飛び道具だ。


 心臓が取り出された後、心はどこにあったのだろう。心という字は心臓の形を表しているし、心と心臓が同じ言葉であるのは、古今東西変わりはないようだが、ある著名な国語辞典には、心は臓器であると述べられているらしい。しかしこれは常識的に言っても完全に間違っている。心が臓器であると信じている人がいたらお目にかかりたい。心と心臓は同じでありながら、同じものと見なされながらも、同時に心は臓器ではない。心は器官ではない。では心は器官なき身体の一部あるいは全体なのだろうか。まるで見てきた嘘のように、真部分集合は全体の集合と相似形になったのだろうか。そのような身体を構想できたときにはじめて、心を投影しない心、心を生み出しはしない心が存在し始めるかもしれないと考えることも出来る。そうだとすれば、これは結局のところきわめて量子力学的な考え方であるのかもしれない。だがそうはいっても…。それでも私にはよくわからない、そうアートマンが呟いているような気もする。いや、そう呟いているのは、アートマンではなく私のほうである。


 釈迦はどう言っているのだろう。石井恭二によれば、「心はみな心ではない、それは心に作り出すのだ。作り出された心は刹那に変幻する。過去の心の流れはとらえようがなく、現在の心の流れはとらえようがなく、未来の心の流れはとらえようがない」。石井氏はまた『心のアラベスク』にこんな風にも書いている、


  しかしまた心は、ぎざぎざな裂け目や、何でも通り抜ける穴のあいた破れ袋である。(…)
 自己は知覚の総合であって、現在の心は過去に亘り未来に亘る。現在は刻々と過去になり、未来は刻々と現在となる。そうした「時」を我と言い今と言う。
 われわれは、愚図々々していても常に直下の今を生きている。先の念仏僧安楽は河原に斬られた。あの女性たちは山野に白骨を晒したかもしれないが、死生の狭間に連なる今を生きたのだろう。

 

 何でも通り抜ける穴のあいた肉の破れ袋は、からだに戻された。ぎざぎざの裂け目はこうして再び有機的統合の要となったと人は言うのだろうか。だがいずれにしても、ここからまたぞろ生きた幻影が日常のなかに繰り出すことは間違いないだろう。瀕死の患者は目覚め、オートマトンもやがて昏睡から覚めて、アートマンは何事もなかったかのようにどこかに雲隠れしてしまうだろう。いまはただそう願わずにはいられない。それがさしあたっての自動人形の流儀だからなのか、ただ時間を引き延ばす錯覚を抱くことにすぎないのかどうかは自分でもよくわからないのだが…。


 医師から手術は成功したと告げられた。ギリシア悲劇の詩人アイスキュロスは、鷲の落とした亀が頭に当たって即死した。人は簡単に死んでしまうし、簡単には死なない。手術を終えた医師は、蒼ざめたまま上気しているように見えたが、その説明は明晰で熱っぽかった。彼らは大変な仕事を終えてきたのだ。彼らもまた水面に顔を出し、息を吸い込んだ。医師は完全にハイの状態にあるように見えた。イヴニング・ハイ。モーニング・ハイ。人が陶酔するのは朝だけではなかった。
 「陶酔のささやかな不眠の夜よ、たとえおまえたちが俺たちに授けてくれた仮面のためにすぎなくても、おまえは神聖なのだ! 俺たちはおまえを肯定する、方法よ!」(「陶酔の朝」)、ランボーはそう言っている。

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第55回 2014年10月

 



            哲学者はひとつの生を終えることが出来るのか





                                                                        鈴木創士

 



前田英樹「在るものの魅惑
アンドレ・ベルノルド「ベケットの友情
鈴木創士「魔法使いの弟子

 



 前田英樹はドゥルーズ生前最後の文章についてこんな風に書いている。「ドゥルーズが死ぬ一ヶ月ばかり前に、『フィロゾフィ』誌に発表された彼の最後の論文を読んだ人は、多かれ少なかれ呆れただろう。「内在性、ひとつの生…」と題された四ページばかりのこの論文ほど、いきなり始まり、いきなり終わった哲学論文はない。このことを、たとえば彼の健康状態や突然の死に結びつけて、何か意味ありげに嘆いてみたり、神妙になったりすることは、言うまでもなく間違いである。確かに、この論文は遺書めいているが、自分が哲学で果たし終えた仕事を、これほど見事に徹底的に要約した文章が、遺書のように現れてこないことはむずかしいのだ」(「ドゥルーズの哲学遺書」)。


 「超越論的な場とは何か? それがひとつの客体に差し向けられもせず、ひとつの主体に属しもしない限りにおいて、経験からは区別される」(後に『狂人の二つの体制』に収録)。こんな文章からいきなりぶっきらぼうに始まる、ある意味で異形の論文を『哲学』誌(レ・エディシォン・ド・ミニュイ刊)で最初に目にしたとき、私は何かしら異様な感覚にとらえられた。正直言って、そのときまで私は20世紀に書かれた哲学論文を読んでこれほど感動したことはなかった。細部にいたるまですべてを理解したわけではないのに、とにかく感動したのである。この投げやりさ、この率直さ、晴天の青空のようなこの単純さと清々しさ。ドゥルーズが重い病気を患っていたことは知っていた。だがここにはとんでもない晴朗さと呼べるものがあった。



                                             五月革命。右から二人目がドゥルーズ。左端はソレルス。

 なるほど私は今に至るまで哲学的体系それ自体にほとんど何の興味も抱かされたことはないのだし、哲学的思弁の構築という大伽藍からはいつも門前払いをくらい、締め出されているように感じている門外漢にとって、ドゥルーズが哲学者として自分の仕事をこれほど見事に最後に要約してみせたらしいこと、そのこと自体に感動したわけではなかった。私は門のなかに入れもしないのだし、ろくな返答もできない、いい加減で、おまけに感じの悪い門番に何かを尋ねることも絶対にやりたくはなかった。だからひとりで門の周辺をただうろうろするばかりだったのだから、哲学的要約がそもそもどのようなものであるのかも、哲学としての最後の仕事の意味もまったく理解不能なのである。だが前田氏が言うように、私にもドゥルーズが最後まで仕事をやり終えたように感じることができたのはほんとうである。とはいえ、「仕事」というのはいったい何のことだろう。


 この論文の文章に接して、私はひとりの哲学者が最後の時に臨んできわめて美しい「最後の文章」を書いているとしか言いようのない印象を抱いた。それを唖然とするくらいの簡潔さでもって書いてしまったのだ、と。実際、私はこの論文を読みながら、シャトーブリアンのこれまた最後の本『ランセの生涯』のもつ簡潔さとスピード(簡潔さはリズムを産み出すものであって、それ故ある種の速度をもたざるを得ない)に似たようなものを感じ取っていたのも確かである。シャトーブリアンのこの本はさまざまな現代作家にひそかに無視できない衝撃を与えたと私は考えているが、必ずしもそういうことではない。だがシャトーブリアンのことはこの際どうでもいい。それよりも、ついでに言うなら、最後の時に臨んでこれが書けたということ、ひとりの哲学者がこんな風に書いてしまったということ…。内在性とひとつの生について…。それはかくあれかしという点ではきわめて尋常なことに思えるが、別の観点からすれば、そしてわれわれの知識とやらのくだらない現状からすれば、異様であるし並外れたことなのである。
 結論を言えば、私は、最良の意味で、ドゥルーズという哲学者は作家であったと思ったのである(ロラン・バルトに倣ってecrivainではなくecrivantと言ってもいいかもしれない)。むろん職業的作家という意味ではない。へぼ作家や、はたまたすぐれた技芸を持つ文章家を何よりも指しているのだとでも最近は言いたくなる作家のなかの作家を意味するわけでもない。単に、そう、単に、ものを書く人間という意味である。哲学の側からすれば、哲学者の書くものが数式であっても論理学記号であっても構わないのだし、別に作家である必要などいっこうにないことはわかっている。だが妙な言い方ではあるが、古代ギリシアの幾人かの哲学者たち、ニーチェやパスカル、その他わずかな例外を除けば、どのような哲学者の文章に接しても、彼がものを書いているように思えたことは今までほとんどなかった…


 飛び石を飛び越えるように、ドゥルーズの達したこれほどの簡潔さ…。達した、などと言うのは言い過ぎかもしれない。これは時間的な比喩であって、同時にそうではない。勿論、この簡潔さは、簡潔さのバロックと呼んでもかまわないような複雑さをその類型自体を形づくる要素としているのだろうし、それがこれほどの現れ方をするには、簡潔さの裏地が複雑に縫い取られていることくらい簡単に想像がつくというものだ。だがこの簡潔さは複雑さのなかにあるのではないし、複雑さのなかにある、もしくは複雑さそのものの有する、要約でも概略でも、あるいは一致でも統合でもない。ドゥルーズが、「絶対的内在性はそれ自体のうちにある。何かのなかや、何か〈に〉あるのではない、それはひとつの客体に依存しないし、ひとつの主体に帰属しない。スピノザにおいては、内在性は実体〈に〉あるのではなく、実体と諸様態が内在性のなかにあるのだ」とこの論文のなかで述べているように、複雑さ、複雑さを形づくる諸様態のほうこそがこの簡潔さのなかにあるのだ。そうとしか言えないのである。


 だから私にはこの論文、これらの文章全体がひとつの内在性のように見えて来ざるを得なかった。おまけにドゥルーズはその内在性を「ひとつの生」であると言うのである。これはまったき秘密の提示である。哲学者が秘密をあっけらかんとして開陳してみせる。この秘密は醸成されたものなのだろうか。それとも火山の噴石のように落ちてきたものなのだろうか。何という勇気だろう。いや、勇気などたいしたことではない。おまけにこの秘密は名だたる哲学者に限らず、誰にも解けていない謎そのものの方程式の一端であり全体なのだから、ドゥルーズにはドゥルーズ自身にとってすらひとつの謎が残されたのである。文は内在性である。ひとつの生は内在性である。文はひとつの生であり、ひとつの生のなかにあるのではなく、文の諸様態のほうがひとつの生を含んでいる。そんなことはしばしば起こることではないし、へぼ作家や流行作家にはまったく理解できないことである。その意味では、これらの文章は、あらゆる文章の意味の上位にあるひとつのまとまり、単一性、統一性としての何らかのもの、何らかの客体にも、それをドゥルーズと呼ぶにしろそうでないにしろ、ここで語られた事物の綜合を行う、あるいはすでに行ったと見なされる行為としてのひとつの主体にも、送り返すことはできないのだと言いたくなる。誰が書いているのか。ひとつの生である。何が語っているのか。ひとつの生である。最晩年のドゥルーズが書いているということは確かながら、そのこと自体を超出してしまうもの、そのこと自体から結局はズレてしまうもの…。静かな不一致、衝突、不和、軋轢、乖離、分離…がおのずから自らのうちで起こり、しかもそれは一種の「至福」を示して余りある。だが、そうは言っても、これを書いたのはジル・ドゥルーズその人であって…。


 ドゥルーズはこの内在性をわざわざ「ひとつの生 UNE VIE」と大文字で書いている。ひとつの内在性がただのひとつの生とはニュアンスを異とする、事物の位階においてもカテゴリーにおいても同じものであり、価値としてもたぶん似たようなものでありながら、だがただのひとつの生とは呼んでしまうこともまたできない、諸々の個体的な本質とは異なる、「ひとつの生」であるとすれば、この大文字は、それが「生活」にも、経験を前提とした「個体的な生」にも、生物学的な「生命」にもそのまま関係づけることはできないということを含意するのだろう。だが、ここでは否定を重ねることでしか、そうではないのだが、まるで偶然のように不定冠詞を冠せられたこの「ひとつの生」を定義できないというのだろうか。生活から洩れ出す生活であり、個体的な生を逸脱する個体的な本質、つまるところが特異な本質、すなわちひとつの特異性であり、生命を超出する前生命的なものがあるのだろうか…。勿論、言うまでもない、あるのだ。純粋な内在性。「それは生への内在ではなく、いかなるもののうちにもない生に内在するものが、それ自体ひとつの生なのである。ひとつの生とは内在の内在、絶対的な内在性である。それは力能、完全なる至福である」。あえて強調しておくが、それは至福なのであり、ドゥルーズのこの論文のなかで結論めいたことはこの一節だけにあるのではないかとすら考えてしまう。そしてこの至福は「傷」をも先在させるのである。


 この論文で通りすがりに参照されている哲学者は、ベルクソン、サルトル、フィヒテ、スピノザ、メーヌ・ド・ビラン、フッサールだけである。ベルクソンとサルトルとフッサールは主に超越論的な場と意識の関わりにおいて引き合いに出されていて、しかも意識など、意識されたものなど、ひとつの生にとって何ほどのものでもないと言うためである。ドゥルーズの言い方を借りれば、世界は誰もが知っているように、主体と客体からつくりだされているのではなく、あえて言うなら、問題となっているのは超越論的経験論と言う他はないものであると言うためである。「超越論的な場と意識の関係は単に権利上のものである。意識がひとつの事実となるのは、ただひとつの主体がその客体と同時に産出され、両者が場の外にあり、〈超越的なもの〉のように現れる場合だけである。反対に、意識が、いたるところに拡散する無限の速度で超越論的な場を横切る限り、意識を明らかにすることができるものは何もない」、ドゥルーズはそんな風に釘を刺している。
 そういうわけだから、ここで肯定的に引き合いに出されている哲学者はスピノザとフィヒテとメーヌ・ド・ビランくらいである。スピノザはいいとして、フィヒテとメーヌ・ド・ビラン? ドゥルーズを読んできた読者にとっても、これには唖然とさせられるのではないか。だからと言って文学その他が問題になっているわけではないが、これはもはや哲学など、哲学史のなかにある哲学などどうでもいいと最後に言うためではないのか。勿論、そうである。私はそう断言することができる。


 この論文が前述の雑誌に発表されたのは、1995年9月のはじめである。ドゥルーズが窓から身を投げたのは同じ年の11月4日だったのだから、私がこの文章を読んだのはその死のひと月前くらいということになるだろう。私がこのエッセイを書いているのは今であるから、すでにドゥルーズの自殺の報を知っていてそんなすべてを承知した上であるということになるのだし、こんな風に書くと嘘みたいに思えるかもしれないが、最初にこの文章を読んだとき、ドゥルーズはもう死ぬのだろうと思ったのは確かである。死ぬという言い方は強すぎるかもしれないが、このような論文を書けるのは、勿論このような論文を書いた人は他にいないのだが、ひとつの生がその終局を迎えたからである、と。前田氏が言うとおり、この文章がだから遺言のように見えないのはむずかしのだ、と。でも遺書であるかどうかは別段とりたてて言うほどのことでもないかもしれない。この場に及んで、ドゥルーズが後世の者たちにあえて何かを伝えようとしたともまた思えないからである。それよりも、どこかで、いつか、ひとつの生が終わったのだ、と…。われわれはそれを読むことになったのだ、と。しかもそれをすぐれた哲学者が書いたのだ、と。言うまでもなく私は、ここで、この論文の内容と彼の自殺をむすびつけて嘆いてみせたり、神妙になったりしているのではない。すでに述べてきたように、私は哲学者に対しても哲学に対しても何の信仰も持たないのであるし、したがって何の敬虔さも持ち合わせてはいないのである。
 さらに思い出す限りでは、ドゥルーズの自殺はいわゆる自殺とは少し趣を異とするのではないかという感慨を抱いたのも確かだ。彼は肺か呼吸器のひどい病気だったらしいから、酸素吸入器その他の煩わしさは想像に難くない。病気そのものではなく、病気に付随してくるあれこれは、ほんとうに人をうんざりさせる。ドゥルーズは生物学的な生命をその意味では自ら停止させようとして、事実、停止させた。その段ではこの自殺は生物学的な自殺にすぎないようにも思えた。ところで、生物学的な死はひとつの生にとって全面的な死と言えるのだろうか。このような論文を書くことによって生を終えるということは、実際、ひとつの生がすでに終わる、単に寿命が尽きるということを意味しているだけではないのか、と。どのように死のうと、死の意味は別のところにある。ヘルダーリンが言うように、死もまたひとつの生であるのか。それは知り得ないことであるかもしれないが、他の生だけではなく死をもそこに含むものこそ、ひとつの生なのではないか。ひとつの生が終わる。それはひとつの生の力能であるかもしれないのである。


