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第99回 2018年6月





HOC EST ENIM CORPUS MEUM
これが実に私のからだである





鈴木創士


カール・クラウス『黒魔術による世界の没落』(エートル叢書18)
アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』(エートル叢書22)

「癌にかかった言語のみが新しい教養形成に向かいつつあるのだ」
――カール・クラウス

 イエスが自分の肉体を弟子たちと民衆に示したとき、ゴルゴタの丘には腕組みをした悪魔がひとり岩にもたれて立っていた。イエスは死んだ。空は急にかき曇り、稲妻が走り、ユダヤの神殿はまっ二つに裂け、崩れ落ちた。人もまばらになった嵐のその丘で、悪魔は皮肉な笑いを浮かべていた。その笑いが何なのかはわからない。歴史はそれに答えない。かくして最初の事件は終わった。以下同様。
 死せる肉体、ということは生きていたはずである肉体、その肉体の儀式の形を装うミサの言葉はこんな風に終わる、「ITE, MISSA EST. 行け、ミサは終わった」! 世界にふさわしくない死体がそこで示されたのであれば、そしてグノーシス主義者が言うように、知るということにおいて死体、すなわち元あった同じ肉体と世界が等価なものになったのであれば、なおさら私も君たちも追い出されたのであるし、お払い箱になったのである。栄光の身体はどこへ行ったのか。どのあたりを彷徨っているのか。さようなら。いや、訣別の言葉などありはしない。だが肉体は用済みになったのだろうか。

 文章はひとつの思考ではない。言葉はどこから来るのだろうか。私の記憶は私の主体にとってどういうものなのか。
 それ自体じつに驚くべきことなのだが、病人となったフラソワ・マトゥロンはベッドに横たわりながらソシュールのこんな文章を思い出していた。「心理学的には、われわれの思考は、言葉によるその表現を捨象してしまえば、かたちのない不分明なかたまりにすぎない。哲学者と言語学者はたえず一致して、こう承認してきた。記号の助けがなければ、われわれは二つの観念を明晰かつ恒常的に区別することができないだろう。それ自体として把握された思考は、必然的に境界づけるものがなにもない星雲のようなものである。あらかじめ確立された観念は存在せず、言語の登場よりも前にはなにも判明ではない」。
 フランソワ・マトゥロンは、脳卒中を起こす前に、ソシュールがそうとう間違ったことを言っていると考えていたが、卒中後にその確信はほぼ彼の肉体的現実となる。思考は星雲のようなものではない。心理学は何の役にも立たない。少なくとも彼にとって(このことは普遍性を要求してあまりある)、それ自体として把握された(それ自体として以外の仕方でいったい何が把握されるのか)思考は星雲のようなものではなかった
 まずファーストネームが失われた。妻の名前も忘れそうになった。「ものの名前を思考に定着させられない」。多くの単語が頭のなかに現れては瞬時に消えてゆく。記号は、逆に思考によってそれが発せられたのでない限り何の助けにもならない。記号の助けがあろうとも、必然的に境界のない星雲のなかにあったはずの二つの観念を、肉体的に明晰かつ恒常的にいかにして区別するのか。精神と肉体はすでに明晰かつ恒常的に分離されたのか。まず思考は名前をもっているなどと誰が言ったのか。俺は野菜になりたくない。俺はアレではない。俺は君ではない?……
 病院に到着した翌朝には、マトゥロンはほとんどしゃべれなくなっていた。何とか口にできた単語は「ひげそり」。なぜそれを言ったのか、それがなにを意味するのかはマトゥロンの子供たちにもわからない。神さえそれを知ることはない。マトゥロンは神ではないし、神は神でしかない。
 すぐに強烈な一夜が訪れる。キャロルという妻の名前を覚えておかなくては、キャロルという名前を覚えておかなくては、覚えておかなくては……。キャロルは再び星雲のなかに消えてしまうのか。だがキャロルは星雲のなかから出てきたのではない。この内的体験は肉体の延長の経験でもある。スピノザが言うように、身体が身体の延長でしかないならば、肉体は彼の外に出てしまっていたのだろうか。馬鹿のひとつ覚えのようで恐縮だが、たしかに肉体は肉体から抜け出すのである。かつてアルトーは言っていた、「神よ、俺の肉体をどうしちまったんだ!」、と。
 だがそのときから「思考の地平が安定しはじめる」。マトゥロンは思考の地平と言ったのであって、それは言葉の地平ではない。何が起きたのか。これはある意味でものすごい経験だと思われるが、時間が流れはじめるのである。以前と以後。時間のゼロ地点。つまりそこに、その経験に、「無」が、アルチュセールの言葉を借りるなら「無からの始まり」があったのである。
 「まず時間のゼロ地点ができる。するとゼロ以前の時間もでき、そこでは卒中はすでに起きている。一種の時間以前の時間である。そしてはじまりが来る。無からのはじまり。そのときまで読書を通じて垣間見ていただけの思想を、ぼくは自分の肉体で経験した」。
 こんなことを言えば、いまだに数々の肉体的不都合、肉体的大惨事を抱えるマトゥロンには不本意かもしれないが、ここには新しい肉体がたしかに出現しているのである。私は不埒にも肉体の自由という観念すら思い浮かべてしまう。そして生の、生(なま)の苦しみがいつも事後的に語られることを回避できる言葉の事実性はそこから出てくるのかもしれない。これは私のからだである。そう言うことができるのだ。これは私のからだではない。そう言うことはできるのか。だからスピノザ主義者である哲学者マトゥロンは、「誰が身体を、その力能を、その無力を知っているのか」とたえずわれわれに問いかけるのである。

 こうして『もはや書けなかった男』(航思社刊)という本が書かれることになる。
 哲学者であり思想史家であるフランソワ・マトゥロンは、死後出版されたアルチュセールのかなりの著作を編纂・校訂した。盟友である市田良彦らとともにかつてアントニオ・ネグリを中心とする雑誌『マルチチュード』の編集委員であったし、ネグリの本『野生のアノマリー』と『構成的権力』の仏訳者である。市田良彦はこの日本語版『もはや書けなかった男』の翻訳者であるが、フランス語版原著のあとがきも書いていて、これにはいささか複雑な経緯がある。

 それは突然やってきた。二〇〇五年十一月、フランソワ・マトゥロンは脳卒中に見舞われる。すぐさま入院。言語に障害が現れる。堪能だった英語やイタリア語は読解もままならなくなる。不都合は歩行や排泄その他にも及び、断続的に鬱状態がそれにともなった。二〇〇六年九月、リハビリ訓練中に、何とかしゃべれた彼は録音をはじめる。ああ、何と、書くためである。最初はテープレコーダー、続いてコンピュータの音声入力装置を使った。多くの忘却に苦しんだが、記憶は空っぽではなかった。だが、もう一度言うが、主体にとって私の現在の記憶とは何なのか?
 彼は少しずつ書きはじめる。卒中から一年後、同名の短いテキスト「もはや書けなかった男」が書かれることになる。本書を通読したいまでも、率直に言って、それにしてもどうやってこれを書いたのだろうかという思いを私は拭い去ることができないでいる。この短いテキストは雑誌『マルチチュード』に掲載されるが、これが本書の元になっている。
 少しずつ書いたものをマトゥロンは市田を含む数人の友人たちにメールで送ったが、その冒頭には必ず次のような言葉が記されていた。「きみにこのテキストを送る。ぼくにはこのテキストが自分以外の人のためになるのか分からない。きみには?」
 この文章もそれに対する友人たちの返答も、おそらくそのままの形で本書に何度か登場するが、これを著者マトゥロンはテキストのなかに自分の思考を強調するかのように挿入したのだから、したがって「きみ」とは読者である私や君たちということにもなるだろう。証言はそもそも個人的なものだが、ここにはエクリチュール自体の非個人性があって、この非個人性は個人と等価である。
 だからこの本がまずマトゥロン自身のために書かれたのはうなずけることであるとはいえ、本書は単なる証言でもなければ(驚くべき証言であることに変わりはない)、単なる闘病記でもなく(驚くべき闘病記であることに変わりはない)、都合三回、フランス語草稿、最初の一部の日本語試訳、そして本書を読ませてもらったのに、私はまともにこの本を書評することができない……、などと言っても何の言い訳にもならないが、それでも私はいくつかの点でこの「哲学的」著作に深く魅了されてしまっているのである。正直に言って、こんな本を読んだのははじめてである。これは私の経験である。だが読むことはたやすい。どうやって書けばいいのか。
 病に翻弄され続ける生活上の大災厄、尿や大便をあちこちで不本意に漏らしてしまう強迫的情景(「性器から糞をたれた」)は、本書のなかで何度も繰り返される忘れがたいくだりだが、これら読者を呪縛せざるを得ない(少なくとも私の場合はそうだった)記述は、まるで「閃光」のように、繰り返される始まりの閃光のように(それがニーチェの言う運命愛の悲しさを伴っていないはずはない)、何か「幸いなる罪」あるいは日常の「変様」や「欠落」のように(それが生のおかしさを伴っていないはずはない)、スピノザやアルチュセールの思考、それだけでなく例えばアルトーの墓の反対側の叫びやセリーヌのおっさんじみた憤懣と接しているのを哲学的著述のなかに見ることができるのはとても稀なことである。それは予想どおり必然的であり、予想に反して奇跡的な力能にさえ思える。わざとやったのか。何ということだろう。言葉を失いかけた、もはや書けなかった男がこれを書いたのである。

 この本には書かれたものとしての目覚しい特徴が他にもある。それが著者の意図であったにしろ、そうでなかったにしろ、どちらでも私にはたいしたことではない。ここで語られている、というか書きつつ流れ去った時間の見かけの上での混乱。発作以前の時間は取り戻すことができたのだろうか。時間は取り戻せない。では、それは現在の記憶なのか。一気にそこへ行こうとしても、記憶の層が雪崩を起こしているのか。それは肉体の仕業なのか。記憶の欠落は記憶を埋めるという持続する私の行為が生み出す錯覚なのか。いや、つねに記憶は、私が生きることによって、生きている時間によって欠落し続けている。時間の流れ自体が欠落している。仮象のように見えるものが、ここで否が応でも私を現前させ続けているのがわかる。私とは主体の妄想なのか。私は書けなかった。もはや書けなかった。発作のずっと前から持続する時間のなかでそんな風にどうやって書くのか。マトゥロンと比べればさしたる重大事態に陥っていない私にも、ほんの少しだけ覚えがあると言えば僭越に過ぎるだろうが、病人にとって過去はずっと続いている現在なのか。そんなことがあり得るのか。出来事はほんとうに起きたのか。
 それから人称の混淆と交差。君と私と彼と彼女は、もちろん入れ替え可能なのだ。誰が語っているのか。君なのか。マトゥロンなのか。それならば肉体は、言葉から出てきた肉体はどこにあるのか。それはなるほどフランソワ・マトゥロンの記憶であり、欠落した言語能力、欠落した記憶そのものが為したのかもしれない力能と無力である。テキストは時間のなかで不動ではない。身動きできないのは三面記事のなかの事件であり、病床のマトゥロンがテレビのニュースで見たイスラムゲリラによって首をかき切られた気の毒な神父のほうである。歴史は進行しているのだろうか。
 こうして人称もまたまったく不分明でしかないひとつの記憶の混乱、つまり記憶の特性のなかにあったということがわかる。唐突に、メキシコの作家ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』という小説を私は思い出す。インディオの農民かメスティソの語り口、平易な語り口のこの小説は結局のところ極めて難解である。語っているのは生きている者なのか、死者なのか。生きていると思えば、そう、死んだ奴が顔を出す。語っているのは私ではなく、死者であり、彼はもうそこにはいないので語ることはできない。現在は過去であり、過去はここにあって、現在は過去を、過去の出来事とその意味を、事実の向こうに、メキシコの現実の向こうに抹消し、未来はそのまま過去と地続きである現在である。
 
 脳卒中から五年後の二〇一〇年、フランソワ・マトゥロンと市田良彦はアルチュセールの哲学をめぐるコロキウムに二人一緒に出席し、コンビで発表を行う。フランソワはまだ歩行と発話が困難な状態にあったし、介護も必要だったはずである。詳細については戦いの同伴者である市田による「あとがき」を読んでいただきたいが、この二人三脚の不思議な思考実験ならぬ思考実験、この思考の稀有な営みは、さらにアルチュセールやスピノザについてのコロキウムの発表という形で続くことになる。本書には、その際の口頭による文章が引用符も何もなしで恐らくそのまま新しい思考実験のように挿入されている。これらの混淆的記述は望ましいもの、目覚しいものであるとさえ私には思えたし、この本にひとつの動かしがたい魅力と奥行きを与えている。
 そんなことこんなことを行うために市田良彦はマトゥロンを見舞い、話し合い、彼の文章を読み、困惑し、助言し、同情し、同情を退け、Skypeし、メールを幾度となく送り、彼の妻と話し合い、互いが互いを照らすように自分なりに考えたことだろう。かつて議論があった。転倒と逆転があった。関係も、そして同じことだが、特殊な非関係もあった。雑誌の編集委員会では諍いもあった。他の連中。国際的な人脈と言っていい。雑誌は分解した。マトゥロンが倒れたので、市田は一人でヴェネツィアに、その後二人でポツダムにも行った。市田はマトゥロンの家にも立ち寄った。飯も食った。パリではまた二人で講演をやった。スピノザをめぐって「空虚」について考えた。フランソワ・マトゥロン。大学人や研究者のいつもの凡庸な常套手段なんかまったく関係ない。あいつは何も忘れていない。完全に覚えている。あいつは書けなくても、書くことを忘れていない。
 二人はペーソス満載のセピア映画のなかのユーモラスな登場人物のように、コロキウムやシンポジウムでは当然のように周囲から「浮いていた」し、しらければしらけるほど理論からも同じく自由でなければならなかった。この障碍者と一応の健常者である前代未聞のコンビは、二人の師であるアルチュセールの教えに倣ったのだろうか。ある意味ではそうであるし、ある意味ではそうではない。あるときマトゥロンから市田にメールが来る。「サンタンヌにいるんだ」。つまり「気違い病院にいるよ」。市田の返事は「アルチュセールになったか」。妻を殺害した後のアルチュセールには、私の想像だが、悲しいかな、夢のなか以外にこんなやり取りはなかったはずである。
 アルチュセール、スピノザ、脳卒中。
 奇妙な二人。奇妙な書物。奇妙な友情だ。感動的ですらある。感動的という言葉はふとどきかもしれない、読者である私が勝手に感動しただけなのだから。だがあえて友情をそのまま書くつもりもなく友情をめぐる本というものがある。最近読んだのでは、タハール・ベン・ジェルーンの『嘘つきジュネ』。それからアンドレ・ベルノルドの『ベケットの友情』というのもあった。同じナイーヴさなどではない。同じ虚栄などではない。そんなものはない。同じ矜持でも同じ断絶でもない。市田が言うように、理論的なものと個人的なもの、経験的なものはまったく区別できない。書くことも区別できない。書くとはそういうことでもあるのだ。偶然性唯物論がある。青空の下、暗闇のなかを(どちらでも同じことだ)ズレていくものは美しい。原子には斜めに傾いた跛行性もある。これらの二冊の本ともども、本書もまた未曾有の記録であり、他の二冊の本と同じく、あるいはそれ以上に前代未聞のとんでもないエクリチュールであって、マトゥロンと市田がともに引用するアルチュセールの次の言葉にある別の豊かな光を、ある新たな意味を付与しているように思われる。「ぼくは自分と直接かかわりのないことを、理論においてなにも理解できない」。
 そうだ、だからこそわれわれにはそれが理解できるのである。

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第98回 2018年5月





ブランキの宇宙





鈴木創士


ブランキ『革命論集』(上・下 *現在は絶版)
ギュスターヴ・ジェフロワ『幽閉者 ブランキ
E・H・カー『バクーニン』(上・下)

 ずいぶん昔の話だが、高校生のとき、政治的活動に首を突っ込んでいた頃のことだが、いくつかの大学のバリケード封鎖にのこのこ出かけて行くと、大学生たちに「お前はブランキストだ」と糾弾されたことがしばしばあった。言外のいじめのような侮蔑的嘲笑もあったし、非難や糾弾だけではすまない流血沙汰もあったが、まあ、今となってはそれはどうでもよい。大学生たちは意気地がなかった。
 「ブランキスト」(ブランキ主義者)というのは、当時は揶揄や蔑称に近く、無計画で、理論も綱領もなく、破壊だけが目的の、展望も何もない過激主義者であり、ただの思慮のない無責任な跳ね上がりというほどの意味だった。マルクス主義以外の政治活動家では、私はブランキとサン-ジュストが好きだった(サドをフランス語で読むようになってから、サン-ジュストへの評価は変わったが)。
 はっきり言って、当時の私は、展望も、未来の計画も、総括もどうでもいいと思っていた。そんなものは持続のなかにとどまることであって、愚かにも敵の論理にくみすることだと思っていた。すべてはあらゆる事象を成立させている持続の琴線を断ち切ることにかかっているのだ、と。時間は、歴史的なそれをも含めて、瞬間の外に追い出さねばならず、すでに追い出されたのだ、と。

 革命を殺害した民主主義ヨーロッパの死のリストに激昂してブランキは言っている、
「明日の革命を脅かすものは、いかなる暗礁であろうか? それは昨日の革命を瓦壊させた暗礁、護民官に化けたブルジョワどもに集まった嘆かわしき人望という暗礁である……反動が民主主義を惨殺したのは、反動が自らの使命を果たしたというだけのことにすぎない。罪は、信じやすい人民が指導者として全権を委任したにもかかわらず、その人民を反動の手に委ねて省みなかった裏切者どもにある」(『革命論集』)。

 フランス革命とロベスピエールについてはどうなのか。ブランキはかなり時代の先を行っていたと思われる。至高存在のテロリズムに関して(テロリズムはフランス革命の発明だった)、ブランキはフランス革命と袂を分かったのか。しかも面白いことに、ブランキのこの見解はサドのそれにかなり近いものがあった。
 「教会の香炉持ちの奇怪な論理! 理性の祭典は、大道芝居の一場面、民衆の良心の堕落、恥辱に満ちた混乱でしかない。至高存在の祭典は、崇高な儀式、すべての人民の崇高な躍動、良心の復活、大地と天上との和解である。前者には地獄の乱痴気騒ぎしかないが、後者には天の愛餐がある、と。だが実際、彼らは二つの示威のどこにこういう対比を見出すのか? これらの祭典の道具立てや象徴のなかに、どんな違いをとらえることができるのか? 演出は全く同じなのだ。一方は理性、他方は自然、どちらもともに神格化には満足だ。精神主義的な好みをそれにあてはめるなら、もちろん叡智の顕現たる理性に対してであって、物質の表現である自然にではない。だが、どちらが上位かという議論はたくさんだ」(同上)。

 マルクスは一八五〇年に「フランスにおける階級闘争」のなかで最初にプロレタリア独裁を標榜し永続革命を宣言した革命家としてブランキを賞賛していたが、そうは言っても、当時私を批判した大学生たちも、それに私もまた、ブランキの理論がどういうものなのか、それほど、いや、まったくと言っていいほどわかってはいなかった。エンゲルスがブランキのことを「過去の革命家」であると述べたものだから、みんなそれを鵜呑みにしていたに違いなかった。私はエンゲルスの言うことなど歯牙にもかけなかった。ただ誰もが知っていたのは、事の正否はいざ知らず、ブランキが、近代的意味において、行動の面における「過激主義者」の最初のイメージを間違いなくつくり出したということだけである。

 いでたちはいつも黒ずくめ、禁欲的にして頑固一徹なルイ・オーギュスト・ブランキは、一八三〇の七月革命以来、十九世紀フランスのほぼすべての革命的動乱に参加した。一八四八年の二月革命、一八七〇から七一年にかけてのフランスの危機およびパリ・コミューン前夜のすべての革命的事件に関与した。一八七九年には、獄中にあって、議員に選出された。
 秘密結社めいた閉ざされたグループと少数精鋭による政治的暴動。コミューン派には、プルードン派も革命的ジャコバン派も第一インターナショナルもいたが、しかしブランキはパリ・コミューンの頭脳であり、行動のあれこれの実践的指針を示すことのできる頼もしい指導者であった。彼は後世のゲリラ戦の原型を提供したとも言える。そのためにブランキは通算三十三年にもわたって牢獄に監禁されることになった。拘束と追求尋問を計算に入れれば、四十三年にも及ぶ。これに匹敵できるのは、やはり生涯の大半を監禁の日々のうちに過ごした十八世紀のサド侯爵くらいしか私は思いつかない。ブランキは十九世紀のあらゆる政体によって囚人となったが、これも十八世紀のすべての政体によって監禁された聖侯爵とそっくりなのである。

 プロレタリア独裁による自治政府を宣言したパリ・コミューン。ブランキは敵ヴェルサイユ政府によってコミューンの内乱勃発の前夜に逮捕された。パリ・コミューンでは多くの凄惨な血が流れた。内戦と血の一週間があった。ヴェルサイユ軍の虐殺によって不退転の革命も全滅に近かった。コミューン派の多くの人々が死刑、禁錮、流刑、強制労働になった。ランボーもロートレアモンも当時同じ空気を吸っていたことになるのだし、彼らの書いたものはそれと無関係ではあり得なかった。
 「血が流れた、青髭公の家で、——屠殺場で、——円形競技場のなかで、そこでは神の封印が窓を蒼白く染めた。血と乳が流れた」(「大洪水の後で」)、ランボーは『イリュミナシオン』のなかでそう言っている。
 ブランキの革命家としての真価を示すひとつのエピソードが残されている。ブランキは欠席裁判によって国家反逆罪で死刑を宣告され、すでに述べたようにコミューン勃発の前日に逮捕されたのだが、ブランキはコミューン政府の大統領に選出されていたので、捕虜交換が自ずと提案されることとなった。コミューン自治政府はパリ大司教を含めた七十四人の人質と、コミューンの頭脳であるブランキただ一人の交換を時のヴェルサイユ臨時政府に要求したが、しかし臨時政府の首班であったティエールはこれを断固として拒否したのである。

 パリ・コミューン勃発前日の逮捕によってカオールの監獄に収監されていた老いたるブランキは、一八七一年五月二十四日、秘密裡にトーロー要塞に移送され、そこでの監禁の日々が始まる。三百年は閲(けみ)するこの古い要塞監獄は荒波の打ちつけるブルターニュ半島の岩礁の上に築かれていたが、聞きしに勝る恐ろしいところだった。

 ブランキの収容された土牢にはほとんど陽が射さなかった。ブランキを救出しようとするコミューン側の不穏な動きもあったし、ブランキには脱獄歴もあったので、最初、ブランキの所在は極秘事項だった。外部との連絡は完全に絶たれた。これはいままでではじめてのことである。警備はすこぶる厳重だった。ブランキを投獄したのは自分であると名乗る者はいなかった。すべてが法律を逸脱した不法逮捕だったからだ。海に面した窓は塗りつぶされ閉ざされたままだったし、湿気だらけの壁からは硝石が噴き出していた。荒波の音が強迫観念のように絶えず押し寄せ、風があると不意に潮の香りがするだけである。どんな出口もない。
 ブランキはモン-サン-ミシェルの過酷な牢獄など数々の監獄を渡り歩いてきたが、この難攻不落のネズミの棲家は最悪だった。寄る年波もあった。おまけにものすごい騒音が聞こえるのだ。地下牢などが共鳴箱となって、歩哨や巡邏隊や賄い人などの人の声、足音、歌声、その他の騒音が昼夜を問わずブランキを苦しめた。発狂してもおかしくはない。これは現イスラエルのモサドなどが使う拷問の手法を逆転させたものに近い。「俺を墓のなかに閉じ込めたのなら、せめて墓なみに静かにしてもらいたい」、ブランキはそう訴えたほどだった。

 本当だったら間違いなく自分が先頭を切っていたはずのパリ・コミューンの革命的動乱に、獄につながれたブランキは加わることができなかった。五月下旬になると、パリのバリケードは血に染まり、陥落していった。パリの街路のいたるところから腐臭がした。あいつは、あの男は、あの腹心の部下、あの若者たちは生きているのだろうか、死んだのだろうか。ネズミの走り回る牢獄につながれたブランキには何もできなかったのだ。
 その年の秋が来ると、牢獄の寒さと湿気が彼を襲った。ブランキにできたのは牢獄の窓から、星空を眺めることだけだった。星々があり、そして見えない星があった。星々は永遠にまたたいているように見えた。革命Révolutionという言葉には、「公転」という意味がある。地球は太陽のまわりを公転している。恒星はといえば、銀河の中心とこの恒星とのあいだに存在する全物質から重力の影響を受けている。自由を求める革命はぐるぐると同じ軌道を廻っていて、この引力の軛(くびき)に絶えずさらされている。ケプラーの第三法則はこの軛の証明である。

 そしてなんと老ブランキは、ここ、この孤絶した牢獄で、一冊の天文学の本を書くことになるのである。美しく、詩的で、驚くべき『天体による永遠』(浜本正文訳、岩波文庫)である。すでにからだを壊していた革命家は、その死まで十年足らずしか残されていなかった。言うまでもなくこの本を書くことは、老革命家にとっての救済となったに違いなかった。ブランキは妹に手紙を書き、なかなか本は届かなかったが、当時の科学書籍、ラプラスやバビネの著作を送ってもらう。

 すでにモン-サン-ミシェルの牢獄で、星を眺めながら、ブランキは「天体が無限に存在するのだから、地球も数多くあるはずだ」と考えていた。これは異端として一六〇〇年に火炙りの刑に処せられたドミニコ会修道士、『無限、宇宙、および諸世界について』の著者である神学者ジョルダーノ・ブルーノの主張と同じだった。自説の撤回を断固として拒否したブルーノは、火刑台の上で、「私より私に刑を宣告した君たちのほうが、真理を前にして恐怖に震えているではないか」と言い放ったと伝えられている。ヨハネ・パウロ二世の英断によってブルーノの異端審問が誤りであったとカトリック教会が認め、審問の判決を取り消したのは、一九七九年になってからである。

 ブランキはこの本『天体による永遠』で、彗星と黄道、宇宙の誕生、物質の有限性と宇宙の無限について論じているが、ラプラスの宇宙開闢論、とりわけ当時優勢だったその彗星理論を批判している。ルネッサンス絵画、例えばジョットの絵にハレー彗星が目をみはる形で描かれていることを見ればわかるように、彗星は元来「奇妙な天体」だった。「自由」な天体という観点から、すでに絶望的な孤絶を感じていたはずのブランキには彗星に対してとりわけ愛着があったようなのだが、ブランキはラプラスの理論の曖昧さを指摘し、まるで革命の挫折が公転によるものであったかのように、彗星は引力の法則から逃れることはできないと断じている。自由と自由に見えるものは違うのである。
 さらに原始星雲と彗星物質を同一視していたラプラスをブランキは批判するが、ブランキに分がないとはいえ、現在の科学的知見に照らしてブランキの考えがどうだったかということについて私はさして興味はない。

 ブランキは牢獄のなかで宇宙の謎、つまるところが自身の謎でもある謎に直面していた。だから革命家はこの本を書いたのである。
 自然を構成する元素の数は限られている。有限物質の組み合わせは膨大な数にのぼるが、それでも無限ではなく、有限である。そして宇宙の果てのどんな天体からも我々の知る元素が検出される。それはスペクトル分析からも明らかである。つまり宇宙は同じような物質で満たされている。しかし宇宙の果てはない。どうやっても宇宙の果てを考えることはできない。宇宙が無限であると考えることはあらゆる点で理にかなっている。しかし宇宙が有限であることはできないのに、宇宙を構成する物質は有限である。いくら数を無際限に加えていっても、いくらそれを知性が承認しても、無限の一歩にすらなることはない。これはどういうことなのか。ブランキの見解はこうである。有限から無限に至るには、あらゆる物質的事象は無限に反復されねばならず、同一物も世界も果てしなく繰り返されねばならないのではないか。ブランキはそう考えた。同一の地球、同一の太陽は、宇宙が無限であるには、無限に反復されねばならないのだ、と。永遠はそのときしかめ面をやめるのである。

 芥川龍之介もすでに大正十二、三年頃にブランキの言う「無限」について『侏儒の言葉』のなかにこんな風に記している。
「宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、──是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在してゐる筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙つてゐるかも知れない。……
 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問ふ所ではない。唯ブランキは牢獄の中にかう云ふ夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望してゐた。このことだけは今日もなほ何か我我の心の底へ滲み渡る寂しさを蓄へてゐる」。

 ルドルフ・シュタイナーは、ラファエロの絵画「システィーナの聖母」についてこの絵のラファエロの表現は停止した一瞬であり、これこそが永遠を封じ込めたと言っていたが、この絵がそうであるかはともかく、瞬間の停止こそが永遠を示すのだということ、そのためにはニーチェが言うように、永遠が形あるものであるにはこの一瞬が無限に反復されねばならない、ということはうなずける。宇宙のなかで同一物は無限に反復されねばならないのである。
 この壮大な本のエピローグの最後のほうでブランキはこう言っている。
 「地球も、こうした天体の一つである。したがって全人類は、その生涯の一瞬ごとに永遠である。トーロー要塞の土牢の中で今私が書いていることを、同じテーブルに向かい、同じペンを持ち、同じ服を着て、今と全く同じ状況の中で、かつて私は書いたのであり、未来永劫に書くであろう。私以外の人間についても同様である。
 すべての地球は、そこで再生しそして再びそこに墜落するために、次から次へと復活の炎の中に呑み込まれてゆく。それは永遠に倒立を繰り返して自己を空(から)にする砂時計にも似た、単調なサイクルである。新しいものはいつも古く、古いものはいつも新しい」。
 これを書いたのはニーチェではなく、発狂しそうな同じ単調さと幻滅を来る日も来る日も牢獄のなかで味わい続けたルイ・オーギュスト・ブランキであった。かつて私は書いたのであり、未来永劫書くであろう……