 私は「ロマン主義的魂」がどのようなものであるのか、どのような結末を迎えることになっているのかよくは知らないが、このような私の物言いがロマン主義的に見えようが見えまいが別にどうということはない。昨今ではロマン主義をことさらに否認することが常套手段になっているが、そう言ったからといって、彼らが何かたいしたことを言っているとは到底思ってはいない。それは「世論」のひとつにすぎない。興味本位で聞いてみたいところではあるが、いったい彼らは何のためにそう言っているのだろう。むしろこのような否定の心情も信条も恥ずかしくなるほど他愛のないものであり、つまらない自分の恐怖症を言い立てる大人子供のように、ロマン主義者であることよりもはるかに幼稚極まりないのだから、じつに取るに足りない論点である。そんなどうでもいい心理学的な小手先を弄するようなことにいそしんでいるだけではなく、もっと急いで言わなければならないことがあるのではないか。蛇足ながら、ついでにそんな風にも思うのである。


 話を元に戻そう。いまこの雑誌をぱらぱら読み返していて、気づいたことがある。この論文が、ドゥルーズがひとつの生を終えたことを証していると考えた者はどうやら私ひとりではなかったようである。『哲学』誌のこの第47号はドゥルーズ特集号になっていて、ドゥルーズの「内在性、ひとつの生」の次にアンドレ・ベルノルドの短いエッセイが掲載されているのだが、この文章もある意味で驚愕ものと言っていい、師にならうかのような、簡潔にして素敵な試論だった。なんとアンドレ・ベルノルドはそこで、ドゥルーズを古代ストア派の哲人になぞらえていたのである。いや、なぞらえたどころではなく、単純過去という動詞の時制を駆使して、「彼の人生については何も知られていない」と言いながら、ドゥルーズのことを架空の古代ストア派の哲人のひとりとして語り終えているのである。ということは、しかも完全に動かぬ過去のなかに現存した人、つまりすでに過去の人として……。
 ドゥルーズはすでにひとつの生を終えていたのである。


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                                                            第54回 2014年9月



                    今月のだくだく日記またはオドラデコの災い
                                        

                                        
                                                                       

鈴木創士


 



ゲルツェン『向う岸から
E・H・カー『バクーニン 上
マルキ・ド・サド『悪徳の栄え 正』『悲惨物語
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『サドは有罪か
現代思潮社編集部『サド裁判 上
浜田泰三編『笑い




 汗だくだくであるし、日々、唯々諾々(いいだくだく)である。何について唯々諾々であるのか、それは言わないでおくのが「鼻」というものだろう。汗は冷や汗のこともある。今月はゲルツェンの『向う岸から』か、バクーニンについて書こうと思っていたが、書けないので航海日誌を公開することにする。
 

  先月の神戸新聞のコラム「もぐら草子」のテーマは、私としては珍しい部類に属するが、あろうことか男性女性についてであり、取り上げた作家は稲垣足穂、マルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガンであった。ジェンダーの話をしたわけではない。何しろ新聞の月一回の最終日曜版のコラムであるし、手持ちの枚数が少ないので、しっかり言いたいことは言えず、おっといけねえ、そんなことはないし、新聞にしては大概毎月言いたいことを言っているのであるが、先月は急いでいたこともあり、言いたいことがあまりなかったのでヘンテコなものになってしまったのである。文句も言わず、淡々と毎月原稿を受け取ってくださる編集部のHさんには感謝してもし足りないほどであります。
 今月はピカソの絵について、というか絵の主題とはほぼ無関係に目の端に見えてしまうものについて、それから新約聖書の福音記者マルコ、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する犬アルゴスのことを書いた。アルゴスはシラミだらけになって糞まみれの汚穢の上に寝そべり、乞食に身をやつしたユリシーズの帰還を待ちわびていたが、主人が帰ってくると力なく尻尾を振るだけで、こと切れてしまった。この犬だけが、みすぼらしい乞食がユリシーズであることを一瞬で見抜いていた。なんとも忘れ難い犬なのである。ボルヘスの素晴らしい短篇「不死の人」にもこの犬が登場している。私の「もぐら草子」に最もふさわしい登場人物動物であるのかもしれない。先日、関西フラメンコの重鎮であるHさんが、君のコラムのひねくれた文章好きだよ、と言ってくださったので、大変励みになっておるのであります。
 

  七月にはライブが二つあった。ひとつはこじんまりした京都のヴィヴァ・ラ・ムジカというところだった。宣伝をまったくと言っていいほどやらなかったからなのか、はたまたわれわれに人気がないからなのか、雨が降っていたからなのか、客の入りが唖然とするほど極端に少なかったが、演奏は自画自賛できる程度の、それなりにいいものであったらしい。らしいと言っても、誰もそんなことを言ってくれる人はいなかったと言えば謙遜になるし(いつもは辛辣なHがそう言っていた)、勝手に喋ってろという感じではありますが、メンバーの一人が言うには、ブダペストの外れかどこか、東欧の小さな街の、場末の入り組んだ路地の、またその奥の薄汚いバーかキャバレーで、精神病院から脱走したキ印のオッサンたちがやっている楽団みたいであったらしい。これは私の意見ではないし、東欧の誰も知らないような場末の町には行ったことがないのでわからない。以上念のため。
  ときに、キーボードの私は即興と即興の間でバッハの無伴奏チェロ組曲もどきを弾いたのだが、誰もわからなかったに違いない。それはそれでうまくいったということなのである。編成はキーボード、ギター、パーカッション。成田から、ハワイから帰ったその足で、映像を生業としているS君が来てくれたが、せっかく遠路はるばる来てすぐ翌日に東京にとんぼ返りしたのだから、あまりの客の少なさに少し申し訳ない気がしないでもなかった。実を言うと、私は客の入りなどあまり気にしていなかったが、一緒にやった他の二人は、客の入りを見て落ち込み、明らかに不機嫌であった。即興的演奏が始まって少しすると、さすがミュージシャンらしくすっかり機嫌を直してはいたが…。S君、わざわざありがとうございました。もうひとりNさんというイベントをプロデュースしている女性が見えていて、その後、元ヘンリー・カウのジェフ・リーと一緒に11月に京都でEP-4 unitPとしてライブをすることになったので、うれしい出会いであった。

                                           EP-4 unitP

 もうひとつは京都アバンギルドであったRoarology 02というライブである。私はEP-4  unitPと鈴木創士グループという二つのバンドで出演した。体力がないので、はっきり言って疲れました。EP-4 unitPは新生ユニットで、私とEP-4のパーカッションであるユン・ツボタジが中心になっているが、今回はメンバーにオプトロン、簡単に言えば、蛍光灯でノイズを出す自作楽器を演奏する伊東篤宏を迎えた。ユン・ツボタジが旋盤のようなものを持参していて、旋盤で鉄を削り、音だけでなく火花も散らしていた。蛍光灯の光および鉄の火花が良かった。さしずめインダストリアル地獄の遊園地ノイズ工場バンドといったところであろうか。今回はクルト・ヴァイルの曲を中に混ぜてやったが、バッハを挿入することは断念することにした。
 鈴木創士グループは、人はどう思っているかは知らないが、まあ、今回はまあまあ良い出来だったのではないかと愚考している。今回の編成は、ギター、べース、ドラム、キーボード、パーカッション、エレキ・アコーディオンであった。それプラス、極彩色墨流しのようなサイケデリックなタイム・ペインティングの映像(仙石彬人による)もあり、メンバーは名うてのミュージシャンばかりで豪華(?)なノイズ音圧、幻覚的な音の厚みだったのではないでしょうか。音が大きすぎて、カオス状態が耐えられない向きが客席にいることはわかっているが、私としてはこんなものではまだやり足りないくらいである。寄る年波のせいか、つねにさらにもっと爆音を、と言いたい今日この頃ではある。このバンドはアガルタ・ポスト・ファンク・パンク風に出発しようとしたが、どうなるか今後のことは自分でもわからない。


 アバンギルドのライブの二日前に大阪の文楽劇場に近松の「女殺油地獄」を見に行って、翌日それについて「文楽かんげき日誌」のための原稿をデスマス調で書いた。近松門左衛門は悪意に満ちた複雑な心性を持つ作家であったのではないかと薄々思っていたのだが、「おんなごろしあぶらのじごく」のこの度し難いリアリズムは悪意そのものであるような気がする。
 ライブの後、河出書房新社の仕事で、マルグリット・デュラス論を書いた。担当の河出の編集者Tさんとは初めての仕事であるが、EP-4のライブにも来てくれたことがある。タイトルは「デュラス 意志と表象としての愛人」である。柄にもなくデュラスの愛について若干書いたつもりであるが、最近の体調の変化といおうか、細胞組織のそれとない変化がたぶん如実に反映されているかもしれない。良い意味でである。デュラスはかなり長いこと読んでいなかったので、書くことよりも、時間がないのでいろいろと読むのが楽しくも大変だった。デュラスの本はフランス語の原書を含めて神戸の地震で大方失くしてしまっていたらしく、ほんの数冊しか見つからなかったので、急遽、近所に住んでいる友人の会社社長、O君に貸してもらった。彼はインテリで、所望すれば大抵の本を持っているからありがたい。
 その後、この現代思潮新社コラムの先月分「残酷劇」を書いた。これは「天文残酷劇」というタイトルにすべきであった。いずれ治して、いや、直しておこう。険しき快癒である。これはたしか堀口大学の翻訳日本語だったと思うのだが、最近、妙にこの妙な日本語が気に入っている。険しき快癒。なんでやねん。このコラムの文章にも体調の変化というか身体の変化が反映されていたはずである。体調がよくなって、健康な文章が出来上がるというわけでは決してないが、体調が悪くなっているということではないので、とても喜ばしいことである。諸器官は幾つかまだそれほど良い状態というわけではないのだろうが、それにもかかわらず私もまた、恥ずかしながら、屋根の上で「すべて上々!」と叫びたい年頃に至ったようである…。マルクスは、文は人なりと言ったが、文はからだの変調ではなく、身体の細胞レヴェルの、根源的な変性状態ときわめて密接で繊細な関わりを持っているのである。言葉は細胞のなかにまで忍び込んでいるのだ。わかるだろ?
 その後、神戸の詩人、季村敏夫さんの新しい詩集『膝で歩く』のための新聞書評を書いた。私はこの人の重く爽やかで独創的な言葉が好きだし、季村さんという詩人にお目にかかったことはないが、畏敬の念を抱いている。彼が以前神戸モダニズム事件について書いた本も労作だったし、教えられるところが多かった。
 次はサド論である。『ユリイカ』という雑誌に書いた。これはすでに刊行されたので、ご存知の方もいるかもしれないが、タイトルは「マゾヒスト侯爵サド」である。何もかも読むことができるわけではない。これまた地震のせいで、歯抜け状態になってしまった古い方の桃源社の澁澤訳サド選集はまあ良いとしても、ほんとうのことを言えば、フランス語の豪華なサド全集も一冊だけ(!)しか残っていない。新しいプレイヤード版もあるし、他の古い版もあることはあるし、ポケット・ブックの文庫本もあるので構わないのだが、そもそもべつに何もかも読まなくていいのである。深く入り込みさえすればいいのだ。そう言えば、ずいぶん前のことだが、私はさる有名な気鋭の学者評論家に言われたことがある。君はなにかにつけて深く入り込みすぎなんだ。悪い癖だよ。そんなにジョイスが好きなら、「ちょろっとだけ」ジョイスを出せばいいんだ! そんな芸当は私には出来なかったので、この人の忠告を受け入れなかったが、気をつけなければいけないのでしょうね。へっ。
 文学研究者といえども研究対象を愛しすぎて客観性を失ってはならない、というような、利いた風な、じつに思慮のない馬鹿げたことをわざわざ言う人がいるが、大学の文学研究室は「理研」になったのだろうか。どんな立派な文学研究も文学の一部にすぎない。そもそも文学には「学問的倫理」など存在しないし、断じて片時もそんなものが介在してはならないのである。それに愛にもいろいろあって、愛憎相半ばどころか、それが錯綜して別の時空に飛んでしまい、何がなんだかわからなくなっていることもあるではないか。黙ってりゃいいのに、こんなことをわざわざ言う人は、卑怯なのか姑息なのか、あまりにも自信がないのか、それが人にはわからないと高をくくるほど自分が偉いと思っている馬鹿であるのか、どれかである。そんな言い訳じみたことを言った途端、当の立派な研究が瞬時に色褪せ、ただのゴミになってしまうだろう、という自負も潔さもないのだろうか。書く、というのはそういうことでもあるし、書けば書くほど、策を弄してごまかすことなどできないと私は思っているのである。



 美術家のジャコメッティは、ある画家が好きになると、その人の絵しか見ることができなかった。毎回、ある絵を好きになる度に、そういうことが起こった。例えば、ヴェネツィアの画家ティントレットの絵画に心酔してしまうと、それ以前に好きだった、あれほど愛したマザッチオやジォットの絵を見る気すら起こらない。対象を見ることに対する彼の愛はすべてティントレットに注がれることになる。そこには偏愛という言葉で普通言い表される以上のものがある。彼はつねにそのようにして自分の作品以外の絵画に接してきたのだが、対象を、そして芸術作品をほんとうに見るとはそういうことかもしれない。これは天才ジャコメッティにだけあり得た極端な例かもしれないが、そのときジャコメッティは第一級の批評家なのである。

 
  幾つかの原稿が済み一段落して、京都の古レコードと古書の店兼カフェ(?)、エンゲルス・ガールの小さな会で飲んだり食べたりしながら話をした。店主は下司さん。ゲスではなくゲシと発音する。ゲシさんとは、Hと一緒にお邪魔した細川周平邸のジャズ・ホームパーティか、友人がやっている神戸のバーで出会ったのが最初の縁だったろうか。昔も今もみんな行くところが少なくて困っているのである。エンゲルスとはマルクス・エンゲルスのエンゲルスで、エンジェル・ガールズなどと聞き間違えてキャバクラかガールズバーだと思っている人がいるかもしれないが、そうではない。建て替えられたきれいな京風町家が立ち並ぶひっそりとした映画のワン・シーンのような不思議な一角にある。五条通りからすぐ上(かみ)で、新撰組の墓がある壬生寺からもそう遠くない。直角の曲がり角に祠があったが、怖いので、見て見ぬ振りをして通り過ぎた。小さな会はごく少人数の集まりだったが、自分で言うのもなんだがまあ良い会だったと思う。神戸のエレクトロニックミュージシャンのY君の言い草を借りれば、親戚の集まりのような感じであった。

 いままで書いてきたように七月後半から八月にかけてとても忙しかったので、原稿がひとつ終わる度に、そのつどそれぞれの主題を頭から全部追い出して日々を過ごしていたので、一段落したことでもあるし、この会のときには頭が完全に空っぽ状態だった。だから何を話したのか、断片的にしか覚えていない。わざわざこんないい加減な話を聞きに男女別々に東京から二人来られていたので、これまた恐悦至極だった。このお二人、某出版社(?)の女性と若い小説家の卵(失礼、卵じゃないのかな?)、そして彼ら以外にも来て頂いたみなさん、断続的な雨の中をありがとうございました。出版社嬢がいま住んでいるという東京の町には昔私も少しいたことがあって懐かしく、若き小説家には新著『御山のきつね』という本を頂戴した。ここでは全員について書けないが、少人数の集まりだったので、私にとっては来て頂いたみなさん一人一人が逆に印象深かったのである。トークショーをやっていたのは、ほんとうは私ではなく、みなさんの方だった。


 そういうわけであれこれあって、集中豪雨のような雨の合間にほっとしたのも束の間、気がつくと、大きな仕事が残ってしまっているのであります。戯曲である。江戸糸あやつり人形座のために急いで台本を仕上げなければならない。ロベルト・ウィーネ監督の1919年のドイツ表現主義映画『カリガリ博士』を元にして何か芝居をでっち上げようというのである。内容の詳細についてはここでは触れることは出来ないが、人形と生身の俳優を使うので、私にとっていま言えることは、これが分身残酷劇になるだろうということだけである。残酷劇というのは勿論アルトー的な意味においてであり、舞台で血が流れたり、ちょん切られた首が舞台の隅の方まで飛んで行ったりする類いのものではない。私の台本はいまだ仕上がっていない。
 ちょうど昨日、月蝕歌劇団をやっている劇作家の高取英さんからメールが着て、彼らもカリガリ博士をやるという。タイトルは「ナチスと地球空洞説/カリガリ博士—葛飾北斎とその娘・お栄篇」というらしい。カリガリ博士も忙しいのだ。やっこさん、ドイツでお茶を濁しているだけでは済まされず、地球空洞説なんて、えらい所に拉致されてしまったらしい。大変なことになったものである。精神科医や人殺しの算段をやっている暇はない。こちらの原稿締め切りの期日からすると、高取さんの芝居を参考にできないので、私の戯曲に地球空洞説と北斎は反映できそうにない模様である。残念である。私の戯曲は今のところもっとささやかで陰険なものになる予定である。見ていないのに言うのもナンだが、月蝕歌劇団との違いは、糸で操られた「振りをしている」人形が出演することである。おまけにこれらの人形は古典的所作を知らぬ間にひとりでに身につけている。いったい誰が操っているのか。黒衣(くろご)を操っているのは誰なのか。そのことにはここでは触れないが、とにかく人形は怖いのである。


 私はいまのところ今をときめく犯罪者でもアイドルでもないのだから、たぶん読者の方々にしてみれば、人の日記など面白いはずはなく、そんなものは読みたくもないだろうから、嫌がらせみたいにここまで書いてきた。だがタイトルのオドラデコって何だ? カフカの小説に登場する糸巻きみたいなヘンテコな形をした得体の知れない登場人物(人物ではないと思う)にオドラデクというのがいる。このヒトが何年も何年も笑うセールスマンか(?)(漫画はほとんど読まないので読んだことはないが、見かけたことはある)、謎のストーカーのようにずっと私につきまとっているのだが、笑いの系譜を辿っているようでそうでもない、不思議なアンソロジーである『笑い』という小説集をぱらぱらめくっていると、この本とは無関係に、またぞろどこかからこのオドラデクが出てきやがった。だがオドラデクの存在は真の笑いと無関係ではないはずだ。こいつは変なやつで、どこにも、どこの神棚にも本棚にも鎮座ましましてはおらず、つねに誰とも何とも無縁であり、住所不定、神出鬼没だが、正真正銘オドラデクという名前なのである。でも、何度も忘れた頃に出てきやがるので、くやしいし、意地悪をしてオドラデコと呼ぶことにしたのである。作者のカフカ自身を含めて私にも誰にもオドラデクがどんなものなのかはっきりと言うことすらできないし、鮮明な映像として思い描くこともままならないのに、オドラデクが三度の飯より好きだとは思われたくないので、オドラデコにしたといってもいい。


 書くことは希望のなかにいることであることがある。そして希望とは一種の災いみたいなものである。先にも言及した詩人の季村さんが、息災、つまり災いを除いて、何事もなく達者であることとは、息を吸うことであると言っていたが、あらためてほんとうにそうだと思う。災いのなかでも息をしなければならないのだ。そして息を吸っているのが聞こえるのである。こちらはずいぶん不真面目な話のようではあるが、つまりオドラデコの災いとは私がひそやかに息をする条件でもあるのである。
 私は物書きの端くれであるので、さも仕事をしています風に(?)最近書いたもの、書かねばならなかったことについて、ここでつらつらとどうでもいい余計な事をいままで喋ってきたが、そんなことよりもっと肝心なのは、これらの書き物と書き物の間から強靭なゴキブリか正体のない幽霊のように意味もなく這い出してくる何かの方である。喜ばしいことに日々われわれの鼻面を引きずり回してくれているのは、要するに最も喫緊で無視できないものは、見えないくらい小さいか薄すぎて透き通っているかのような妖怪のようでもありまたそうでもない観念、概念人物、付喪神(つくもがみ)もびっくりといった得体の知れない、あるいはもしかしたら突然変異のように現れるありふれた事物などなどの方ではないかと思ってしまったのである。だがこれは衆目にさらす日記を書いたことに対する弁明程度に受け取って頂ければよろしいです。


 エラッそうなことをいくら言っても、なんとかなるものではない。集中していないときは、当たり前だが、完全な腑抜けである。もう使われていない、稲も生えない田んぼのカカシである。カカシの肩に鴉がフンをしに来るだけで、びゅーびゅー風でも吹けば、炎天下で干からびて聞こえないくらいの音でカサカサ音を立てている。だからこの空白状態と空白状態を生み出しているものの両方がなければ、私は故人というか元生きていた人になっていたかもしれないし、オドラデコもあっけなく逃げてしまい、どこかに隠れて出て来ないだろう。昨日死んでいたとしても、十年後に死んだとしても、十八歳で死んだのだろう、とデュラスは書いていたが、いま死んだとしたら、明日死んだとしても、いま死んだのだと私は言えるだろうか。
 大袈裟な話をしているのではない。逃亡は希望ではないし、書いたものは書いたものであるが、私の知ったことではない。はい、はい、そうではありません、知ったことです、ということは半分は承知しておりますが、自己責任などとスピーカーでがなり立てられても、自己って何のことかわからないし、そもそも天文的規模で考えれば、権力者を除いて誰にも何の責任もないのだし、しかし、そいつが、オドラデクの親戚であるオドラデコが、またぞろ意味もなく出て来てくれないと、次が、明日がないのである。合掌!(今年もまた京都松原のお盆の六道まいりに行けなかった。小野篁さん、ごめんなさい。できれば、諸君、ともに外道ではなく、六道にとどまろうではないか)。

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  第53回 残酷劇 - 2014.08.05

                                                            第53回 2014年8月


                                   

残酷劇


                                                                       

鈴木創士


 

ブランキ『革命論集』
ジェフロワ『幽閉者 ブランキ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還



 天体の牢獄が広がっている。パリ・コミューンの頭脳だったルイ・オーギュスト・ブランキは、牢獄のなかでも街頭でも、ジャコバン派のロベスピエールのように「諸君は私を破滅させる」などとは言わなかった。ブランキは牢獄のなかの案山子(かかし)である。牢獄につながれても、革命論集から屋根をぶち破り天体へ向けて突っ立っている案山





子は素敵に見える。動物の骨でできた一本の橋のようなもの。動物の歯のようなもの。何か固い芯のようなもの(石の笛のような音がする)。ブランキは鴉の敵のように頑固一徹である。すぐかっとなるブランキは、見かけによらずいいやつだったが、さっきの橋や歯や芯が永遠の衣を纏っていたなどというのは、詩人のたわ言か、真っ赤な嘘である。パリ・コミューンではたくさんのひとが殺された。明日になれば永遠の真実のなかの真実がわかるということも別にないだろう。あらためて天体を眺めてみても、光が届くのにあまりに時間がかかるので、よくよく考えれば、天体には永遠の昨日しかないのである。おととい来やがれ。


 そんなことを考えながら夜道を歩いていたら、俺はお月様を撃ち落とす、と誰かが後ろで鼻歌を歌っていた。だんだん遠ざかる鼻歌をなんとなく聞き流しながら、天体のほうを眺めていたら、横手の土手で紫色の煙が上がり、ブションという音がした。夜の川がさーさー流れていた。急に川の音が大きくなったように思った。変な臭いがしたので鞄を見ると、鞄のなかのブランキの本から何頁かがなくなっていた。本が熱くなり焦げて真っ黒けになっていた。頁を破ったのはお月様だった。頭にきたので拾った棒切れを振り回すと、あいつはぎゃっといって、土手の向こうまで一目散に逃げて行った。はーはーという息が道の水たまりのなかに落っこちていた。あたりがぼーっとなった。あいつはボール紙だった。銀色のマーカーでお月様とかいてあった。


 ボール紙のお月様ではないが、人形は器官などもたない。当たりまえだが、当たりまえではないこともある。さっき錆だらけの鉄の窓からのぞくと、猫が屋根の上でずり落ちそうになってぐーすか寝ていた。猫だと思っていたら、よく見ると人形であった。寝息がそこいらじゅうに響き渡っていた。一見して、人形には「不都合さ」そのものが棲みついているように思う。生誕の不都合さではなく、むしろ死ねない不都合さであろうか。人形を操っているのは天体なのであろうか。江戸時代から続く糸あやつり人形も、文楽も、マリオネットもこの段ではおんなじである。地に足がつかないのではなく、足に地がつかないのは文楽人形だけれど、それは人形のほうの事情ではない。やはり操っているやつを操っているやつがいるのだ。この操っているやつを見つけ出すのは至難の業である。何にも知らないまま、犯人が能天気なことに自分であったなどということもたまにあるからである。日も暮れたのにいつまでもかくれんぼうをしていて、自分が死んでもまだずっと鬼をやっていたのに気づかないのとおなじことである。それとも操り糸の向こうを張って、雲のように無数の人形たちにそれとなく覆いかぶさっているのは、巨人族ネフィリムのようにばかでかいやつなのか。ただし巨人は、この場合はからだがあってはならず、煙でできていなければならない。からだもなし、頭もなしの、ないないづくしでなければならないのである。引き算は大の得意である。ネフィリムというのは「天から落ちてきた者」という意味らしい。学のあるところを見せて、カバラ風に言えば、「・」から落ちてきたのである。誰もほんとうのことを言わない。すべてのクレタ人は嘘つきである。椅子取りゲームなどしている暇はない。


 からだが踊り出さないようにしたのは神だとアルトーさんは言う。裏返しのダンスを踊れ、とアルトーさんは怒りまくって言うけれど、これがなかなか厄介なのだと隣の和尚も妙に納得していた。踊りに貴賎はないのだ、と。そんな余計な知ったかぶりの言い草を最後にいつもつけ足すものだから、隣の和尚はいつまでたっても俗物のままだし進歩がないのである。和尚は炎天下の地べたで勝手にわめかせておけばひとりで喜んでいるクチだし、隣の和尚のことなどどうでもよろしいが、そんなことより、人形ははたして永遠の健康を返してもらったのであろうか。からだが踊り出すのは健康であるからである。病気というのは一種の健康であるから、悪魔の世界ではない。あんまり食い過ぎたり、飲み過ぎたりするのもよろしくない。踊るのを忘れてしまうからである。人形だっておんなじではあるが、というのも人形も悪魔の世界に片足を突っ込んだりするからであるが、人形は食べたり飲んだりはしないのである。もしくはその振りをし続けることができるのだよ。


 永遠の健康を返してくれたのは神なのか。人形は誰も見ていないとき、自分で自分を修理し、養生しているのである。摂生し、殺生しないのである。人形は慎ましい。あの慎ましさにはぞっとするものがある。あいつがじっとこっちを見ていると思うと逃げ出したくなる。韻を踏んでいる場合ではない。あいつって誰だ。あいつだよ。からだのなかに梯子を呑み込んだひともいるくらいだから、思春期のはじめ頃、傘でも呑み込んでみようと思っていた。というかだいぶ前に適当なことをぺらぺら喋っていたら喉を詰まらせて、傘をもう呑み込んでしまっていたことに気づいたから、すでにからだが痙攣を起こして、固まってしまい、ピノキオのようになっていたのである。ほしいままの悪業というのはあるが、ほしいままの硬直というのはちょっと聞いたことがない。こういう人を馬鹿なおひとと言う。清水寺があったら、落下傘をつけて飛び降りたいのさ。落下傘だけが落ちて行くのを見るのは壮快である。この前救急車に乗せられたときも、上から吊られたまま、車に揺られて運ばれて行くしかなかった。救急車が壁に激突しても、きっとずっとゆらゆら揺れているだけだったろう。ぴのきおや吊られるままに救急車。大変な思いをしているのである。


 アルトーさんによると、コーカサス山脈、カルパチア山脈、ヒマラヤ山脈、アペニン山脈の、人の来ない、陽も当たらない斜面では、くる日もくる日も、朝も昼も晩も、からだの儀式が行われているらしい。からだの儀式というのは猥褻な感じがするだけではない。なんとなく嫌な感じである。これはアルトーさんの持論であるが、うんこの臭いだってしてくるみたいである。岩陰から隠れて見ていると、ぶるっとするくらい恐ろしい光景が繰り広げられているらしい。見つかったら、お陀仏である。ナチスの悪人どももそのへんの事情に気づいていて、探検隊を組んだりして、余計な茶々を入れていた。ところで、黒い儀式って黒人の儀式という意味じゃないぞ。黒い命というやつがいて、そいつが忌まわしい食い物をがつがつほおばっているのである。食い意地のはったやつはたいてい下品であるとだいたい相場は決まっている。忌まわしい食い物って何だ。頭とか手とか足とか腹とか、人のからだだろ。たぶんね。


 アルトーさんは臍が問題であると言っていた。オムファロス。アルトーさんの言っている臍がこの臍かどうかは知らないが、というかたぶん違うだろうが(でもアルトーさんにはトルコの血が流れているようである)、臍の石があるのである。世界の中心だという噂である。その石に手を当てて、気狂いの真似をしたデルポイの巫女がむかし予言をぶつぶつ呟いていたんだからな。ピュティアっていう女の子である。予言が当たらなくてハズレばっかりだったのかどうかはわからない。あてもんじゃないけれど、世界はあてもんみたいなものだから、黒い命も必死だったのである。アルトーおじさんには顔とかを見ると預言者みたいなところがあったが、予言など猥褻であるとまた玄関先で怒り狂って





いた。このひとはお墓の反対側というか裏側という裏側で息をしていたくらいだから、複雑にできているのである。それはそうと、この臍石のまわりでは大勢の人が踊り狂っていたに決まっている。だいたい想像はつく。隣の和尚にだってそのくらいのことはわかるだろう。踊る以外にほかにすることがないからである。裏返しの踊りというのはこの猥褻な踊りを踊りから追い出してしまうことである。叩き出してしまうことである。


 アルトーさんは黴菌を憎んでいた。最後の頃はずっと黴菌への攻撃をゆるめなかったくらいだから、よほどのことである。ずっと前からきんたまに湿疹ができて治らなかったのである。アナイス・ニンはアルトーさんのために軟膏を買ってきてあげなかったのだろうか。黒い儀式の黴菌がからだのなかに下降してきて、下半身で止まってしまったのである。ぶらぶら。いつもぶらぶらして、うろついていたのは黴菌のほうである。これはからだ全体にとって一種の急降下爆撃でもある。隣の和尚に聞くと、なにせ、かゆいらしい。さもありなん。黒い儀式はペストの起源でもあるのだから、ドラキュラもノストラダムスもそのへんの研究は怠らなかったはずである。ノストラダムスはペストを治したことで有名である。険しき快癒という本を書いたひとがいた、というかそのように日本語に翻訳したひとがいるが、変な日本語ではあるけれど、面白い言葉である。まさに険しき快癒である。ドラキュラとノストラダムスのきんたまにも湿疹ができていたのだろうか。かゆかったのだろうか。軟膏を買ってきてくれるお嬢さんが近くにいなかったのだろうか。ドラキュラもノストラダムスも掻きすぎのあまり血が出たりしたのだろうか。血はやはり出でいたのである。青い血だけではない。ドラキュラだって黴菌だらけの血をだらだら流していたのである。かゆいが、汚いし、不都合なことこの上ない。ペストはかゆみであると言い換えても罰はあたらないほどである(おっと、これはまさに失言である)。血が世界中から少なくなってしまっていたはずである。血はほとんど剰余価値であるのだから、流通しなくてはならない。真面目なはなし、献血に行かなくてはならないのである。