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第97回 2018年4月





アントナン・アルトーと歴史の狂気





鈴木創士


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
鈴木創士『サブ・ローザ 書物不良談義

20世紀は、手当たりしだいに、そしてもうそれしか残されていない最後の頼みの綱のように、「存在」と「身体」の思想を探し求めました。このことはとても特徴的な事柄でした。もしかしたら20世紀的な身体というものがあったのだと言ってもいいのでしょうが、それには当然のことながら歴史的条件がぴったりと裏面をなしていたと考えることができるでしょう。
 しかしむしろ重大な「病跡」は人類の歴史のほうにあったのではないか。歴史のもつ疾病の経歴と言ってもいいでしょう。世界大戦、強制収容所、原爆、テロリズム、数々の宗教戦争や民族主義などなどがすぐさま思い浮かびますが、私は必ずしも歴史が人を狂気にしたのだと言いたいのではありません。しかし歴史自体もまた狂気を経験したことには変わりありません。精神病理学者でも精神分析家でもない私のような門外漢の目にも、20世紀の歴史はそれほど病理学的に映るのです。この事態はいまでも何ひとつ変わるところはないでしょう。

 少し観点を変えてみましょう。一方には、19世紀に名乗りを上げた医学的知見の爆発的発展がありましたし、他方には戦争その他による大量殺戮による身体のおぞましい「新たな経験」というものがありました。この経験は20世紀までかつて人類が知ったことのない規模のものでした。一方には遺伝子と無意識、他方には新しいとしか言いようのないさまざまな様態の「死体」があったのです。
 メンデルとその後の分子生物学による遺伝子の発見、そしてフロイトによる無意識の発見は、われわれの20世紀にあって、瞬時にして大量生産され、そしてかつては見ることができなかったような、変容を遂げた夥しい数の死体とまるではっきりと対をなしているかのようでした。アントナン・アルトーはまさにこのような時代を生きた思想家なのです。演劇家であり、実際に役者でもあったアルトーが、「身体のテクノロジー」と呼べるような地点まで達したのはこのことと無関係ではなかったと思っています。
 

 周知のとおり、遺伝子と無意識は、そして死体もまた、かつての「人間」の観念にとって完全なる「他者」です。この点はとても重要であると思います。医学的知見の爆発的発展はある意味でそこから「人間」を追い出してしまったかのようです。それは極めて20世紀的な経験です。そもそも病んだ身体も健康な身体も死んだ身体もまた、われわれにとって他者であることに変わりはないですが、無意識や遺伝子や原型をとどめない死体となった身体はなおのことそうです。誰もがそう考えたように、われわれの精神と身体はまったく別の世界のなかで新たな生の意味を求めねばなりませんでした。生の意味? さあ、それはどうでしょう。ともあれ、この意味において、身体が身体である限りにおいて、身体は「他者」の組成からなっていると言ってもいいでしょうが、このことによって20世紀は「人間」についての観念そのものをつくりかえなければならなくなりました。というか別の身体の位相をもった「人間」が出現せざるを得なくなったのです。
 ラカンが言うように大他者の大他者は存在しないにしても、神ではないひとりの人間のなかでは、その人の身体が有してしまうことを運命づけられている別の次元の身体、この身体とはもはや名指すことのできない身体、その人の身体にとっての他者であるとしか言いようのない別の身体というものが否応なく存在してしまうのです。万人にとってです。そしてこれが個人、個体としての身体を決定づけていることは医師であるみなさんがご存知のとおりです。

 身体はいつの時代も「探求」されてきました。われわれは誰なのでしょう。20世紀にあって、同時にこのことは感覚的次元における身体の変容を引き起こさずにはいられませんでした。ここからアルトーの言う「器官なき身体」まではそう遠くありません。話を簡単にしてしまえば、ギリシア彫刻にまで遡らないにしても、20世紀の美術の世界で起こっていたことはそれをかなり明瞭にわれわれに示してくれています。
 例えば、19世紀後半から20世紀初頭にかけての画家たち、つまり古典主義を脱却しようとしていた当時の画家たちに決定的な影響を与えたはずの19世紀のドミニク・アングルの美しい身体や、当時あれほどの世間的スキャンダルを引き起こしたエドゥワール・マネの「オランピア」の身体がありますが、それらの身体と、20世紀の画家であり、しかも第二次大戦後の美術家であるフランシス・ベーコンの身体、デフォルメをこうむった感覚的次元にあるほかはない、しかしあくまでも具象的な身体を比べてみれば、誰にとっても一目瞭然でしょう。「オランピア」のセンセーショナルな裸の身体とベーコンの身体のセンセーショナルな「叫び」は、美術史的観点を捨象するなら、まったく別のものなのです。

  ところで、歴史的条件なるものはたいていが負の遺産ですが、それにしても「存在」の後に決まって「身体」が到来するというのは、どんな時代にあってもじつに奇妙な光景ではないでしょうか。存在は身体を従えているのでしょうか。私はどちらかといえばアルトーは存在を唾棄していたと考えているのですが、まるでアルトーの身体は存在のこちら側と向こう側に同時にあるかのようです。唐突に思われるかもしれませんが、この点からしても、17世紀にすでにスピノザとボシュエが身体について語っていたことは所与の条件などではないように思われます。私は哲学史に興味があるわけではありませんが、実際、われわれは17世紀のバロック的思想から一歩も抜け出せていないどころか、むしろそこに絶えず戻らねばならないかのようなのです。

 スピノザはこんな風に言っています。
 「すなわち精神と身体は同一のものであって、あるときは思惟の属性のもとで、またあるときは延長の属性のもとで把握される。このことから自然が、ある場合にはこの属性のもとで、またある場合にはあの属性のもとで把握されることがあっても、とにかく秩序すなわちものの結合は一つであり、したがって我々の身体の能動と受動の秩序は、本来、精神の能動と受動の秩序と同時に生じている」(『エチカ』第3部定理2注解)。

 スピノザによれば、コルプス、つまり身体(物体)のあるところに精神は発生するが、精神と身体が同時に生じるにしても、身体と精神は相互依存しない、ということです。この場合の哲学的意味における「精神」がいかなるものであれ、身体は精神を前提としていないのです。互いによって互いを思考することはしたがってこの場合困難になるどころか、埒外の問題となります。これはかなり興味深い見解です。初期の頃にはまだ使われていた「精神」という言葉を、アルトーが徐々に限定的にしか使わなくなったことが思い出されます。

 つまり身体の延長は身体なのです。要するに身体と精神は存在論的には同等であるということだけではなく、もう一歩推し進めるなら、身体から精神を、そう言ってよければ、身体の思考から精神の思考を追い出さなければならないのです。スピノザの面白いところは、この心身平行論から、身体は身体にしか関わらないということが帰結されるところです。
 身体は身体にしか関わらない。そうするとこの身体は別の身体なのでしょうか。しかし「この身体」でもあり、この身体でしかないものを考えねばなりません。これはドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の思想にも連結することができるでしょうが、哲学者江川隆男の言い方を借りれば、「身体の身体」というものを措定しなければならないということになるでしょう。哲学的には汎神論的であるとまでは言わないにしても、反解剖学的であるほかはないアルトーの「器官なき身体」はまさにその先にあるもの、極めて生々しいその発展形態であると考えることができます。いくら身体のあるところには精神が発生するといっても、「身体から抜け出す身体」は、「精神」とは似ても似つかぬものであることは言うまでもありませんし、身体から身体が抜け出して「器官なき身体」を生きるためには、身体の身体がなければならない、ということになるからです。

 ルネッサンスは解剖学的な身体のイメージを決定づけました。もっとも大きな貢献を果たしたのは、多分犯罪的な方法で行われたに違いないダ・ヴィンチのデッサンですが、器官の綜合、統合からなると考えられるこの有機的な解剖学的身体が、当然のことながらわれわれも知るところである西洋的な医学的身体のイメージをつくりあげているのはご存知のとおりです。このことはもちろんイメージの領域にとどまるものではないことは医師であるみなさんのほうがよく承知しておられると思います。そしてアルトーの「器官なき身体」は、観念および実際に生きられたものとして、はっきりとこのルネッサンス的な解剖学的身体の対極にあるものだと理解することができます。
 「身体は身体である。それは唯一のものであり、諸器官など必要としない。身体はけっして有機体ではない。有機体は身体の敵である」、とアルトーはノートのなかに記しています。
 空間というものが、表象し得ないものが背後に控える「神の器官」であることを前提とすれば、ルネッサンス的な解剖学的身体はひとつのパースペクティヴのなかにあり、それ自体ひとつの「遠近法」であると考えられます。ミクロ的、マクロ的視点からコスモスのなかで人間と世界を同時に見る、ということから考えるなら、当時の解剖学的ヴィジョンと遠近法的思考はセットなのです。アルトーは自らの経験を通して、別の身体をそこかしこに現出させることによって(それは詩と演劇の中間、言語的観念と身体の中間にあったと考えることができます)、この遠近法を破壊しようとした、いや、破壊したのです。
 別の見方をすれば、詩人であり演劇人であるアルトーは、さまざまな点でたしかに一種の「ルネッサンス的人間」であったと私には思えるのですが、こと身体に関しては、あくまでも反ルネッサンスであったとしか言いようがありません。

 しかしもう一方には、唯物論的な、どこまでも物象的であるほかはない身体があります。「死」と「死体」は別のものです。最近、ある人の死の床で死について考える時間が私にはあったのですが、生が終わるところに死があったのだとは思えませんでした。死はどこにあるのでしょう。私には死がどこにあるのかわかりませんでした。このような問題の立て方自体が間違っているのかもしれませんが、少なくとも死と死体は常識から言っても異なるものです。
 カトリックの説教家であり神学者であったジャック・ベニーニュ・ボシュエはその素晴らしい説教『死についての説教』のなかで、二世紀のカルタゴの神学者テルトゥリアヌスの言葉を引いてこう言っています。
 「死体はいかなる言語のなかにも名前をもたない」、と。
 「小野小町九相図」などの日本の古い絵巻物にもあるように、たしかにそれぞれの死体の状態には、中国や日本では名前がついているとも言えますが、それらは変化する死体の状態を名指したものであり、変化する「死体」そのものの名前ではありません。死体もまたそれ自体刻々と変化し、ガスが溜まって膨らみ、腐って、骨となり、最後には塵になるからです。原爆の世紀にあっては、死体は蒸発すらします。元の身体はどこに行ってしまったのでしょうか。遺伝子工学の道筋を逆さに、死の側から辿ることはできないのでしょうか。そこに死は存在するのでしょうか。これは極めて20世紀的な問いです。そして身体そのものは生きているのでしょうか。死んでいるのでしょうか。われわれはほぼそこから一歩も抜け出せないままでいますし、そこにあって、スピノザとボシュからあらためて一歩を踏み出さねばならないままであることはご承知のとおりなのです。

  このような身体の観念を前にして、アルトーはそれを生きることによって、どのようにして彼の「身体」、「器官なき身体」を獲得することになるのでしょうか。それはまずは病の状態、次に徹底的な「否定性」において獲得されたのだと考えることができます。彼の生涯はご存知のとおり波乱に満ちたものでしたが、その記録や証言を繙けば、いろいろと思いつくことがあります。
 アルトーのさまざまな「病」、長く続いた頭痛、思考できないという思考の不能性、分裂症、パラノイア、麻薬中毒、そして精神病院への監禁、電気ショック、エスニックな旅を含めた外への旅、戦時中の精神病院での極度の栄養失調、最晩年の癌の症状……。メキシコではタラウマラ族のペヨトルの儀式に加わり、アイルランドでは不可解な言動によって逮捕され、フランスへ強制送還になり、精神病院を盥廻しにされ、その精神病院では臨死も体験しています。アルトーは、かつて何度となくその旅のうちに死んだように、そこで一度死んでいます。奇妙な旅です。先のリストにはアルトー自身によって後に否定されることになる神秘主義をつけ加えることもできるでしょう。

 しかしアルトーの血の滲むような「発見」へといたる経験、あの「場所と公式」の問いは、アルトーのいわゆる精神病の「病跡」を軽々と超えてしまっていると私は考えています。例えば、病跡的に見れば、最晩年の『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者』というような超明晰な本をどうやって不治の(実際、そのように診断されたこともありました)分裂症患者が書くことができるのでしょうか。それ自体非常に興味深いものであるとはいえ、例えばクレペリンが報告しているような分裂症者の手記と、アルトーの『ヴァン・ゴッホ』が異なる言語で書かれていることは火を見るより明らかです(フーコーは、「アルトーはわれわれの言語の土壌に属している」と言っていました)。なぜこのようなことができたのでしょうか。私にはこの問題が精神医学の世界においても解決されているとは思えません。

 もちろんそれだけではありません。当然、観点をすっかり変えることもできます。あるいはドゥルーズとガタリが言うように、アルトーは分裂症だったからこそ、あれほどの仕事を成し遂げ、あれほど高緯度にある思考に達したのだと言うこともできるでしょう。同時に、別の身体の仕業ででもあるかのように、精神病院への監禁以降、晩年の膨大な『カイエ』に見られるように、アルトーの言語もまたすさまじい変形を加えられることになったからです。それは『ヴァン・ゴッホ』などの本が書かれたのと同じ時期にも続けられました。そしてそれがアルトーによってはっきりと意図されたものであったことは、アルトーの生前に一冊の書物として構想された『手先と責苦』のような作品を見れば窺い知ることができます。
 言語はハンマーで殴られ、叩きのめされ、砕け散り、また切断され、分断され、解体されて、別のからだのなかに分娩されるかのように、まるで新しい生を生き始めたのです。ある意味で、アルトーは言語の極限を登攀しようとしていました。いや、そこで、それによって沈思黙考し、激怒し、咆哮し、それを生きていました。これらの言葉は彼の「身体」の言葉であり、その乾いた叫びであると同時に彼の中心をなす寸断された身体から発せられた「思考」、まるで物質のような思考でもありました。これは身体の穴から発せられたのだと言っても同じことですし、こんな言語があらゆるものに対抗する「護符」であり、「呪い」に似てしまうのは致し方のないことなのでしょう。アルトーは絶えず世界のなかに「呪いのネットワーク」を見て、それを告発していましたが、彼は独特の言語によってそれに対して全面的攻撃をしかけたのです。

 だがそれはただちに別の意味を帯びます。アルトーにとってこの「書く」ということが、生理現象を含めて何かを分泌したり、あるいは唾を吐いたり、歩いたり、食べたり、麻薬をやったりすること、つまり「生きる」ということとほぼ同義であったことには大いに注意を払うべきでしょうが(晩年のアルトーは絶えずノートに何かを書いていました。散歩しているときですら)、それが彼の「病跡」を超えてしまっているだけではなく、これだけをよくよく考えれば、このことは優れた幾人かの詩人や作家や芸術家においてすでに見られたことでもあったのではないかとも思われます。しかし彼らとは異なり(例えば、ヘルダーリン、ヴァン・ゴッホ、ニーチェ、ベケット…)、アルトーが特異であるのは、言語と生、書かれたものの形式と内容の極端な一致が、ある種の「身体のテクノロジー」のようなもの、まずはある種の「公式」によって鍛えられ、それを原理としていたように思われるところなのです。この「公式」の生成にはアルトー自身の長い苦難の歴史が関わっていることは言うまでもありません。
 誤解のないように急いで付け加えておきますが、このことは芸術や文学の形式や形式化とは何の関係もありません。そしてそのことがどうして土方巽のような日本の舞踏家たちの琴線に触れないわけがあるでしょうか。優れた舞踏家はダンスの「技法」ではなく、どうしても不可能な「身体のテクノロジー」のようなものを意識せざるを得ないからです。優れた舞踏の身体もまた身体から抜け出すことになるからです。暗黒舞踏だけではありません。仮面の身体から徐々に身体が染み出してくるような優れた能の演者の身体も、うまくゆけばそのようなものであるでしょう。

  言うところの「身体のテクノロジー」はどのあたりから始まったのでしょうか。その萌芽はすでにアルトーの演劇についての観念のなかにあったと考えることができると思います。アルトーはすでに1930年代に演劇とペストの相同性を宣言する演劇論のなかでこう言っています。
 「どこかの精神病院の一人の狂人の捌け口のない絶望と叫びがペストの原因となることが不可能ではないのと同様に、感情とイメージの一種の転換の可能性によって、外界の事件、政治的衝突、天変地異、革命の秩序と戦争の無秩序などが演劇の次元に移って、それを見る人の感受性のなかで、伝染病のような力を持って放電するのだ」(「演劇とペスト」)。
 奇しくも、アルトーの精神病院への監禁、そこからの解放の時期が、第二次世界大戦の推移と終結と時を同じくしていたことを思わずにはいられません。切迫する第二次大戦の推移、戦争の終結へと向かう日々は、一日ごとにアルトーが監禁からの解放を渇望し、友人たちがそのために奔走した毎日でしたし、それまでにアルトーが書いた数年間にわたる(監禁は九年に及びました)当時の「手紙」などから察せられる凄まじい日々と、そこでアルトーの身体に内乱のように起きていたことは、まさに言語と身体的現実の次元において、「外界の事件、政治的衝突、戦争の無秩序」と軌を一にしていたばかりでなく、ある種の相同性を示さざるを得ないものとしてあったのです。アントナン・アルトーはそれを生き延びました。歴史の病跡、歴史の狂気は、アルトーの身体から新たな身体が抜け出すために、フーコーが言ったとおり、作品と、狂気である作品の不在が「同時に」生起するように、アルトーの身体の歴史、その生涯と「同時に」起きていたのです。

 あるいはこういう指摘もできるでしょう。まず「身体のテクノロジー」の出発はアルトーの歴史についての観念のなかにすでにあったのだ、と。なぜならアルトーにとって演劇とは歴史の破綻であり、歴史は演劇の破綻であるように思われるからです。先ほどの「演劇とペスト」が収録された『演劇とその分身』とほぼ同じ時期に書かれた、歴史小説とも戯曲とも見なすことのできる本、『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』にはこうあります。これは歴史家たちによって史上最低の暴君と蔑まれたローマの少年皇帝について書かれた本です。

 「しかしこの回転するイメージのなか、受肉したウェヌスの血をひくこの魅惑的で二重の性質のなか、彼の驚くべき性的矛盾のなかには、両性具有的なものよりはるかにずっと、最も厳密な精神の論理のイメージそのものに見えるものがあるが、それこそはアナーキーの観念なのである」
 「ヘリオガバルスは生まれつきのアナーキストであり、しかも王冠をうまく支えられないし、王としての彼のすべての行為は、公共の秩序の敵、生まれつきのアナーキストの行為である。だがそのアナーキーを、彼はまず自分自身のうちで、自分に対して実践するのだが、彼はそのアナーキーをローマの政治にもち込み、自らを手本にして示し、それに対して必要な代価を払ったのだということができる」。

 アルトーは、ヘリオガバルスが政治を行うにあたって、たとえヘリオガバルス自身がそのことによって破滅することになったとしても(最後に糞尿のなかに飛び込んだ少年皇帝は、自分の護衛の兵士たちによって母とともに惨殺され、死体を切り刻まれて、ティベリス河に投げ込まれました)、その古代的、詩的、宗教的、性的、アナーキスト的観念をまずは皇帝としての自分自身の身体的行為として実践したのだということを強調したのです。これはまさしく「残酷の演劇」のひとつの原型なのです。

 アルトーの提唱する「残酷の演劇」とは、必ずしも舞台で血が流れるということではありません。演劇は生であり、生の発露そのもの、まさに生の一端を担うものとしてあり、そして生の根源、すべてのものの根源には「残酷」があるからです。アルトーはそんな風に考えていました。
 「残酷の演劇」は、アルトー自身がいうように、舞台上のことに関しては、エリザベス朝演劇をそのモデルのひとつとしていたのでしようが、演劇の観念を構想するアルトーの念頭には、『ヘリオガバルス』がそうであったように、恐らくはじめからアテナイのギリシア悲劇が息づいていたのだと私は思っています。ソポクレスやアイスキュロスやエウリピデスがその原型なのだと言いたいわけではありませんが、アルトーのなかには明らかに古代ギリシア的なものが流れていたように思われます。アルトーがそこで逝去することになった最晩年の部屋の写真を見ると、デッサンや、紙や、ローダノム(阿片チンキ)の小壜にまじって、エウリピデスの本がそっと置かれていたのがわかります。アルトーは死の直前までギリシア悲劇を読んでいたのです。

 われわれはアルトーの演劇について、それもアルフレッド・ジヤリ劇場をはじめとして、どの上演も「失敗」だったなどと簡単に語ってしまいますが、演劇家としてアルトーに影響を受けた寺山修司を含めて、日本人でアルトーの芝居を実際に見た者はひとりもいないでしょうし、現在ではフランスにおいても変わりはないでしょう。カール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』やアベル・ガンスの『ナポレオン』など、残された映画フィルムのなかの映画俳優としてのアルトーの素晴らしい演技から舞台の上のアントナン・アルトーを想像するしかないのですが、この「失敗」は先に述べたようなアルトーの演劇についての考えからしても偶然ではないと思われます。アルトーの最初の演劇のイメージがペストや北方ルネッサンスの終末的絵画にあったことを考え合わせると、それは失敗を余儀なくされることを運命づけられていたのです。外を抱え込んだ身体が身体から抜け出そうとして「失敗」しないはずはありません。そしてだからこそ、すべての演劇、さらにとりわけ日本の暗黒舞踏が(言い足すのを忘れていましたが、そもそも「身体から抜け出す身体」という考え自体、土方巽から借りたものです)、この「失敗」、「開幕からの決裂」、身体自体が抱え込んでしまった不可能な始まりにおけるこの「失敗」から始めねばならなかったことはうなずけることなのです。

 役者の「身体」には「外」が乗り移り、憑依しなければならない。同時に身体は身体から外へ出ていかねばならない。それは至上命令であり、公理です。そしてアルトーはまずそれを自分の身体に対して実験ともいえぬ実験のようにして行ったのだと考えることができます。書かれた言葉は身体の上におのずと浮かび上がる刺青のようなものでした。
 アントナン・アルトーは、書かれたその言葉によって、その演劇の身体によって、彼自身の生身の身体によって、彼ひとりでそれをやってのけたのです。

京都にて  

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第96回 2018年3月





爪が花粉をこすっている





鈴木創士


鈴木創士『サブ・ローザ 書物不良談義

 「田舎では、注意していると、なんと多くの悪ふざけがあることか… サタンであるフェルディナンは、野生の種子をもって走っている… イエスは緋色の茨の上を、それを撓めもしないで歩いている… イエスは怒った水の上を歩いていた。ランタンの明かりが、エメラルドの波の脇腹に、立ったまま、白く、褐色の三つ編みを垂らしている彼の姿を俺たちに見せた…」(アルチュール・ランボー「地獄の夜」『ある地獄の季節』より)
 フィルムのなかで歌手のパティ・スミスが、ランボーが昔うんこしていた壊れた便器を見つめていた。墓が見える。墓のむこうには廃線が一本まっすぐ伸びていた。草ぼうぼうのなかでソクラテスの石膏胸像を叩き割る。廃線の終点はたぶん曇り空の海だ。彼の有名な詩である絶唱「酔いどれ船」を書いたとき、ランボーは海を見たことがなかった。浜辺の強風に赤い帽子が吹き飛ばされる。列車が通った気配はなかった。鎌首みたいに見える岩。へどが出そうな広告を子供たちがびりびりに破いていた。

 「そして俺は冬をひどく恐れる、なぜならそれは慰安の季節であるからだ!(…)というのも勝利が自分に味方しているのだと俺は言うことができるのだから、歯ぎしり、ヒューヒューいう火の音、悪臭を放つ溜め息は和らげられる。すべてのけがらわしい思い出は薄れゆく。俺の最後の悔恨は退散する、――乞食たち、悪党ども、死の友たち、あらゆる種類の能なしどもへの羨望は。――地獄に堕ちた者たちよ、せめて俺が復讐できればいいのだが!」(「訣別」『ある地獄の季節』)
 ランボーは少年らしく夏の太陽を惜しんでいた。頭上で色とりどりの旗をはためかせている軍艦が幻だということを彼はちゃんとわかっていた。幻覚は数え切れない、と彼は言っていた。だが見えるのだから仕方がない、そいつが、このざらついたまったき現実のなかに! 創造というものはそのようにしてなされる。それは「新しい花、新しい天体、新しい肉、新しい言語」だと彼は言っていた。それから彼は、紙屑でも捨てるように夏の太陽を葬り去った。怒り狂って、葬り去ろうと思ったのだ。彼は自分の手を憎んだ。ペンを持つ手だ。彼が幻の船の上から凝視していた悲惨の港は見たこともない海よりもさらに鮮明だったし、刻々と時は過ぎ、自分が裁かれようとしていることをランボーは感じ取っていたのかもしれなかった。

 だが不眠の夜の後には、必ずわらじ虫の朝がやってくる。彼はまだ二十歳にもなっていなかった。ハッシシも阿片もアブサンも周りの人間を困らせる余興にすぎない。これはアングルの問題にすぎないが、どんな重大な結果が待っていようと、痛めているのは彼の肉体でしかない。彼の言語ではない。いや、そうではない。幸か不幸か、少年の彼もまたそれなりに言語を痛めつけた。しかしその瞬間、彼にとって希望が夜明けの町のようにきらめいていたのも本当だろう。この希望、これほどの希望は、生きるに値する希望だったが、致命的なものであったかもしれない。
 「いまのところ、仕事をするのは夜だ。真夜中から朝の五時まで。先月、僕の部屋はムッシュー‐ル‐プランス通りにあって、サン‐ルイ高校の庭に面していた。狭苦しい僕の窓の下には巨大な木が何本かあった。朝の三時になると、蠟燭が消えかかる。木々のなかですべての鳥たちが一斉に囀り出す。これでおしまい。もう仕事はしない。このえも言われぬ朝の最初のひとときに心を奪われて、僕には木々や空を見つめる必要があった。静まり返った高校の寄宿舎を僕は見ていた。するともう大通りには、途切れとぎれの、よく響く、心地いい荷車の音が。——僕は屋根瓦の上に唾を吐いては槌型パイプをくゆらせていた、だって僕の部屋は屋根裏部屋なのだから。五時になると、僕は少しばかりのパンを買いに下に降りていった。その時間なのだ。いたるところで労働者たちが動き出す。僕にとっては酒場で酔っ払う時間さ。食べに戻って、朝の七時に横になっていた、太陽が屋根瓦の下からわらじ虫を這い出させるときに」(ランボー「糞ったれのパリ、1872年6月」、エルネスト・ドラエー宛ての手紙)
 その希望がなんであったにしろ、これが素晴らししい日記であることに変わりはない。

  古都はいいお天気だった。首を傾げた長い黒髪が向こうで少しずつ見えなくなっていったように、小川のそばを誰も通らなかった。幽霊をとらえそこなったのだ。せせらぎの音を聞きながら、俺の右脚は消えていた。返してもらった腕も。昨日の痛みとともに新しい少しの痛みを残して。
  木枯らしをいかにせむとて夕まぐれあの娘(こ)の片腕藪に隠さむ
 削れて粉になり消えてしまった腕はしばらくすると向こうのほうでまた少しずつ現れて小刻みに震えていたが、指の先端でつまんだ煙草が煙とともに再び現れる頃には、腕だけではなくもう顔もぼやけ始めて、このままではまたぞろ消滅の憂き目に会うなと思った途端、燃え尽きたはずの火がからだに燃え移り、揮発性の叫びのような一瞬の燃焼の末にからだは灰になるのであった。彼女は小川のほとりでドビュッシーを聞いていた。焦った俺はわけもわからず無視した。そのことで彼女は一生俺を恨むだろう。今日は、昼下がりに爪が花粉をこすっている。日差しが眩しく温かかった。唇のように。
 ここは京都の悪場所にある木造のおんぼろアパートなのだが(ほんとうはどこなのだろう?)、草ぼうぼうの中庭のような一角があって、そこに大きな樫の木と、それから日時計があった。日時計はブロンズ製で、daemonicusとラテン語が彫ってあった。悪魔の日時計なのか。気味が悪いし、君が悪いのだ。隣は船についているような丸窓のある悲しげな元遊郭で、いまは使われていない便所のあたりがもやもやしていた。その便所のなかに入ったのに窓がないじゃないかと思案して便器にまたがっていたら、片方の耳が急に聞こえなくなった。十年以上なりっぱなしの持病の耳鳴りのせいだということはわかっていた。いや、そんなはずはない。昔の友人が昨日携帯電話を川に捨てたよと自慢げに言うから、試しに電話をしてみたら自分の家の電話が鳴ったので、朝から晩まで耳鳴りがしていた。あいつはただの居候だ。自分の意に反して、人格を入れ替えただけだった。

 赤頭巾ちゃんがミニスカートから延びた義足の右足を見ると、左足が消えてそこをお婆さんがずっと下のほうまですべって落ちてゆきました。お婆さんの家にはどろどろに燃える溶鉱炉があって、それが部屋の隅々にあいた穴のなかにまで反射して、まるでベナレスの沈む夕陽のようでした。昨日のことだったか、狼は殺され、野辺送りの暗い行列も蹴散らされ、行列に向かって敬虔に傾けたあいつの膝も砕かれました。赤頭巾は、お婆さんなんかいるもんかと喚きながらとうとう頭巾を破り捨てました。磔(はりつけ)になったのは俺の分身だった……お婆さんの部屋では、ラジオからぎくしゃくとしたフランス語がびっこのように聞こえていました。その後で歌声が聞こえました。ゴダール、モナムールと歌う女性の声でした。「愛したいという欲望とは、愛される対象がそれとして捕らえられ、しかも逆にそれを捕らえる側、今度は甘美な孤独のなかで対象としての愛する者となった絶対的単独性のうちに〈鳥もち〉づけられつつも、自分自身は欲望の負荷とともに理由もなしに隷属させられざるを得なくなるような欲望である。愛することを愛されるように熱望する者は、自らに限りなく似た相手の美点のために愛することにはほとんど満足しない」、と泥まみれの赤頭巾に向かってラジオは言ったとさ。赤頭巾は狂ったようにがつがつとリンゴをほおばりました。赤頭巾はとにかく食いしんぼうだったのです。

 フェスティナは汗みずくになってエニシダの小道を急いでいた。険しい小道は上り坂で、向こうは見えない。明日、フェスティナのショートカットはもっと短くなるだろう。
 半分だけ影のなかにある長い首、そして苛立ち。太めの脚、そして平安。一緒に見たはずなのに、一瞬で消えるラヴェンナの墓碑銘。記憶のなかの彼に墓碑銘はない。ゆっくりと彼女は大人になるだろう。
 沖まで泳いだ。沖から振り返って見ると、遠くで砂浜のフェスティナは画帳を開いたまま居眠りしている。俺の頭が波間に沈むと、陸は消え、フェスティナの短い髪も消える。水しぶきとともにすべてがやっと泡となる。誰にも知られることのない午後のひっそりとした栄光。水に潜ると、水面で陽が黒く揺らめいているのが見える。

 フェスティナが下宿人の電話の声の向こうで他愛もないことを喋っているのが聞こえていた。ラヴェンナで陽が翳っていく。いや、ここはラヴェンナではない。白い墓石を雲雀がかすめ、そいつを生温い風がえぐっている。誰が死んだのだろう。彼女はきっぱりと拒絶する。何を? 自分を慰めることを……。糸が揺れていた。

 ヘンリー・カウエルのような音楽家がいたのは奇跡に近いが、音楽の歴史からいえば偶然ではなかった。不眠における覚醒のなかの半睡眠状態のための音楽。彼には音楽がフィクションであることなど問題ではなかった。それは警察的問題にすぎない。実験のための非実験。カウエル蛙は男の子に対する猥褻罪で刑務所に収監中にバンドを結成した。バルトークは彼に手紙を書いて彼のピアノ・ピースを使う許可を得た。彼はジョン・ケージの師匠だった。後のブラックマウンテン・カレッジも精神的に無関係ではないのだろう。やっていたことはまったく違うといっていい。それでも彼はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの祖父だったとも言える。ペルセウス座流星群のための音楽。ペルセウス座流星群とともに降り注ぐ殺人ウィルス群のシャワー。飛来する災厄の非生命の種子。ノイズの種子と主旨。形なきものである生命は非生命でもあり、外の地獄からやって来る。生は小僧のような娘のスカートの折り返しのように気まぐれだ。襞、プリーツ。音はすぐに消える。外部、外の内のありとあらゆる非形状を被弾した生、その複雑さは哄笑の後にあり、あくびとともに身体と世界の滓となる。
 むこうで狼煙が上がる。低く、かすかなピアノとサックス。南スペインのツィガンの地よりもっと古い土地。淋病。狼の遠吠え。雨が水面に小さな輪を作っている。小舟は上流へ吸い寄せられる。太古の太鼓。ギターの調べ。雨はやがて嵐になるだろう。右手で引っ掻かれるピアノ。弦が戦き、喉を切り裂き、下に落ちる。点描された声。カウエルを聞いたこともないのに、ワルツを踊る犬の末裔。
 論破できないものはこの土地のようにつねに美しい。ヘンリー・カウエル以外にも色々ある。ミケランジェロのピエタとベルニーニの聖女像、ティントレットのサン・ロッコの壁画、ランボーのイリュミナシオン、すべての民族音楽、ピタゴラスのいう天界の音、エジプトと古代ギリシアの彫刻とか、石、砂、木、風、土、陽の光、清水とか。木屋町で大暴れするベレー帽の女はどうなのか! 脱ぎ捨てられ、蝙蝠のように飛び去る黒革のコート!