 それで柩の行進があった。だらだらと行進していた。こういうのを見ると、ほんと人生が嫌になる。もっともっとさらに人生が嫌になると言ったほうが当たっているのだろうか。まあ、薔薇色の人生を送っているのだからそんなことはないのだろうが、だけどもっと怖いのは、柩をかついでいる人たちが一人もいないことである。昼の日中なのに誰もいない。がらんとした通り。砂埃をかぶって白茶けてしまった大通り。枯れかけの街路樹。ぎらぎらとした太陽が照りつけているばかりである。大通りなのにあたりはしんとしている。この感じは俗物の和尚には理解できないだろう。柩だけが連なって行進していた。やばい。箱だけ。ずるずる音だってたてていた。柩は木でできているのだから、壊れたりしないかとひやひやしてしまう。柩のなかにはたまに夢遊病者が紛れ込んでいたりするが、ほんとうのところ、なかにいったい何が入っているのかは知れたものではない。夢遊病者ってもともと死んでいるひとの生まれ変わりなのだろうか。入っているのが鼠だといいのだが、異次元から湧いて出たような超限数のゴキブリが走り回る巣だったりするとちょっと困ってしまう。だがほんとうはもっと恐ろしいものが入っているのである。隣の和尚も入っていたりして。可能性は大いにある、と見る向きもある。近所の人たちだけれど。蛇足ながら、そんな噂話に世間はほとほと困惑しているのである。


 たまに柩からは声がしたりする。柩を運ぶひとはいないが、からの柩に砂が入っているわけではなく、柩のなかでじっとしているひとがやはりいるのである。誰の声かはわからない。というか最初はわからない。声はすぐに消えるからである。他のやつが喋っていても一向に気にならない。がやがやいっている。ほっとけばいい。かすれるような声のこともある。がらがら声のときもある。拡声器でがなりたてるような声のときもある。たいてい大通りは静かだから、これにはびっくりしてしまう。近所の人たちも、大人も子供も、何事だろうかとおもてにぞろぞろ出てくる始末である。そのほうがよっぽど怖い。よせばいいのに、また隣の和尚が、よっしゃ、よっしゃと言ってしゃしゃり出たりもするからである。でもほんとうは誰の声だったのだろう。ひょっとしたら、鼠でもゴキブリでもドラキュラでもノストラダムスでもなく、なかに入っているのは人形なのだろうか。ひとがたという意味ではない。もうそんな時代ではない。人形の声。ひひひ。ふふふ。ひいふうみつよう。ひょっとしたら柩をがたがたと動かしたり、揺すったり、柩のなかに入ってごはんを食べる振りをしてみたり、柩を壊したりしているのは人形なのかもしれない。もしかしたらもともと全部を操っているのは人形かもしれないのである。
 おととい来やがれ、とルイ・オーギュスト・ブランキは再び言うのであった。

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                                                            第52回 2014年7月


                          身体から抜け出す身体


                                                                        鈴木創士

 


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『魔法使いの弟子』『サブ・ローザ




パオロ・ウッチェロ


 私はいつも自分のからだが魔術幻燈になったように感じている。ファンタスマゴリックな腕、シメールのような脚。幻想の首。
 ギクシャクとしたからだの動きはあまりにも多くのものが犇めき合った幻影のなかにある。身体はつねに充溢に向かう動きのなかで生きているらしいのだから、痛みを回避するこつを覚えねばならない。痛みは悪である。悪を知ったとしても、からだに巣食う悪が何なのかは金輪際わからない。だがどうしてそれを知る必要があったのだろう。プラトンが言うように、知ることは思い出すことなのだろうか。痛みを?
 少しだけ意識を集中して、心臓を「立て直す」。長年、あまりに痛めつけたからなのか、悲しいかな、こいつはちゃんと働いてくれない。中心は、ジャベスが言うように、井戸である。井戸は砂漠にある。心臓は井戸のように血を汲み出している。心臓は本来は井戸のように空っぽの器官であり、器官を逸脱したかのような器官である。あらゆる器官が身体の敵であるのと同じ意味で、心臓は身体の敵なのだろうか。そう断言できる勇気が私にはまだない。
 だが在るのはただひとつの充溢身体である。アルトーはそれを「器官なき身体」と名づけた。それはドゴン族の「卵」のように、その外縁はあまりに遠く、卵のかたちをわれわれは目にすることができない。それは無限の夢幻の属性からなる実無限実体である。これが実にリアルなものであることを誰もがわきまえておかねばならない。
 エーテル。エートル。深い息をしてみる。息をしている感じがする。気息は遠い。誰かが、あるフランスの作家が、ヴェネツィアの古い石畳に接吻するように、私は呼吸に接吻する。私・・・は・・・呼吸・・・に・・・接吻・・・する。抑揚のないモンテヴェルディの祈りの曲の最初の小節が聞こえはじめる。鼻は詰まり、何の香りもしない。
 もう何年か前のことだが、息ができなくなったことがあった。気のせいだったのか。そんなことはない! 心臓が悲鳴を上げ、ほんとうかどうかは知らないが自らが生命の在処であるとでもいうように、生体的機能を過剰化したために、肺に一気に夜が流れ込み、水浸しになって、私は窒息しかかっていた。私のからだは自家撞着に陥っていた。
 いままでずっと首と後頭部は鉄の鎧でできているみたいに感じていた。ボンノクボはさながら闇の鉄栓、裏返しになった暗闇の入口、その錆びついた堰門だ。ここから毒が下に向かって、からだの下方に重力の法則どおりに滴り落ちる。毒は何からできていたのだろう。たぶん「言葉」に違いない。そしてからだは一気に硬直する。痙攣なしの強直痙攣。たまには痙攣したこともあったかもしれない。神経組織は完全なる変性状態におかれていた。たぶんというか、ほぼ確信に近いというか、そんな風に確信をうながされてしまったのだが、軽いパーキンソン病に似ていなくもない。ただ不思議なことに、ドーパミンの重大な欠如は苦痛を生み出すはずなのに、投げやりな諦念とともにそれを取り巻いていたのは、一種の快感に近いものだったかもしれない。
 皮膚がからだを覆っていたのだろうか。夜が皮膚の上に降りてきたのなら、皮一枚などというのは嘘である。幻を吸気のように吸い込み、食べ続けてきた鉄の皮膚が、呼吸するのを、呼気を吐き続けるのを忘れて、タマネギのように何層にも重なっている。
 眼窩はうつろなままだ。頭蓋の奥にまでめりこんでしまった幻想の目玉。だが本物の目玉。そいつが痛む。網膜も眼球もない。瞳孔だけが開いている。凝視すればするほど、私は何も見てはいない。……
 

 「言葉」が右側の前頭葉からしか入ってこない。
 なぜなのかはわからないが、身体の「宿命的な」身振りというものがある。それは身振りであることをすでにやめてしまっている。身振りというよりも、それは行動の、動作記憶の規範であり、空間というかむしろ空虚のなかで、時間と連動した身体の一種の悪癖のようなものだ。それはほとんど物質の様相の一部をなしはじめた思考の始まりである。脳の右側から入った言葉の粒子または音響は、左側に合図を送り、システムを装う言語を私に強要する。なんという疲労だろう。ドゥルーズ・ガタリは、カオスはシナプスとシナプスの間隙にあると言っていた。儀式めいた電気的交換も遮断もほとんど無駄になる。染色体を含めた「運命」の設計図はすでにくしゃくしゃの紙屑のようになり、誰が描いたのかも、誰のものかもわからないまま、机の片隅から遠くへ追いやられているのだが、轍にはまるように、井戸に落ちるように、私の場合はそうなってしまうのだ。これは私にとって「言葉」が強いる身体の「宿命」のようなものかもしれない。土方巽は「肉体の井戸に梯子をかけて降りる」と言っていたが、舞踏家ではない私に梯子はない。

  「言葉」が入り込む。
 だがそれは瞬時の映像、音、リズム、感触、ほんの少しの、あるいは深い情動であり、あえて言うなら意味形成性の、最初の、目にもとまらぬフラックスであり、そのとき脳は広々としたプラトーのように開けていく感じがしないでもない。草のない草原。山も岩も何もない高原。書割りも小道具も一切ない演出の舞台。あるいは海。光源をもたないようなぼんやりとした光がそこを照らしている。私は滑空する。ここまでなら何の不都合も感じられない。
 だが、この瞬間をすかさずとらえなければ、私の身体がうまくその通路、円筒、チューブ、連通管になることはないだろう。なぜなら表現と内容は私にとってずっとただひとつの同じものでありながらも、結局私は私の存在と非存在の間で宙吊りのままの言語活動に引きずり回されることになるからだ。さもなくば、私はただのざわめきになってしまうだろう。ざわめきは最後には塊りとなるだろう。たぶん癌化はその一例である。

 まだ最後まで精読できていないのだから口幅ったいことは何も言えないが、江川隆男の新著『アンチ・モラリア 〈器官なき身体〉の哲学』のページをめくっていたら、「身体の身体」という概念に出会った。
 ああ、そうなのか…。
 この留保なきスピノザ主義者のあまりにも徹底的な哲学的冒険の結論はさておき、冒頭から、とにもかくにも私はとっ捕まってしまった。私は哲学が嫌いなはずなのに、哲学は私をとらえて離そうとはしないらしい。「身体には或る無仮説の原理が隠されている」。この哲学者は、ニュートンの言葉のようなこの単純にも見える言明を、この本全体を通じて、誰もがそうしているようにいい加減に語ったのではない。最初にあったのはアルトーの「器官なき身体」というきわめて厄介で本質的な玄武岩であり、動かし難く、厳然たる「精神のうちに外の思考を発生させる要素」であり、その証明の端々はわれわれ日本人の誰にも真似ができないほどスコラ学的であり(彼はエミール・ブレイエの訳者でもある)、一見、単純にして同時に繊細な力強さと光明を彼に与えているのはスピノザとドゥルーズ・ガタリなのだから、著者が格闘し考えているのは現在ありうるかもしれない「哲学」だけである。この点で江川隆男はきわめて誠実である。そしてこの大いなる哲学的決意にも似た巨大な企てそのものから、つまりあらゆる経験論を峻拒する哲学的経験から、そしてあらゆる道徳を排する、そう言ってよければ哲学的「身体」のエチカから、「身体」そのものが出てくるのがここからも見えるようなのだ。

 唯一の身体しか存在しないとはいえ、どうやら「身体の身体」があるらしいのだ。それは奇跡のように私に折り重なっているに違いない。不思議なことに、それをほとんど瞬間的に知覚したことがあるような気までしてくる。そして「身体の身体」から何かが少しずつ解き放たれていく気がする。それは細胞にまで入り込んで、私のからだを硬直させ続けてきた「言葉」である。
 

 誤解がないように言っておくと、いままで述べてきた「言葉」というのは、私にとってほとんどの場合、アルトーの言葉だった。私がいつか死に、私のからだがいつか朽ち果て、崩壊するのと同じくらい、そのことには確信がある。私はフランス文学の翻訳家の端くれである。他の翻訳者のことはわからないが、そしていかに翻訳者として細心の注意と努力を怠らなかったとはいえ、翻訳の結果が日本語としてどうであろうと、これがほぼ私の文学翻訳のやり方の常態であり、ことアルトーの翻訳に関してはとりわけそうであることを私はいまでもはっきりと思い出すことができる。
 近しい友人たちにはわかると思うが、その結果、私のからだは硬直した。自己原因がどこにあるのかはわからない。それはそうである。だが付け加えておくなら、私はできればほんの少しの愛嬌を振りまくみたいに、できれば後になって笑い飛ばせるように、それから少しだけ癒えたい、その言い方がそぐわなければ、少しは回復したいと今は思っている。笑いは反アリストテレス的である。そうでなければ、すでに世界の裏の裏まで逝ってしまった、すでに「墓の反対側」から何かを見てしまったアルトーを読むことに、ほとんど力能としての意味を見出せないではないか。

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                                                        第51回 2014年6月


                        

 

  罰せられた悪徳、出版


                                                                 

   鈴木創士


 

石井恭二『花には香り 本には毒を』、『正法眼蔵 覚え書』、『心のアラベスク
陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光



 べつに罰せられたりはしない。少なくともわれわれはそう思っていない。サド裁判だって? たとえ現代思潮社の石井恭二、訳者の澁澤龍彦の両氏が有罪判決を受けたとしても、そうである。いまでは『悪徳の栄え』は無削除版が刊行されている。同じ現代思潮(新)社からである。ざまあみやがれ、というか当たり前である。猥褻裁判などちゃんちゃらおかしいのは、臍が紅茶を沸かす前からわかりきったことだった。サドを焚書にしたかった連中はそもそもサドなど読んでも理解できない。それは先天的衝突であり、読む動機や欲求やきっかけは言うに及ばず、読むすべすらどこにもないからである。何かを虚心にまっとうに読むなんてことは奴らには無関係である。





 それにしても親愛なる君たちのなかには、どうしてサドの毒抜きにわざわざ自らすすんで加担したりする者が現れたりするのか。自分の書いている物を棚に上げて(つまり退屈極まりない、たかが詐欺商品なのに)、サドを退屈だと宣(のたま)ったり、つまりは読まないことによって。これはひとつの典型的ケースにすぎないが、そんな風な暴言をどこかで事もなげにさらりと言ってのけていたこの作家、評論家先生は間違いなくサドをちゃんと読んではいない。
 ましてやジャック・ラカンの「カントとサド」を読んだからだなどと反論するのなら、あの邦訳のひどさは人後に落ちないものであるし、いくらフランス語ができるからといって、あなたが書いている他のものから察するに、少なくともいい歳をしたあなたにそんなことは言わせないとはっきり釘を刺しておく。それでもまだそうだと言い張るのなら、それは子供じみた明らかな誤読である。そう言うしかない。あなたは自分ではそうとは知らずにじつは単にサドを禁じる母や姉のように振る舞いたいだけなのだ。逆立ちして考えれば、それこそラカンの言っていたのと同じことになるだろ。ラカンのあの論文の場合、話は逆だ、と言いたいんだろ。タイトルからしてカント、アヴェック・サドだもんな。わかっているさ。そういうお里の知れた小賢しさが大人げないと言ってるんだよ。あなたがいくらブルトン好きでも大目には見られない。誰のために何のためにあなたは書いているのかと訝りたくなるのも仕方がない。売れっ子のあなたのことだから暇がないのはわかっているが、だから暇をつくって、性的健康のために逆立ちでもしながらサドを読んでみるべきだ。第一、そんな振舞いは(逆立ちじゃなくて、サドを退屈だなどと書くほうだよ)謙虚さに欠けるというものだ。あなたはゴロツキじゃないのだから、ご自分を何様だと思っているのだろう。だがサドの話はこの際どうでもいい。
 べつに私は出版が罰せられた悪徳だとは思っていないのにそう書いてしまった。罰せられざる悪徳、出版ならまだましだということもない。誤解のないように言っておくが、悪徳出版ではない。このタイトルは、ヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』に敬意を表してのことである。読書と出版には何か関係があるのだろうか、と言いたくなるような今日この頃である。だがいまここでラルボーでは飽き足らないという声が聞こえる。誰の声なのか? 俺と君たちだよ。ラルボーには何の恨みもないが、そう言っておかねばならないのだ。あえて断っておきますが、かつて私はほんの少しだけヴァレリー・ラルボーのわりと良き読者であったこともあります。だが読書だって罰せられるのだ。サドじゃないよ。その反対である。非サド的読書はつねにゴミ箱行きと忘却の憂き目にあうことになっている。意識的無視や追放ならまだいいほうである。神に感謝しなければならない。


 なぜこんな無駄にも思える前振りがあるのかといえば、新刊の『「現代思潮社」という閃光』という本を読んだからである。私もまた現代思潮社の創立者である石井恭二氏と現代思潮社のことに少しだけまた触れてみたくなった。
 著者の陶山幾朗氏はかつて60年代半ばから70年代初頭にかけて現代思潮社の編集者をやっておられた。ところで、私は高校生だった。それが人の一生で最も醜い年齢だなどとは誰にも言わせまい。当時の現代思潮社を取り巻く状況そのものを表しているように、著者は、かつて石井社長も嬉々としてその一員であったアナーキズム集団「東京行動戦線」のメンバーであり、九州の炭坑にいた谷川雁の謦咳に接し共に闘った人でもある。現代思潮社内の組合闘争の話も、現在の出版状況を思うにつけ、ある意味身につまされるが貴重だった。
 時期的には、トロツキー文庫や、その多くがその後他の大手出版社の文庫シリーズなどのなかに下手な手品のように散逸してしまった、あの素晴らしくも堂々たる「古典文庫」(いまや大古典となった異端の地下水脈である)、第一巻で頓挫する運命にあった『アルトー全集』の発刊や、稲垣足穂の大復活に大いに貢献した『稲垣足穂大全』や、そして石井社長が初代校長であり、埴谷雄高や澁澤龍彦、赤瀬川原平や土方巽といった錚々たるアンチ大学的、アンチ教育者的講師を擁した「美学校」開校の頃である。
 陶山氏が編集者として在職していた当時の現代思潮社の上司というか編集長には松田政男氏や川仁宏氏がいたのだし、何をか言わんやである。余談だが、故川仁宏氏は赤瀬川原平のグループに属する前衛芸術家でもあったが、なぜか私は彼のCDを持っていた。そのCDは煙のようにどこかに失せてしまったので確認できないのだが、たしか彼は小杉武久に近い前衛音楽家でもあり、当該CDの中身は、私の思い違いでなければ、ゴム紐で演奏された、どう頑張っても一回しか聞く気がしない、非常に、なんというか、奇妙奇天烈なシロモノであった。


 この時期の現代思潮社の他の印象深い刊行物を私の偏見で思いつくままに挙げるなら、ジャリ『ユビュ王』、カー『バクーニン』、『ブレヒト詩集』、クラウゼヴィッツ『戦争論』、オーウェル『カタロニア讃歌』、サヴィンコフ『テロリスト群像』、バルト『零度の文学』、ロープーシン『蒼ざめた馬』、唐十郎『腰巻きお仙』、ブランショ『来るべき書物』、クロソフスキー『かくも不吉な欲望』、ルフェーヴル『日常生活批判』、土方巽+細江英公『鎌鼬』、ブルトン『シュルレアリスム簡約辞典』、寺田透『ランボー着色版画集・私解』、バタイユ『有罪者』、『内的体験』、レリス『成熟の年齢』、ホッケ『文学におけるマニエリスム』、などなどである。
 現代思潮社の社訓は「悪い本を出せ」だったのだから、面目躍如どころの話ではない。あまり言われないのでことさらに強調しておくと、こんなやり口は素晴らしくも日本の出版史上最も特筆すべき事柄のひとつでもあるのだ。澁澤龍彦、出口裕弘、粟津則夫、白井健三郎らを編集ブレーンとする先ほどの古典文庫や、埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁を筆頭に、血気盛んにして昂々たる当時の日本の戦闘的左翼の論客の出版は言うに及ばない。人跡未踏の冒険ともいっていい異端的外国思想文学の紹介を精力的にやったのだから、嫉妬深く翻訳の質がどうのこうのと言う向きもあったが、何よりもまずその先駆性において現代思潮社は、フランスでいえばジャン・ジャック・ポーヴェール書店やエリック・ロスフェルドといったシュルレアリスム系出版社に、スイユ社などの思想系出版社の刊行物を足したような危険な活躍を見せていたことになる。いまにして思えばギー・ドゥボールと縁浅からぬジェラール・ルヴォヴィシがやっていたシャン・リーブルというハイクオリティーにして孤高の出版社に匹敵するものがあったかもしれない。知名度においては遥かに現代思潮社が勝っていたけれど。


 全体像をさらに詳しく知りたければ、本書『「現代思潮社」という閃光』や、何よりも石井恭二『花には香り本には毒を』を読んで頂ければと思うのだが、本書のタイトルの「現代思潮社」にカッコが付いているのは、この本がそれでも「私的回想」であるからだろうか。回想に私的でないものがあれば、アナール歴史学派にでも問い合わせれば良いが、いままで列挙してきたお名前の主(ぬし)たち、張本人たちに比べれば若造のなかの若造であるには違いない私としては、いったい何を言えばいいのだろう。市田良彦の言葉を借りれば、何が私的なものであるのか、そうでないのかを表明するこの土俵の上では、「思想になろうとする思想性と、意図的・非意図的を問わず思想性を隠している思想がいつも不可避的に闘うことになる」からである。だがいまはやめておこう。
 付け足しのような世代に属しているから言うのではない。世代など関係ない。ろくでもない世代だし、世代などという考え自体がろくでもない。ほんとうのことを言おうが言うまいが、誰それには関係なしに、とにかく単純直腸径行型だった若い頃の私は、これらの本によって人生を滑稽なほど決定的に変えられたクチであるし、これらの純粋に反事件的である思想的文学的出来事や、あるいはただただ本という存在がひそかに語る公然たる秘密の言葉が私に及ぼした素粒子的超生理学的バケ学的アイオーン的その他の効果だけを頼りにいまも生きているからである。衷心から、というのはそういうことであるし、このこと自体は、余人にはあずかり知らぬ、地味なまでに消え入りそうなことである。実際、そのことにしかほとんど興味がないのであれば、事実、そのとおりなのだが、私には過去の回想的次元などというものはそのつど存在するのをやめてしまうような気がしてくるほどであるし、そのような次元が実際に存在するのをやめてしまっても一向に構わないのである。自分のこととして言わせてもらえば、日本をこの体たらくに貶める片棒を担ぐどころか中心的役割を担っている私の世代またはそれより上の世代の多くの裏切り者や醜いお調子者たちとは違って、人には今という時しかない。そのことをたまには自分に言い聞かせて、時には思い起こしてやらねばならない。自分など一掃してしまわなければならない。そんな時だってたまにはあるのだ。


 石井恭二氏と出会うことができたのは、氏が晩年になってからである。石井さんが私のことを二回りも年若の友人などと書かれたものだから、あんな怖い人とよく付き合えますねなどと知り合いの編集者に言われたりしたが、私は穴があったら入りたい気持ちである。やはり最初に石井さんにお目にかかったとき、私が畏敬の念で石井さんを眺めたのは確かだが、ちっとも怖くはなかったからである。めったにないことだが、不思議なことに、そして大変失礼ながら、この大大先輩の老人に対して友情というか友愛の気持ちを感じたのもほんとうである。理由はわからない。不良の嗅覚だったのかもしれない。石井さんの言葉を聞いていると、そんなことを喋ってはいないのに、その渋目の声のなかにはいつも本と人生があり、同時にそんなものなどたいしたことではないという何かしら強力なユーモアの靄のようなものがあった。いまは亡き石井さんのハンサムなご尊顔を思い浮かべると、あの怖い石井さんは私の前頭葉のあたりでいつも笑っている。そんなことは君、無駄だよ、と言われているような気がする。東京に遊びに来いよ、と誘われても、当時の私は精神状態も体調も悪く、どこに行くのも億劫で、ちっとも遊びに行かないものだから、不遜にも時々電話を頂戴した。たいてい石井さんは出来上がっておられたようで、呂律も怪しく道元や一休や古文書や国文学の話をされるのだが、私に国文学の学が無いものだから、大変申し訳ないことをしたと思っている。たいていは窮余の策として、女好きで男色にも目がなかった一休の話が出たのをこれ幸いに、私が女性の話などに話題を幻術のように切り替えてワープさせると、挙げ句の果てにお互い何を喋っているのかわからなくなった。時おりあれやこれについて石井さんは激怒しておられたこともあった。君、どう思うか、と言われて、そうですね…、と私はたいてい絶句していた。石井さんは現代思潮社を去られた後、道元や一休和尚の仕事に打ち込まれていたが、無学なくせに生意気を言うようだが、電話でお話を傾聴しながら、その頃からそれらの仕事がわれわれの宝になるだろうということは私にもわかっていたのである。

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                                                        第50回 2014年5月

                           

正午を探す街角
                                      

                                                                

    鈴木創士




ノヴァーリス『日記・花粉
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『アトラス
ギー・ドゥボール『映画に反対して 上
アンドレ・ブルトン『ナジャ
バタイユ『ニーチェについて
W・メニングハウス『敷居学






                                      
 「絶対的な理解と絶対的な無理解とのあいだに思考の伝達をとりかわすことができたなら、それはすでに哲学的友情と呼ばれてよい。自分相手の場合でも、これ以上のことは望めないのだ。」                               ノヴァーリス「花粉」

 

 

 ボルヘスはもう目がほとんど見えなくなっていた晩年になってあちこちを旅した。
 盲人だけが知る薄明、あの明るい靄に包まれた(とボルヘスは言っていた)「視界」のなかに彼は何を見ていたのだろう。その空間、そう言ってよければ、未知の空き地は、今日のお天気のように一面の薄曇りだったり、突然、深い霧に覆われたりしたのだろうか。有毒性の霧は出てくるのだろうか。きっと思い出したように、突然、日が射すときもあるはずだ。慎ましい、ほんのささいな出来事、あの恩寵のように。

 
  どの街角でもいい。名もない街角でもいい。「それはオンセの菓子屋の街角かもしれない。死の影に怯えるアルゼンチンの作家マセドニオ・フェルナンデスが、死はわれわれの身に起こり得るもっとも些細なことだと説いた」あの街角でもいい。自分が木であることを、そして人々に涼しげな木陰を提供していることなどつゆ知らない一本の木が、短い影を投げかける街角。木も見当たらない街角。どこまでも広がる、目が痛くなるような青空、くっきりとした黒い影。素晴らしいコントラスト。正午を少しだけ過ぎた街角……。
 どこでもいい。住民への相談などなしに最近無駄に植え替えられ移転されてしまった、巨大で力強い大木があった(われわれはそれを京都のバオバブの木と呼んでいたが、木はすっかり元気をなくしてしまった)。その木がひっそりと聳える京都東山の入り組んだ路地の奥にある誰も知らない街角。どこかで群青色か薔薇色に染まる街角。それともそこで人が死に、手向けられた花も枯れてしまった表通りの埃だらけの街角。昼の日なかにはかつてそこが処刑場の一角であったことすら忘れられた薄汚れた街角であってもいい。
 ボルヘスは、街角とは、それはどこの街角ででもあり得るのだから、目には見えない「原型」なのだと言っていた。


 ある日、ボルヘスは異国のホテルに到着したばかりだった。盲人たちの見る明るい靄のなかを手探りで、部屋の輪郭を知ろうとそろそろと歩いていた。彼は色んな物にぶつかったのかもしれない。手を回しても届かないくらい太くて大きな円柱に行き当たった。ボルヘスは円柱に触れる。それが白い色をしているのがわかる。盲人に色が見えないなどと思うのはわれわれの思い上がりである。固くてどっしりとした円柱。天井まで伸びる円柱。そのとき束の間の幸福を覚えた、とこのブエノスアイレスの大作家は出し抜けに述べている。奇妙な幸福感だった、と。それは原型というものが人に与える幸福感だった。
 この形態も手触りも幸福感もまた、当然ながらはじめて手にする、文字どおり目には見えない「原型」なのだ。ボルヘスは靄のなかをほんの少し浮き上がり、浮遊していたに相違ない。円筒、方形、球体、角錐。ユークリッド幾何学の純粋な形態がもたらす啓示。この作家にとっての大いなる幸福。ボルヘスは簡潔にこの上なく美しい言葉でそう語っていた。



 とはいえ、盲人ではない私が見ているもの(ほんとうに私は何かを見ているのだろうか)、それはプラトン立体のような神的な形態ではなく、どこにでもある街角と同じように、単純であれ複雑であれ、同時につかみどころのない不可解な形態である。ある時はでこぼこしたり、ある時は平坦だったり、異様にとんがったり、家並みや風景に混じって輪郭がわからなくなったりしている。原型はすぐさま失われ、再び現れるだろう。この原型は少しだけ忘却に似ている。


 ここはパリ六区のシェルシュ・ミディ通りだ。ずっと昔、ドラゴン通りの裏に住んでいたことがあったが、そのドラゴン通りを抜けてフール通りに出ると、五叉路になっているのだが、そのままフール通りを渡るとシェルシュ・ミディ通りが始まる。この通りは六区と十五区を横断していて、サン・ジェルマン・デ・プレとモンパルナスをつないでいる。最後はカミーユ・クローデル広場で終わっている。
 シェルシュ・ミディ。正午を探す、といったほどの意味だ。フランス語には「午後二時に正午を探す」という諺があって、なんでもないことを難しく考えたり、簡単なことを難しくする、ということを指している。だが、「なんでもないこと」などどこにあるというのだろう。すべてがどうってことないのであれば、なんでもないこと、「なんにもなし」をあえて探すのは至難の業だ。美学も道徳も倫理学も太刀打ちできない。正午を探すのは、ミノタウロスのいない迷宮にいるようなものである。何を頼りにどちらを向いて進んでいいのか、皆目わからないのだから。


 ニーチェも正午を探していると言っていた。垂直に光が差す。影の消える刻限。一瞬だけ原型さえもが見えなくなる。夜は思い出でさえなくなり、昨日のなかへ遠ざかり、消滅する。樹々の影も一瞬消え失せ、キリコの絵のなかの街路も、また別の日常の神秘に覆われることになる。見回しても、輪遊びしている少女もいない。ありえない蒸発、停止。諸々の生の停滞、とランボーがうんざりして言ったのはこのことではない。そうではなく、ただひとつの停止。あっという間のことである。一瞬だけ感情も来歴も何もかもが外に追い出される。お払い箱なのだ。


 昼間のドラゴン通りではいつも二人の顔見知りとすれ違った。ひとりはハンサムでシャイな日本人。彼の名前も、彼が何をしている人なのかも知りようがなかった。彼とはいつも足早にすれ違い、彼と口をきくことはついぞなかった。もうひとりは、そうしなければならなかったかのように(どこにいようと、ある意味できつい時代だった)、あるいは何らかのメタファーででもあるかのように、毎日同じくたびれたセーターと同じよれよれのコートを着ていたモデルの卵のフランス人。近くにあった近所のおじさんしか通わないような小さなカフェで、このファッションモデルの卵は早口にパリ訛のフランス語を喋った。私にはよく聞き取れなかったし、モデルのくせに「服なんて、これしか持ってないのよ」と言わんばかりだった。
 私の知っているドラゴン通りはいつも空虚で、なんの変哲もなく、暗かった。ロシア人の知り合いの姉が通りに面したアパルトマンの最上階の奥のほうに住んでいた。正面から見るとさして特徴のない建物だけれど、上へ昇って奥へ行くとずいぶん変則的だった。貧民窟か宗教施設の建て増しの離れみたいだった。粗末な色刷りのガラス張りの三角形のような通路があって、奇妙な造りだった。そんなものがあるとして、斜光ガラスとでも言っておこう。光は斜めからしか射さないように見えた。光は傾き、世界も傾いていた。いかがわしい所ではないのに、どこか猥雑でいかがわしかった。弟と一緒に何度かお邪魔したはずのこの姉の部屋の様子はちゃんと思い出せない。カティアという名前だったように思う(いま思い出した)そのロシア人は、昔ここにシュルレアリスムの画家のマックス・エルンストが住んでいたのよと言っていたが、ほんとうかどうかは知らないし、確かめる気もなかった。どうでもいいことだった。