 音楽のように、粗末なゴシック窓から夕暮の光が一瞬だけ絶対にそこを通り過ぎたことがあるという幻覚を内陣のなかに映し出す。懺悔する黒服の日本人。彼は脇目もふらず小さな入口からどかどかと入ってきた。ヘンリー・カウエルとはなんの関係もないし、彼が音楽など聞いたことがないのはわかっている。男は本物のやくざにしか見えない。上等のスーツと靴、そしてその顔つき。人生と同じように、持ちこたえている途上にある否定性の極致だと俺は思った。モモは固唾を呑んで男を見ていた。俺は懺悔しない。彼は懺悔している。必死で祭壇の前に膝をついて祈っている。俺たちがそばにいることにさえ気づいていない。人を殺したのだろうか。ついさっき? 教会の外の階段では片足のない第三の男が前を見て笑っていた。階段に座った彼の前はただの中空だし、彼は何も見てはいなかった。風がここからは見えない木の葉を揺らし、夏枯れの葉を巻き上げていた。ジュネは風は立ったまま眠ると言っていた。醜悪な老人が、八十八歳まで生きてしまった美人の妻を厭わしく思いながら、二十二歳の若い娘に恋心を抱いて、彼女が落とした手帖を盗み見たりする。そのためには自らが老人になっていなければならず、人生はままならないものである。生きている人間はこうしてしばし悲劇のなかにいることを忘れるのである。こんな老人に比べれば、このやくざは非凡なフィルムにほかならなかった。

 小野篁が夜毎地獄へ行った井戸は静まり返っていた。彼は閻魔の補佐をしていた。六道の辻、六波羅蜜寺界隈は特に深夜はいまだに妖気漂う場所なのに、この井戸のある庭はまったく違う印象だった。空間は縦に割れている。近くに何度も寝泊りしてもなぜかその時までここに来ることはできなかった。役人でもあった篁は嵯峨天皇や当時の知ったかぶりの貴族を馬鹿にしてからかったりしていたのだから、思うに、知識人の鑑だったのだ。そのために隠岐島に島流しになった。百人一首では蝉丸の次に坊主めくりのように登場する。蝉丸の永遠の離別、篁の追放。そうだ、井戸は縦に掘られる。天空の井戸。地獄の入り口は苔むしていて、空はよく晴れていた。
 文字を燃やす。文字から煙が立ち昇る。篁の地獄の井戸の前で。ひとりの巫女が煙のなかにいて錆びた刀を振り回している。絶対に俺を切ることはできない。文字なのだから。紙から文字が浮かび上がって焦げ跡だけが雨に濡れる。呪いのように艶かしい麝香の香りのする古い着物。ひとつの罪科が沈殿する澱のように現れ、地獄はすぐ間近だった。誰もが、夕方になると衣のひらひらするあの廃墟にやられてしまったのだ。袖を通した途端に消え失せる手首。煙のなかの六波羅の女……彼女は平家の武将を愛したあの傾城だったのか。
 ある名状しがたい様態のもとに個体化された最終段階の形相が、真冬の夜のまだ見ぬ夢のなかに、昼を喪失した薄暮に潜むあのぼんやりとした錯乱のなかに、そっと忍び込む。美しいスクブスたちよ。俺と俺ではないものが井戸のそばできりきり舞いしている。あれらのいにしえの神学者たちは最後に何を言おうとしていたのか。
 死者たちの街にいると、木立が風にそよぐのを見ているだけで、自分のやむにやまれぬ欲望が実はとても古い他者の欲望だったということに気づくことがある。俺ははっとする。この乖離、このズレのなかに巷の些事は蠢いていて、ただそこを通り過ぎる者の資格を剥奪していく。六道は揺れている。紫式部は色情の罪で地獄に落とされかけたが、知り合いだった篁が閻魔に取り入って助けたのだそうだ。たしかに饅頭のような二人の墓は仲良く並んで今もひっそりとある。だがそれよりももっと重大なことがある。六道の外にいる奴は外道と呼ばれた。道と道が交叉して、ここをかつて弔いの葬列が幾度となく通り過ぎたのだ。どちらへ行こうか。幽霊飴のようにあの世の通りで溶けてしまう道。それは外道なのか。死体の山のかすかな名残り。もう臭うことのない腐臭。辻は消滅し、だが今は生活がある。なぜ辻なのか。十字路は白昼にはいつも白茶けて誰にも気づかれない。篁はここをまず通ったはずだった。そして鳥辺野から嵯峨野へ抜ける地下の道。狂言師の未来の演目はこうして嵯峨野で「生の六道」と向き合うことになる。

 冷たい錆びた鉄棒が青い血管の浮いた首筋に触れる。気がふれる、というのはそんな感じだ。蜘蛛の巣についた雨の水滴。アルペジオ。三本指のせむし。夕暮れには聖堂の反射は弱まり、喉の奥に消える。青い光。ア、ア、ア、アンダンテ。ソステヌート! 緩やかに弧を描いて落ちていく狂言師のお面。割れ目のなかに古い粉を探してみる。なんの象徴もなんの慚愧の念もない。小瓶の外で、外道は外に出されているのか。

 不思議な中間地帯があった。そこには何もない層があって、われわれは、私は、そこを漂っている。中間層を肉が降下すれば、それに触れようとして、私は何十キロもの距離を一瞬で無に帰せしめる電離層のようなものと化してしまう。怒りや悲しみや嫉妬だってその電離層からやって来るというのに。たとえどんなに愚かに見えようとも、無の地図製作者がいつもそこで息をひそめて、ぼんやり空を見上げている。
 紺青の空を呪ったのだ。深いインディゴ・ブルーの空、闇に落ちてゆく前のほぼ完璧な空虚、何もないことだけが救いであるような長い沈黙の後の一瞬の全面的な空白を呪ったのだ。明滅しているのは遠くの記憶などではなく、もう手にすることのできない持続だ。あるがままでいるのはひとつの冒瀆だった。暗い地球。地獄の井戸は一種の賭けだったのかもしれない。鳥がそこをめがけて落っこちる。

  ガルシア・ロルカのように黒犬に聞いてみる。オリーヴの実はどこにある? 赤い満月が見えた。俺は道を続けた。如月の明星。酩酊は涙のように遠く瞬いている。塔は見えても、死が塔の上から覗き込んだ二つの道に人影はない。行きも帰りも。皮袋のなかにはほんの少しの毒酒。羊皮紙の上を黒い馬が救いにやって来る。ニーチェが馬の首に抱きついて道端にくずおれた日、十字路で雨に濡れてしまったトリノの手相見が早々に仕事を切り上げ家路に着いたあの晩だった。俺は何も見なかった。何も。 アレキサンドリアの四十万冊の書物だと? その本を読んだふりをした修道士のことなどどうでもいい。廃墟のなかで焼けただれた半分の旗が風にはためいていただけだったし、それさえも嘘の上塗り、存在しなかったかもしれないのだ。

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  第95回 沈まぬ船 - 2018.02.04

第95回 2018年2月





沈まぬ舟





鈴木創士


S・ブラント『阿呆船』上・下

  「あした、あした」と歌いつつ、
  多くの阿呆が死んでった。
  罪悪、阿呆のことならば、
  みんな勇んでとんでくる、
  神やまじめな話だと、
  なかなかそばへは寄りつかず、
  何とか延ばそと苦労する。
  「懺悔はあしたのほうがよい、
  あしたになればちゃんとする」
  放蕩息子の言い草だ。
  同じあしたは二度来ない、
  雪のように溶けてゆく。
  魂が消えてゆくときに、
  はじめてあしたがやってくる。
  そのときゃからだが苦しくて、
  魂どころの騒ぎじゃない。
          ――セバスティアン・ブラント『阿呆船』、16世紀(尾崎盛景訳)

 沈まない舟は舟ではない。だがその小さな舟は砂漠の海原に浮かんでいたりもする。生きたやつであれ、干からびたやつであれ、船虫もいない。寂しい流木もない。季節の移ろいもない。砂浜はあっても、水がない。渡し守カロンは他のことで忙しい。結局、舟は一ミリたりとも動かなかったのだ。
 阿呆船は気違い船でもある。ミシェル・フーコーは、狂人が気違い船に乗り込んで向かう先はあの世であり、船を降りて帰ってくるのもあの世からだと言っていた。いかにこの舟がなかば実在していた空想の地理にしたがっていたとしても、そこにはまぎれもない「狂人の出発点」があったのだ、と。

「元・彼等は良い人たちです。キリストが逮捕されようとしていたとき、マルコ少年は裸で逃げ出しました。でも彼こそが破滅しかかっていた師匠である本物の預言者のそばに最後までいた人でした。のちにあの教会の礎となるペテロだって逃げたあとでした。だから石鹸のなかに隠れれば巫女ちゃんだって泡だらけです。サブローザルクセンブルグ。空っぽになったラベンダーの香水壜の首にくくりつけた紫のリボンだって風邪を引くことがあります。黒塩、烏牛糞、黒沈香、麝香。そこはかとなくうら悲しいのはあの香りのせいかもしれません。元彼等よ、教えて欲しい、何も聞きたくないから、俺とおめえの仲じゃねえか、よう、髑髏(しゃれこうべ)よ!」、と彼は言う。
 どうやって矛盾をきたせばいいのか。平然たる、徹底的な矛盾に憧れたからといって、過小評価してはならない。悪人正機などと言い出す人がいるからどこかで辻褄が合ってしまう。どこかで夜が昼に連なりお互いを裏切り始めたと思ったらすぐに一日が過ぎてしまう。そのまっただなかに居座り続けるのは至難の業である。強靭な精神、あほみたいな矛盾野郎。
 私は悪い人だった私は悪い人である私は悪い人をやめるだろう。これをヘブライ語の神のようにただひとつの動詞で言わねばならない。そんな動詞などなかったのよ、と日本語で言われても、彼の思考のなかにはただひとつの様態として存在するしかない。悪人正機じゃないぞ。親鸞聖人は弟子など俺にはいないと言ったではないか。末世は永承七年(1052年)に始まった。つまり今まで千年近く続いているわけだ。道元と親鸞と明恵は同じ時代の腐った空気を吸っていた。平家物語も方丈記も同じ頃に書かれた。西行もまたその頃ひと気のない吉野の山でひとり桜を見ていた。グノーシスの流れをくむヨーロッパのキリスト教異端カタリ派も同じ頃に隆盛をきわめた。性的なものも含めて現世での欲望を徹底的に肯定したカタリ派は、ご多分に洩れず後にカトリック教会によって殲滅されることになるだろう。同時的に歴史に生々しく登場した悪の問題。ああ、ああ……。
 こうして裏返った手袋が鏡に映っている。左手を上げると鏡も右手を上げるが、そんな右手は鏡の外の左手に似ているだけで実際は存在しない。面倒なのでやっていないが、手袋を裏返しても元の手袋とほんとうは重ならないはずだ。実は裏も表もなく、一気にそいつは裏返るだけだ。世界が裏返るってそんな感じだ。ある一点を境に急旋回が起こる。対称も左右も反転もない。そのように見ようとするときだけ反転が起こる。

 足りないのは、文法的構文の捩れでも、愛の言葉に潜む後先のない震撼でも、憎悪の発端でも、出発することを夢みる徒労でもなく、また実りのない悔恨でも、神秘を奪われた罪障でも、お喋りでもない。いつも欠けているのは、一文無しのジュネが金の無心のためにジッドに宛てた手紙のなかで言っていたように、いつも、いつも、この生なのだ。ヘルダーリンがまるで高貴な詩のうわごとのように言った、「死がひとつの生である」ようなこの生なのだ。
 ポルトガルの大詩人ペソアが書いていたように、天気は天気ではないし、朝の光は朝の光ではない。大災厄のさなかには、そこにいるすべての人間がそれを理解することをほとんど無理やり強要される、つまり破局的出来事においては極度の「繊細さ」が自明のものとなるのだが、ペソアはそれを知性と呼んでいた。リスボンのコーヒーショップで、仕事が終わったあとに。ああ、そうなんだ、知性!
 われわれは時間のなかでごろつきのように、益体もないチンピラのように振る舞っている。あの臨終のゲーテみたいに、時間よ止まれとは言うまい。瞬間よ、お前は醜いからだ。お前の知らない屋根のない神殿の崩れ落ちた円柱は、盛岡の北上川のほとりで白鳥の羽ばたきを目で追う彼女のスカートの襞のように美しい。
 正午を探せ。不死身の、ハヤブサのような、鉄の偶像を食べるアイドルを探すみたいに。午後二時に正午を探す人がいる。彼は散歩の途上である。丘は突然エニシダに覆われる。なぜなのか。そんな風に見えたのだ。大気はじっと動かない。「俺は自分の血をかき混ぜた。俺の義務は免除されている。そのことを考えてみることさえしてはならない。俺は実際に墓の彼方にいるが、伝言などない」(ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー)。
だからランボーとニーチェを讃えて。世界を、没落したあとの世界を逆光のなかでまるで複雑なものにしてしまう、無数の塵が舞っている。だからジュネを讃えて。眠りを探すほんの少し前に。だから少し息をして空気を吸うように、舞台では演じられない(いくら頑張ろうと舞台でなんか不可能だ)シェイクスピアの「嵐」を讃えて。讃えて。

 さなきだに ぎざぎざに 蟹のやうに 横向きに 地の果てに 水浸しのにぃにぃ蝉の抜け殻に 似て非なる 贄のごとく 新高山より落ちきたり おお日々に疎ければ さらにさらに日めくりを捨て 何を捨て 花巻宮古気仙沼に陽沈み 陽を射り 陽を焚き 陽暮れなずむとも さもあらばあれ 捨てたるものはなし
 ふらふらと舞台の上でありもしない科白をわめていているのが昔の死んだ知人だとしてもその科白ですらおまえが昨日どぶ川に吐き捨ててすでに忘れてしまった言葉の唾にすぎず舞台の眺めだってあらぬほうから吹いてくる風など吹けば塵と一緒に舞い上がってどこかに消えてしまう光だけでできた破けた絵葉書の切れ端にすぎないらしいしそいつは誰にも拾われることなく人の住まなくなった埃だらけの玄関にいつも落ちている。
 「取引はもうやらない。分け前をよこせば、俺は立ち去ってやる」。古い門柱に書かれた言葉には赤い印形のしみがついていて、この古代の村が皆殺しの天使によって根絶やしにされたことがわかるが、この門柱の主の姿もすでにそこにはなかった。いじ汚く言葉を拾い集めては紙をねぶるようにそれを涎で汚していたあの品のない色気違いの姿もない。お前は全部わかっているとうそぶいているがお前は未来に存在しないのだからお前には何もできないと預言者を罵る女もいない。誰もいない。

 「存在の諸様態とは、その内在的限定であり、《無限なるもの》のなかでは無限である」。あるいは、「《無限なるもの》のなかでそれと同じく無限なものは、すべて現実的に同一である」(ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス)。20世紀の数学者のカントールやデデキントが考えていたこと、言っていたこととそっくりである。ドゥンスというのは敵による蔑称で、「うすのろ」という意味である。無原罪でこの世に生を受けたとされるマリアの教義の基礎をつくった「精妙博士」スコトゥスは、パリの彫像の聖母がお辞儀をするほどだったのだから「マリア博士」とも呼ばれたが、彼はフィリップ美男王によってソルボンヌを追い出され、フランスを追放された。最後はケルンで没した。殺害されたという説が有力である。

 ざわざわと揺れる緑一色に生い茂った草原を低い稲妻が走りそのまんなかに佇む桜の古木の下に子供が立っている。横殴りの雨だけど狐の嫁入りなのかまったく濡れずに顔を顰めて腕を組んだまま動かない。俺はびしょ濡れになって手を振ってみる。手が消える。何百枚ものスナップショットに写っていた風景が一ぺんに中空でモンタージュされると道端に落っこちていたはずの梯子がもう一度空から落ちてくるのが見えるのだがきっと発狂したにちがいないヤコブの残り香もないしヘブライ文字もヘブライの遺産も何もないばかりか水仙の花が一輪ぽつんと咲いて後は味気のない凄惨な瓦礫の山が続くばかりだし目玉のなかで雲が切れたかと思うと大量の土砂が流れて俺も俺の目玉もめくじらも流れて草が一面に波立ったのにこの話は終りようがない。

 最後に、再びセバスティアン・ブラント。
  世間でいわれる悪人が、
  神に好かれることもある、
  この世で尊敬うけながら、
  地獄へ落ちてく者もある。
  俺は清廉潔白と、
  大きなことを言う奴は、
  背のびをせずにはいられない、
  身のほどしらずの阿呆者。

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  第94回 正月の葬式 - 2018.01.04

第94回 2018年1月





正月の葬式





鈴木創士


ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)

   丘の上で鈴の音が聞こえる

   生まれたばかりの蛇のように
   君の髪が風にからまった丘
   きんぽうげの毒花が咲いていた
   遠い泉は涸れて跡形もない
   鈴の音が聞こえる 
   私には見えない丘のむこうで

   丘が見えたとしても
   私は辿り着けないだろう
   なだらかな坂道
   マンドリンの調べ 
   傾いた木の十字架が見える 
   リラの花咲く君の窓辺へ
   急いでいるのだから

   何を間違えたのか 
   マンドリンを抱えて通り過ぎた
   地獄の門の火の夜に
   君の窓辺へ
   灯りの消えた君の窓辺へ辿り着くまでに
   壊れてしまったマンドリン 
   苦しみの夜空に神の雲が浮かんでいる 
                    (中世イタリアの無名の吟遊詩人「葬い」より)

 今日、古い友人から久しぶりの電話があった。電話の声はがらんとした空間から聞こえてくるように遠く、妙にうつろに反響していた。彼とは長いこと会っていない。
 「シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を聞いてると、裸の女が溶けたアイスクリームを食べてる絵が浮かぶな、しまいには裸の女まで溶けてしまうけど」
 「それ前に俺が言った科白だよ、シェーンベルクは夏に聞く音楽じゃないし、シェーンベルクじゃないけどな」
 「暑くても寒くてもギリシアの火炎車のようにどうせみんな溶けるんだ」
 「おまえ今何してる」
 「正月なのに葬式に行くとこ」
 「行くの気が重いんだろ」
 「ああ」
 「ちゃんと行けよ」
 「じゃあな」

 内田百閒は芥川龍之介が死んだのはその夏が暑かったからだというような事を言っていたが、若くして逝った自分の友人たちのことを思うと、みんな暑い夏に死んでしまったような気がしてくる。あいつも、あの子も。冬に死んだ者もたしかにいたはずなのに、夏の白茶けた、陽炎のようにゆらゆらして、もやもやした感じしか脳裏のスクリーンに映し出されない。それなのに自分が死ぬ場合を思ったりすると、最近はどうも冬に死にそうな感じがしてくる。なぜだか冬枯れの林が目の端っこに見えたりする。ある人に、最近君の書くものは、以前は「死体」という言葉を書いていても鏡のように闊達で明るかったのに、そうじゃなくなった、何があったんだと言われた。

 だが「鏡には記憶がない」。
 鏡には記憶がなかっただけだ。
 鏡は光の魔術だから、厳密に言って鏡に映っている分身は一瞬前の過去の姿である。だがこれは記憶ではない。現在はもうすでになく、記憶もない。映画のスクリーンに映し出される分身にも記憶はないし、ただ一瞬先の動作をいまにも繰り返そうとしている。この反復は原理的には永遠に繰り返されるだろう。だがこれも記憶ではない。永劫回帰は絶えず同じ地点に舞い戻る。しかし過去は戻らず、分身のこの動作は未来にしかない。分身以外のすべてが死に絶えているということもあるのだから、現在、過去、未来の死が繰り返されるのである。
 背中どうしをくっつけているのに顔が見えるというのは、背中と背中の間に鏡があって二人が笑うとそれが曇るということだ。実際、ガラス板は人の息で曇っていた。回りの空間があまりに広大で東西南北が消え、鏡を間にはさんで空間と人の関係が死体とデスマスクのようにぴったりくっついてしまっている。
 鏡のなかで、削れて粉々になり消えてしまった四つの腕はしばらくすると向こうのほうで少しずつ現れて小刻みに震えていたが、指の先端でつまんだ煙草がもう一度鏡の表面に現れる頃には再び顔ももうぼやけ始めて、このままではまたぞろ消滅の憂き目にあうなと思ったとたん、燃え尽きた火がからだに燃え移り、数秒の揮発性の焼成の後、二人のからだは灰になって崩れ落ちた。鏡の裏側だけがこうして鏡に映っているだけだった。

 気違い帽子屋と絶交したアリスは二度と気違いお茶会などには行きたくありませんでした。アリスはチェシャー猫に再び会いにゆきました。苦しゅうない近こう寄れと、ずいぶん歳をとり、汚れて尾羽打ち枯らした猫は言いましたが、アリスは自分の体が半分すでに消えかかっていることがちゃんとわかっていたので、にゃんこに意地悪をしました。半分破けた片割れのトランプの女王に似てきたアリスは、ふーと猫に息を吐きかけたのです。すると冬の鏡がパリンと割れました。

 鏡にとって、背景は表面として到来する。この表面には別種の光が当たっていなければならない。愛惜措くあたわざる作家であるジャン・ルイ・シェフェールは、エル・グレコの絵画のなかに描き出される光は照明とは無関係であると言っていた。「光はすでに世に到来したものであり、光は照明を当てるものではない。光は示されているものなのだ。それによって風景画全体は、神経的反応、それに発汗――不安の汗――がまぢかにおこるという思いのせいで、あの酸味を帯びた色合いに彩られる」。
 物は、物質は、そのように見えることがなくとも、絵のなかに漂う光のなかでつねにカタストロフ状態にある。すべての要素は「上昇したり、引き伸ばされたり、滑り落ちたり、宙吊りにされたり、増大したり」するが、それが実際には物理的に起きる確率を持たないだけでなく、神話的、物語的、説話的アリバイも持たないことは言うまでもない。絵のなかの風、嵐、砂嵐、雨、沈黙、まるで生命を授かったような布地。鏡とは、まるでこれらのものを映すこれらのものすべてである。

 記憶の光のなかでは、鏡の表面に映っているものは全部が嘘だったような気がしてくるなどということは、ほとんどすべてが本当のことだったということだ。これが別種の(そうとしか言いようがない)光のなかにあったはずの物の特性である。人は消滅の数を数えたりはしない。消滅というのは蝋燭の火を吹き消すようにはいかないもので、振り返ったとたんに鏡のなかの自分が掻き消えていたりもする。暗闇にいても日なたにいても同じことである。嘘つけと言ったとたんに、口が腐ったりするのだ。
 しかしグレコの絵には光源がないのではないかと思わせるものがある。光はどこからも射していないし、物体や身体の内側に光源があるとしか考えられない。でもそれも後光のように人の内側から光が放射しているというのでもない。光があって、光源がない。だから例えば「トレドの眺め」の山の上の不思議な街並みは、色彩を故意に消してしまうと、月世界のように見えたりする。そこに突然、一羽の鳥が墜落する。外と内に。同時に。出来事とはそういうものである。「というのは結局のところ光は天空のなかにはもはやない。光は何よりもまず一種の原因(カウサ)に由来し、いかなる光源もそれをつくりだすことはできない」(シェフェール)からである。

 世阿弥は「仮令、憑き物の品々、神仏、生霊、死霊のとがめなどは、その憑き物の体をまなべば、やすく、たよりあるべし」と言っているが、じゃあ分身はどうなのか。おまけにそいつが操り人形である近代的主体なるものから出てきた分身である場合は? それとも、言うまでもなく分身は物狂いや鬼や付喪神ではなく、ただ単に秘すべきものなのか。「ただ単に」秘すれば現れる?……
 0.9999…と1の間に、というか「遅れ」のうちに分身がいるのではないか。すべて奇数の日が3111年1月1日まで来ないという居心地の悪さは、現実に割り切れてしまえば分身は消えてしまう恐れが背後にうずくまっているからだ。分身は一が二に割れるのではなく、また分裂でもない。フロイトは「それがあったところに私は生起しなければならない」と言ったが、「それがあった・ある・あるだろう」ところに分身は生起し、世迷言を言い、私が生起しなければならぬところからは早々に姿を消すだろう。ユダヤの神の名は「それはあった・ある・あるだろう」という意味だったが、「それはあった、ある、あるだろう」と一度に言う者は、私がかつて知った者、いや、いかに合わせ鏡のなかには生々しく映ろうとも、結局は抽象性のなかにしかない死者のように、誰でもなく、と同時に死んだ彼であり彼女であって、たとえ彼または彼女をいまこのときにそれと認めることができるのが私だけであるとしても……。

 「くちびるを聖書にあてて言ふごとき告白ばかりする少年よ」(春日井建)

 えにしだの道途切れなむランボオよ口笛吹きつつこの世は終りぬ 
      (アルチュール・ランボー『イリュミナシオン』「少年時代」への返歌)