 めったにドラゴン通りを南の端まで、ましてやそれ以上行くことはなかったように思う。フール通りに出れば、たいていまたフール通りを北上し、サン・ジェルマン大通り、さらにセーヌ河の方向へ歩くことになる。パリの通りが人の狂気につけ入る隙を与えるのは、何もベンヤミンが言うようなパッサージュだけではない。通りから通りへ、それは思考のがたがたの道筋にも似ていた。ギー・ドゥボールとシチュアシオニストの活動家たちが「心理地理学」と言っていたのがよくわかる。当たり前のことを言わせてもらえば、場所を非場所と区別するためには、われわれはつねにひらめきを必要としていたし、いまもしている。場所は公式をともなう。スペインの神学者で神秘家だったライムンドゥス・ルルスが構想したような思考機械をわれわれは創案できなかっただけなのだ。


 その日はシェルシュ・ミディを南に歩いた。モンパルナスまで歩いて、後でカフエ・セレクトかクーポールまで行くつもりだったのかもしれない。なぜ南下したくなったのかはまったく覚えていない。日曜日だった。日曜日のパリは退屈でけだるい。ダミアの暗い日曜日。かつて大勢の人が自殺した日曜日。商店などはほとんど閉まっている。人通りも少ない。なおさら空虚で退屈なシェルシュ・ミディの通り。もっとずっとパリの北のほうだが、ブルトンとナジャが出会ったのもこんな日曜日だったに違いない。だが私は、私とは誰か、などとは考えなかった。



 家並みも風景も半透明の靄のなかでぼんやりしていた。すべてが霞んでいてよく思い出せない。街角の佇まいも何もかも。記憶のなかの街角は盲人ボルヘスのいたあの薄明とどのような違いがあるというのだろうか。霞のなかを手探りするでもなく、ひとりでやけに(たぶん)殺気だって歩いていたのだと思う。私のアウラとシェルシュ・ミディ通りのアウラはぴったり一致していたに違いない。向こうからフランス人らしき若い三人組がやって来た。男二人と女一人。日曜日だから他に人通りはなかった。彼らは立ち止まって、じっと私の顔を見た。

 「交換しないか」、と青年がいきなり言った。
 「何持ってる?」
 「LSD」
 「君は?」
 「キャプタゴン」

 ちょっと待ててくれと言い残すと、私がにこりともしないで差し出したむきだしのアンフェタミンの錠剤をポケットのなかに急いで突っ込んで、彼らは建物のなかに消えた。彼らはチンピラではなく、どちらかといえば育ちがよさそうな、少し退屈したようにも意気盛んなようにも見える美しい男女だった。ひょっとしたら皆殺しの天使というのはこんな感じなのかしらと私は理由もなく思ったのかもしれなかった。天使は変幻自在だ。70年代は旧約聖書の時代ではなかった。天使も様変わりする。ヴェンダースの映画のベルリンの天使よりはまだましだろう。
 扉のなかに消えた彼らの後ろ姿を見て、彼らが戻って来ないことがわかった。私はなぜか確信した。LSDは非在のなかで居場所を求め、宙吊りになったままどこかに迷い込んでしまうだろう。この状況はLSDのバッドトリップとはまったく違っていた。別に今日LSDがなくても何の不都合もない。でもこちらだけが騙されたのではなかった。私が渡したのも、残念ながら(ごめんなさい!)アンフェタミンではなく、日本から持参した残り滓のただの頭痛薬の錠剤だったからだ。
 物々交換は、架空のポトラッチ、絶対的理解と絶対的無理解の交換は、ちゃんと成立していた。それでも聞き耳をすませ試しにほんの少しだけ待ってから、私はそそくさとその場を立ち去った。喧嘩になれば、人数からしても負けるからだ。さっきも言ったように、彼らが戻って来ないことはなぜかわかっていた。でも、彼らが騙されたことに気づくのはあの頭痛薬を飲み干してしばらく経ってからなのだから、先手を打ったのは私のほうだった。これは一種の天使的なゲームであるには違いない。歩きながら少しだけ笑ったと思う。独り言みたいに。気分は悪くなかった。天使を騙したのだから。そして天使たちに騙されたのだから。天使がいるかどうかは誰かに尋ねてみないとわからないとしても、街角はどこにでもあったし、街角はあらゆる場所であり、いたるところだった。ここと同じように。だから町並み自体が時間と呼ばれる大河のなかを小舟のように漂い…、私は正午の日なたの皮膚病にかかった犬ころみたいに日に照らされた舟の上でじっと停止していた。


 シェルシュ・ミディを南下するちょっとした散歩。これもまた「原型」なのだ。旅や散歩のなかに原型を見つけることを私はボルヘスから教わったのだった。過去のなかにも未来のなかにも何かが解消されることになる。混じりけのない「純粋な泉」はどこから流れ出すのだろう。
 変な通りすがりの天使たちと別れて、チベット人の秘密結社がシェルシュ・ミディ通りにあったという話を思い出しながらモンパルナスへ向かって歩いた。何かの本で読んだはずだった。モンパルナス大通りまではそれほど遠くはない。第二次大戦の頃、ナチスがその結社の場所を血眼になって探していたらしい。でもそれでもそこはひとつの灰色の街角にすぎなかった。



 珍しい状況、例えば、仙台や福島からやってくる人たちが誕生日を祝い合う日はそうざらにあるものではない。予兆はあるのか。時間に抵抗できるものは何だったのか。私はそのチベット人の話が本当であれデタラメであれ秘密結社の場所を探したりはしなかったし、そんな気もなかった。シェルシュ・ミディ通りが重要なのではなかった。いくつもある通りのひとつにすぎなかった。シェルシュ・ミディはひとつの原型だったが、いつも通るドラゴン通りの何の変哲もない灰色の風景もまたひとつの原型だったことに変わりはないのだと思う。こんな風に言うと気取りすぎているように思えるかもしれないが、嘘をついているわけではないのだから仕方がない。もうそれしか残っていない言葉が私にそんな風に書くことを要請するのだ。


 もうずいぶん前の話だから、現在のシェルシュ・ミディがどのようになっているのか知らないし、別に知りたいとも思わない。与太話のようなあの昼を私はけっして忘れないだろう、などと私は言えるだろうか。ずいぶん長いあいだパリには行っていないし、フランスにも、どこにも行く気がずっとしなかった。「私は居て、そして居なかった」とジュネは書いていたが、これに勝る言葉はないだろう。フランスの友人もパリまで来いとは言わないし、いつかは会えるかもしれない。暗い日曜日に。十字架の下には何もなかったように、そこには、底には、何もない。恐怖と畏怖にふさわしい場所を見つけることができるかもしれないなどと私は言わないし、そんなものはただの詩的なたわ言、恐怖の代わりにさえならない無用の長物なのかもしれない。いまは足が悪くて…等々、思うように散歩ができないのが少し不満だ。懐かしいのはパリではなく、散歩のほうである。

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                                                    第49回 2014年4月



                      パゾリーニ、ゴルゴタの丘

 


                                                                    鈴木創士

 




四方田犬彦『俺は死ぬまで映画を観るぞ』『蒐集行為としての芸術
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ


                                      
 春だからといって、うかれてばかりはいられない。パゾリーニとキリストのことをパゾリーニにならって「無防備に」書いてみようと思う。



 四方田犬彦が言うように、ピエル・パオロ・パゾリーニが映画をつくり、文章を書き、あるいは論争するときも、けっして手を抜かなかったのは本当だろうが、だからこそ彼は疲れていたのだと思う。彼の映像や写真を見て、私はいつも理由もなくそんな風に思った。そして彼は詩人でもあった。

 パゾリーニは丘の眺めを、草も生えていないような丘陵を好んでいたように思う。パゾリーニの映画のなかの丘の描写は素晴らしい。『豚小屋』の火山の丘が好きだ。カメラ・ショットであることを、カメラがそこにあることを、露骨に感じさせるパン・ショット。カメラがまっすぐ据えられていたとしても、すべては斜めに見える。斜線が引かれる。世界は傾いていなければならない。火山の丘はどちらかといえば、なだらかなように見える。なだらかさ。逆光。強い風。岩もしくは砂。神話のなかですでに不和が始まっていたかのように、向こうに火山の噴煙が上がる。それとも砂塵なのか。どっちだっていい。ロクス・ソルス。それは孤独の場所ではあるけれど、唯一の場所ではない。ここにも、そこにも、それっきりの場所しかない。唯一の場所などどこにもないのだから。こうして私は矛盾のまっただなかにいることになる。
 パゾリーニが殺されたイタリアの浜辺。彼の惨殺死体はひどいものだった。浜辺。キリストの一番弟子であるペテロも漁師の出身だった。ペテロもまた逆さまの十字架にかけられて殉教した。それにしてもファシストの犯罪はいつも惨たらしい。
 巡礼などしたこともないのに、私もまた髑髏の握りの付いたステッキをついて、あの群衆、野次馬たちに混じって、キリストの姿などもうどこにも見当たらないゴルゴタの丘に立っているつもりでいなければならないのだろう。処刑は終わった後だ。群衆は引き潮に攫われたようにまばらになっている。民衆の阿片はどこにあるのか。キリストを殺っちまえと激昂した馬鹿どもの憎悪、そして依存者たちの集会。悲しみはすぐに癒える。すでに人はまばらだ。私はそこに立ってみる。それが正確に言ってどこなのかも露知らずに。不穏な空とごつごつした岩、わずかな草。時おり雨混じりの風が吹き止まない。歴史の証言は虚しいものである。誰が見ていたのか。誰が殺されたのか。誰が書いたのか。

 この日、十字架にかけられ処刑されたのはキリストと二人の犯罪者である。私は四つの福音書のなかで「ルカによる福音書」だけに詳しく記されたこの一節が気に入っている。十字架にかけられたひとりの罪人が十字架の上から隣りの十字架上のイエスを罵る。
 「おまえがメシアなら、いますぐに自分を救ってみろ」
 もうひとりの罪人が彼をたしなめる。おまえは自分で罪を犯したのだから、報いを受けるのは当然だ。だがこの人は何もやっていないじゃないか。イエスよ、もしあなたが王権をもって帰って来られるときには、どうか私のことを思い出してください。
 即座にイエスは答える、
 「あなたに言っておく。今日、あなたは私とともに天国にいるだろう」
 ゴルゴタ、ラテン語で言えばカルヴァリオの丘、アラム語でシャレコウベ、つまり髑髏を意味する。髑髏。君たちと僕のことだ。死後の栄光。つまり死が勝利することはあっても、誰にとってであれ、死後の栄光など存在しないということである。それはわかりきったことだ。イエスに関して言えば、イエスはそこ、ゴルゴタで処刑された。死後の栄光は約束されていなかったどころの話ではない。栄光の誉れを授かったのは「身体」であって、死後の栄光ではない。たとえ栄光の「身体」が後に顕現したとしても、ユダヤ人たちによって、それともすべての人間たちによって惨殺された、生きていたイエスの身体はどうなったのか。

 イエスの死体はたしかにそこにあったはずなのに、墓は空っぽだった。いまでもその歴史的事実は変わらない。これは正確に言って何を意味しているのだろう。かつて蘇りと昇天がおおっぴらに焦点になったことはなかったように思われる。公教要理や宗教論争の話をしようとしているのではない。私は「事実」の話をしているのだ。
 恥知らずにも、アウシュヴィッツは存在しなかった、などと真顔で嘯いていた歴史修正主義者と言われる馬鹿かキチガイ、ならびにその他の有象無象(うぞうむぞう)がいたが、ゴルゴタが存在しなかったなどということもまたあり得ないことである。エルサレムの聖墳墓教会? だがゴルゴタがほんとうはどこにあったのか、正確にはいまでは風さえも知らないのだ。ここ、ロクス・ソルスは、ここ以外のあらゆる場所である。ここ以外のあらゆる場所を含んでいる。

 パゾリーニの『奇跡の丘』(1964年)をずいぶん久しぶりに見た。最初に見たときの印象はまったく思い出せない。原題は「マタイによる福音書」。この福音書のきわめて忠実ともいえる映画化である。忠実でないのはバックに流れる音楽による効果だけだと言っていい。バッハの「マタイ受難曲」は別にして、ヴェーベルン、モーツァルト、黒人霊歌のマザーレス・チャイルド、ソヴィエトの革命歌、ブラジル音楽…。



 『奇跡の丘』はプロレタリアート映画である。そこに描かれているのは、革命家(つまりキリストのことだ)と群衆の関係、いかにして権力(ユダヤ王国、ユダヤ教、ローマ帝国)は、その策謀を通じて、いかに勝利しようとも、そのことによってつねに敗北するかということである。パゾリーニによる革命家もしくは共産主義者としてのイエス像は、ほぼ「マタイによる福音書」の言葉だけから取られたと思われる科白によって(私のささやかな記憶によるもので、調べたわけではないので自信はないが、そのように思われる)、余計に強調されることになる。説教、つまり演説の科白がこれでもかこれでもかと頻繁に出てくるのはそのためである。無駄口をきくわけには、俳優に無駄口をたたかせるわけにはいかなかったのだ。

 何と素晴らしい冒頭のシーン。



 若いマリアの顔が大写しになる。次のショットは婚約者である大工のヨセフの怒ったような顔。カメラがマリアの顔から下方へ向かい、全身を映し出す。大きなお腹。完璧なイタリア絵画だ。石の家。入口から、たぶんマリアの母であるアンナたちだろうか、二人の人影が覗いている。婚前のことであるし、ヨセフはまったく身に覚えがないのだから、すでに妊娠して大きくなったこのマリアの腹に困惑している。マリアもヨセフも一言も喋らない。この無言はパゾリーニ映画特有のものであるようにも、またこの場合は、いつもとは違ってそうではないようにも思う。怒ったヨセフはそこを立ち去る。荒野の茨の小道を歩いていくヨセフの後ろ姿。絶望的に明るいパレスチナの地。続いて丘にへばりつくように石で築かれたベツレヘムの家並みのショット。ジォットの絵画「ヨアキムの夢」に描かれたような姿勢で、岩にすがって眼を閉じるヨセフ。すると天使が現れる。
 「ダビデの子孫ヨセフよ、妻マリアを家に迎え入れることを恐れるな。胎内に身ごもっているのは、聖霊によるのである。マリアは男の子を産むだろう。おまえはその子をイエスと名づけよ。その子は自分の民を罪から救うからである」。



 それを聞いて安堵した(ほんとうなのか?)ようにヨセフはマリアのもとへと帰ってくる。微笑むヨセフ。マリアも笑みを浮かべる。何も語ることはないのだし、したがって科白はない。二人の俳優の素敵な微笑み。パゾリーニも微笑んでいるに違いない。
 パゾリーニの登場人物たちの唐突な笑いはいつも素晴らしい。とりわけ子供たちの笑いが断然いい。この映画のなかでも気難しく神経質なイエスがたった一度だけ微笑む場面がある。ユダヤの神殿のなかで生贄売りや両替商など、商売をしているものたちに対して、いったい神殿のなかでこんなことをやるとは何事かと激怒したイエスは、店を壊し、人々を蹴散らし、乱暴狼藉を働く。これは明らかな暴力であるが、イエスはユダヤ教の神殿を成り立たせている経済自体を批判したのである。それを見て歓声をあげながら子供たちがイエスのもとへ駆け寄ってくる。するとイエスは子供たちににっこり微笑むのである。蛇足ながら「マタイによる福音書」にはこの微笑みの記述はない。