 瓦礫のなかに真珠がひとつ落ちている。ツングースカの広大な森に落ちてきたブラックホールが木の幹のそばにうずくまったウサギを一瞬で消滅させる。吹き飛ばされた馬の首が電信柱に突き刺さって風に揺れている。地平線の向こうをキリンが燃えながら疾走する。フラ・アンジェリコの描くすべての終末の墓は暗い口を開けている。死体を暴くもの。犬。十の角。
 舞台の上に鞠がひとつ転がってくる。誰もいない。ああ、これだ! と私は思った。だけどそんな光景を見たわけでもない。むしろ空を見ていた。青空。雲ひとつない。今日この日、一月三日のように。すべては消え失せねばならない、とあいつが言う。晩年、ジャン・ジュネは倒錯について書いたくだりでも青空という言葉を使った。若い頃、ジュネがはじめて間近で殺人を目撃したとき、陽が水平線に沈みかかっていた。「私の目の前で、世界のあらゆる国からやって来た水兵や兵隊やならず者や泥棒の群衆のまっただなかに、死人と、人間のなかで最も美しい男とが、同じ金色の埃のなかでひとつに溶けるのが見えたのだ。地球は廻ってはいなかった」(『泥棒日記』)。右目と口から血を流して女の蔭に逃げ込んだら、南の青空に鳥が黒いしみをつくっているのが見えた。女の半身が消え、もう片方も消え、モーツァルトのレクイエムのキリエが始まると墓地も消え、カトリックの典礼から異教の狂気がぞろぞろと出てきてはかき消えていくのが見える。死後の生に慣れねばならない。鏡の表面の靄のなかで私はジュネのはげ頭に接吻する。
 何年前だったか、フランスの高校生が350の高校をバリケード封鎖した。聖ヨハネはパトモス島の牢獄でこう言っていた。「犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また偽りを好みかつこれを行う者は、みんな外に出されている」。
 ゼロ、ゼロ、ゼロ。あたしは隠れる。喉も渇いてないから、何も欲しくない。めくら壁。ここには鏡なんかない。なんにも見えないしなんにも聞こえない。入り口も窓もないのがはじめからわかっているんですもの。馬鹿みたい。でもでもそれなら入り口も窓もないのにあたしはどうやってここに入ったんだろう。どうやってあたしはここにいることができるんだろう。変でしょ、それって? なんかおかしいでしょ? 壁を引っ掻いた爪が割れて血が流れてる。音も聞こえないし、砂なんかどこからも零れてこないわ。あたしは弔鐘をどぶ川に捨ててきた。空が青いのはあんたが馬鹿だから。もう一度言うけど、ここには入った覚えがないのに、どうして出られるというの。教えてよ。闇の黒い敷布なんか破ってやる。糞ったれ。
 自殺した少女は世界を滅ぼしたのかもしれない。一度世界が滅んだことを誰もが忘れたために、不在の鳥は夢を見続けなければならず、鳥はすでに死骸であり石化しているのだから、私が見つけた鳥は滅んだ世界の人知れぬ残余であって、書かれた言葉もその塵に混じって消えてしまうただの紙屑である。
 「君はいつからここにいたの?」
 「世界が滅ぶ前からずっと」

 「この夜には、歯のように白いこの夜には、皮膚がしがみつく影はもうなかった……」(ジャン・ピエール・デュプレイ「塩の月」)。
 何も変えてはならない、何も考えてはならない、誰も寝てはならない、お前も寝てはならない、何も、何ひとつ、ペストも、アウグスチヌスも、異物も、精神は一種の癌腫である、少女たちの歓声、ブリュッセルは真っ白だ、チベットの雪、何も変えてはならない、映画ではない、京都も寒かった、麻痺した虚無のなかで震えている小鳥。
 ベコベコになった空っぽのバケツを蹴っ飛ばしたら、使い物にならない古い箒が待合室の鏡に映っていた。今日も昨日もそこからピアノの音は聞こえない。待合室で落とした切符を探していたら……と書こうとして、それが錯覚だったということに気づいたので、振り返ってみた。電車に乗ったのに、駅がなかったなんてこともあるからだ。
 果てしのない急降下。私は操縦桿を握っている。風防から見えるのは青空だけだ。砂色に光るレテの水面、あまりにも近い龍舌蘭。真正面に見える砂漠の涸れた井戸のなかで血色の星が瞬いている。垂直の涎を垂らした飼い殺しの龍。そいつがちぎれて飛んでゆく。何百年も姿を消していたのに沼沢の鬼火が私の眼前にふらふらと彷徨いだしたのだ。

 正月の土手の赤松は枯れていた。雲が夕日に照り映えて、西から東へものすごいスピードで流れていった。それが土手からも見えた。私の友人は葬式には行かなかった。正月に、奴は自分で自分を埋葬したのだ。ジャコメッティの彫像のように。

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  第93回 夜なき昼 - 2017.12.04

第93回 2017年12月





夜なき昼





鈴木創士


ミシェル・レリス『夜なき夜、昼なき昼
ミシェル・レリス『闘牛鑑
ミシェル・レリス『成熟の年齢
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと』(エートル叢書14)
宇野邦一『詩と権力のあいだ』(エートル叢書6)

 ミシェル・レリスは「夢の記述らしき」本である『夜なき夜、昼なき昼』のなかで言っている。「現に見つつあるぼくの夢は、間もなく終わろうとする覚醒状態に似たものとなる。ぼくは、夢自体の中で抗いがたい眠気に襲われながら、まさにこの夢が終わろうとしているのを感じている。その後は、現実へ回帰するのではなく、無意識の虚無の中へ再び落ちることになるだろう」。
 夢の経路は断続的で断片的な離脱からなっているらしい。そこから次々と欲望の離脱が起こる。この覚醒の経路にはつねに「破れ」があって、これは時間の破れでもあるのだが、最初の欲望の編成からの離脱がたえず生じている。ただこれが夢だとしたら、夢中夢からまた別の夢へと移行する刹那にいるように、たしかにこれが「情景」としてはあまりにも夢の情景に似すぎているにしても、この夢から醒めることはないだろう。現実に回帰するには及ばない。どう抗おうと、それはまったき現実のさなかで起きているからである。あの虚無のなかで叫び声をあげているのは誰なのか。ずっと下の方には、彼、つまりたぶん私の姿が見える。
 この無意識には夜がない。昼の残滓は昼の情景であり、白昼夢はいつも白っぽく、陽の光が射している。陽だまりのなかには腐ったリンゴがあったのだから、それは昼間の出来事だったのだ。夜は優しく、偽りのヴェールに覆われていた。そして蒼白くなってしまう昼の手は光のなかへの「転落の敷居」の向こう側に出てしまっている。この手が物に触ろうとする。明るい墓場に来てしまったみたいに手持ち無沙汰だ。レリスが言うように、そこにあったのはひとつの「あら筋」である。墓の上に記されたあら筋。数行に要約された故人の生涯は彼の見る夢のなかでほぐれてバラバラになり、分散し、広がってゆく。彼は夢から覚めたのかもしれないのだ。

 きっとそこにはグレコの絵画のように別の光源らしきものがあって、ピエロ・デラ・フランチェスカの厳密な遠近法的画面にあるように、ぺしゃんこになって現実性を失った形態が淡い色彩を帯びているのだが、この光源自体を目にすることはできない。だがかつて十五世紀にピエロが形態を見て、それを信頼したように、それは見えていて、信ずべき重み(それとも軽さ?)をもっているはずなのだ。しかしこの夢のなかの目撃は、そこで起きている行為と同じ速度でなされるのだから、夢に対するひとつの不在証明にほかならない。光の秩序は保たれているように見えるが、失われたのはプロポーション、均衡、比例である。

 
ピエロ・デラ・フランチェスカ

 眠っているのだから、この眠る人だけが起きていて、目撃者となる。そしてこの解けない照明の謎が、世界が現にここにあることをなんとなく証している。それが照らし出されることによって、それを見ることによって、つまりある類型を、萌芽状態にあるひとつの類似を目撃し発見することによって、それでも暗がりからまったく別の人の姿や物が浮かび上がってくるのが見えるだろう。それが類似性の眩暈である。よく見ると、この光源のまわりの情景は、引っかき傷や汚れや埃や色彩に重ねられた色彩、あの灰色でできているのがわかる。突然、背景が遠のく。そう、私はそれを見たのに、瞬時にすべてを忘れてしまったのだ。

 「たまたま単一の実体の無限の数によっていわば同じ数だけの様々な宇宙があるのだが、それにもかかわらずこれらの宇宙は、各モナドの種々の視点による、ただ一つの宇宙の幾つかの眺望に過ぎないのである」(ライプニッツ)。
 だが、モナドには出たり入ったりする窓がないにしても、夢のモナドにはいくつも窓がある。明るい窓辺からモランディの風景画のように無骨な外が見えている。
 ある日私はいつものように丘に登って町を見下ろしていた。見たこともない町の姿があった。大通りは消えていたし、森の位置も変わっていた。丘へ行くのをしばらくよした。再び思いなおして丘へ行ってみた。町は以前と同じ佇まいを見せていて、柔らかい光の感触も同じだった。あの情景は他人の目が見た町の姿だった。

 呂律の回らない幽霊… がりがりで見る影もない… こそこそトイレに立ってしまいにはその場で別の一人が追加される… 幽霊はまだ生きている病気の彼と入れ替わったのだ… ワーグナーをね、エンドレステープに入れてみたんだ… 別の幽霊が口をきく… 彼はフロックコートを着た昔の友人だった… ワルキューレのふらふらの騎行… くそっ、さっき買ったばかりの本をドブに落としちゃった… さっきから水たまりに青空が映ってて、それをじっと見ていたの… ここではパブロフ犬も反応なし… 外に追い出されて、後ろ足にウンチがついている… どしゃぶりの雨… 雨なんか降ってるもんか… 昨日とおんなじ真昼の月が出ている… いつも助けてくれる人がいる… 途方に暮れていると、山麓の夜道に突然現れる天狗たち… 頭のなかでペソアが薄暗い階段を登っていく… なんと彼には脚がある… 灰色の劇場の階段を七階まで上がると、廊下の床板のいい匂いがして、窓からいくつもの赤い屋根と煙突が向こうに見える… ジプシーが手相を見ている公園のほうから風が吹いてきて、黒い洗濯物がギベリン党の白旗のようにはためいている… ついに彼自身が彼を本物の幽霊に変えたのだ… 異名たちが表の通りを通り過ぎていった… ムージル『特性のない男』の冒頭、「何も起こらない」章のお天気の記述を何度も読み返す… まだほのかに香水の匂いがする車中、車の革張りシートの煙草の焼け焦げの穴と同じくらい好きだ… おお、羊歯のようにしなやかなアル中のピアニストの指の震えのように美しい、踏みつぶされ、ゴミ箱に捨てられてしまった、灰色にくすんだ黄金のスカラベの胸飾りのように美しい… クソ虫がよちよち砂の上を歩いていった… 咳をしたら血が混じっていて、血が騒いだのか心臓の鼓動がおかしく気分が悪くなった、少し横になって目覚めると、自分が今どこにいて今日が何曜日なのかわからなくなる… 夢うつつで考えていたひとかたまりの粘土のような文章を思い出そうとするが、どうしてもだめだ… それでトイレに入ってトンカチで頭を殴るのだが、氷のように冷たいピッケルがすでに幻影のように脳天に刺さっているのがわかる… 俺は昨日蝙蝠傘を飲み込んだのだった… 目に飛び込んでくる電球がどれもついたり消えたりしている… 大杉栄という名前に改名したと言い張る友人とその女房に、新宿の末広通りの洋食屋に飯を食いに行こうと連れ出されたのに、お前の服はみっともないので着替えに帰れ、と彼らはのたまう… すると迎えの車が来たのだが、車中にいたのはテロリスト風情の三人の青年たち… あ、僕がうんこをしに帰ると思ったんでしょ?… それは違うね… 昨日、アリウスの便器、ギリシア式戦争機械の話をしたのは、父と子のペルソナの同一実体性、ホモウシオスとかいうやつをだな、その同一性に疑義を挟むには、キリストがうんこをしたかどうかが鍵になるということのみを言いたかったのであって、しかるに、よって聖人の血はまもなく体内を奇跡のように駆け巡り、蘇りの時に望んで、ごわごわの法衣をたくし上げ… 「偽だ、偽だも、好きのうちである」(『アレクサンドリア諸聖人言行秘録補遺』、紀元一八四年より)… 作者不詳(一説によると「世界の乙女」なる人物の手になる、ともされている)のグノーシス文書はこのように続いている、「おまえたちは、偽だ、偽だ、と叫ぶがよい。似せている間に鬼は洗濯をするのである」、と… いや、違う、と護教論者somaedesumusは言った… それはベアトリーチェの勝利の名前なのだ… 緋色のドレスの襞はやがて蒼ざめた唇にも似て、ドレープの波のうねりのなかを接吻の小舟が木の葉のように舞っている… 世界の乙女よ、嵐よ、来たれ… 来て、よく見てみるがいい… かわいそうだな、ん子は… 海老さんと一緒に池かお風呂でちゃぷちゃぷするがいいさ… およそこのチャプチャプは鬼がかりなり… 「何となく恐れるよそほひあれば、進退きわまりて、鬼がかりにならんも苦しかるまじ」(世阿呆)… 聖堂で祈りを捧げていると天使が降りてきて言った… 「貴様は俺の足をどうしちまったんだ?」… 敬虔な信者に姿を変えていた格下の悪魔が正体を現し、言った… 「切断したさ、俺が医者をやってた頃に」… 天使がまた言った… 「司祭は何をしている?」… 「さっきまで外で物乞いしながら祈っていたさ」… 「貴様のために、また悪魔祓いか?」… 「いや、あいつはあまりに臭くて聖堂に入れないんだ」… しゃべれ、しゃべれ、おまえは美しい… ずっとしゃべってろ!… 冬の夜の華のしるしは紅くともまた生きんとてカメムシ臭ふ… 「俺はもうけっしてうんこをしないだろう」(アントナン・アルトー)… 唇のまわりを血で真っ赤にして… 唇のまわりを、お相手の女が塗りたくっていたルージュかアイスクリームでべとべとにして… ラ・ラガッツァ・ピュ・ベッラ・デル・モンド・コン・ジェラート(アイスクリームのある世界で一番美しい女)…だが口のなかは、砂漠の説教家の呟く言葉のように苦い灰か砂の味しかしない… 「諸々の言葉、大義、服、喪服の場合さえある変装の下に、骸骨を、そして準備を整えている骸骨の粉末をのぞかせてしまうのも、やはり一冊の書物の野心である。彼が語る人々と同じく、作者もまた死んでいるのだ」… ジャン・ジュネはそう言っていた… あゝ麗しいデスマスク、つねに遠のいてゆく風狂、悲しみの彼方、鬼への、捜り打つ夜半のフォルテッシモ… こんな駄文はただの冒瀆的行為にすぎない… 吉田一穂は水平線の上に一直線に並んだ語句をアルペジオのようにつま繰り、パティオの噴水の水しぶきのように眩しく、あるいは陽の照る日時計の上のトカゲのように地上で惰眠をむさぼっていたわれわれを垂直に攻撃しにやってくる、鷲のように… 「昼は退屈だ。夜も退屈だった。人生が擦り抜けて行く、野鼠のように。草葉ひとつ揺らさずに」(エズラ・パウンド)… 死の間際、エズラ・パウンドはヴェネツッイアの陽光の下でじっと自分の手相を見つめていたのだった… これを書いたのが吉岡実の命日であれば、つつましい静物画のなかにあっては、やはり「小鳥」と「蜘蛛女」のどちらの命をとればいいのか… 「夜の器の硬い面の内で/あざやかさを増してくる/秋のくだもの/りんごや梨やぶどうの類/それぞれは/かさなったままの姿勢で/眠りへ/ひとつの階調へ/大いなる音楽へと沿うてゆく」(吉岡実)… いまは亡き詩人を訪ねることもなく何千里、隠微な倒錯の呼び声生まれるあの腐爛の青空の下、あの浜辺に近く、下手な自分の「静物」画をよくは見えない眼ででたらめにきっと描いてみせると、裏の寺の和尚に声をかけてはみるものの、思い出すのはひっそりとした果物ではなく、ただ髑髏の発するしらじらとした叫び声ばかりなり… おじいさんとおばあさんを縛って小屋に閉じ込め、かわりに川に洗濯に行ったが、桃は流れてこなかったのである… 以下同様…

 閑話休題。もしかしたらランボーにはカフカのようなところがあるのかもしれない。どこまでも不毛な大地の土地測量師。
 「イエスはさらに人通りの少ない道を歩き続けた。昼顔やルリヂシャが敷石のあいだから魔法のようなほのかな光を見せていた。最後に彼は、遠くに、埃っぽい牧場と、日の光に許しを乞うキンポウゲと雛菊を見た」(ランボー「福音による散文」)。
 「俺は重い熱病にさいなまれて何もしないでぶらぶらしていた。動物たちの至福がうらやましかった、――辺獄(リンボ)の無垢を象徴する毛虫たちや、処女性の眠りであるモグラが!(…)おお! ルリヂシャ草に恋して、旅籠の公衆便所で酔っ払った羽虫よ、そいつも一条の光線に溶けてしまうのだ!」(「ある地獄の季節」)
 こんな風にして詩人はいつも目覚めたのである。

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第92回 2017年11月





 雨が降っていた





鈴木創士


イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』(エートル叢書24)
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)

 雨が降っていた。私は間違ったのか。朽ちてしまったような窓辺に季節外れの大きなアゲハ蝶がとまってこちらを見ている。ぼんやり外を眺めるでもなく、窓辺近くに腰かけて、さっきから私は居眠りをしていた。雨がずっと降っていた。何度となく私は大きな間違いを犯してきたのだろうか。漆黒の羽をした蝶は誰の眠りにも動じる気配がない。眠りから引きずり出されるまでもなく、私の半睡半醒のなかで、すでに胡蝶はこの世がこの世であることをあらかた証明してしまっていたが、この世がこの世であることはすでに夢のなかにしるされていて、妥当性を失っている。区別がつかないのは夢かうつつであって、蝶や私ではない。蝶の黒い羽には白と黄色の斑点があって、そこから払暁の薄明かりが少しずつ漏れ出していた。薄明かりのかすかな光は、もう眼前から消えてしまった闇の名残りであり、蝶という闇の装いであり、自分を否定しにかかったかつての嘘なのだ。雨がやんで、光が射してきた。ときどきブラームスのピアノ幻想曲が聞こえる。CDをかけっぱなしで音楽はずっと鳴っているのに、とぎれとぎれにしか聞こえてこない。私はだらしのない身なりで、一日中ずっと喪に服している。支離滅裂な独り言が何度となく心臓を鷲掴みにする。窓から捨てたはずのものが健忘のなかでよろめいている。さもあればあれ、と昔の誰かが囁く。不愉快な悪魔の囁きに耳を傾けてはならない。あれは自分を最後まで知り抜いたかのような罠なのだ。ああ、手遅れだ。歌など詠むには及ばない。背中に冷たいものが走り、いつも遅きに失した言葉、それが口にされようとする刹那が時間の澱となって全身の血管のなかを駆け巡る。この世のものとは思えない蝶が私を見ている。雨が止んでも、蝶は窓辺からじっと動かない。母が亡くなった部屋にも蝶が舞っていた。

 大空を裂いた秋日の影なれやよそ見のみぎり恐ろしからむ
 玉の音など消えなば消すさ絶縁状君生まれこし破滅の月日に
 咲かぬなら花と錯乱散りぬるを君切り倒す去年(こぞ)の梅の木

 蕭蕭と雨が降っているのに、昨日の深更、西の空に月が出ていた。視線が焦点を結ばずに少しずつ二重になっていく。私はそれでも凝視する。壁にくぼみが現れる。猿のように笑っていた、歯のない老婆の姿はもうない。額にやった手が半分消えかかる。ほんの少しだけ床から浮いてしまったみたいだ。暗闇のなかでカサカサと衣擦れの音がする。横たわったチャイナ服のスリットからまっ白な脚がむき出しになっているのがわかる。下着はつけていない。まっ暗のなかに唇の真紅のルージュだけがぼんやりと浮き出ている。そいつは生きて息をしている未知の小動物のようだ。女が寝返りを打って、からだの向きを変える気配がする。生暖かい息づかい。びしょ濡れになった闇。私はそれをむなしく手探りする。愛の幻滅のなかで私の息はもう切れている。紫煙。遠のく意識のなかで二股になった爬虫類のような舌と舌をからませたのか。見知らぬ者どうしの夢のなかで、匂い立つように生々しい接合。一段と大きくなった雨の音がずっと聞こえている。
 
 死は冷たい。だからまだその時ではない。
 存在の皮が剥ける。神はいない。くたびれ果てた不吉さ。お前の暗い骨にもう一度、光は射すのだろうか。わたしはなぜお前を愛していたのか。イレ? ああ、何という、何ということだ。お前の小さな神は、今お前に尋ねている。エウッド。他にも女たちがいたのではないか? それなのに、どうしてあなたは私を選んだのか。

 ひとたび死んでしまえば、いつも欲しいと思っていた色彩を手にすることになるだろう、サフランの紅、掛け値なしの赤、煉瓦とイチゴとセピア色と影と中間色、あなたの側でわたしは気難しく真紅、二人ともお終い、だって死んじゃったのだから、わたしたちの手は大がかりな儀式から離れることができず、わたしの手はあなたの高貴な肉体に触れている、あなたの肉体は生と死の境界を引けそうもない色艶をもち、私の舌には甘美すぎて、日が経つごとにますます甘くなり、純粋な蜂蜜のように、あなたの口がわたしの上に、ハチドリでいっぱい、わたしたち二人はある日に死に、不朽の永遠を得る、人々は井戸が開通したときのように、それに眼を見開くだろう。
(イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』)

 鈍色に垂れ込めた空の向こうは夜のアギトに食われようとしていつまでも悪臭を放っていた。夜のアギトは吐き気がするようなけばけばしい色をしていた。この想像を絶する悪臭、何も感じはしない、岩間の清水を啜るようにこのアギトの臭いをあたしは嗅がねばならない。十分間だけ眠る。黄昏時、犬も狼の姿もぼやけてゆき、ともに穴に隠れてしまったように見えなくなりかけた頃、密雲が散らばり始めた。あたしは外に出て、母の形見だった古いコートを脱ぎ捨てた。コートの下はすっ裸だった。冷えきったどこまでも白い肌と、あんたの好きな黒々とした陰毛。あんたと会うのは今日が最後になるはずだった。雨が降っていた。あたしはあたしをあんたにちゃんと見せてやろうと思っていた。でもあんたにはいくら欲情の放電が起ころうとも、あたしの墓穴に触れることなんかできないわ。あたしの体の穴という穴。でもいくら凝視しようとけっして見ることのできない穴。墓穴を掘るのはあんたの役目だったけれど、墓掘り人夫の手際良さなんて男のあんたにはあるはずがなかった。あんたはそうやって自分の穴を見つめていると思っていた。あんた自身のすべてが節穴のような穴で、そんなものはあんたのお粗末な目には見ることができないというのに。穴が面(おもて)だったことは知っているでしょ。俺には見えている、俺には見えているさ、なんて能書きをいくら口にしても、そんなものはあんたのどっちつかずのつまらない虚勢にすぎなかった。あんたはあたしの目の前をうろうろすることで、いちいち都合のいい不在に去勢を施していたのよ。あたしはあんたをもう愛することはできない。

 美術館の前に着いてみると、雨が降っていた。西日も射さず、そうであり得たかのように、やくたいもない思い出のなかでだけ夕日が射していた。
 古い美術館はそうでもないが、私はたいていほとんどの美術館が嫌いである。それが安藤忠雄などの建築物であれば、汚いコンクリートがあまりに陰気すぎて、殺伐としていて、なかに入ると安物の金ピカが剥げたようなどこかの霊廟にやって来た気分になる。ここはバカでかいだけが取り柄の殺風景な墓なのだ。誰のものでもないのに、誰ソレの文化、文化とつぶやきながら、さえない死霊や半透明の幽霊がいそいそとうろついている。ベルニーニやボロッミーニのような建築家でなければ、建築家などもう存在しないほうがいい。大工の棟梁で十分間に合っている。どうしても見たい絵があれば、ここに来るしかないのだが、こんな美術館は、ひとりで来たりすると、気が滅入ってものを考えられなくなる。今日、私はひとりだ。おまけに身体障害者にとってはあまりにも安易に思いついた迷路のようで、えんえんと歩かされるし、最悪である。座るところもない。人をなめているとしか思えない。

 エル・グレコのいく枚かの絵のなかで、描きこまれた光に照らされ、ぼやけた部分がどんどん広がっているのが見受けられる。そこではあたかも何かがたえず眠りから引きずり出されているように、絵画は、空間に休止という性質がそなわっていないことから、むしろむりやり断行されたものに映る。そこでわたしは、夢のなかで、現実の形姿(フィギュール)や人物たちがどう変装しているかよりは、仮構体験にもたらされたあの奥行、というか、見かけの奥行の方に思いを馳せる。夢はそこに一種の要約、あるいは、プログラムを一緒に盛り込んでいる。その要約ないしプログラムの謎は、形姿たちの起源や意味、その出所や場面の配置に所在するのではなく、あれほどしっかりと規定されているのに見抜けない使い方や、活用不可能なプログラムにあって、真っさらに描かれた、あの未来にしか所在していないということだろう。
(ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』)

 シェフールの言う「ぼやけた部分」は、それを見ている者の体験の奥行であると同時に、体験をすでに呑み込んでしまっているはずの何か、夢のなかからかろうじて眺められた現実の奥行であるに違いない。現実のなかには、ぼやけた部分が広がることによって、瞬時に所在してしまうくぼみがあることがわかる。夢はこのくぼみの裏側である。この夢ははじめからの一種の覚醒であり、眠りのなかの目覚めであって、ロマンチックな意味をすべて剥奪されていることは言うまでもない。夢にあとさきがあるのは、シェフェールの言うように、それが夢の盛り込んだ要約であり、誰が操作しているのかついにわからないプログラムの謎の起源でありその終局であるからなのだが、その使用方法とは、いつも目の前にあって、毎日そうとは知らずにわれわれが用いているかもしれないものでありながら、誰もそれをそれ自体として見知った自覚がないのである。なぜならどんな使用方法であっても、このくぼみをどうすることもできないからだ。こうして私は途方にくれざるを得ない。そしてプログラムがあらかじめ活用不能であるということは、それがどこにでも、いつでも、たぶん接続可能であるということなのだ。時間は、この場合、可逆的でしかない。しかしその後は? いや、この事態は今げんにここで起きていることである。未来は今存在している。だが光はすでに描きこまれ、そこにあって、しかもここでは光は観察されることによってひとつの光となるのだが、未来は、未来にあっては、髪の毛一本先を逃げているし、今見た光をたずさえたこの未来はどうあってもその刹那に存在できない。おまけにそれを確かめるすべがないだけではなく、ここではそもそも未来は過去と見分けがつかないのだ。私は何かのタブローを前にしているとき、ぼんやりと照らし出された光源のそばにいるようにしてその未来のタブローを見ているのだと思っていた。私は間違っていたのかもしれない。私は今ここにいながら、美術館に入ることもなく、ただ過去のなかに雨が降るのを見ているだけなのだ。

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第91回 2017年10月





桃花一樹 ―― 幻滅について





鈴木創士


エドモン・ジャベス『歓待の書』(エートル叢書15)


最後までユダヤ的な詩人であったエドモン・ジャベスは遺著となった最後の本のなかにこんなことを書いていた。
 《私に追いつけ》、とある賢者は書いていた、《おまえがもう私を探さないところで》

 彼の手紙は、ちょうど私が自分の住まいを去って、彼を探しに行こうとしていたときに私に引き渡された。
 《これらの言葉を列挙する者は》、と彼は私に宛てた手紙に書いていた、《私ではなく、かつて頑固に彼自身のために書き続けていた、私であった人間である。
 《そしてあたかも彼のペンがまだ書きつつあったことすべては、実際にはかつては私の現在であった過去のなかでのみ書かれているかのようなのだ、私にはその日付を明確にすることができない、突然の、そして決定的な決裂の前に。というのも私には憶い出も言葉もなく、多くの困難をもって私が自分を駆り立てようとしているときには、時間は廃棄されるからだ。
 《私の回りには、震えるものは何もない。
 《鉛より重く、空気よりも軽い不動性。
 《書物の外には、空虚だけがある——その諸々の語(ヴォカーブル)を奪われたひとつの書物の空虚、ひと度言われ、それから飛び立った事柄が残した、白色の広大な空間。
 《解きほぐせない最後の諸瞬間。
 《おお、無が告発する無の重荷》。

 そして昼に決着をつける、このおぼつかない手。
(『歓待の書』)
  どっちつかずの昼に決着をつけるようにして、僕は君を、ちょうどこの手紙を書いていた男のように、最後にはもう誰なのかわからなくなる君を、探していたのだろうか。あのはげ山のような小高い丘の上には、桃の木が一本だけあった。桃はまだ花をつけてはいなかった。君を見つけた場所でしか、僕は君を探すことができなかったのだ。木には朝の光が当たっていた。夜明けの薄暗がりのなかに突っ立った裸体などではない。偶然は見つけることと探すことのどちらに介在するのか。偶然は、時の経過とともに、後から考えるなら、使われなくなって引き出しのなかにしまわれたサイコロのように必ずや廃棄されていたではないか。その木の枝には、枯れ枝であっても、決まって小さな鳥がとまりにやって来る。幾人かの君、すべての君は、まだ読んだこともない未知の作家、それでいてそのつど、解きほぐせない最後の瞬間を前にしていたかのように、もう書くことができなくなった作家に似ているのかもしれない。それでも僕には白く霞む広大な空白が向こうにひろがっているのが見える。鷹が旋回していた。ここでは時間が空間になることはないだろう。どんな最後の瞬間も、この手紙を書いた男が言うように、やはり解きほぐせないのだろう。魔法の糸玉を解きほぐしても、脱出できるのは鷹の旋回するあの空虚のなかへだけかもしれない。君はアリアドネではないし(アリアドネはやむにやまれず僕自身を導いた僕の幻影であったかもしれない)、そしてなおさら僕はテセウスではない。迷宮は一本の糸、つまり一本だけしかない線でできているか、存在しないかのどちらかだ。かつては、かつてなかったが、今、今はない。丘の上の明るい木の枯れ枝に鷹がとまることはもうないだろう。枝が折れてしまうことを鷹は知っているからだ。

 主人はどこにもいない。
 明るいだけの部屋。
 絵から抜け出したような本物の静物。
 イーゼルの上の描きかけの油絵。
 散乱する不在は何度となく剥がれ落ちた薄い雲母のようだ。
 もっとも薄いもの。
 テーブルの上はきちんと片付いている。
 壊れた窓の外から見ると
 不在には窪みがあって
 内側に光が当たっている。
 死後の生のような今生の生。
 もう後はない。
 光は沖合に群がる雲のようにすぐに変化するのだから。
 肉のような陶器の上に指の跡が残っている。
 触れることのできるものとできないものがあったのだ。
 この部屋に入ってこようとしているのは
 消えてしまった黄昏のなかでじっとうずくまった
 それとも黎明の焦点のような
 黒猫なのか。
 どの幽霊なのか。
 君なのか。

 江戸時代の漢詩人、大工の棟梁をやめて漂白と遊行の詩人となった柏木如亭に倣うなら……

 青邨(せいそん) 喜び対す 好風光
 復(ま)た雪花の草堂を囲む無し
 岸脚(がんきゃく) 波を生じて魚は躍在し
 田頭(でんとう) 麦を露(あら)わして鳥は飛揚(ひよう)
 桃源記裏(とうげんきり) 渓山老い
 盤谷(ばんこく)図中(ずちゅう) 日月(じつげつ)長し
 筆を援(と)りて 明窓 適意を書す
 研池(けんち) 日暖かにして未(いま)だ昏黄(こんこう)ならず

 晴れた村里にいて心地よい風光に向き合っていると嬉しいものだ。舞い散る雪が私の草堂を囲むことはもうない。岸辺には波が打ち寄せ、魚は跳ね、田んぼから麦が芽を吹き、その上を鳥が飛んでいる。晋の陶潜の「桃花源記」にあるように、山川は長い年月を経てきたのだ。唐の李愿が隠居したというバンコクを描いた画がそうであるように、月日はゆっくりと流れる。いま筆をとって、明るい窓辺で、この心地よさを書いているが、夕方までまだ時間があるし、硯の墨だまりに暖かな日差しが差し込んでいる。

 僻地 年来 新(しん)ならざるを奈(いか)
 芳(はな)を栽(う)ゑて苦唫(くぎん)の身に伴はんと要す
 無名の野草 顔色有り
 且(しばら)く当(あ)つ 桃花一樹の春

 辺鄙な土地で何年か過ごしていると、毎日がちっとも変わり映えしないので、どうしたものか。花でも植えて詩作に苦しむこの身に添えたほうがいいかもしれない。名もない草にも美しさはある。花が咲けば春の到来を告げる桃の木のかわりに、しばらくはこの草でも当てがっておこう。

 詩集から行き当たりばったりに拾ってみたが、先の「硯の墨だまりに差し込む暖かい日差し」も、この「無名の草」も、詩人にとって時間に逆らうものとして現れている。ゆっくりと時が流れ、山河にそのような悠久の時間が流れていることを諦め気味に喜ばしく思ってはいても、突然、硯に光が当たる。如亭がそれを見る。見ざるを得ないのだ。だからといって彼や私はその事態をうまく書くことができない。桃花一樹の春を今はまだ感じることができない。あるいは桃の木は枯れてしまっているかもしれない。少なくともいまこの瞬間にそれを感じることができなければ、このぱっとしない生活はいかんともしがたい。代わりにあてがわれた無名の草などといっても、そいつは変わり映えのしない生活のなかで呻吟する俺にそっくりではないのか。如亭の言う心地よさとは何なのだろう。ただの春眠なのだろうか。遊び暮した後の如亭の諦念は幻滅へと変わるのだろうか。

 あるいは、唐突だが、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の一節を思い出す。
 「彼は大きな檞(かし)の木の下に先生の本を読んでゐた。檞の木は秋の日の光の中に一枚の葉さえ動さなかつた。どこか空中に硝子の皿を垂れた秤(はかり)が一つ、丁度平衡を保つてゐる」。
 これだけの一節である。尊敬すべき先生。だが秋の木立の下で、幻滅の向こうに秤が見える。弱々しい秋の光が射している。この透明な幻覚には理由らしきものはないが、秋の日の光のなかの秤にはどこか厳しさを感じさせるものがある。最後には結局自殺した挽歌詩人たちが自分のことをかつては棚に上げていたように、思わず芥川にも感覚の十月が到来したのだろうか。皿は、ありえないことだが、透き通ったガラスでできていて、上には何も載っていない。ジャベスのように語るなら、分銅より重く、空気より軽いもの。せめて風に揺れていればまだしも、風はそよともしない。何を天秤にかけるのか。何を天秤にかければいいのか。何を天秤にかけることができるのか。秤は息を呑むような平衡を保って静止している。この静けさは狂気じみている。

 レバノン出身のフランス語作家サラ・ステティエはランボー論である『ランボー 第八番目に眠る人』のなかで、ランボーに幻滅はなかったと述べていた。
 「ランボーには幻滅はないが、あの怒りがあって、それは不良少年であり見者である彼とともに生まれたように見える、しかもそれをランボーは自分の作品と生のなかに引きずって行ったのである、あたかもその怒りが、彼の言語の奪取と餌食の澄み切った非実体性に、それらの合体不能性に、ついで世界の過酷な合体可能性に、唯一の可能な答えをもたらすかのように」。
 真の生が不在であれば、真の作品も不在だったのか。詩人ルネ・シャールは「よくぞ出発した、アルチュール・ランボーよ!」と言っていたが、この繰り返された「出発」は、しかし私にはとてつもない幻滅をともなっていたとしか思えないのだ。ランボーの言語の獲得は自分を餌食にしたのだし、あらゆるもの(田舎の暮らし、学校での毎日、母親、先生、読んだ本、自分自身が行った失敗続きの出奔、あらゆるものからの自発的逃亡、敗北したパリ・コミューン、自分の知り合った有名無名の、うぞうむぞうのパリの詩人たち……)に対する彼の怒りは、つねにこの出発の真の裏面をなし、つねにこのやみくもの出発の原因であった長い幻滅に裏打ちされていたとしか思えない。ほんとうのところは誰にもわからないにしても、幻滅とそれにともなう怒りの発作は彼を道からそらせ、彼の行く手を誤らせたかもしれないが、たしかに「ランボーは自分を欺かなかったし、自分に嘘をつかなかったのだ」。別の観点からすれば簡単なことだった。だから少年の彼は出発したのだ。少年ではなくなったときにいたるまで出発は繰り返された。言葉は外に投げ捨てられた。言葉は刺青のようにすでに彼の肉体に彫られていたのだから、余計なものは捨ててしまえばそれでよかった。彼は、この繰り返された出発を停止したとき、三七歳で死ぬことになる。
 ほんとうによくぞ出発したものだ。ほれぼれするような出発だったよ。『イリュミナシオン』(そして『ある地獄の季節』)の輝かしい詩句には、砕け散ったガラスの乱反射のきらびやかさと、みずみずしい怒りと、発作をともなった熟慮があり(彼の思考のスピードはとても早かった)、やがて砕け散ってしまう「透明なガラスの皿のついた秤」のように冷徹なところがあるが、その反射が世界を散文によって引きずりまわし、「自由な自由」を地で行く散文を、われわれにとっていずれ未知の秤となる散文を、要するにこれ以上ない「世界の散文」を生み出す万華鏡となるには、大いなる幻滅をともなったあの彼独特の観察が必要だった。その観察は不良少年のくせに老成してしまった者のそれだった。
 ランボーは歩き回って丘の上まで来ると、疲れ切って腰を下ろした。朝になっていた。彼は薔薇色に染まりはじめたまだ眠る街々をじっと見ていたのだ、このあまりに非現実的な現実のまっただなかで、幻滅の向こうに、不眠の言葉とともに何が到来するのかを。そしてそれは、語の真の意味において、そのつど、ほぼ一度きりのことだった。そうであれば、後には書くべきことが何も残らなかったとしても驚くにはあたらないだろう。

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  第90回 戦争と麻薬 - 2017.09.04

第90回 2017年9月





戦争と麻薬





鈴木創士


シャルル・フーリエ『四運動の理論』上・下
フィリップ・ソレルス『セリーヌ』エートル叢書21
《アリストテレス、われわれの賢者たちのなかでも名声とみに高いこの人物にしてからが、己れの学識に対しては憐憫の情を抱いていたものだ。彼の標語は「われ何をか知る?」というのであって、これこそはおそらく彼のいいえた最良の言葉であろう。》――シャルル・フーリエ『四運動の理論』
 タレントやスポーツ選手や有名人が覚醒剤で逮捕されると、知ったかぶりのバカのひとつ覚えのように連日マスコミが大騒ぎを繰り返しているさまはほとんど日常的に見ることのできる光景になってしまった感があるが、他に取りあげるべき重要なニュースはご存知のとおり山のようにあるのだから、これは滑稽なだけでなく、いささか常軌を逸していると言わざるをえない。いい歳をした大人が口角泡を飛ばしてする全員一致の過剰な反応は、おおむね本質的問題を回避し隠蔽しようとするわれわれの本性の裏面のようなものだから、こんなことはみっともないし大概にしておいたほうがいい。ついでにマリファナに関して言っておけば、早く解禁にして、薬理的見地からしてもアメリカやカナダやイスラエルのように大麻研究を進めて、マスコミはけっして伝えないが世界中がそうしているように医療用大麻を合法化したほうがいいと思われる。

 覚醒剤(アンフェタミンおよびメタンフェタミン)は「恐ろしい」クスリであるということだが、現在では立派に麻薬に昇格したとはいえ、もともと日本でも諸外国でも「向精神薬」(つまり睡眠薬や精神安定剤や躁鬱病の薬などのカテゴリー)に分類されるおとなし目の薬だった。かつてハーバード大学を受験するアメリカの高校生たちにとって、眠いまなこを覚ます勉強用のおクスリだったくらいだから、こんなクスリは、マスコミに登場するご立派な先生方やくだらないコメンテーターがなんと言おうが、どれほどのものであるのかはおして知るべしである。医療用で日本でも使用されているモルヒネやヘロインのほうがはるかに怖いクスリであることは言うまでもない。覚醒剤で殺人を犯すような人間はアルコールでも同じことをやってしまうだろうと私などは考えている。
 それはそうとして、しかし覚醒剤の社会への蔓延がすでにして動かしがたい事実であるのなら、他にやるべきことはいくつもあるだろう。日本の政府や行政は中毒患者の本格的治療や社会復帰にはほとんど関心を示さないではないか。実際に中毒患者に手を差し伸べているのは民間のNPOであるし、こんなことは先進国では聞いたことがないしあり得ない話である。言いっ放しの無責任ぶりを見ていると、行政もマスコミも世論もどこまでが本気なのかよくわからない。

 ところで、ドラッグの王様は、すでにギリシア神話に登場する阿片から精製される罌粟科アルカロイド系麻薬モルヒネとヘロインであるが(オウィディウスの『変身譚』には、罌粟の花が咲き乱れ、そこから阿片を抽出し、世界に振りまくきわめて美しい描写がある)、覚醒剤への異常ともいえる反応は、もしかしたら日本でヘロインが蔓延しなかったという事実が根底にあるからで、かわいそうなパブロフの犬の嗅ぎ鼻みたいなその反作用というか裏作用のようなものなのだろうか。日本にもヘロインが流行する土壌と条件は諸外国と同じようにあったのだから、不思議といえば不思議である。俗説では関西のその筋の今は亡き大親分がヘロインの密輸入を堅く禁じたからだとも言われているが、あまりに畏れ多く確かめたわけではないし、定かでないとはいえ、あり得ないことではないし、この大親分に日本社会は感謝すべきなのかもしれない。

 ともあれ、日本人の覚醒剤コンプレックスには幾つか理由を考えることができるのではないかと思う。別段、私や君たちにそんなコンプレックスがあると言いたいわけではけっしてないが、麻薬に関する汚いスパイ活動を繰り広げてきた元マトリですらも堂々とテレビに登場できるこの結構なご時世、マスコミや世間の反応を見ていると、そうとしか言いようがない。どうやらこのコンプレックスの元には歴史的なトラウマがあるらしいとしか考えようがないのである。
 ひとつは咳止めである覚醒剤の原料エフェドリンはもともと明治時代に長井長義博士によって発見され、そこからメタンフェタミン(覚醒剤の成分)が同じ長井博士によって抽出されたということ。つまり覚醒剤はわれらが日本人による誇るべき発明なのである! もうひとつは、覚醒剤が第二次大戦前後の日本帝国軍部との抜き差しならぬ深い関わりがあったという点である。
 近代における麻薬と国家の関係は何も阿片戦争のイギリスに限ったことではない。戦前の日本はある時期世界一のアヘン生産国であったし、列強はみな中国への阿片系麻薬の輸出をさかんに行っていたが、最後にそれを一手に引き受けた感があったのは日本である。日本のみならず諸外国の誰もがこれで大儲けしようとしたこの国際的問題が裏にあったからこそ、日本の国際連盟からの脱退まではひとっ飛びだった。しかしアヘンだけではない。この満州その他への阿片政策とは別に、軍は覚醒剤を大量生産したのだ。戦闘用の麻薬としてである。覚醒剤の薬理作用には、人を元気にする、恐怖心をなくさせるという効果があることがよくわかっているからである。
 特攻隊の「別れの盃」に覚醒剤が入っていただけではない。例えば、海軍のK中尉はB-29を続けて五機も撃墜したすこぶる優秀なパイロットとして有名だったが、出撃前に覚醒剤を注射されていたことを後に述懐している。彼は自分は中毒患者だったと告白している。より正確にいえば、軍部の上官によって中毒にされたのだ。だがこの大量の備蓄品は戦闘用だけで済んだわけではない。

 戦中戦後の日本の「市販の」覚醒剤ヒロポン(メタンフェタミン)やゼドリン(アンフェタミン)は、大量に貯蔵していた軍の覚醒剤が元になっていたのだし、軍部は流通にも関与していた。中国にあった余った大量のアヘンを横流しして、関西(特に神戸)あたりの一部の戦後成金をつくっただけではなかったのだ。これらの軍の戦闘用のクスリが戦後の日本の覚醒剤大流行をつくりだしたのである。覚醒剤の使用が覚せい剤取締法によって厳しく制限されだしたのは昭和二十六年になってからであるし、その後も不法な製造と密輸が続いたことは言うまでもない。
 戦後へと延命し続けた軍と製薬会社の関係は何もあの悪名高いミドリ何とかという会社だけではなかったはずだが、オスカー・ワイルドに倣うなら、そもそも「緑色研究」には「毒」が含まれていたのだし、誰もがそのことを知っていたのに知らんぷりを決め込んだのである。最近でもまともな人間なら誰もが薄々感じているように、日本とはそういう国である。

 もちろん、戦争と麻薬が密接な関係をもっていたのは日本だけではない。こちらは戦闘用というよりも罪悪感を失わせるためであるが、ベトナム戦争では、あまりにも有名なソンミ村の虐殺を含めてベトコンや民間人を殺戮するためにアメリカ兵はヘロインを投与されていた。キリスト教徒には原罪があるのだから、なおさら罪悪感の問題は由々しき問題だつたのだろうか。東ティモール紛争では、CIAの研究と入れ知恵で特殊なドラッグが民衆を殺戮するテロリストたちに配られ、使用されたと言われている。もちろん、キリスト教徒でない人間にも罪悪感なしに平気で誰彼かまわず人殺しをできるようにするためである。あるいは、筆者の考えでは、天安門事件の際に、丸腰の学生たちを射殺し戦車で轢き殺した中国の人民解放軍の兵士たちは覚醒剤を摂取していたと思われる。
 イスラム系ゲリラ(後のビンラディンたち)を支援するためにアフガニスタンでまず最初にCIAがやったことは、麻薬をめぐる極秘作戦であり、麻薬輸送のルートをつくることだった。これは後に武器輸送のルートとなった。面白いことに、武器・麻薬・美術品の国家的あるいは国際的シンジケートの密輸ルートは同じひとつのラインであるという説があるが、そうでなければ例えばイラク戦争のさなかにどうやってあれほどのメソポタミア文明の美術品を国外に持ち出すことができたのか説明できない。あれらのシュメールやバビロニアの遺物はきっとそのうちアメリカやイギリスのオークション会場に登場することだろう。

 さらにごく最近の話ではフランスやベルギーでテロをやったイスラム国ISの戦闘員は「カプタゴン」(アンフェタミン)を摂取していたようである。そしてかつて哲学者サルトルが服用していたことで有名なこのカプタゴン(そのために『弁証法的理性批判』を書いた後サルトルはぶっ倒れてしまったとボーヴォワールは回想していたはずだし、最近ではフィリップ・ソレルスが『天国』を書くときに使用したことがあるとインタビューで答えていた)は、かつては処方箋があれば合法的に買うことのできたヨーロッパにおいてもすでに禁止薬物に指定されているが、現在ではヨーロッパ産のこのクスリがシリアやサウジアラビアに大量に貯蔵されているというのだから、ISの戦闘員たちは戦闘用に限らずあらゆる活動領域でこれを使用しているということなのだろう。他には、北朝鮮が国家規模で覚醒剤を製造し密輸出し、それがあちこちの売人たちの手に渡っていることは周知の事実である。

 テロリズムが国家を背景としているとすれば、同じように戦争への麻薬の関与はかつても今も国家レベルで行われたのである。まさしく日本軍も戦争で「仕事」をさせるために覚醒剤を使用したのだった。このことを強調しておきたいと思う。現在でも、なんと自衛隊法には「麻薬及び向精神薬取締法等の特例」というのがあって、部隊や保管所での麻薬および向精神薬の譲り受けや所持が認められているのだ!!! もちろん覚醒剤もオーケーということになる。一般人や作家やミュージシャンが覚醒剤を使用したら、人間をやめろとまで言われるのに、兵士のためにはこれを使用することが今も法律的に許されているのである。戦争と麻薬。その永遠の関係はこれほどの覚醒剤コンプレックスの国でもまるで摂理のように変わることがないらしいのだ。

 かつて日本の覚醒剤は戦中戦後を通じて「労働のための薬」であった。まだ合法だったヒロポンの戦後の使用者は285万人に達していた(何しろ285万人だぜ!)。すでに覚醒剤取締法が設けられた後の一九五四年に始まる第一次覚醒剤乱用期には、中毒患者は、再びなんと、50万人いたと言われる(でもこの信じられない数の使用者や中毒患者たちのうちのいったい何人が、人殺しや無差別殺人などの大罪を犯したのかマスコミに教えてもらいたいものだ、大山鳴動して鼠一匹……)。当時、作家の坂口安吾や芸人のミヤコ蝶々や正司歌江さんたちがヒロポンを常用していたことは有名な話である。この頃はみんなまずは「仕事」のために覚醒剤を使用したはずであるし、やめる気になった人はみんなやめたのである。ヒロポンの語源は恐らくギリシア語のPhiloponosであろうと思われるが、これは「仕事好き」、「仕事への愛」を指している。
 覚醒剤禍。日本人は仕事が好きなだけなのか。寺の小僧が覚醒剤をやったら、一日中日が暮れても庭の同じ場所を箒でずっと掃いている、というアレなのだろうか。いや、日本人だけではない。ナチスの絶滅強制収容所の入口には、銘として「労働は人を自由にする」というスローガンが掲げられていたが、それは単なる血塗られた冗談ではなかったのだ。戦後フランスの作家ボリス・ヴィアンは、「戦争は労働のなかで最も困難で、最も堕落したものだ」と言ったが、戦争を遂行する国家はそれを知らず知らずのうちに軽減させ忘却させるために麻薬を使ったのである。なんとももったいない話である…。そのことを今後も忘れず心に留めておきたいと思う。
(本稿は、残念ながらさる左翼系の新聞によって掲載を拒否された「戦争と覚醒剤」という文章が元になっていることをお断りしておきたい)

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第89回 2017年8月





ボリス・ヴィアン





鈴木創士


鈴木創士『魔法使いの弟子 批評的エッセイ』エートル叢書17


 ボリス・ヴィアンが二十近い職業を持っていたからといって、作家たるものがどうやって食っていけばいいのか、という由々しき問題の答えにはまったくならない。永続的な喫緊問題ではあるだろうが、その点で時代はますます悪化の一途をたどっている。
 ボリス・ヴィアンがほんとうにずっと金に困っていたのかどうかはつまびらかではないところがあるが、理科系に強かったボリス・ヴィアンは最初、公務員の技師になった。でもそれもやがてやめてしまい、ほぼ同時に、つまり一度に、詩人、小説家、翻訳家、劇作家、ジャズミュージシャン、シャンソン歌手、作詞作曲家、ジャズ評論家、オペラやバレエの台本書き、映画監督、映画脚本家、俳優、レコード会社のディレクター、画家、美術評論家となった。
 ボリス・ヴィアンは「職業がひとつなんて、売春婦みたいだ」と悪態をついていたが、しかし彼は結局のところ作家であり、プロのミュージシャンであるにすぎなかった。やったことはほとんどひとつ事なのだ。あとの職業は、よくある話だが、一儲けしようと企んだ当時のサン-ジェルマン-デ-プレの人間関係その他が、才能溢れる彼を利用しついでにほとんど彼に無理強いした余禄みたいなものだった。つまりこんなものはどれもやる必要のない仕事だった。
 彼はずっと心臓を患っていたが、コカインをやっていた気配はなさそうだし、医者に止められていたトランペットを夜毎サン-ジェルマン-デ-プレの地下クラブ、穴倉「タブー」で吹きまくっていたことだけがたぶん唯一の死因などではないだろう。仕事、仕事、仕事。彼は働きすぎたのだ。こんな忙しい毎日こそが彼の寿命を縮めてしまったことは想像に難くない。見たくもなかった映画、自分が原作を書いたのにその出来に不満を抱いていた映画(その原作とはヴィアンのデビュー作『墓に唾をかけろ』で、もう少し正確に訳せば『お前らの墓に唾を吐いてやる』)の試写中に心臓発作で亡くなったのだから、ボリス・ヴィアンはほとんど殺されたも同然なのだ。

 ところで、フランスは第二次世界大戦の戦勝国だったとはいえ、戦後直後のフランスの若者にとって、いつの時代も同じようなものだが、やはり未来はあやふやなものだった。いや、たぶんそれどころではなかっただろう。未来の行動も思想も混乱と幻滅のなかにしかありえなかった(彼らにとっても、広島と長崎によって「原爆の世紀」はすでに始まっていたし、われわれが想像する以上に、彼らがそのことを強く意識していたことは間違いない。ボリス・ヴィアン自身、「原爆のジャヴァ」という曲を歌っていた)。
 レジスタン派の勝利によって、ナチス・ドイツの占領からパリは解放されたが、パリ全体も、もちろんサン-ジェルマン-デ-プレも、そして人心も、荒廃の極みにあった。フランスには対独協力というごく近い過去があった。町のあちこちで住民によるリンチが頻発した。処刑も行われた。戦争犯罪者たちと無名戦士の墓…。不思議なことに誰もが突然抵抗運動マキの英雄になった。えっ? かつて密告が横行したように、嘘も逃亡も横行したに違いない。すべてがマロニエの下ですっかり泥水をかぶってしまったのだ(後にヴィアンはレジスタンス神話を徹底的にこき下ろした戯曲『屠殺屋入門』を書き上げるが、芝居は二流の劇場でしか上演されることはないだろう)。フランスは旧約聖書の時代のようにさながら二分されたままだった。フランスとフランス人にとってヴィシー政権と戦後のアルジェリア戦争は二十世紀の二つのトラウマだったのだし、その問題は間違いなく今も尾を引いている。
 文学者はどうなのか。文学者も多くのツケを支払わされることになった。ナチス占領下でヴィシー政権支持の文章を書きまくったブラジアックはあれこれあった末に銃殺刑に処せられた。セリーヌは亡命し、ジャン・ポーランに代わってガリマール社の『NRF』誌の編集長におさまっていたドリュ・ラ・ロシェルは結局自殺した。九死に一生を得たブランショはやがて極左に転向するだろう。ドリュ・ラ・ロシェルは元パリ・ダダのメンバーだったことがあったのだし、戦前の右翼だった彼らはみんな「共産主義かファシズムか」の世代だったのだ。

 ボリス・ヴィアンは戦後のサン-ジェルマン-デ-プレのスターになったが、彼は戦争に深く刻印されただけではなく、まぎれもなく戦争を心底憎む戦後作家のひとつの在り方だった。それが彼の真骨頂だったと私は考えている。ボリス・ヴィアンの悪ふざけが何らかの反抗のしるしか発作でなかったことは一度もない。当時はただのジャズだって普通のフランス人には受け入れ難いものだった。おまけに彼は「脱走兵」の歌もうたったし、こんな詩も書いている。

  俺はくたばりたくない
  夢も見ないで眠りこける
  メキシコの黒犬
  むき出しの尻をした猿たち
  熱帯をむさぼり食らう
  あぶくでいっぱいの巣にいる
  銀色に光る蜘蛛たちと
  知り合いになるまでは
  俺はくたばりたくない…

 人生において誰もがその人のうちでその人を完結せざるを得ないことはわかり切ったことだ。ボリス・ヴィアンの場合は生き急いでいたように見える。そうはいっても、戦後のサン-ジェルマン-デ-プレの生活は愉快だったはずだ。ボリス・ヴィアンは『サン-ジェルマン-デ-プレ入門』という本を書いているくらいだから、ここに彼が「場所と公式」を求めたことは間違いない、というかそれしかなかったはずである。場所と公式は探し当てられたのだろうか。誰にとってもその問いに答えるのは難しいが、彼はここで生き急ぎ、そして死ぬことになった。
 サン-ジェルマン-デ-プレには、ご存知のとおり、多くの有名人が顔を見せていた。サルトルとボーヴォワール、カミュ、メルロー-ポンティ。だが黒ずくめの若者たちは、全員が実存主義の学生ばかりではなく、誰もがサルトルの信奉者だったわけではない。実存主義一色のサン-ジェルマン-デ-プレなど、ヴィアン自身が言うように、三文ジャーナリストが苦し紛れにでっち上げたいいかげんな話にすぎない。
 レイモン・クノー、ジャック・プレヴェール。フランスの暗黒小説の叢書、つまり探偵小説のことだが、「セリー・ノワール」の総指揮官だったマルセル・デュアメル。たしかにセリー・ノワールの哲学があったのだし、フランス映画はすぐ隣に位置していた。サン-ジェルマン-デ-プレには古参の連中もいた、アルトーや、ピカビアや、アメリカへの亡命から戻ったブルトン、コクトー、バタイユやツァラもいた。画家のヴォルスや、ジャコメッティ、マッタ。ジャン・ジュネ。エジプト出身の放浪作家アルベール・コスリー。アルトーの弟子だったロジェ・ブランや多くの俳優たちとその卵。ボリス・ヴィアンと並び称される戦後サン-ジェルマン-デ-プレの寵児、役者で歌手だったジュリエット・グレコ。それに名だたるアメリカのジャズミュージシャンたちがこぞってやって来ていた。デューク・エリントンも、少し後にはマイルスも。シュルレアリストの残党、そして後に五月革命を準備するシチュアシオニストの源流となったイジドール・イズーとレトリストの詩人たち。独創的にしかなりえなかった映画監督、五月の革命家となるかのギー・ドゥボールもそこにいた。後にウィーン幻想派の画家になったエルンスト・フックスも。
 一日中カフェにたむろし(この点で有名なカフェはいくつもあったし、今もまだ残っているものもあるにはあるが、いちいち列挙するのはあまりに空しいので、やめることにする)、夜はクラブ「タブー」で踊り狂い、安ホテルの部屋や泊めてもらえる寝ぐらがなければ、メトロの駅で野宿する多くの若者たち。戦争孤児たちもブルジョワの子弟も。彼らによって未来は拒否された。精神錯乱は保証済みだし、不必要といえば不必要なのだ。はっきり言って、こんな連中は最近では絶滅危惧種である。私があきらめ気味に日々そのことにいら立っていないと言えば嘘になるだろう。かっぱらい、麻薬の売買、その他の犯罪に近いこともたまには。まあ彼らは、言ってみれば、フランスのビートニクス、フーテン族やヒッピーのハシリとも言えるのだが、その魅力的な風貌は、エルスケンの写真集『セーヌ左岸の恋』やその他の写真、ジャック・パラティエの記録映画『想い出のサン-ジェルマン-デ-プレ』でも見ることができる。