 マリアと並んで、この天使も俳優の顔が素敵だと思う。天使は若い。ゴダールの映画『マリア』の天使は与太者のようだったが、この天使の眼差にもほんの少しだけそのような眼光を感じ取ることができるかもしれない。もう20世紀後半にもなると、リルケがいみじくも述べていたような「恐ろしい天使」は描けなかったのかもしれない。



 パゾリーニ映画のなかで、まだあどけないこのマリア(マルゲリータ・カルーソ)と『王女メディア』のマリア・カラスのどちらを取るか、それが(原則的)問題である。私は聖母マリアに一票を入れたいと思う。ここには同性愛者あるいは異性愛者としてのパゾリーニの「傾向」を見出すことができるだろうが、いまは関係ないのでその話はしないでおく。ちなみに、年老いたマリアを演じているのはパゾリーニ自身の母である。それ以外には、最後の晩餐を直前にひかえたある日、イエスの髪に香油を塗るベタニアのマリア役を作家のナタリア・ギンズブルグが、キリストの十二使徒のひとりであるピリポ役を若き日の哲学者ジョルジョ・アガンベンが演じている。これが特筆すべきことであるかどうかは別にして。

 メル・ギブソンが監督したキリスト映画『パッション』(2004年)。ゲッセマネの園でのイエスの絶望のシーンから映画は始まるのだから、「マタイによる福音書」をなぞるようなパゾリーニの映画とは違って、この映画の全体はその題名が示すとおり「受難」に焦点が当てられることになる。イエス・キリストに対する残虐行為の描写という点では、この映画は「今風に」抜きん出ている(ユダヤ人その他による残虐性の描写は反ユダヤ主義者の映画とも受け取られかねないほど激しいものだし、実際、ユダヤ団体からメル・ギブソンは抗議を受けた)。
 そうだからだろうか、この映画が最も「新約聖書」に忠実であり、史実に近いと言えるだろう、とヴァチカン自らがわざわざ述べたとか述べなかったとか。史実……。たぶんそうなのだろう。だが、そうはいっても、なぜそのことをヴァチカンは知っているというのだろう。ヨハネ・パウロ二世の幻視的ヴィジョンのなせる業だったのか。とはいえ私の貧弱な直観からしても、聖書の史実はいざ知らず、暴力の質という点では、同じ結論にならざるを得ない。そう思わず言ってしまいたくなる。やれやれ、これでは問いは一巡してしまう。

 そもそもキリストの「リアリティ」とは何なのか。いったいそれは何のことなのか。史実? いや、たぶんそういうことではないし、それに明確な解答を与えることは永久にできないだろう、とあまりにも小心にまたは周到に言うことはないまでも、信仰の部外者としては、事実と記憶あるいは書かれたものを区別できない以上、ここでは何も確実なことを言うことができない。歴史の実在論と唯名論の話を蒸し返して、話をややこしくするつもりはないのでやめておくが、一言だけ映画に即して言うなら、これは単に「イマージュ」自体のもつ赤裸々さにすぎないのではないか。むき出しのイマージュはイマージュの特性でもあるのだ。それは誰もが知っている、映画が仕掛けるいつもながらの罠である。

 ここには二重の問いがある。「事実」のリアリティと「イマージュ」のリアリティである。映画は、この場合は様々な意味で、それらを混同する格好の装置である。この混同は瞬時になされ、映画が時間の芸術であることをほとんど否定してしまうほどである。そしてこの混同があたかも再び「事実」のリアリティのように感覚されてしまうのは、「現実」のリアリティに対してもわれわれは宿命的に同じような混同を行っているからだ。勿論私自身を含めて、われわれは生活の次元においてすらすでに「映画的効果」のなかにどっぷりと浸かっているのだ。
 余談になるが、そうはいってもこの『パッション』という映画には利点もある。科白がすべて当時のアラム語、ヘブライ語、ラテン語によるものだったことである。たしかにそれは「事実」に近い。それにイエスの母マリア役のマヤ・モルゲンステルンとマグダラのマリア役のモニカ・ベルッチがとても良かった。これが「事実」に近いかどうかは、あるいはパゾリーニ映画のマリア役であるパゾリーニの実母のほうが「事実」に即しているかどうかは、私は寡聞にして知らない。



 『パッション』と比較して、パゾリーニ映画が一見ドキュメンタリー・タッチに見えるのは、さきほどの「事実」と「イマージュ」をめぐる問いが解決でもされない限り、単に「マタイによる福音書」に忠実である結果にすぎないからだと言うしかないではないか。すべての映画はある意味でドキュメンタリーであり、すべての映画の細部はドキュメンタリーであることを裏切っている。
 福音とは単に「良き知らせ」ということである。そもそも福音記者たちは最初の超越論的「ジャーナリスト」であり、近代的な意味での最初の「作家」であったのだと私はずっと前から思っていた。旧約聖書と比較してみれば、新約聖書におけるこれら福音書の筆致がきわめて現代的なものであることが一目瞭然であるのはそのためである。福音書は、作家の存在論が成立し得えたそれこそ奇跡的な最初のルポルタージュなのである。
 これらの記者たちは「出来事」を書くためにだけ、ほぼそのためにだけ存在したと言ってもいい。他の福音記者たち、マタイ、ルカ、ヨハネたちがそれぞれの福音書を書くための原本とした、最も古いと言われる「マルコによる福音書」が、パゾリーニが無味乾燥だと考えたように、ほぼ客観的な記述に終始しているのはそのためである。
 だが、私の気に入っている一節がある。面白いというか微笑ましいことに、マルコは一カ所だけ卒然とたぶんマルコ自身のことだと思わせる若者のことをそっと自分の福音書に挿入しているのだ。すべてのジャーナリストは作家であることを免れることはできない。ちなみに他の福音書にこのくだりは存在しない。マタイ、ルカ、ヨハネは、意地悪なことにこの部分を削除したことになる。
 「ある若者が素肌に亜麻布だけを纏って、イエスの後についていたが、人々が彼を逮捕しようとすると、この若者は亜麻布を脱ぎ捨てて裸のまま逃げ去った」。
 事実のおかしさと事実の重み……。

 事実? だがパゾリーニが殺されたのも、キリストの処刑と同じように事実であることに違いはない。パゾリーニはなぜ殺されなければならなかったのか。『サロまたはソドムの120日(ソドムの市)』を撮ったからなのか。コミュニストだったからなのか。それが男色の痴情のもつれによるものなどではなく、政治的背景があったことは否定しようもないだろうが、実際にそこで何が起きていたのかははっきりとは誰にもわからないままである。



 だが、エルサレムの紛争は言うに及ばず、キリストの死がそれをわれわれにずっと強要しているように、パゾリーニの死に対してもまた何らかの答えを与えなければならないのかもしれない。パゾリーニ詩集の訳者でもある四方田犬彦の最新詩集『わが煉獄』から、パゾリーニまつわる詩「壕」の断片を引用しよう。

ああ
ピエル・パオロ、
きみは今 どこにいるのか
壕の間近なのか
そこから炎はいくつ見えるのか
水はあるのか
焦げたタイヤの臭いに包まれているのか

きみは地獄だけを
血と糞尿だけを見つめて 眼差しを閉じた
轢き潰された顔の 首筋の黒い血の凝り
生きることは過ちを犯すことだと、きみは語った
過ちは美しかった
誰もがきみのなかの預言者を怖れた
一番きみの預言を怖れていたのは
きみ自身だというのに

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第48回 2014年3月

 

映画館から出るといつも裸足だった

 

鈴木創士

 

四方田犬彦『俺は死ぬまで映画を観るぞ』『蒐集行為としての芸術
ニコル・ブルネーズ『映画の前衛とは何か

 

 

 アラン・レネが昨日逝去した。巨匠がまたひとり姿を消したことに違いはないが、ちょうど数日前、なぜかアラン・レネの映画『去年マリエンバードで』を見たところだった。このことに別に驚きはない。あっそうかと思った。彼の死ぬ前に見たのだから、風が吹いて桶屋が儲かったわけではない。問題は私の日々の暮らしであるのだし、20世紀の巨匠に関して言えば、単にそういう時期だった。鳥の羽がひらひら落ちてきて窓ガラスにべったりくっついていた。誰もそれに目くじらを立てたりはしない。スクリーンの中の人物は、実際に生身の彼が死んだ後もフィルムのなかでずっと同じ動作を永遠に繰り返しているのだから、それに比べれば何の不思議もない。(映画のなかのイマージュは分身と見分けがつかないのさ)。
 『去年マリエンバードで』は、昔、映画館で見たので、二度目だった。だけどというか、やはりこの映画が今回もどうしても好きにはなれなかった。(鏡の回廊が出てくるからといって、それで分身の映画になるわけじゃないだろ…)。とりわけアラン・ロブ・グリエの脚本がすごく嫌いだからだ。わざと狙ったことは誰にでもわかるにしても、それにしてもあまりにわざとらしい台詞。誰にでもそれがわかるし、わかってもらえることをあらかじめ想定しているなんて、そんなものなどどこにもありはしないのに、映画についての(他のものもだけど)知的共同体があらかじめ存在するのだと考えるのと同じくらい滑稽である。(分身は、それがどんなものであれ、つねに共同体を離脱するものでしかないのだし、それは根なし草であり、帰属するところがないのだから、彼の主人は? といっても、そんなものは上辺だけのことさ)。
 おまけに哲学的であることを(何しろ当時は流行っていたんだからさあ)ことさらに誇示しながら、実は唖然とするほどまったく哲学的内容を欠いてしまっている。(分身の身分はそもそもそれ自体哲学的であるのだけどね)。ロブ・グリエには才能がないのだろうか。そうとしか思えない。この脚本は、言葉が硬いだけ。お話はただのつまらないメロドラマ、言葉はメタドラマ風(あくまで風だ)。
 勿論、メロドラマを馬鹿にしているわけではないが、この映画の脚本がメロドラマなのは、そうであれば表面上は約束として誰にでも理解できると高をくくっているからである。そうすれば単に哲学的であることの裏をかくことができると思っているからである。浅くて、さもしい考えである。これではメロドラマですらないし、びっくりするほどセンスに欠けるというものだ。われわれ観客もずいぶん見くびられたものである。(分身には感情があるかどうかは知らないが、少なくとも感情的になることはないし、人を見くびったりはしないはずだよ)。
 その点ではこの映画のほとんどの俳優たちについても同じようなことが言える。まあ、私の好みなんかどうでもいいし、俳優自身のせいではないのだろうが(でもこれは映画なのである)、気になる役者は男優のうちのひとりだけ(よくは知らないが、サッシャ・ピトエフ?)。女優デルフィーヌ・セイリグの演技も、この映画に関しては、とてもじゃないがいいとは思えない。デュラスの『インディア・ソング』の彼女の方がずっと魅力的ではないか。
 わざと深刻さと退屈を狙った演出をやったにしても、ほとんどの役者の演技は深刻なまでに下手くそだ。ラシーヌの、いや、モリエールの国だというのに、この手の深刻さや倦怠はただただ滑稽の極みであるし、作る側のこの手のやり方は見ていて恥ずかしい。(分身は汚辱にまみれてはいるが、それ自体には恥辱的なところなんかちっともない)。
 素晴らしいのはタイトルだけと言ってもいい。こんなことを言うと、おまえは映画をわかっていないと言われそうだが、わかるというのが何のことなのかわからないし、実際、わかっていないのだから仕方がないじゃないか。


 ロブ・グリエが嫌いだからといって、ヌーヴォー・ロマンが嫌いというわけではない。クロード・シモンはいまでももっとちゃんと読みたいと思っている作家であり続けているし、エディション・ド・ミニュイ(フランスのヌーヴォー・ロマンの出版社)の作家たちのなかにはいろいろ好きな人もいる。ソレルスの本の翻訳者だから言うのでは断じてないが、ヌーヴォー・ロマン時代のソレルスの小説『ドラマ』はいまでも傑作だったと思っている。
 ずいぶん前の話で恐縮だが、京都の日仏にロブ・グリエが講演にやって来たことがあった。若かったわれわれは三人で冷やかしに(これは言葉のアヤです)行った。講演の内容はまったく思い出せない態のものだったが、後の質疑応答の際のイザコザはよく覚えている。(分身に聞いてみないとわからないが、というか私の知ったことではないが、この場合は、分身が講演を聞きに行ったのではないのよ)。
 「五月革命の興奮覚めやらぬ頃、あなたはシュルレアリストの極左であるジャン・シュステルやモーリス・ブランショと一緒にカストロに会いにキューバへ行ったそうですが、いったい何をするつもりで行ったのですか?」
 われわれが礼儀正しく(だったかどうかは覚えていないが)そう質問しただけで、ロブ・グリエは露骨に嫌な顔をして、大人気なく怒り出した。
 「フランスにも君のようなゴーシストというか過激な若い連中がいるのを百も承知しているが、私はそういうのにうんざりしているんだ」
 なんて失礼な奴だと思った。度量がないだけならまだかわいらしいが、顔も表情もただの意地の悪いインテリ・フランス人の典型といった感じで、かわいくないどころかみっともなかった。不愉快でつまらないオッサンだ。知識人じゃないのか? えっ、何かコンプレックスでもあるのか? その後、少し言い合いになったと思うが、残念ながら、いかにロブ・グリエの作品に見るものがないかという豊穣な文学的議論を交わすことすらできなかった。
 「あっ、そうですか、退屈だからもう帰るわ」と捨て台詞を残して、われわれ三人は早々に会場を引き上げた。最低限の礼儀として。
 ドゥルーズは講演会やシンポジウムをやるなんて死んでも嫌だというようなことを言っていたと思うが、フランスの知識人の講演会などに嬉しそうに出かけて行くこと自体がとんでもない間違いだった。ましてや、言っときますが、質問など絶対にやるものではない。何の益もなし。


 ここ一週間くらい前から、『去年マリエンバードで』以外にも続けて幾つか映画を見ていた。ジャン・ジュネが脚本を書いたトニー・リチャードソンの『マドモワゼル』、ブニュエルの『皆殺しの天使』、ロバート・アルトマンの『三人の女』、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』。(ファスビンダーも見たが、ファスビンダーはまたの機会にね)。なぜこれらの映画かということについては他意はない、たまたまそうなっただけである。上演の偶然は運命を混ぜ合わせるものだとある俳優が言っている。ごちゃ混ぜにするのだ。自分でもわからなくなるくらい。
 私には脚本家としてのジャン・ジュネとロブ・グリエを比較するつもりはさらさらないので、ジャンヌ・モロー主演の『マドモワゼル』は除外する。論外である。


 映画館を入れて二度目だった『皆殺しの天使』は、ちょうど『去年マリエンバードで』と同じように、ブルジョワたちと、ある館の話である。晩餐会にやって来たブルジョワたちがその館から、理由はわからないがどうしても出ることができないという不条理な映画である。

 だがまずは細部の意匠が全然違う。ブニュエルの美術的センスはもともと素晴らしいが、鏡、扉、回廊、木や花のない石だけのフランス式庭園といった、退屈なだけの『マリエンバード』のバロックの館と比べて、こちらにはふんだんにバロック的寓意(記号論的にも、むしろカトリック的、さらにカバラ的、フリーメーソン的、さらに無神論的にもね)が施されているし、映画的な仕掛け、思想的宗教的魔術的絵画的時事的薬物的法医学的な仕掛けもある。この仕掛けは暴いたり隠蔽したりする。
 そしてこのようなことすべてをある種のユーモア(ブラック・ユーモアだよ)とともに、どこか投げやりにも思える後味を残しながらやってのけるなんて、格の違いを見せつけられているとしか言いようがない。ブニュエルは映画セットの蔭やスクリーンの背後で笑っている。たぶん大笑いしているのだ。
 そんな風でありながら、四方田犬彦がその大著『ルイス・ブニュエル』に書いているとおり、この映画の細部のどこを省略しても、たちまちこの映画が理解不能なものとなってしまうくらい『皆殺しの天使』は緻密に構成されているのだ。こんなことは誰にもできない。そしてこの緻密さは「現実的」なものが(そう、現実的なものが)、さまざまな側面、審美的、政治的、趣味的、気息的、情緒的、メロドラマ的、暴力的側面、などなどをともなって、ぎりぎり要求するものなのである。
 アラン・レネには悪いが、さすがブニュエル!