 それらの中心にほんとうにボリス・ヴィアンがいたのかどうかはわからないが、ヴィアンが日常生活のなかで彼らを鼓舞し、そそのかし、元気づけるようなことをやっていたのは、伝記作者たちの筆致からしても、確かなことなのだろう。彼自身、自分を鼓舞していたフシがある。なぜなのかはしかとはわからない。生き急いだボリス。退屈だったボリス。そうとしか言いようがない。ボリス・ヴィアンの最初の作品は、はじめのほうで言及したように、セリー・ノワール風の「えげつない」小説『お前らの墓に唾を吐いてやる』だったが、これはヴァーノン・サリヴァンというアメリカ黒人作家の作で、ボリス・ヴィアンが翻訳と序文を担当したことになっていた。真っ赤な嘘だった。このほとんど冗談みたいな処女作は、出版社「スコルピオン」の社長ジャン・ダリュアンとの退屈な会話から生まれた。もちろんそれが彼らの日常的な悪だくみの一環だったことは言うまでもない。
 「なんかいい作品はないかなあ」
 「あるよ、ヴァーノン・サリヴァンという黒人作家だ」
 「原稿はあるのか」
 「今から俺がでっち上げるさ」
 「じゃ、そいつで一儲けしようぜ」
 実際、本は五十万部の戦後最大のベストセラーとなったが、暴力描写及び過激な性描写ゆえに風俗紊乱の廉で発禁処分の憂き目をみる。バタイユやブルトンが法廷に立ち、出版人ジャン・ジャック・ポーヴェールが被告になったサド裁判よりずっと前の話である。

 ヴィアン自身が言うように、内容とは何の関係もない表題をもつ小説『北京の秋』に敬意を表して、最後に中国北宋代の詩人蘇東坡の詩をヴィアンに献じよう。

  人生いたるところで知りぬ何にか似たる
  まさに似たるべし飛鴻(ひこう)の雪泥(せつでい)を踏むに
  泥上にたまさか指爪(しそう)を留(とど)むるも
  鴻飛んでなんぞまた東西を計(はか)らん

 ボリス・ヴィアンは心臓発作によって三十九歳で亡くなったが、人生の漂白を知るために、つまり書くために、北京をわざわざ彷徨うには及ばなかった。彼はサン-ジェルマン-デ-プレにとどまって、ペットを吹いていた。音楽もまた原則としてその場で消え失せるものである。誰もまともに読もうとしないのだから、書かれたものだって同じだ。素晴らしい詩人で失脚した政治家だった蘇東坡が語るように、人生のさすらいは何に似ているのだろう、舞い降りた雁が雪解けの泥を踏むようなものではないのか、泥の上に偶然足跡を残しはすれども、飛び立った雁の行方は誰も知らないからである。

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第88回 2017年7月





ミイラのように





鈴木創士


河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍


 私の印象はこうです。舞踏家・室伏鴻の静止した肉体はとても美しく見えます。吉田一穂の『海の聖母』という詩集のなかの言葉を借りて、室伏さんのことを日時計の上でじっとしているトカゲだと書いたことがありますが、さっきま で闇を食らっていたこのトカゲは、日を浴びていまさっき死んだように微動だにしないのです。
 だから私には、まるで舞踏家は思考の外で一度ならず動きを止めなければならないかのように見えるのです。身体から身体が抜け出すためにです。

 土方巽は「肉体のなかに梯子をかけて降りてゆく」というようなことを言っていましたが、どのようにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。土方の語る子供時代があります。田んぼでイズメのなかに閉じ込められた赤ん坊の手足が硬直して動けなくなったあのからだが、舞踏家をいまでも責め苛むのでしょうか。たぶんそれは決定的な出来事だったのでしょうが、そんな記憶の身体は、今ある身体のなかにねじ込まれたかつての身体だったのでしょうか。

 しかし果たしてあの時にはぐれてしまった肉体を探すことだけが舞踏なのでしょうか。東北のあの世に身体を探しに行けばいいのでしょうか。少なくとも室伏さんのダンスからはこの土方の子供時代、イズメのねじ曲がった手足を感じ取ることはできません。室伏さんの出発は、「ニーチェのダンス」であり「ランボーのダンス」であったと言っていました。それにしても何という違いでしょう。
 それとも600年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方巽の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念のようなものがあったのでしょうか。私は世阿弥のことも同じようにしか、一種の暗黒舞踏家としか考えられないからですが、前々から世阿弥の次に土方巽が来たのだと考えていました。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにしてみなさんがご存知の夢幻能は成立したのです。

 動きにおいてすら不動である、ということがあります。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、そんなものがあったのだとして、この手強い強迫観念は、すべての舞踏家の意識の外で暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。少なくとも別の動きをからだの外に引きずり出さねばならなかったのです。土方の最も優れた弟子のひとりであったと思われる室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望、動きの外にある動き、動きの外に出ていこうとする動き、つまり動きながらの不動性があったように思われるからです。不動性への予感によって、震えによって、激突、痙攣によって、動かないことそれ自体によって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするかのようです。これは絶対に様式などにはなり得ないものです。

 健康であれ、病気であれ、身体は、誕生後の眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。われわれ全員が死体の次元をまるで未来の妄想のようにすでにからだのなかに持っているからです。昨日見た注連寺のあの即身仏、鉄門海のミイラが目に浮かびます! だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。そわそわと動き回るからです。われわれは記憶の動物です。普通に歩いたり、走ったり、食べたり、たぶん泣いたり笑ったりするのも、誕生してほぼ最初の動体記憶というか、運動記憶によるものなのです。

 別の身体の状態、通常の身体の変性状態も、必ずやわれわれ誰にでも訪れます。われわれの身体は衰弱し、病んでしまうからです。
 今年の冬から春の終わりまで、病床の母の状態をずっと見ていました。僕は若い頃から滅茶苦茶をやっていて、ずっと親不孝者だったので、最後だけは看取ろうと思っていました。母は重篤でした。しかしほとんど動かなくなった身体のなかでも様々なことが起きていました。体が描く稜線はかすかに振動する山並みのようにつねに微動を繰り返していました。寝返り、咳、ほとんど無意識の痛みによるヒステリー・アーチ(ゴダールの映画『マリア』のなかで、ベッドの上でからだをよじっていた妊娠した聖母マリアを思い出してください)、不快感による小さな動き…。もちろんそれは土方が言ったような意味での「衰弱体」の諸様態のようなものであるのでしょうが、普通にこれが生体的には病んだ身体の最後の姿であるのかもしれません。
 しかし死はどこにあるのでしょうか。病と死はまた別のものです。そして身体と生命もおそらくまったく別のものであると思いますが、身体の衰弱がほんとうに生と死のせめぎ合いによるものなのかどうか、私にはわかりませんでした。生命と死がそこでどのように区別されるのか、死の床にある母の姿を見ていて、私にはまったくといっていいほど理解できませんでした。死がどこで生命とすり替わるのか、死がいつなんどき生に襲いかかるのか、などという問いの立て方はそもそも全部間違っているのかもしれません。
 そして彼女の現働態にあるからだは、生というか死というか、それらのものと共に彼女の内側にも外側にもありました。内側の身体、外側の身体です。それは間違いありません。誰が見ても、こうして病は実現されたかに見えました。でも私には、病んだ母の身体からもうひとつ別の身体が出ていこうとしているように思えたのです。

 それはそうと、哲学者の江川隆男が言っていることですが、「身体の身体」というものがあるようなのです。この概念を適用すれば、舞踏の最初にあったのは、身体によって「精神のうちに外の思考を発生させる要素」、身体の隠れた、知られざる力能であり、これはこの身体であると同時に「身体の身体」によるものでもあるのです。たしかに身体から身体が抜け出すためには、身体の身体がなければなりません。これは実に都合のいい、というか、新しい概念だと思います。スピノザ風に言えば、身体の延長としての身体。だけどスピノザに反して言えば、これは「まったく別の身体」でもあります。ここからアルトーの言う「器官なき身体」まではそう遠くありません。

 ところで、20世紀は、手当たりしだいに、そしてもうそれしか残されていないかのように、「存在」と「身体」の思想を探し求めましたが、それにはある意味で、当然のことながら歴史的条件が裏地のようなものになっていたと考えることができます。
 われわれは、一方では、19世紀に名乗りを上げた医学的知見の爆発的進化の世紀、他方では、大量殺戮の世紀の「後」を生きています。短時間のうちにあれほどの死体の山が築かれたことはありませんでした。無意識と遺伝子は、瞬時にして大量生産される夥しい数の死体とほとんど対になっているかのようでした。ご存知のように、無意識も遺伝子も死体も、「人間」についての観念にとって完全なる他者でした。この点は重要であると思います。そもそも病んだ身体も健康な身体も死んだ身体もまた、われわれにとって他者であるからですが、無意識や遺伝子や死体となった身体はなおのことそうです。
 しかし歴史的条件というものは、ご存知のとおり、たいていがほとんど負の遺産ですが、「存在」の後に、決まって再び「身体」が到来するというのはじつに奇妙なことではないでしょうか。17世紀にスピノザとボシュエが語っていたことは、所与の条件などではないように思われます。
 スピノザは「われわれの身体の能動と受動の秩序は、本性上、われわれの精神の能動と受動の秩序と同時である」、と言っています。本性上、身体と精神は相互依存しないのです。蛇足ながら、これは心身平行論と呼べるものであることは間違いないですが、心身平行論と称したのはむしろライプニッツのようです。ですが、まあ、それはどうでもいいでしょう。
 一方、ボシュエのほうは、『死についての説教』のなかで、「死体はいかなる言語のなかにも名前を持たない」と言っています。小野小町九相図などの日本の古い絵巻物にもあるように(たしかにそれぞれの死体の状態には、中国や日本では、名前がついているとも言えますが、すべての状態を示す言葉は「死体」以外にありません)、死体もまた刻々と変化し、腐って、骨となり、最後には塵になるからです。元の身体はどこに行ってしまったのでしょうか。われわれはほぼそこから一歩も抜け出せないままですし、そこにあって、スピノザとボシュからあらためて一歩を踏み出さねばならないままであることはご承知のとおりです。
 スピノザの面白いところは、この心身平行論から、「身体は身体にしか関わらない」ということが帰結されるところです。つまり身体と精神は存在論的には同等であるということです。これは中世スコラ学の神学者、ドゥンス・スコトゥスによる「存在の一義性」の考え方の発展形であると考えることもできますし、先ほどの江川氏によるなら、アルトーの「器官なき身体」もこのラインにあるものだと考えることができます。そして誤解のないように改めて急いで付け加えておくと、いくら身体のあるところには精神が発生するといっても、「身体から抜け出す身体」は、「精神」とは似ても似つかぬものであることは言うまでもありません。

 少しだけついでに、若い室伏さんに、そしてその後もずっと彼に影響を与え続けたアルトーのことに触れておきたいと思います。
 アントナン・アルトーは、どこで、どのようにして、どこから「身体」を発見することになったのでしょうか。彼の生涯の記録や証言を繙けば、いろいろと思いつくことがあります。
 彼の「病」、思考の不能性、分裂症、パラノイア、麻薬、エスニックな旅を含めた外への旅……。しかしアルトーの血の滲むような「発見」へといたる経験、あの「場所と公式」の問いは、アルトーのいわゆる精神病の「病跡」を軽々と超えてしまっていると私は考えています。
 結論を先に言うと、精神病者、分裂病者として精神病の「病跡」を超えるには、アルトーの「身体」はアルトーの身体から外に出てゆかねばならなかったのです。極東の地で土方巽のような人物の心を動かすことができたのはまさにここです。アルトーは自分の「存在」と「言語」にまるで拷問を加えるようにして書きました。晩年の彼の手記『カイエ』を読むとそのことに特に注目せざるを得ません。言語はハンマーで殴られ、叩きのめされ、分断され、切断され、解体され、別のからだのなかに分娩され、砕け散り、断絶し、彼独自の身体の叫びと化しました……。
 だがそれはただちに別の意味を帯びます。アルトーにとってこの「書く」ということが「生きる」ということとほぼ同義であったことには大いに注意を払うべきでしょうが、それが彼の「病跡」を超えてしまっているだけではなく、このことは優れた幾人かの詩人や作家においてすでに見られたことであると言っていいと思われます。しかしアルトーが特異であるのは、言語と生、形式と内容の一致が、ある種の身体のテクノロジーのようなもの、ある種の「公式」によって鍛えられ、それを原理としていたように思われるところなのです。この「公式」にはアルトー自身の長い苦難の歴史が関わっています。
 再び誤解のないように急いで付け加えておきますが、このことは芸術や文学の形式や形式化とは何の関係もありません。そしてそのことがどうして舞踏家たちの琴線に触れないわけがあるでしょうか。優れた舞踏家はダンスの「技法」ではなく、どうしても不可能な「身体のテクノロジー」のようなものを意識せざるを得ないからです。
 アルトーのこの「公式」は、同時に、つまりアルトーのあらゆる「分裂」と同時に、彼の役者・演劇理論家としての経験、彼の「演劇」についての観念のなかにすでにあったのではないかと私は考えています。彼の生涯の中期において、つまり演劇理論書『演劇とその分身』や歴史小説『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』のなかにそれを見て取ることができます。おまけに何とこれらの特異な本はそれ自体が戯曲のようなものなのです。
 アルトーには、外で起きている動乱、混乱、革命の秩序(アルトーは面白いことに「革命の秩序」と言っています)、天変地異などなどは、同時に役者の身体のなかでも起きなければならないという確信と信念がありました。アルトーには精神病院への監禁の凄まじい日々があったのですが、そこにいたアルトーの身体の内部で起きていたことと、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の推移が同時に起きていたことは、まさしくこのことを証明してあまりあります。
 そして例えば、『ヘリオガバルス』というローマの少年皇帝についての本のなかで描き切ったように、すでにローマ帝国の歴史の破綻は演劇の破綻であり、身体とともにあるほかはない演劇の破綻は、身体の横断であるほかはない歴史の破綻であって、それ自体が、アルトーが考え、提唱し、熱望した演劇であり、彼の言う「残酷の演劇」であることに留意しなければならないのです。アルトーの演劇の最初のイメージがペストやルネッサンスの終末的絵画のなかにあったこと、アルトーの演劇が「失敗」だったと伝えられていることは、偶然ではありません。
 アルトーの芝居を見た者は、日本では寺山修司を含めて誰もいません。だからこそ、ある意味で、室伏鴻を含めた暗黒舞踏あるいは舞踏は、このアルトーの「失敗」から出発したのだと言うことができるでしょう。舞踏家たちは「演出」ではなく、「演出がほぼ不可能となる地点」において「身体のテクノロジー」に対峙せざるを得ないからです。

 ところで、室伏鴻の言う「外の身体」とはなんなのでしょうか。結論から言えば、外の身体とは、瞬時に現れる身体の身体、身体から抜け出した身体であると私は考えています。それが彼の言う、「ダンスの外に、踊りの外に出る」ということなのです。そして先ほどの重篤な状態に陥った私の母の身体ではないですが、少なくともこの身体から抜け出そうとしていた身体は、明らかに生きていると同時に、しかしながら死を内包し、死を体現するものなのです。
 そして室伏鴻が語り、踊ったミイラは、これに新しい次元を付け加えていると思います。室伏さんは子供の頃、死んだふりをするのが得意だったそうですが、無論、このこともミイラや彼の修験道と無関係ではないと思います。室伏さんとは別に、かく言う私も体験したことがあるのですが、修験道もまた一度死んで蘇るあくまでも身体的体験だからです。

 室伏鴻のダンスは、動かない舞踏です。激しく踊っている時、優雅に踊っている時でさえ、そうです。なぜなら動いている身体は別の無数の身体からなっていて、これもまた身体から抜け出してしまった身体であるからです。これが死体に近いものなのかどうかここで即断することはできませんが、彼がいつも死の方向に、即身仏のミイラを含めた死体の方向に、自分の身体を意識していたことは間違いないでしょう。そしてそれが室伏さんの身体の思考に独特の哲学的次元を与えていたのかもしれません。
 彼の舞踏の身体は石になったり、岩になったり、金属になったりします。死体になったり、そう言ってよければ、ミイラ、時間の外にあるミイラになったりもするのでしょう。矛盾しているようですが、なぜか生きている死のブロンズ像を思わせた時もありました。そしてこれは彼の身体が非人間的な動物になったり、赤子になったり、トカゲになったりするのとまったく同じことなのです。

 私の言いたい「身体から抜け出す身体」という考えもまた、もともとは直接土方巽から来ています。『病める舞姫』のなかで土方はこう言っています。「もう一つのからだが、いきなり殴り書きのように、私のからだを出ていこうとしている」。
 なぜ殴り書きなのか? なぜなら出て行く身体は、あるときは痙攣であり、あるときは震えであり、もとの身体にダブったり、ずれたり、再びはぐれたり、あるいは突然死んだりするからです。それは、最高の形においては、優れた能の演者のかすかな動きと同じように、室伏の言葉を借りれば、「大挙して押し寄せる幻影」からふるい落とされた動きであり、その動きを排そうとする一種の動きつつある不動性なのです。

 「身体から抜け出す身体」というテーマは、すでに私自身の身体のなかにも巣食っています。すでにこのテーマで書いたことがありますし、このテーマが私から消えることはないでしょう。これは何と言っても、かつて最初に土方巽や室伏鴻の踊りが私にそっと無言で伝えてくれたことなのです。これは秘密の言説に属するものかもしれませんが、じつは私自身、自分にとって他者であるほかはないこの身体をどうにかしたいと思っているからなのです。

 山形にて。

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  第87回 真の生活 - 2017.06.05

第87回 2017年6月




真の生活



鈴木創士


ギー・ドゥボール『映画に反対して  ドゥボール映画作品全集』エートル叢書2・3
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』エートル叢書9
フィリップ・ソレルス『セリーヌ』エートル叢書21


Le ciel bleu sans nuage ni mémoire.

 青空。雲ひとつない。記憶の切れ端を探そうとも、記憶もない。

 このような眩暈の例をあげることはそうそうできない。記憶がないのだから、思い出す必要もないし、思い出すことはできない。プルーストのようにマドレーヌやあのくぼんだ階段を思い出すことは、プルーストでなければ、つねに人を鬱陶しい不埒な生と、見てきたような嘘のなかに引きずり込む。喚起された記憶のなかで、西洋風であれ東洋風であれ、明鏡止水の境地など新手の虚偽である。われわれの脳髄は忘却のノイズで破裂しそうなのだ。たまに警察沙汰になることだってある。プルーストはそのためにあれほど大部の本を書かねばならなくなったのだ。ほんとうは何のためだったのだろう、と思うこともあるにはある。プルーストは暗い部屋に引きこもって、時を「見出す」ことができるまでそれをやり遂げたのだから、拍手喝采、たいしたものである。

 ほんとうのことを言えば、今日はやや曇り空である。やがて空は晴れるだろう。間もなくだ。この擬似戦時下にあって、私はひとりっきりで平和を感じている。落胆と絶望と怒りと諦念そして平和。未来の、未聞の愛。空の下。空の下で何が起こっているのか。何も起こりはしない。少なくとも、たいしたことは。誰もが個人的なことで忙しいらしい。生活だって? ほんの少し微風を感じる。風景を見る人が風景そのものになることがある。いや、そうではない。それは記憶のなかでいつもいたずら娘のようだった母のように、つねに遠のいてゆくひとつのイマージュにすぎない。むしろどちらかといえば風景が風景を見る人そのものになることがある。
 西行ならこう詠むだろう。

 惑い来て悟り得べくもなかりつる心を知るは心なりけり『(山家集』)

 そこに新しい意味はないかもしれない。ずっと同じシャンソンが聞こえている。ただしほんとうにそれを幻想の耳ではない鼓膜のそばで聴いた者はひとりもいないだろう。われわれは風景をただぼんやりと見ているのだと勘違いしている。ともかくこの自分が外の風景を見ていると思っている。そうではないかもしれない。感覚の論理のなかに何らかの新しい大きな意味、外側からやって来る目覚ましい意味を探すことは無駄かもしれない(他から完全に独立し、運動しているのはただイマージュだけである)。そこには未来の詭弁に似た、すぐに忘却の彼方に消え失せる錯乱の開始の震えのようなものがあるばかりなのだ。つまりいつだって手遅れだったし、今もこの震えはいつも遅きに失している。言うまでもなく、われわれが瞬間に対してつねに遅れをとっていることはわかっている。

 惑い来て見ることさえもなかりつる君を知るは君なりけり

 昨日、隣人が亡くなった。救急車、三台のパトカー、消防車、私服刑事のセダン、オートバイ。道をふさぐように二つの非常線が張られた。ただ家族の肖像に突如悲しみが襲いかかっただけなのに、その光景は記憶に穴を開けるようにして突然侵入してきた。私の記憶。他人の記憶。
 今日の昼、司法解剖されたらしい遺体は家に戻されたようだった。夕方、おもてで近所の子供たちの遊ぶ声が聞こえている。

 『ある地獄の季節』のなかで、ランボーは「なんという生活でしょう! 真の生活がないのです」と言っていたが、この言葉は後にシュルレアリストたちによって別の使われ方をされることになる。「真の生活がない」は「真の生は不在である」と訳すことはもちろん可能である。なんと真の生がないのだ。なんとしても求めるべきであるのは、真の生活、真の生なのか。もちろん、そのとおりだ。シュルレアリスム以降の世代である、シチュアシオニストたちの運動を先導したギー・ドゥボールは、自分が監督した映画のなかで、恐らくかつての荒れ狂った青春時代(その情景のひと幕はエルスケンの『セーヌ左岸の恋』という写真集のなかに見てとることができる)を回想してこう語っていた。


 「真の生活への道半ばで、われわれはある暗い憂鬱(メランコリー)に取り巻かれていた」(『映画に反対して ドゥボール映画作品全集』下、木下誠訳)。
 スティーブンソン『宝島』の海賊の歌を引いて、「酒と悪魔が他の者たちを片づけた」ともドゥボールは言っている。暗いメランコリアは、ヴェネツィアでジョヴァンニ・ベッリーニと友だちになったアルブレヒト・デューラーの時代、芸術的でまだ神学的であった時代に人々を襲っただけではない。だがこの芸術とやらがいつも悲惨と背中合わせだったことを忘れてはならない。いつの時代も嘘がはびこっているが、暗いメランコリーは嘘ではない。おまけにメランコリーにとらえられているのは、デューラーが描いたような天使だけではなかった。ところで、先の引用の少し先でドゥボールは「無の箱」と「友情」についても語っていた…。
 ドゥボールの「真の生活への道半ば」と「メランコリー」は比喩ではなかった。喩えるべきものなど何もない。喩える者と喩えられる者たちが、この場合は一致しない。ドゥボールは喩えられる者たちのひとりだった。私もまた喩える者ではないことを自負している。なんの教訓もない。ドゥボールはたぶんそれに同意してくれるだろう。ギー・ドゥボールは、それは嘲りと悲しみが入り混じった多くの言葉が言い放ったのだ、と語っている。これらの若者たちが「天が興じるゲームの駒」だとも。あのドゥボールが! だけど、誰もがすべての息の根をとめることを渇望していたとはいえ、実際に、その瞬間、誰が自分のことを駒だと考えただろう。そんなことは無理であるし、実際、無理だったのだ。

 もっと別の不埒な生活がある。われわれは別の生活を強いられている。
 「わたしが今日の独裁政権を恐怖に感じるのは、それがまったくこれまでにない現象を形成しているからです。人はその結末を予測することができません。過去においては、どの専制政治も、いつの日か、最終的には転覆されました。でなければ、少なくとも倒されましたが、それはそのように「人間の自由な気質」が、当然のこととして、自由を熱望し、そうなることを欲したからです。しかし、この「人間の自由な気質」が変質しないと保証するものは何一つありません。まったく同様に、自由を渇望しない人種を創造することも起こりうるのです、角のない種の牛を作り出したようにです… ラジオと報道検閲に規格化された教育、そして秘密警察とで、すべては変わります。群衆操作はこの二〇年の間に生まれた科学で、わたしたちはまだそれがどこまで進歩していくのか知りません」(フィリップ・ソレルス『セリーヌ』、杉浦順子訳からの引用)。
 ジョージ・オーウェルはなんとこれを一九三八年に言っているのである。小説は、残念ながら、小説ではない。机上の空論が空論だったことは一度もない。ディストピアがどんな形態を取ろうがユートピアだったことはないが、ディストピアが現実でなかったことは一度もない。オーウェルは『一九八四年』を書くことによって、その恐怖を自らのカレンダーの上に読んだのである。それをカレンダーにナイフで彫刻するように刻んだのである。いまこそ君の周囲を見渡してみたまえ。オーウェルが旧ソビエトについて書いたこと、オーウェルが一九三八年に言ったことを、われわれもまた自分のカレンダーの上に読み取るほかはないのだ。なんということだろう!
 さらにソレルスが引用しているオーウェルの一九四九年のメモを書き写しておこう。
 「なんという声だろう! あまりに激しすぎる一面、愚直な安心感、どんな言葉に対しても向けられるはじけるような笑い、そしてなによりも本質的な悪意と結びついた、飾り立てられた重々しい言葉遣い。連中は… 彼らを見なくても本能的にそれを感じ取ることができるのだが… あらゆる知性と感受性と美の敵なのだ。誰もがこれほどわれわれを憎むのも無理はない」。
 それにしても完全に正面だけを向いてボケてしまった精神異常の敵があまりにも多すぎる! 小中学校の教科書に載せるべき文章のなかで坂口安吾が言っていたあの「馬鹿とキチガイ」のことである。

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第86回 2017年5月

 

 

 

生の終わりについて
私の知らない二、三の事柄

 

 

 

鈴木創士


石井恭二『心のアラベスク』『正法眼蔵覚え書
ノヴァーリス『日記・花粉
バタイユ『無頭人

 肉体は肉体ではない。
 肉体は肉体をつくりだし、病み、やがてそれを衰亡させる。肉体の滅却は肉体が望んだことであって、肉体のプログラムはそれ自体ただのプログラムではないし、恐らくプログラムとは死がつくりだしたものだと私は考えていたが、それは一刻一刻と、刹那に変貌を繰り返してきた。だが肉体は変幻するとはいえ、肉体それ自体は自在ではない。『心のアラベスク』という本のなかの石井恭二の言葉を借りれば、肉体はぐずぐずしていても、死の時に臨んでも、つねに直下の今を生きるほかはない。肉体は今を生きているからこそ、死に際に「早く、早く」と言う。「われわれは、愚図々々していても常に直下の今を生きている。先の念仏僧安楽は河原に斬られた。あの女性たちは山野に白骨を晒したかもしれないが、死生の狭間に連なる今を生きたのだろう」。肉体に涅槃はない。なぜならそれはこの狭間にあるからである。生から死へと何かが移行したように見えるのは、ただ肉体がそこにあるからであり、それが生み出す幻影なのかもしれない。生の終わりは、肉体の軽業なのか、それとも生命の苦痛に満ちた手品なのか。

 かつて肉体はあった。
 時間のなかに出現したかに見えた永遠は「かつてそれがあった」のなかでしか永久に消えない一瞬の光芒を放つことはできないし、いつまでも到来することのない未来の闇雲の行動を照らし出せないが、それも現在の肉体にとっては今この時の錯覚でしかないのかもしれない。肉体は肉体の衣を纏って玄武岩のように実在したのだが、もはやそんな肉体はどこを探そうともありはしない。肉体は自分で自分を証明できないし、ただ自噴し、自奮することもあるだけである。自噴したのちに、自滅するだけである。

 生はどこにあるのか。肉体を取り巻く生はどこにあったのか。
 恋人ゾフィーを失った後、ドイツロマン派の詩人ノヴァーリスは、その『断章』のなかに「生命の理想的分解から肉体と霊魂が生じる」と記しているが、まったく理想的とはいえない離接的綜合を絶え間なく繰り返してきたのはむしろ肉体のほうである。それは医学的事象を越えている。そうであれば、霊魂もまたそれを越えるという意味で医学的事象である。たしかに生の終わりに肉体と霊魂が分離したように思えるのは、ただ肉体が肉体であることをやめて、別の名前をもつようになるからにすぎないのか。そう思ったのも一昨日のただの早とちりでしかなかったのだろうか。ノヴァーリスが言うように、ほんとうに生命は分解したのか。では分解とは喜びなのか、生命の苦痛なのか。そうはいっても、霊魂が分解して生命と肉体が生まれたのではなかったのか。誕生はどこでどんな風になされたのか。生命は分解したりするのか。私は生きているではないか。私は自分の肉体をもてあましているし、自分の霊魂におずおずと問いかけることしかできない。そいつは私から離れたところで明後日のほうを向いたままだ。霊魂と生命は同じものではないのか。違うものなのか。
 私は頭(こうべ)を上げる。私は頭を垂れる。もう一度頭を垂れて、肉体を想う。消えない肉体を想う。そして消えた肉体を想う。

 生はいつも死を前にしているのだろうか。
 バタイユは『死を前にした歓喜の実践』をこんな言葉ではじめている。「世界が破壊や苦痛をもたらすことなく幸福に自分のうちに反映されているような状況に置かれているときに――例えば、あるうららかな春の朝――、人間は、その結果である陶酔や素朴な喜びに思わず身を任すかもしれない。それと同時に、彼はまたこの至福の意味する空虚な平安の重々しさと無駄な心配にも気づくかもしれない。そのとき残酷にも彼のうちに沸き起こるものは、一見穏やかで澄んだ青空のなかで自分よりも小さな鳥を噛み殺してしまう猛禽に比肩し得るものだ。彼は仮借のない運動に身をゆだねずには生を完遂できないことに気づくのだが、その暴力が、彼自身の最も閉ざされたところに、彼をたじろがせる厳しさをもって行使されるのを感じる」。
 私はバタイユではない。生の終わりには何かしら厳格で荘厳なところがあることは承知しているつもりだが、生の暴力が私をたじろがせることはない。生の終わりが美しいのは、それが残酷であり、どんな形で終わるのであれ、同時にある穏やかさを帯びているからである。この穏やかさは至福ではなく、悲しみである。そしてそれが美しく思えるのは、この生の終わりが肉体の、肉体という観念と実体の終焉でもあるからだ。バタイユの神秘主義のなかには厳として肉体と肉体の苦痛が居座っているが、このキリスト教的身体から私は容易に身をかわすことができる。生は不埒である。不遜で不易で不毛で不浄で不潔で不快である。あの鬱陶しい生! 私はそれが完遂されないことを知りながら、寝転んだままそれに挑戦してみたい。そんな風に思うことがある。

 人は死ぬためにこの世に入ったのか。ここから出て行くために。
 しかし道元は『正法眼蔵』の「行仏威儀」の巻で言う。「だが、知るべきである。人はそれぞれの尽界に出、彼の尽界とともに死に入る。人の出生は出と云いうる。生死はその始めから終わりまで、珠を転がすような自ずからの在りようである。行仏によって得る悟りを有たらしめているのは、それが乾坤大地を覆っているからである。人の生死去来はその人の尽界である。それは微小な場でありながら、蓮華のような広がりである。人界であり仏土である、この微小な場、蓮華のような場が、人にとってのそれぞれの尽界なのだ」(石井恭二による現代語訳、以下同様)。
 行仏威儀。いい言葉だ。少なくともバタイユよりはいい。意味など問わない。行け、行け! 生のみを、死のみを伝えることはできない。行くだけが取り柄だ。喋っているよりはましだ。シャトーブリアンは、時間がアル中の手の震えのように震えるのであれば、飛び去るのは魂なのだと言っていた。
 再び、道元。「全機」の巻。「生は来るのではない、生は去るのではない。そのままの即時的な生を成というのではない。そうであるが、生は六根全身の活らきの現れである。知るべきである。自己は無限の現象を内在しており、そのなかに生があり、死があるのだ」。
 生は去来しない。死は来ない。ただそこにあったのである。この死は存在しないも同然である。釈迦が言うように、この世が幻影であれば、死もまた幻影である。道元は、涅槃を生から死に移ることだと考えるのは誤りだ、とも言っていた。生から死への移行はそんな風に見えるだけで、存在しないかもしれない。われわれの限られた世界が蓮の葉っぱのような広がりをもっているのであれば、死は誕生と同時にわれわれとともにあり、遥か昔から泥のなかでわれわれと同棲していたことがわかる。死は蓮の葉っぱを転がる水滴である。肉体は衰弱し、その水滴をとり集めて、肉体を変化させてきた。肉体の業を離れた水滴のへんげは自在でもなくまた自在でもあったのだ。肉体は滅却し、水滴は蒸発したのである。

 ここでは今年は寒い日が続いて、桜の咲くのが遅かった。私の母の容態が重篤になったとき、山麓の病院へと向かう並木道は桜が満開だった。やがて桜の花もすっかり雨で散ってしまい、並木道の青葉の新緑が目にしみたまさに最初の日の夜に、母は亡くなった。

 願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

 西行法師は自分の詠んだこの歌のとおりに桜の咲く頃に逝ったのだから、高野の山奥で人骨を集め、反魂の術を使ってそれを蘇らせたあと怖くなって逃げ出したとはいえ、死が喜ばしいものであることを証明したのである。

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第85回 2017年4月

 

 

不動の曲線に永遠が…

 

 

鈴木創士

  

宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
ベルナール・ラマルシュ・ヴァデル『すべては壊れる』エートル叢書23

 

「ひとつの動きの曲線に永遠が押し寄せ…」
ジャン・ジュネ『薔薇の奇跡』

 

 宇野邦一の新著『土方巽 衰弱体の思想』を読んだ。上のジュネのエピグラフもこの本からの孫引きなのだが、土方巽の舞踏と言語をめぐる、注意深く繊細な、急いで書評すべきこの宇野邦一の本について私はいま書評めいたことが何も言えない。私はこの本を最後まで読みながらまとまった思考がまったくできないでいたし、この本で深く掘り下げられた土方の言語作品、もう一度しっかりと何度目かの再読をしようと前々から考えていた『病める舞姫』の読書も果たせないままでいる。

 宇野邦一の土方本を読みながら、私はいわば完全に引き裂かれてしまった。「衰弱体の思想」をめぐるこの本を病院のなかで通読するはめになってしまったからだ。ここのところある病院に見舞い客として通っていて、私は死の床についたある人を毎日ただ眺めて時を過ごしている。ベッドに横たわるその人を見ることに疲れると、病室かロビーに出て、できるだけ集中してその本を読んだのに、私は空っぽのバケツのままである。ずっしりと重ささえ感じる宇野邦一の本を手引きに、土方の舞踏と彼自身の言葉の謎について考えようとしても、土方の「衰弱体の採集」(採集といはいえない採集)のあの暗がり、土方の身体を降りていったところにあったはずのあの深い井戸の在りかは、もうありもしないみすぼらしい舞台の向こうに霞んでしまい、土方の舞踏を何とか思い浮かべようとしても、はじめから迷子になっていた「はぐれた肉体」の幻影がいまは時々この身を霧か透過物のようによぎるだけである。私は思い直して、何とか立て直そうとしてみる。衰弱体の身振りの採集。しかしバケツはいっこうに満ちることはない。この読書に何かしらバイアスがかかってしまったということではない。
 病院の広い窓から光が射している。ひとつの斜光。それがページの紙を照らし反射している。病にも光に似たものがあるのかもしれない。すぐ近くに山の緑が迫っていて、反対側にはいつも穏やかにきらめく海も見える。

 ジュネは先のエピグラフのくだりで、監房のなかでの身の動きについて述べていて、ほとんど無意識かもしれない身振り、悲惨と栄光をまとった囚人としての身のこなし、いってみれば「新しいダンス」によって、監房のなかでの時間と思考を支配し、それを自分のものにすることで、絶望を少しだけ、しかしまったく別のものに変えることについて語っているのだが(よくよく考えれば、ある時期ジュネは生粋の演劇人だったのだし、最初から最後まで彼のルネッサンス的とも言える幾つもの本は演劇の構造を持っていたのかもしれない)、ひとつの動きがあれば、そこにはひとつの不動性があるはずなのだ。
 病のなかに見え隠れするある種の容赦のない動き。そして病人のからだのもつ、偽の、見かけの不動性。それらは両立するかに見えて、鋭く対立し、仮象を退けるように(そのひとつは有機体である)、互いが互いを欺くように分裂を繰り返している。だがジュネのように監房を拡大し、そこに突進するような力はこの明るい病院のなかにはさすがにみなぎってはいない。私は監房のなかにいるわけではないが、それでも病室のなかでまぎれもない一個の身体を目の当たりにしていることに変わりはない。

 からだは曲線を描いている。この曲線に、時間の否定、永遠が押し寄せる。それを見ようとして、それを何とか確認しようとして、私の思考は停止する。私はぼうぜんとする。思考はもう身体から抜け出して、宙をさまよっている。この思考は身体とダブり、それから染み出しながら、ぼんやりと身体の形になろうとしていたはずではなかったのか。だがこの空気状の身体の形はからだ自身の知らない形かもしれない。私のからだ。病人のからだ。衰弱はさまざまな様相を帯びている。交感は起こりそうにない。奇跡はない。だけどここにダンスのようなものは存在しないのだろうか。踊っているものはないのか。

 ここではとんでもなく衰弱しつつあるからだが確かに目の前にあるのだが、寝返り以外にほとんど何の動きもないといっていいこのからだにも、何かが絶え間なく押し寄せているのがわかる。ひとつの動きは曲線を描くが、動こうとしても動けない不動もまた曲線を描いている。横たわったからだは不思議なひとがたの稜線の上で曲線を描くのだ。それは時間を否定するようにして同時に時間のなかにあり、この時間は一見円環をなしているように見えるが、じつはそうではない。永遠が続くことはない。永遠は続かなかったし、これからも続くことはないだろう。永遠が一瞬のなかにかいま見えたとしても、永遠は一瞬ではないからだ。時間と永遠は別のカテゴリーに属している。永遠は一瞬をあざ笑ってさえいる。いや、あざ笑っているのではなく、段違いの生と死の境界を敏感に感じているつもりになっているわれわれ自体を完全に否定しているのだ。曲線はじっとしているか、時間の外でただ無関係に震えているばかりである。
 閉じた目。やにわに開かれ、遠くを見る目。何も見ていないかのように、何も見るものがないかのように(実際、そうなのだ)動かない瞳。瞬き。まるで自分のからだがどこかへ墜落するのを阻止するかのようにベッドの柵をつかんだ痩せさらばえた手。土方巽は「からだの中には、際限もなく墜落してくものがある」と言っていた。重ねられ、折り曲げられた足。寝息。小刻みな呼吸。半開きの口。まだ少し喋ることも少し食べることもできる。しかし言葉はいま見えている幻覚をとらえようとするかのように唐突で、いつも私の知らない別のコンテクストのなかにあるほかはないし、言葉自体の中心から少しずつ、だが完全に逸脱しようとしている。そして食べるという行為はどこか人間離れしていて、酷薄で荒々しいところがある。

 ある力が身体に及んでいることは確かである。死の欲動のことを言っているのではない。この力は論理的に不可解なものだが、なぜこの場に及んで、それは速度を増しているように見えるのか。身体には実際の欠損、そうでないものも含めて、穴が開けられ、そこに生命とは恐らく別種のものが侵入し、部分的に壊死し、小さな死を繰り返し、誤作動を起こした細胞があちこちでゆるやかな増殖と占拠を開始している。意識などただのカカシにすぎない。だが誤作動といっても、それは生がもたらした賜物なのだろうか。そのように考えることもできるが、身体には物質から遠ざかる一方である深みのようなものがあるのかもしれない。生がときには急降下のようにカーブを描きつつ、それが露わになろうとしている。そしてそれはからだの表面に、からだの内部の表面に浮かび上がり、自分で自分を食い破ろうとしているのがわかる。
 こんなにも多くの出来事がからだのなかで起きている。それにつれて時間が振動を繰り返し、ただ脳のなかでだけそれが起きているかのように、その人にとっての時間の質が完全に変質しているのが手に取るようにわかる。不動のまま、その人のものでありながら、非人称的で、もはや素材ですらない何かがからだのなかに開かれ、本人が知らないうちに、からだ自体が無言のままそれを凝視している。私もまたそれをぼんやりと見ているだけだ。だがこのいうところの眼差しでさえ、時間の渋面、ただの見せかけがもたらす錯覚のなかの斜視でしかないのかもしれないし、むしろ絶えず断言を繰り返し、それを反復しているのはその人のからだのほうである。その人は、痛みを訴えているときでさえ、寝返りを打つときでさえ、そのことによって時間に打ち勝っているようにすら見える。私はそのことに安堵する。

 ここはひとつの劇場だ。幕は上がった。もはや手遅れだ。幕はすでに上がったのだ。幕という漢字は、目が悪いのか、墓という字に見えなくもない。そうはいってもここにあるのは生の力なのか、それとも死の力なのか私にはよくわからない。この何かへの移行、この何かの過程は、美しく、残酷で、穏やかで、悲しい。それが生の過程であることはたぶん間違いない。醜悪な生。臭気。いびき。血。悪血。そこにはまぎれもなく生が混じっている。あの鬱陶しい生が! だが私は消えゆく「生」を見ているのか、それとも死に侵された、死という病に冒され、衰弱の下降線をたどる身体、前段階の姿をした死体を見ているのか、もうよくわからないのだ。

 だがここにはやはり死体があるわけではない。からだは刻々と変化する。死ぬ前も、死の瞬間も、死後も。
 十七世紀にボシュエは、『死についての説教』のなかで、「からだはもうひとつ別の名前を持つでしょう。死骸という名前でさえも彼のもとに長くとどまることはないでしょう」と語っていた。「それはいかなる言語のなかにももはや名前を持たない得体の知れないものとなるだろう、そうテルトゥリアヌスは言っていたのです」。なぜならそれほどまでに実際すべてが彼のうちで死に絶えるからである。死に絶える? そんなことは承知の上だ。だがボシュエはほとんど脅迫じみた言葉で畳みかける。「ただ一瞬がそれらを消し去るのであれば、百年や千年が何だというのでしょうか」。やれることをやりなさい、それすらも無駄になるでしょう。「あなたの日々を重ねなさい」。美化しなさい。やってみなさい。虚しいことです。私の「実体」はあなたたちを前にして何ものでもない。わかってるさ、わかってるさ。
 いまここで、その人の実体が私の目の前で何ものでもないことを自ら証明していることを私はよく知っている。私は無知のなかでそれを確かめようとさえしている。だがそれらを一瞬で消し去るのはほんとうにあなたたちがよく知ると主張する「死」なのだろうか。それはどこにあるのか。どこからやって来るのか。いま私にそれを言ってもらいたい。ジャック・ベニーニュ・ボシュエはかつての自分の壮麗で犀利な説教によって、自分の死に際して、自分を救ったのだろうか。自分で自分を救うなど、言葉の矛盾でしかないではないか。なぜならこの自分とその自分は一致しないからである。
 身体はない。身体の制度はない。肉体はない。肉体の言語はない。身体が実践したことなど夢うつつの四肢、あのカカシがやったことにすぎない。衰弱がはじめにあった。後からは、死が迫ったときに、からだからじょじょに抜け出すからだがあるだけだ。
 私は病院の窓の外を眺める。その人のからだは、光のなかにあっても少しばかり悲しげな風景に似ていて、抜け出す前のからだが空中に描いた殴り書きのようなものかもしれない。

 

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  第84回 蒼ざめた女 - 2017.03.04

第84回 2017年3月

 

 

蒼ざめた女

 

 

鈴木創士

  

アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』
アンドレ・ブルトン『ナジャ
アンドレ・ブルトン編『シュルレアリスム簡約辞典
鈴木創士『サブ・ローザ

  

 

マルセル・デュシャン

「毎日は調子の狂った振舞いとともにめざめ、
 わが祈りのなかに取り囲まれる
 (…)
 居酒屋でお前ははぎ取る
 お前の悲劇という趣味の悪い服を、
 森はなく、戦利品はなく、大天使たちはいない…」

                    トーマス・ベルンハルト『こんにちはウェルギリウス』

 最近、ダダ・シュルレアリスムについての対談(『現代詩手帖』2017年3月号)のなかで、朝吹亮二氏がロベール・デスノスの詩「ローズ・セラヴィ」で駆使されたcontrepèterieコントルペートリ、つまり語音転換による語呂合わせの技法について言及しているのを読んだ。これは文字や綴り字の順序を逆にしたり、入れ替えたりする言葉遊びのことであり、ダダイストやシュルレアリストの発明によるものではなく、古くから、よく知られているところでは、すでに16世紀にはフランソワ・ラブレーによってしばしば試みられていた。

 「ローズ・セラヴィ」という名前はもともとマルセル・デュシャンの別名であるが(デュシャンの分身というよりはむしろひとつの別人格かもしれない)、このローズ・セラヴィという言葉自体、「Eros, c’est la vie」の言い換えの可能性があるのだし、音としてはたしかによく似ている。エロス、セ・ラ・ヴィ! 「エロス、それが人生だ」……「愛欲? どうしようもないじゃないか」。デュシャンは女装することによってそう言いたかったのだろうか。
 デスノスは当時シュルレアリスム運動の「眠りの時代」の詩人の第一人者であったのだから、デスノスはデュシャンの人格、美術家としてあまりに堅固だったために私生活ではあえかであるほかはなかった人格に憑依し、それと入れ替わることによってこれを書いたのである。デスノスは、後にアルトーを精神病院から救い出すために奔走した後、ナチの強制収容所で亡くなった。もちろん言葉遊びにもそれなりに重々しい時代があったのである。

 「ローズ・セラヴィの眠りのなかには井戸から出てきた小人がいて夜にはパンを食べに来る」(デスノス)。

 デスノスはデュシャンの可憐な眠りの井戸のなかに棲まうひとりの小人だったわけであるが、夜になればパン食う虫も好き好きであるとは言わない小人がここに存在してしまうことになる。『シュルレアリスム宣言』のなかでデスノスの詩についてブルトンが述べるところでは、パンと小人、井戸と夜はそのままシュルレアリスムの分類できないイマージュの一例となるのであって、詩に託されるべき、ふんだんで、時宜を得た、調子っぱずれの諸契機を与えるという点で、詩の「気まぐれ」はシュルレアリスムの「至高点」と関わりがなかったわけではなかった。

 しかしその詩を読んでしまった私にとっては、すでにコントルペートリはどこかへ消え失せていて、これはまぎれもないひとつの「現実」的な意味を帯びざるを得ないものとして現れてくる。それは精神の些細な作用にとっては明白な矛盾である。読者である私にとって詩がひとたび書かれたものとなったのであれば、いずれ小人(nain)はパン(pain)となり、夜(nuit)は井戸(puits)に変わるかもしれないのだし、つまりあるとき小人とパン、夜と井戸は同じものとなり、またあるときデスノスは、デュシャンの口を通して自分自身を食べ、デュシャンとともに自分から出て行ったのだということになるのだ。
 しかもcontrepèterieは否応なくcontre-péterという言葉を連想させる。つまり「近くで、もしくは反対向きに、屁をひること」、誰かにぴったりくっついて、もしくはさかしまに、反対向きに、逆立ちして(?)、おならをすることでもあるのだ。いや、逆立ちではない。そもそもおならは外に向けて発射されるのだから、この場合は、つまり反対向きということは、でんぐり返しをしながらおならを自分に向けて発射することのほうがより正しいかもしれない。まだ小さかった頃、私の姪っ子がみんなの前で勇んででんぐり返しを披露したとき、プッとやってしまい、大人たち全員が爆笑したのだった。しかし詩を読むわれわれ、「私の悲劇という趣味の悪い服」を脱ぎ捨てねばならないわれわれにとって、爆笑する権利はないと言ってもいいのである。

 

 それはそうと、せっかくだからcontrepèterieを辞書で引いてみた。有名なラブレーのこんな言葉が紹介されている。

 

 femme folle à la messe(ミサ狂いの女)

 

 それをラブレーはこう変える。
 femme molle à la fesse(柔らかい尻の女)

 

 私はラブレーに敬意を表してこれを次のように変えてみる。
 femme pâle à la passe(通りすぎると蒼ざめる女)

 

 詩の語句の出来としてはいかにも凡庸すぎるし、ラブレーのユーモアも何もかも台無しにしていることはわかっているばかりか、しかもコントルペートリとしても不完全で出来そこないとしか言いようがないが、いまのところほかにどうしても良き戦利品が思いつかないのだし、悲劇にも色々あるとはいえ、ともかく悲劇その他の悪趣味な衣装を脱ぎ捨てねばならない我々のことなのだから、いまではシュルレアリストではあり得ない私に免じてご寛恕願いたい。戦利品も収穫も盗人のぶんどり品もどのみちどこにもありはしないのである。つまり趣向を変えることだって何だってわれわれには可能なのかもしれないのである。

 

 通り過ぎるたびに蒼ざめる女
 通り過ぎるたびに
 あそこに窓があった
 きっといつかは
 薔薇の内部が
 君を蝕む日没が
 こじ開けられるだろう
 七つの辺が
 同じ薔薇色に輝いてはいるけれど
 この棘のなかに
 この傾きのなかに
 何年も前から君がいたのであれば
 僕は昨日そこからやって来たばかりなのだ
 仮借ないものとは
 最初の日に手袋のように裏返ったものとは
 ルビー色に変色したシャンパンのように
 この広場に続くうらぶれた小道だったのだろうか
 奏でるたびに
 しだいに色香も褪せる
 未知の楽器のように
 指から指へと
 喪失が瞬いているのが見えるのだ
 自分の胸腔の深い淵で
 君は少しだけ笑っていたっけ
 いろんな事があった
 空色をした蝶
 艶のない青銅の梯子
 糸のように細い時間のたゆたい
 まるで何かを浪費するような
 どうしようもない諍い
 告白すべきではなかったカムフラージュ
 それが何かの含有量ででもあったかのように
 君は激怒していたっけ
 僕たちが好きだった森
 あそこから西日が差してはいたけれど
 慈しみとともに
 取り返しようのない過ちとともに
 僕は思い出すのだ
 だが惨憺たる偶然と同じように
 そんなものなど何でもないのよ
 君はそんな風に僕にむかって語気を強めていた
 玄関で靴下を履きながら
 午後二時の陽の光にさらされた
 君の心のなかには
 紫外線のように
 市街戦のように
 穏やかな水のおもて
 ラファエロの自画像のように透明で
 昨日という最悪の日が隠してしまった
 最後には残酷なものとなるほかはない水が
 流れているのだ
 窓はとっくに開けっ放しだった
 銀色の船の航跡が
 むせび泣くように
 遠くに見え隠れしていた
 陰気なくせに呆けた街角だ
 頭上には一羽の烏が旋回し
 鈍色のアンテナの上
 昔の哲学者のように
 そこにいる白い鳥は
 じっと動かない
 だがそれが飛び去るとき
 光を放つ沼沢から望む
 紫色のアーチが消してしまう奇妙な風景
 そいつがここからも見えるのだ
 そのとき君は
 そのぼんやりとした向こう側に
 帰ってくるのだろうか

 

 

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第83回 2017年2月

 

 

すべての帝国は滅亡するだろう

 

 

鈴木創士

 

ゲルツェン『向う岸から』古典文庫
サント・ブーヴ『プルードン』古典文庫
E・H・カー『バクーニン』(
ブランキ『革命論集』(上・下)古典文庫(*現在は絶版)
ギュスターヴ・ジェフロワ『幽閉者 ブランキ』

 

 

 

 

  ロシア・ナロードニキの先駆けだった十九世紀ロシアの思想家アレクサンドル・ゲルツェンは、のちにヨーロッパ中を転々とすることになったが、さながらヨーロッパという断崖絶壁の上を彷徨う亡霊のようであった。社会主義の父であるこの亡霊はアナーキズムの父プルードンと協力し、アナーキストの亡霊でもあったわけだが、自治政府がプロレタリアート独裁を宣言したパリコミューンの最後の蜂起の前年にパリで没している。もちろんこれは偶然などではなく、歴史のなかから廃棄されるはずのない偶然がいっとき廃棄された証であった。モラルについては「非凡」であったこの作家の文章は、かつてのモラリストたちに似ていなくもない。かのバクーニンは若い頃ゲルツェンに影響を受けただけではなく、一八六一年に、シベリアの流刑地を脱出した後、当時ロンドンにいたゲルツェンのもとに身を寄せている。ロンドンのゲルツェンの家に入っていったとき、バクーニンはこんなことを言ったらしい、「なんだよ、牡蠣を食べているのか、いいなあ、だったら俺にもいろいろ教えてほしい、えっ、いったいどこで何が起きているんだ?」

 『過去と思索』とともにゲルツェンの主著と並び称される『向う岸から』のなかでゲルツェンはこんなことを言っていた。

 

  ――(…)背後には死が迫っている。死なんとする人のところに呼ばれた聖職者が、何をするというのだ? 看病もせず、うわごとに反駁もせずに、臨終の祈禱を読むだけだ。祈禱書を読みたまえ。ペテルブルグのツァーリの専制政治も、ブルジョア共和国の自由も、死刑宣告を下されたものは誰ひとり死を免れないということを、これを最後に確信したまえ。そしてそのいずれにもあわれみをかけないことだ。それよりむしろオーストリア帝国の崩壊に拍手を送り、半共和国の運命にはらはらしている軽薄で皮相な連中にこう言って説得するがいい。すなわちかかる共和国の瓦解はオーストリアの崩壊と同じように、人間と思想の解放にとって巨大な一歩を意味するものであり、いかなる例外もいかなる寛恕も不必要であって、寛容の時代は来なかったのだと。(…)テロルは人びとを処刑した。しかしわれわれの仕事はもっと容易なものだ。われわれは議会制度を死刑に処し、信仰を破壊し、古い世界に立脚した希望を一掃し、偏見を破り、決して譲歩したり容赦したりせずに、以前のすべての聖域に踏み入るように運命づけられているのだ。生まれつつある世界、昇りつつある朝日にだけ、ほほえみを送り、挨拶を送ろう。そしてたとえわれわれがその到来の時を早めることができないとしても、少なくとも、それを見ることのできない人に、それが近いことを教えてやることはできるはずだ。

 ――夜ごとヴァンドームの広場で、通行人にはるかな星を見るように自分の望遠鏡をすすめている、あの老乞食のようにですか?

 

 余談ながら、望遠鏡をつねに持参するこの乞食のことが妙に気にかかるのは私だけだろうか。この老いたる浮浪者とは誰のことなのか。天体好きのオーギュスト・ブランキのことなのか。たぶん違うだろう。まあ、とにかく星を眺めようではないか。

 ところで、一言述べておくなら、このところ日々私たちが見聞しているのは、白人至上主義のアメリカ帝国の瓦解が始まったということであり、あのお笑いツァーリ(君主)がツィッターで何を言おうが、帝国自体がもうそれをとどめるすべはないということである。最近では、笑ってしまうが、君主といえどもどん底まで落ちぶれることがあるらしい。君主の側近たちも、女性を含めて、理屈どおりにご立派なものである。歴史の教訓は無駄ではない。これがわれわれの時代の最低の現実、その禍々しい漫画なのだ。そしてこのぶざまな犯罪的漫画の存続にはわれわれの首相も一役買っていることを忘れないようにしよう。

 ***********************

 

帝国は滅ぶ

 

 ローマは一日にしてならず
 千年にしてならず
 昨夜、ローマ帝国は滅んだ
 黒焦げの大地よ、猛烈な渦よ
 底なしの忍耐よ
 血の色をした満月が天頂にさしかかる
 天を汚す月、月経にまみれたポイペ
 俺たちはけっして働かないだろう
 おお、火の夜よ
 地獄の女は
 帝国の仮の守護神などではない
 玉座にはひからびた団栗がひとつ
 目のない栗鼠が一匹
 オリーヴの大木が轟音をたてて倒れたのだ
 砂塵をあげる駿馬のいななき
 そいつが遠くでさらに灼熱の陽を浴びている
 少年の王よ
 護衛の兵士に喉をかき切られ
 半身を虚しく探し求め
 あるいは自分の頸動脈を食いちぎる王よ
 おまえは玉座からころげ落ちる
 溝(どぶ)のなかへ
 厠(かわや)のなかへ
 未来永劫、空位は王の座である
 
 いかにアテナイが陥落しようとも
 いかに農奴ヘイロテスが生き残ろうとも
 スパルタは存続できないであろう
 頭上を旋回する禿鷹よ
 ハドリアヌスも
 蛮族でさえも
 スパルタの存続を渇望したのだ
 あの大地
 腕を切り落とされ
 首を切られ
 ごぼこぼいう喉の血で窒息した兵士が
 一面のヒースに顔を埋めたあの荒野
 花の匂いを嗅ぎ
 喜びいさんで
 図面を引かれた偽の至聖所、あれらの列柱のあいだで
 襤褸(ぼろ)でつくった深紅の垂れ幕みたいに
 随喜の深淵に落ちていった無数の死者たち
 予言者たちは
 顔を曇らせる
 荒廃した
 ゴミの舞う町はずれで
 冬の大熊座はカサカサ音をたて
 地平線を一周する
 かつてカエサルの見た空
 くだらぬ芝居かもしれぬ
 小枝が折れる音がする
 歴史を寝取られた間抜けどもがいる
 俺たちは昼も夜も広場をうろつき
 けっして働かないだろう
 おお、穢れた血の色をした樹液よ、朝よ
 
 いかにマルクス・アウレリウスの声音をまねようとも
 またいかに彼の叡智をまねようとも
 そんなものはスカンクの屁にも値しない
 エリュシオンの野に悪臭が満ちるだけだ
 やりきれない歳月、千三百年の徒労の日々よ
 血が流れたのは
 青髯の家だけではなかった
 神は歴史ではなく
 歴史は神ではない
 神々はいつも居留守の番人にすぎない
 竃の上で鼎(かなえ)がぐつぐつ湯気を立てるにも
 もはや手遅れなのだ
 裏切りはあったのか
 時を追い越せ
 追い払われたエリニュス、復讐の女神たちよ
 真鍮の爪は研がれていたのか
 すべての復讐はどこへ向かうのか
 何もないし、どこでもない
 民主主義は奴隷の民主主義である
 畸形の熱狂
 惑星は誘惑などされはしない
 俺たちはけっして働かないだろう
 あれよあれよという間に
 民族は歴史の夢から締め出される
 痩せ衰えた亡霊たちよ
 それが無数の民の白昼夢だったのだ
 
 神殿の残骸には風の音がわだかまり
 うずくまる
 老人がうずくまる
 こいつが悪魔の化身だ
 円柱は折れ、粉々になる
 大理石は汗をかき
 汗をかき
 うっすらと血のミルトの汗をかき
 手は震え
 塩の柱が崩れる
 神々の像は八つに割れる
 かけらの断面からは奇怪な顔が生え
 陽の光に溶けてしまうだろう
 昨日の朝露のように
 ゴエティアの書に記されていた悪魔の祖先よ
 夜になれば
 淫靡な仕事を始めねばならぬ
 そこはオアシスなのか
 地底のオフィスなのか
 俺たちはけっして働かないだろう
 腐った食糧が
 悪臭のする古い血が
 青い鼻汁が
 唾が
 汚物が
 糞尿が
 穴のなかに投げ込まれる
 詩人が追い出されたのではない
 そこから出て行くのは
 テレンティウスの喜劇を演じるあの役者どもだ
 むこうに霞む砂漠よ、涸れた井戸よ
 小石が舞い上がる
 神殿は砂と泥に埋もれて
 とっくに跡形もない
 