 はじめて見たアルトマンの『三人の女』のあの嫌な女たちはどうなのか? 嫌としか言いようがない。画家はいざ知らず、他の二人とは絶対に付き合いたくない。これほど一挙手一投足に嫌な感じを受ける主演女優たちに出会ったのは、私にとってそうざらにあることではない。彼女たちは『マリエンバード』や『皆殺しの天使』の人物たちようにブルジョワではなく、今でもたぶんどこにでもいるようなアメリカ女性たちだ。


 
 だがこの「嫌」な感じ、「不快」な感じはどうだろう。誰かも言っていたように、文明の、文化の不快と言ってもいい。嫌な感じを与えることができるというのは、これらの女優たちのキャリアがどうであれ(そんなことにはそもそもまったく興味がないね)、演技と演出とカメラのなせる業である。と同時に、この不快さは底知れぬ不吉さでもあり、つまり文明的な病やわれわれの破滅の醸し出す不吉さでもあり、知らず知らずのうちにそれに感染するかのように、太古の象徴としての「蛇」のごとく、すでに心理的次元を越えて驚くほど深いものを含んでいると思う。われわれはその不快さとつねにすれ違わなければならない。そこここで。映画の内と外で。
 ここから、象徴論的であったり文明論的であったり社会学的であったり心理学的であったり、新聞の映画評論家がやるように(ほんとかな?)大風呂敷を広げたり、中身が空っぽの大袈裟な話にもっていくことはいくらでも可能だろうが、私にはそれをやるつもりはない。そんなことはすでに全部無意味である。第一、無粋である。この映画はきわめて日常的なプロットからできていて、アメリカの田舎町の普通の風景のようでもあるからである。映画は逆に日常のなかにもまたすっぽりと収まってしまうのだ。まさにそのように思わせることこそ、他の芸術にはない映画独特の、なんというか、「技術」というか「技芸」である。アルトマンのこの映画にはそれを少なくとも感じ取ることができる。
 「人が変わる」。字面を追っていると、妙な言葉だ。別人のようになる。日常的にわれわれが出会うこの不吉な事態。映画のなかではどうということもない、このアルトマンの映画の微妙な変化、その感じや雰囲気を、もし小説で描くとなれば至難の業である。そうであるなら、『マリエンバード』のつまらなさは、ロブ・グリエの小説、シネ・ロマンをそのまま映画化してしまったことに尽きるという、くだらない映画にはよくあるような、原作と映画の関係が持つかなり凡庸な次元に存しているのではないかとさえ思えてしまう。


 『ラ・パロマ』? 映画館を含めてこの映画を見たのは五回目くらいだが、私には『マリエンバード』と比べることなど到底できない。ファスビンダーと個人的に縁浅からぬダニエル・シュミットが撮った、まだ二作目の劇場映画だったのだから驚きだ。主演は、生きていても死んでいても目をぱっちりと見開いたままのイングリット・カーフェン。



 『去年マリエンバードで』(1961年)から『ラ・パロマ』(1974年)まで、すべての細部、色彩、カメラワーク、ショットの切り取り、切り返し、音、音楽、脚本の展開、演技の質、などなどにおいて、つまり芸術性において、退廃の質において、誰かの言い方を借りるなら、「映画」ははるかに進歩したのだと言うことができる。違いをいちいちあげつらっても虚しくなるだけである。それにジャーマンシネマがどうのこうのと私は言いたいわけではない。むしろこの映画には、作者の意には反しているだろうが、ロシア文学のようなところもあるのではないかと思う。
 趣味というか好みの次元もなおざりにはできない。すべてはそこにかかっている場合だってある。狂気もそこに含まれるほどである。映画なのだから。といってもこの一点は重要である。映画自体の狂気というものを考えざるを得ないからだ。狂気、知っているようで、知らない、いや、知っていて、同時に知ることのできない狂気。ところで『マリエンバード』には狂気はないと言ってもいい。おしゃべりがあるだけである。『ラ・パロマ』の場合は、いちいち断るまでもないだろう。


 映画は第七芸術なのだろうか。歴史的に七番目に登場した芸術というのはそうである。フランスの哲学者クレマン・ロッセは、映画はある意味で他の芸術すべてのなかで第一のものになったと言っているが、たしかに映画は他の芸術すべてを自らのエレメントとすることができるし、したがって他の芸術すべてが羨むような「直接性」を持っている。(物質と観念の間で宙吊りになっていることを装いながら、同じくわれらが分身も知られざる直接性を持ち合わせているんだぜ)。このことはとても無視できない事柄である。
 直接性? それはイマージュの物質的ともいえる直接性であり、この直接性とは、現実的なもののイマージュが、イマージュという点でも現実という点でも、それ以外の何ものではないということであり、実際問題として、実在性のさなかにある現実的なものの直接性によってしか映画はつくれないというほどの意味だ。映画は、それが何であれ、どのように撮られようと、現実的なものとのつながりを断ち切ることはできない。だから映画はずっと民衆のものであったのだし、と同時に普遍的な芸術が何であるのかをわれわれに考えさせるものでもあるのだ。
 アルトーは映画の黎明期に「魔術と映画」というエッセーのなかにすでに書いていた。「映画はますます幻想的なものに近づくだろうし、この幻想的なものについては、それだけが実際には現実的なものであることに人はますます気づいている、さもなくば映画は生き残れないだろう」、と。
 この幻想的なものとはイマージュ自体のあまりにも現実的な幻想性であり、妄想を超える半分物質と化した妄想であり、それは現実を否が応でも映すものであって、20世紀以降の人間にとって、現実はこの幻想的なものを現実的なもののなかから捨象することはできない。
 だが柄にもなくいまさらヘーゲルのシンガリをつとめるのはやめておこう。


 それに第一であれ第七であれどっちだっていい。私の好きだった俳優ピエール・クレマンティの言葉のほうが真に迫っている。それにしてもブニュエルの『昼顔』でのクレマンティの演技は、実際にそれを真似したがるふらちな輩が出てくるくらい素敵なものだった(私はそういう人を一人か二人知ってるよ)。
 「私はとても映画が好きだ、君が忘れてしまったことの痕跡であり、君が失ってしまった君自身のあの部分の痕跡であるイマージュが好きだ。すぐさま、一瞬のうちに、再び君は君の過去の常連となる。私はあの男だったのであり、走ってスクリーンを通り抜ける。そして君が演じているまさにそのとき、すでに君は後になって君に会うことになるだろう男なのだ。映画はひとつの絆であると私は思っているが、それは、君自身にも他の者たちにも、君がかつてそうであったものにも君がげんに今そうでないものにも、君を結びつける…」(ピエール・クレマンティ「さらばアイドル」)。


 君はかつてそうであったものに、いまそうでないものになる。(分身の次元の話じゃなくて、怪我をすれば血を流す、現実のなかで四苦八苦している生身の君や私の話さ)。そうなることができるということではない。可能性の話ではない。潜在性の話でもない。映画館から出るといつも裸足だった。後ろでライターのカチッという音が聞こえた。映画館から出るといつも血まみれだった。映画館から出ると……。『昼顔』のピエール・クレマンティはエナメルのブーツを履いていて、そいつを脱ぐと靴下には大きな穴があいている。

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                                                        第47回 2014年2月


                                      

誰でもない人

異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える




                                      
                                                                      鈴木創士

                                      
                                     

宇野邦一『詩と権力のあいだ
鈴木創士『魔法使いの弟子

                                     

 ある人の家に足繁く通っていた頃、電車を降りて駅の北側へ出ると、いつも寄り道をした。ある人の家は駅の南側にあるのだが、線路から北に少し急な坂を上って、線路と、さらにその北側にある、さして大きくもない池との間の二筋目を横手に入ると、お気に入りの細い道があったからだ。池は緑色の水を湛えていた。二百メートルほどのこの小さな道を通ると、いつも別の時間の中に入る、というかしばらく居ることができた。別の時間? たしかにそうだ。別の時間が在り(時間は流れているようには思えなかった)、またはそこにわだかまるように別の時間は停滞していたのだが、私はそこをたまたま通り過ぎるだけだった。灰色の、しんと静まり返った時間にはほんの少しだけ別の蒼白い光が、時には黄色い光が射した。だから雨の日にはそこを通るのをやめた。
 道には壁がずっと続いていた。ところどころ古びて変色したコンクリートが剥げ落ちて、中の煉瓦が丸見えになっている。壁にはスイカズラの蔓が垂れて、五月頃になると白い花をつけた。時々、花を無造作にいくつか失敬して、子供の頃にやったように蜜を吸った。路地じゅうにいつも強く甘い香りがしていた。スイカズラは忍冬と書くくらいだから、冬をも耐え忍ぶ強い草であるからだろうか、そこを通ると、花の咲かない冬でも鼻を突く香りでむせ返るような感覚に襲われる。
 道はいつもひっそりとして、人とすれ違うことはまったくない。鳥の囀(さえず)りが遠くでしているだけだ。鳥の姿はなかった。ずっと続く壁からは生い茂った樹々しか見えず、家屋は見えなかったし、このかなり広大な屋敷が誰の住む屋敷なのかは知る由もなかった。私はただ速度を緩めてそこを歩く。けっして何も見てはいないのに、見えるのはいつもほんのわずかにざわめく梢(こずえ)だけだ。
 道のもう片側には竹を組んだ塀があったし、道の左半分が和風で右半分が洋風だった。変な言い方だが、日本の平凡な町にある、見たこともないような道には違いなかった。ずいぶん間の抜けた感想だが、私はいつもそんな風に思った。歩いているとき、私は考え事などしなかった。私は何も考えていなかった。何も思考できなかった。だが、どこにでもあるというわけではないが、どこかにあるようでもある小道でありながら、それでいてこの道には独特の、名状し難い風情がある。それが私に何かを強要した。ここはリスボンでもブエノスアイレスでもないのだけれど、一瞬、なぜか自分がどこにいるのか、どの町なのか、どの国なのか、わからなくなるのだ。私は幸福感を覚えた。私は突然の多幸感にとまどうほどだったし、またそうでなければならないと義務のように思わずにはいられなかった。
 ここを通る数分間、私は完全に独りだったからだ。内と外の両方で、同時に何かが溶けていった。自分に対する理由のない親密さは自分というものを雲散霧消させる特効薬のように思えることがある。私がランボーの言うような「場所と公式」を求めて焦っていたのだとすれば、場所は図らずもこの道であり、公式は、この場合、自分から抜け出すことだったはずだ。私は誰でもない人だった。私は否定の権化であり、何かと何かの間隔であり、空気でできた壊れた機械のバネ、中空に放り出されたただの螺旋であり、忘却であり、遅れ、ズレであり、未分化の細胞にも似た不定形のもの、プラトンの語る「彷徨える原因」だった。
 そして不思議なことにそれらすべてのものが、ゆるやかな類似のひとつの形をなした。風景はどれひとつ同じものがないとはいえ、互いに似ていたし、私にも似ていた。全体のない部分だけがあった。奇妙な集合論だ。これは私を一種の麻痺状態にした。というか麻痺状態の中を泳いでいるようだった。フェルナンド・ペソアは、人が死のことを眠りと呼ぶのは、外部からすれば死と眠りが似ているからだと言っていたが、それならばここは集合の外部だったのだろうか。


 ここ二、三日、私は熱に浮かされている。これを書いているいまもまだ熱が下がらない。意識が朦朧としているわけではないので、浮かされているというのは言い過ぎかもしれない。昨日も昼間、床に臥せっていて、切れ切れの夢をたくさん見た。目覚めると、何も覚えてはいない。ウィルスらしきものがからだの中で増殖していたらしい。私のからだは戦闘中というか内乱状態にあるのだ。風邪に似た症状はかなり不愉快なものだけれど、たいしたことはない。
 私は書いてみる。一行、また一行と、少しずつ。ペソアは「無意識のウィルス」などと言っていたが、熱とともに私の無意識が蒸発していくみたいだ。病気は肉体の狂気の発端であるだろうが、肉体を除けば私は発狂してはいない。そのことに安堵することすらない。ペソアにまつわるアラン・タネールの映画を見たからだろうか、訳もなくランプや灯台や下町のレストランのことを考えてしまう。枕元のランプ、半分廃墟になった灯台、ポルトガル料理のSarrabulho。海、酷暑、ジプシー、手相、タクシー運転手、路地裏のホテル、模写されたボッシュの絵の部分、雨ざらしになったぼろぼろのピアノ…。

 

 

 そしてリスボンのバイシャ(土地の低い中心街のこと)の入り組んだ路地や、情緒溢れる古い界隈アルファマの喧噪や、ドウラドーレス街の中二階にあるレストランやカフェ・ブラジリアがなければ、ペソアは存在しなかったのだろうか。もしペソアがドウラドーレス街から出て行くことは決してないだろうと自分に言い聞かせなかったならば、リスボンの街から出て行ってしまっていれば、ペソアがほんのわずかの永遠を知ることはなかったかもしれない。こうしてひとたび書いてみると、それはもう永遠のことのように思われるのだ、と彼も書いていたのだから。いや、彼が書いたというのは不正確だ、ペソアの分身のひとりであるベルナルド・ソアレスがペソアに向けてそれをそっと誰かの耳元で囁いたのだ。


 無駄な言葉、零れ落ちる言葉、無関係のいくつかの隠喩。漠然とした不穏さがそれらを別の時間に結びつける。ペソアはそれを郷愁だと言いたげだったが、それがわずかな苦い郷愁を呼び起こしはしても、郷愁そのものだとは私には思えない。

 あるよく晴れた日のことだった。私はいつものようにその道を通った。その道を行くことだけが目的にさえならない目的だったのだから、相変わらず私は何も考えていなかった。ある人の家はそこから遠くはなかったが、その頃になると、この道を通るために、ある人の家へ私は行っていたのかもしれなかった。昨日はかなりの土砂降りの雨だったので、陽が射し始めると、最後の雨が空を去った後、空気が澄み渡って、ものの輪郭が黒く、くっきりと見えている。雨上がりはいつも美しい。
 ところが道に一歩足を踏み入れると、妙な感じがした。何かがおかしかった。スイカズラの匂いがしないし、雨上がりなのに、鳥の囀りも聞こえない。最近ではもう珍しいアスファルトではない土の道ももう乾いてしまって、雨が降った後のようには思えなかった。
 私はいつもと同じように歩いた。見ると、道の右側の塀にはスイカズラの蔓も花もなく、枯れた蔦の蔓がわずかに壁にへばりついているだけだ。塀はたしかにところどころ剥げ落ちていて、中の古い煉瓦が見えている。だが、左側には竹を編んだ冊のような純日本風の塀などなく、鬱蒼とした空き地があるだけだった。左側には、日本家屋の離れの一軒家だったのだろうか、古い勝手口が見えていたはずだが、そんなものは跡形もなく消えていた。この南側の向こうはいろんな種類の樹々が乱立する林があるだけで、手前にはスイカズラではなくエニシダが密生している。エニシダの黄色い花はほとんど枯れかかってはいたが、あちこちにサヤエンドウのような黒々とした実をつけていた。私の記憶違いなのか。そんな馬鹿な。何度となく通った道だ。間違うはずはない。スイカズラは金銀花とも書き、白だけではなく黄色の花をつけることがあるのを知っていたので、私は急いで近寄ると、エニシダのまだ完全に枯れてはいない黄色の花をもぎ取って、あわてて吸ってみた。萼の苦い味しかしなかった。甘い蜜は消えていた。


 そのと