 パラティヌスの丘には
 ネロの亡霊などはじめからいない
 骨だけになった死骸もない
 猫の死体もない
 だが歴史は歴史が過ぎ去らないことを予見するだろう
 そう言い張ったのは
 神々だ
 すべての予兆は
 破壊されたおびただしいただの彫像のかけらである
 かけらを操るコンスタンティヌス
 世界の首はどこにある
 玉座の上にはぺんぺん草が生えている
 気持ちのいい風が吹いている
 緋色の蛮族たちよ
 迷信をたずさえて
 君たちはここまでやって来たのか
 寂しい八岐の庭園までは
 そう遠くはない
 おお、残骸よ
 もうカラカラの浴場が血に染まることはないだろう
 血のあぶくを水に映る空のなかに見たからといって
 民は何ひとつ感謝しないだろう
 汚れたティベリス河が滔々と流れている
 それが何だというのか
 ヘドロのなかには何があるのか
 俺たちはけっして働かないだろう
 血潮のなかに溺れなば
 我はいかに強からん
 強大なのはそんなものではない
 ミネルヴァの神殿は
 夕暮れにしか開かない
 見えるのは葡萄畑だけだ
 珍妙な祭礼があった
 裸体の若者がいた
 生贄は無駄だった
 ユピテルの月までは生き長らえられないだろう

(後半の詩文「帝国は滅ぶ」は雑誌『HAPAX 06』(二〇一六年、夜光社刊)からの転載です)

 

 

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  第82回 くぼみ - 2017.01.04

第82回 2017年1月

 


くぼみ

 


鈴木創士



渋谷哲也・平沢剛編『ファスビンダー』エートル叢書16
ロラン・バルト『神話作用』 
ロラン・バルト『零度の文学
鈴木創士著『サブ・ローザ 書物不良談義』 
ジャン・ルイ・シェフェール著『エル・グレコのまどろみ』エートル叢書19

 「紙でできた雌鶏や、船や、矢や、飛行機、小学生たちが学校の机でつくるそんな折紙をそっと広げると、新聞のページか白い紙に再び戻る。私はずっと前から漠然とした気まずさに悩まされていたのだが、そんなとき私の人生――つまりしっかりひろげられ、目の前に平たく置かれた私の人生の波乱の数々――が一枚の白い紙にすぎず、それを必死に折って新たな事物に変形できていたつもりが、山や、断崖絶壁や、犯罪や、死亡事故という外観をもつ三次元のものとしてそれを見ていたのはどうやら私ひとりだったことに思いいたったとき、私の茫然自失は極めて大きなものとなった」。
 パレスチナ革命の地にフェダイーン(パレスチナゲリラ戦士)たちとともにいた経験をもとにした本のなかで、ジャン・ジュネはひとり人知れず唖然とした後にこう続けている。
 「こんな風に私の人生は、大胆な行為のうちに微妙にふくれ上がった取るに足りない仕草からなっていたのだ。ところが、このことを、私の人生が窪みのうちに書き込まれていたことを理解したとき、この窪みは深淵に劣らず恐るべきものとなった。象嵌術と言われる仕事はハガネの板に酸で凹状に図柄を穿つことだが、そこには金の糸を嵌め込まねばならない。私にはこの金糸が欠けていた。私が孤児院に遺棄されたことは、たしかに他の人々の出生とは異なる出生だったが、より恐ろしいものだったわけではない。牛飼いをしていた農夫の家での幼年時代はどんな幼年時代とも好対照をなすわけではなかったし、泥棒と売春をやった青春時代も、実際にあるいは夢で盗みを働き売春をやる他の青春と似たり寄ったりだった。目に見える私の人生は巧みに仮面をかぶった見せかけにすぎなかったのだ。監獄は私にはむしろ母のようなものだったし、アムステルダム、パリ、ベルリン、バルセロナの騒然とした街路以上にそうだった。そこでは殺されたり餓死したりする危険はなかったし、監獄の廊下は私の知る限り最もエロチックだが最も心休まる場所だった。合衆国でブラックパンサーと過ごした数ヶ月もまた、彼らと私の間に彼ら自身が気づかなかった共犯性がなかったのであれば、というのも彼らの運動はラディカルな変革の意志という以上に詩的な演じられた反乱であり、白人たちの活動の上に漂うひとつの夢だったからだが、パンサーたちが私を反逆者として見ていたとすれば、私の人生と私の本についての誤った解釈の証拠となるだろう」。



 ジャン・ジュネはもちろんここで自分を貶めているのではない。実際、彼自身は自分の人生を三次元として体験していたことに変わりはない。登攀が不可能に思えた山岳地帯、人を自殺に誘い、あるいは思わず足を滑らせてしまいかねない断崖、深い渓谷、殺人以外のすべての犯罪(ジュネは殺人を犯していない)、自発的であって同時に受動的だった悪事、泥棒、脱走、逃亡、物乞い、多くの死体…。だが彼は自分の人生が、ブラックパンサーのもとにあっても、パレスチナゲリラのキャンプにあっても、ひとつの窪み、ひとつの空洞であり、突如としていままでは想像もできなかったひとつの陰気な窪みに、浅いだけが取り柄の空洞に変化してしまうことを感じ取っていた。救いはない。ジュネのような生き方の例は滅多にないどころか、まったくの例外だったのだとまさに言うことができるにしても、ジュネにしてからがそうなのだ。つまりこの一枚の白紙、この窪み、この空洞は、われわれにとって普遍的なのである。



 フランスにいた頃、モンパルナスのカフェでコクトーの友人だったとかいう老人と知り合いになったことがあった。名前も忘れてしまったが、少しでっぷりしていたように思うその老人は見るからに男色家という風貌だった。家に遊びに来ないか、コクトーたちが来ていたサロンに案内するよ、と言うのでちょっとした好奇心にかられてついて行った。私はそれほどコクトーが好きなわけではなかったが、ファスビンダーの映画を知ったばかりだった。居間にはすでに何人かのゲイとおぼしき若い人たちがいた。彼らはお喋りで、落ち着きなくうろうろ歩き回っていた。あの落ち着きのなさはどこから来るのだろう。裏面だけでできているような、やけくそだが、あのほとんどぺらぺらの信仰に似たものは? 音楽がかかっていたように思うが、私の趣味ではなかったはずだ。夢想家はいないし、大胆な行為もない。虚構のなかで枕を高くして眠っていたのは誰だったのか。私だけが場違いだった。その場に自分をそぐわせるすべはまったくなかった。案外安っぽい感じのするサロンには見るべきものなど何もない。不潔な感じすらしたように思う。「ジュネも来ていたのよ」、誰かがそんなことを喋っていた。ジュネはこんなところにも出入りしていたのだ。朝吹登水子と石井好子がパリでずいぶんおとなしそうに見えるジュネに出会ったときのエピソードを思い出した。気詰まりで窒息しかけの私は早々に引き上げたのだった。



 雲が西から東に吹き飛ばされてゆく。電線から滴っていた雨垂れはもう跡形もない。さっきからものすごい風が吹いていた。雲のなかにはマンテーニャもジョットもピエロもグレコもいなかった。不穏な空。不毛なだけの、「自発的偽装者」の夜。だが不毛なのは夜でも空でもなくむしろ私自身のほうだった。ジュネはパレスチナ人が彼を受け入れたとき、パレスチナ人たちは彼のなかにこの「自発的偽装者」の姿を認めたのだろうかと自問している。
 この私にしてからが、自分の人生が裏返しになるような場面に何度か出会ったことがあった。そこには「自発的偽装者」がいたのか。だが白紙は何度も裏返されたのだから、どれが表なのかわからないし、そのような場面をここでデッサンでもするように素早く描くことはできないのだから、裏返しになったものは結局のところ何も描かれていないただの一枚の白い紙にすぎなかったのだ。カラヴォンの谷間はあまりに遠い。鳥の囀りは聞こえない。だがその谷間に行ったことはないし、それがどこにあるのかも私は知らない。白紙は白いまま、どんな複雑な記号によっても優雅なデッサンによっても埋まることはないだろう。どうやら白紙をこじ開けることはできないらしい。虚構に内部はあるのだろうか。だがこの紙を破ってしまうことはできるのか。



 人生は一枚の白い紙であるか、はたまたひとつの窪み、ひとつの空洞である。何をどう取り違えることができるだろう。だから私はこの観念に固執する。



 この窪み、この空洞には時間が流れ、あるいは流れ込んだまま淀んでしまったのだろうか。昨日、たまたまバルテュスの画集を見ていたのだが、ある絵に目が止まった。いままで私はバルテュスの絵画は人が言うほどエロチックではないと思っていたし、エロティシズムと言うよりはそこに描かれている「時間」にむしろ惹きつけられていた。私にはバルテュスの絵に物語を感じ取ることができなかった、たとえリルケが相手でも、それが『嵐が丘』の挿絵であっても……。物語はもうなしだ。物語ではなく、時間。停止してしまったと錯覚しかねない永遠の現在。それが粒子状にぼやけ始めることもある。何かがかすかに動き始めることもある。色彩やその他の面で、明らかにバルテュスはピエロ・デラ・フランチェスカに影響を受けているが、ピエロの絵の「時間」とはまた別物である。
 その絵を見ていて、私ははっとした。思いがけず、絵に描かれていた少女の胸の膨らみが妙にエロチックなものであることに気づいたのだ。乳房はむき出しではなく、下着の下にあって見えないが、普通、画家たちは、ルーベンスであれ、アングルであれ、誰であれ、こんな風に女性の胸を描いたりはしない。他の事物、部屋や少女のからだの他の部分やそれ以外のものの描き方はまったく違う感触で、そんな風には描かれていない。こうしてバルテュスの絵のなかの時間は停止した。時間は消えていた。ロラン・バルトの言う「プンクトゥム」は、絵画にもプンクトゥムがあるとして、この場合、それがただの錯覚にすぎなかったとしても、胸の膨らみなのか、それともカーテン越しの日差しだったり、謎めいた人物の後ろ姿がそこにあったりするかつて私を凝視させていたかすかに黄色か緑色がかった「時間」だったのだろうか。エロチックなもの……。それがこの世に存在することはわかっている。私は画集を閉じる。だがこの胸の膨らみといえども、ひとつの空洞のなかにしかないのかもしれない。



 勇気などという言葉は、ニーチェのために取っておこう。だが元はと言えば、われわれはすでにすれっからしだからである。自殺未遂も谷底からの山の登攀も経験済みだ。水は生きていた。木も生きていた。だがあの松、あの柊、あの杉は、近くから見ても遠くから見ても死んでいる何かにつながってしまう。風景の細部が、それだけが目に焼きついているとしても、終わることのないものは細部に宿るはずがない。それは細部を抹消してしまう。神は細部に宿りはしない。神はどこにも宿ることはない。それなら風景は私を拒絶しているのか。憂鬱、軽い発作、理性の不埒な選択……、金輪際、それが終わることはないだろう。エロチックなものも窪みにしかない。誰がこの場所に来たのだろうか。君は死を前にしてあらゆることを反省しようとしたのか。それが何になったのか。怖くなったのか。それは恐怖とはまた別物である。断末魔、死、金銭、風景、政治、女……などなど、どれに執着しようが、この模像を前にしては、生命を伝えようとするものなどありはしない。あらゆるものは陥没し、水没する。生は窪みで水浸しになっているではないか。私の「中」から見れば、たちどころにその「中」は消えてしまい、私の「外」のものがあるように思えるにしても、それは窪みをだまし絵のように彩る擦り切れた装飾だったりする。それに一秒先にはもう存在しない生命などとは、そもそもわれわれは口にすることができないではないか。



 あの日、ものすごい地震があった刻限のこと、私はなぜか鬱屈した気分のまま眠ることもできずにベッドに横たわっていた。横になったのはもうずいぶん遅い時刻で、午前四時くらいだったと思う。ものすごい揺れで家が完全に崩壊したとき、ああ、これはもう駄目だと思ったことをちゃんと覚えている。目は見開いていた。見えたのは真っ蒼な青空だった。外は真っ暗だったのに、稲妻が走り抜けたのだ。パドヴァの青。十四世紀初頭にジョットがスクロヴェーニ礼拝堂の壁に描いた空の青。私の目の前にあった壁が一気に崩れ落ちたのだった。まず本が蝶々のように飛んでいった。ついで本棚が水平にぶっ飛んだ。あれはたぶん安物の本棚だった。法外な力が破壊のさなかにあって破壊の瞬間を後退させたように思えた。破壊されつつ、速度を上げながら、破壊が遠のく、そんな不思議な経験だった。そしてそんな風に破壊はずっと続いた。たぶんほんの何十秒かのあいだだったのだろう、私はほぼスローモーションのなかにいた。時間は遅れに遅れていた。手探りでコートと眼鏡を探した。寒かった。人生の窪みはめちゃくちゃになっていたが、それもまた別の窪みでしかなかった。



 僕はいまは足が悪くて、あちこち徘徊することができなくなってしまいました。僕は禁断症状の麻薬中毒患者のように耳をすます。まったく飽き飽きすることですが、夢のなかにいるように音はまったくしないか、ごぼごぼ水が流れるか、ときには耳をつんざくような恐ろしい機械音がします。耳鳴りが星空のほのかな明かりのようにありそうにない不可視の窓から侵入してくる。窓は電気を帯びています。古い円卓の上には本があります。円卓には染みのついたレースの小さなクロスがかかっている。あのダンテル! 血のダンテル! 切り落とされた首から数珠つなぎの花の首飾りのように血が流れたのだ。いま星空がかき消えたので、僕は目を開くことができる。
 最近は、生まれたときからみたいに歩くことを知らないので、いつもは平気です。僕は窪みのなかで大げさなことを言っています。でもたまに外でかけっこをしたり、神社で鬼ごっこをしたりしたくなります。みんなが走り回っているのを見ると、たまにいいなあと思うときがあります。
 鬼ごっこの鬼にもなってみたいなあ。ほんの愛嬌で、暗くなってみんながおうちに帰っても、神社の大木にもたれて、ずっとおじいさんの鬼をやっているんだ。木をさすったり、爪で木に小さな傷をつけたりしながら。おじいさんは死んだし、いまでは絵のなかにいるみたいな死者です。頭のなかで誰かが喋っている。あのマルカム・ラウリーの大傑作小説『火山の下で』のアル中の主人公の頭のなかにいるように、いかに人がそれを幻覚だと呼ぼうと呼ぶまいと、頭のなかにあるものが一目惚れのように現実と遭遇してしまい、帳尻を合わせるようにそれらが収束して、ただひとつの決定的な現実となる。ふと気がつくと、われわれはそこに投げ込まれている。我が身を見ないまでも、そういう風になると相場は決まっています。鬼ごっこはなかなか終わろうとはしません。赤鬼、青鬼。安吾の女の鬼だったりして。殺されるのか、殺すのを諦めるのか、それはわからない。いきなり見てしまったものがあります。それに星空を後ろに、コツコツ木を叩く音がする。もういいかい。まあだだよ。暗くなると、きっとこわくなるね。でも窪みのなかに隠れているからへっちゃらです。

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第81回 2016年12月

 

 

天使が通る

時間の反故についての若干の考察

 
鈴木創士

 

 

宇野邦一『詩と権力のあいだ

 

 

 Le temps passe où est-il passé sans être perçu passe l’ange.

 Au temps figé gelé mais coulé que s’est-il passé alors que rien ne passe.

——Kuniichi Uno, RENGAINE OU MOU RIRE

(時が過ぎるどこに過ぎたのか気づかれることなく天使が通る。

 凝固し凍てつきしかし流れた時間に何が起きたのか何も過ぎ去ってはいないのに。)

 

  つねに時間の「問いはついで二重になり波打ちズレてしまう」。知らぬ間に時間が過ぎる。そのことが確かかどうかはわからない。死線がただ続くだけだ。一見、死に向かうかのようなライン。それは分岐するのだろうか。分岐は収束するだろうか。死線を分断すると瞬間が現れ、すぐさま消え失せる。時間のなかで死はヤヌスの双面の片割れとなり、もう一方の顔のなかに紛れ込む。それは何かの入口ではあるが、どこを見渡そうと出口はない。見ると、実際、顔はひとつしかない。外観としても、仮象としても、死は生とそれほど異ならない。たしかに時間の問いは白けた問いである。いつも大きな空白が現れ、それが時間の基底となる。こうしてわれわれもまたそこで立ち止まったのだと考える。だがわれわれは瞬間のなかに何を弁別しているのだろう。別の瞬間への移行はすでに過去のなかに隆起したひとつの虚偽である。ひとつの過去。ひとつの虚偽。

 シオランが言っていたように、時間から失墜することなどできるのか。この失墜は人間を脅かしはしない。時間からの失墜は別の時間への失墜とほとんど同義である。それはほぼ無際限に繰り返される。私は思い出す。私は失墜する。たとえこの不毛な状態のなかに小さな欲望がきざしたとしても、時間を回復することはけっしてできないからだ。時間がとつぜん凝固することがあるとしても、時間は流れてはいないし、止まってもいない。時間を感じ取ることなしに時間を認識できるとすれば、これはほとんど一種の痴呆状態である。明後日のほうを向いても、何をしようと、どうなるものでもない。私の血と私の時間が交わることがないとすれば、ほんとうにそうであれば、人はただ時間を観察していることになるのだろうか。だがそんなことはありえない。

 

 私はただ時計の秒針だけを見つめている。一秒、また一秒。一秒、また一秒と。時は過ぎゆくように思えるが、実際に起きているのは、私がそのとき厳密に何もしていないということだ。時計の針は動いているようで、何も過ぎ去ってはいないも同然である。何も起こらない。何も過ぎ去らない。秒針が過ぎ去っているとすれば、それはわれわれが何もやってはおらず、ささやかな行動への焦燥を感じているからである。そんな風にしてときには悔恨や慚愧や放心のなかにいるからである。そして時間が人に悔恨を迫るのは、未来を変える可能性が現在の不変性のなかに不意に現れるときだけである。かくして何かしら根源的な同一性らしきものがほんの小さな差異のなかに現れては消えてゆく。だから時間は無為のかたちをしている。そのとき私の血は血管のなかを流れているのだろうか。時間が回答であれば、私にはこの問いを問うことはできない。これはただの抽象的な問いにすぎない。私はその瞬間に決定的に時間を奪われている。この世の始めに時間を創造した神が、自らの時間を想像できないあの状態、あの沈黙を私は聞いている。

  

 かつて私は時間に属していたのだろうか。時間は存在も非在も知らないが、永遠の現在はたえず自らを否認し続けている。凍結した時間のイマージュはそのつど私をこの世の時間から締め出そうとする。過去へのノスタルジーがあるとしても、一度に与えられる時間の全体はこのノスタルジー自体を排除する。未分化のものが生起していたとしても、そのことを私はすでに「知らなかった」し、今となってはいかなる確信も持ちようがない。そのことはわかっている。少なくともわれわれはわかったふりをしている。われわれはぼやけた両立不能性である。それには曖昧さの余地はない。時間には復讐などない。恩寵もない。地獄を愛惜するふりをしながら、われわれは大きな思い違いをしているのかもしれない。人は記憶の病のなかで自分を看病しながら、死を誤魔化している。もしそうであれば、もし時間のなかですべてが死んでいるのであれば、実のところ、逆に生きることを潔しとしない理由はないではないか。

  

 メキシコの作家フアン・ルルフォの『ペドロ・アラモ』は、現在と過去が混在し、それ故に生者と死者が同一の時間の反復のなかに存在してしまう小説である。この反復のなかには「かつて在ったもの」があるが、それは回帰しないものでもある。それは同時にそこにあって、回帰する必要がないのだ。ここでは生者と死者が時間の迷宮のなかで交錯しているのではなく、生と死が、むしろ死が、あるプラトー、町も自然も風土もそこに含まれるある時間のプラトーを形成している。開かれた眺望、そのなかで死が死を生じさせる。そのことが生をつくりあげる。したがって生はもはや死の一様相でしかない。

 その町はいろんな谺でできている。軋る音や笑い声さえ聞こえてくる。古くてくたびれたような笑い声。声も長いあいだに擦り切れてしまうのだろう。壁の穴や石の下からそんな音がずっと聞こえている。風の日には木の葉が舞い上がる音がするけれど、ここには木など一本もないのだ。祭のどよめきが聞こえることもある。夜のどこかで犬が吠えている。気味の悪いことに、割れ目のなかからときどき人の声が漏れ出てくる。時間とはこの割れ目のようなものである。

 

 時間の純粋な形式というものがあるとすれば、それは死がいたるところに継起しているということである。なぜならこの冷酷な形式は経験的なものとは相容れないからである。しかもこれらの時間の諸形式、死とそっくりな諸形式はそれぞれ共存することができない。反復は、この場合、行動の内的諸条件に即してはいるが、しかし実際にはかつて経験されたことのない死のイマージュであり、ここでの生と死の差異はこの反復のさまざまな類型のうちのひとつでしかない。反復そのものが反復の経験によっては知覚されないのはこのためである。世界の記憶を反復できないのは、経験の主体、あの主人公が夢を見ていて(あるいはわれわれの観念のなかでは夢を見ているのとまったく同じ状態にあることを反駁できないということである)、自らの未来の行動(あるいは錯乱?)を夢からの覚醒だと錯覚するからである。それにどうして時間がこの錯覚の連続を自分のことだと錯覚してしまわないことがあろうか。われわれは後ろを振り向いたり振り向かなかったりする。恐怖がきざす。世界の記憶に対してその記憶と同一の行動が可能だというのであれば、彼は発狂するかもしれない。そしてこの錯覚は未来のその先までずっと続くのである。おそらく死もまたそれに関与することはできないのだ。

 

……………………………………………

 

 ここでは奇妙なことが起きている
 夜のイダルゴ公園
 コヨーテ像の前で
 インディオの女シャーマンが煙の杯を掲げた
 光は横に流れ
 煙が凝固する
 眼鏡の上にむこうの光暈が反射する
 煙は残像だ
 騒音のなかで夜が遠のく
 一瞬前の
 だが今ではない
 今は一瞬前となり
 今は一瞬後となる
 言葉はいつも途切れてしまう
 耳のなかには断末魔の蟬の声
 擦過音
 天使がうずくまり
 その両脚が半分向こう側に消える
 天使が通ったのか
 誰が見ていたのか
 反吐のように吐き出された沈黙の耳が聞いたのだ
 けっして知覚されないこと
 誰にも気づかれることなく誰かが見る
 誰にも気づかれることなく誰もが釘づけになる
 ここで
 うわの空のまま
 白けた暗がりのなかに
 踊りは空漠を拡げ
 円は寸断される
 それがいかに強いリズムに刻まれていたとしても
 力づくで
 絶望的に
 彼らは死んでいる
 踊りの間隙を縫って
 死者たちが次々と消え失せる
 輪になって踊りながら
 誰も踊ってはいない
 通りすがりに
 亡霊がおまえを見る
 人の波、おまえにそっくりな死者たちの波
 太鼓の音は分解されずに怒りに満ちている
 反故の合図
 一瞬前の
 一瞬後の
 大気は不穏なままだ
 何かが起きたのか
 時間などサボテンに比べれば何でもない
 ピラミッドの下には
 傷ついた栗鼠
 埋葬された彫像
 新しい骨
 そいつは愛をもって砂のなかに見捨てられるだろう
 それなら掘り出された夜が降りてきたのか
 死人の穴だらけの皮膚の上に
 取り返しがつかないほど透けてしまった
 大気の紙のような皮膚の上に
 だが何も起きてはいないのだ

   

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第80回 2016年11月



日時計の上のトカゲ
舞踏・室伏鴻・アルトー



鈴木創士




アントナン・アルトー『神経の秤と冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『サブ・ローザ

 

 

  

 


 室伏鴻が言うように、身体のなかに、身体にとって、「外の思考」があるならば、舞踏家はこのからだをどこに連れ去ろうとしていたのでしょうか。


 初期のアルトーを即座に理解した土方巽は、肉体のなかに梯子をかけて降りて行くと言っていましたが、このことは、アルトーの言う「思考の不能性」と深くむすびついていて、それは明らかに踊るためではなく、踊らないためであったように思われます。身体を掘り進むには、一度動きを止めなければなりません。身体の縁をかろうじて示すはずの痙攣はそこからしか生じないからです。この痙攣は時間のなかにあって、それに穴を穿つものとしてあります。
 健康であれ、病気であれ、身体は、誕生と眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。


 いかにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。六百年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念があったのでしょうか。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにして夢幻能は成立しました。
 動きにおいてすら不動であること。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、この強迫観念は暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。土方の最も優れた弟子のひとりであった室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望があったように思われるからです。不動性への予感によって、動かないことによって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするからです。別の次元とは、この場合、歴史の別の次元のなかにあることは言うまでもありません。身体が政治のなかにあるとしても、政治とともに踊ってはならない。動いてはならない。


 すべてのものが兆し、顕現し、産出されるのは、自然のなかなのでしょうが、一方、身体はそのままで別の自然の歪形を指し示します。器官なき身体、すなわちあるときは無機的な身体、様々な意味において有機体ではない身体をわれわれがすでにもっていることは、アルトーとともに了解済みです。だが室伏鴻の踊りがわれわれに見せる身体には、さらに「生まれる前のもの」、「生まれる前のものの苦しみ」があって、これこそが不動性への彼の渇望の中心にあるのだと私は考えています。


  「踊りとは命がけで突っ立った死体である」。 Butoh est un cadavre qui se met debout à corps perdu. この土方の教えは文字通りの意味で受け取らねばなりません。死体。はじめに死体があった。死体はいまここで生きている身体とともにあった。そして死体は身体であった。死体であること、死体になること……。死体とは一個の分身です。
 死体の振りをすることは、ここではそのことと矛盾しませんし、死体のほうこそが文化に形態を与えたのですから、それは外から与えられる残骸、言うところの文化的形態とは何の関係もありません。室伏の回想によると、すでに子供の頃、彼は死体の振りをするのがとてもうまかったらしい。


 室伏は、出羽三山の湯殿山で即身成仏の身体に出会います。鉄門海のミイラです。鉄門海はあるとき人を殺し、寺に逃げ込み、出家します。彼を慕って山を降りてくれと懇願する女郎に、切り取った自分の男根を与えて下山を断りました。彼の決意は揺るぎません。その頃、日本中で地震が起こり、疫病がはやりました。病気平癒のために、彼は左目を自分でくりぬき神仏に祈願します……。そして最後に死期を悟った鉄門海は木食の行に入り、即身仏となったのです。われわれが見ることのできるこの即身仏とはミイラです。
 しかし重要であるのは、この鉄門海が何者であったかということではなく、それがある決定的なイマージュ、質感も臭いもあるイマージュ、一個の生々しい分身を室伏にもたらしたということです。影は身体から出たり入ったりします。ここには絶えず振動し、変性状態にあるもうひとつ別の身体があって、身体の限界と不分明な境界を指し示します。
 このミイラのからだはただ死んでいるわけではありません。それは同時にわれわれに、われわれの無にむかって、贈与されています。無のポトラッチはじつに身体の次元においてこそ生起するのです。
 「ミイラの即身成仏」という文章のなかで、室伏はこんな風に言っています。

 

崩折れる 瀕死の贈与と息の 非人称の その外に ひきつったまま身を横たえた
遠のいてゆくのか 近づいてくるのか
定まらぬわたしたちの無限定の境界の 螺旋上で
はじめて 私は あなたの目を見た はじめて あなたは 私の目を見た

 

 身体は、それがどんな風にあろうと定まることはありません。首はねじまがり、手は折れ、足は追放されています。室伏は言います、「肉体はここにあって、とどかない」、と。ジャコメッティのような画家にとっての、対象との隔たりと同じように、同時に生起するはずのこの肉体の近さと遠さを、この即身仏のミイラはすでにそれ自体のうちに含んでいたのです。舞踏にとって、踊ったり、踊れなかったりする肉体が近くにあり、同時に遠くにあることは、すでにわかり切ったことだったのではないでしょうか。
 室伏は書いています。

 

どのようにして こんな遠くまで
来てしまったのであろう
どうして このような遠くまで
私の もっと 近い遠くを
運んできてしまったのだろう
この問いを実現スルタメニダ


 
 この問いが実現されるには、したがってミイラの息が吹き込まれ、室伏に乗り移らねばならなかったのです。きれいはきたない。きたないはきれい。近いは遠い。遠いは近い。そして、ここが重要ですが、息から身体が出てくるのです。

 この息からは何度となく新しい身体が生み出されるでしょう。古代ギリシアの哲人クリュシッポスが言ったとおり、「馬車」と言えば、口から馬車が出てくるように……。同じことは身体イマージュの位相でも起きています。素晴らしい眺めです。蛇足ながら、日本の仏像にも、口から人がぞろぞろ行列しているものがあったではないですか。
 舞踏家にとって、だからうまくいけば、身体は身体から抜け出すでしょうし、身体は身体から出てゆかねばならないのです。どうやら「身体の身体」というものがあるらしいのです。幻影は大挙して押し寄せるが、それを朝も昼も晩もよく見極めなければならない、と室伏は言います。身体は動かない。これも幻影です。ただ抜け出すことができるだけです。「身体の身体」、「身体から抜け出す身体」は、この身体にだぶっています。普段は重なっているが、そいつはじょじょに滲み出し、あるいは一気に外に出て、われわれをなぎ倒すはずです。


 

 ここメキシコの地に、かつてアントナン・アルトーがやって来たとき、彼はいったい何を知ったのでしょう。彼が見たのは「記号の山」だけではなかったのです。

 

肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。――自分自身へと〈出てゆく〉、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ。
                    「ペヨトルのダンス」

L’empire physique était toujours là. Ce cataclysme qui était mon corps… Après vingt-huit jours d’attente, je n’étais pas encore rentré en moi ;——il faudrait dire : sorti en moi. En moi, dans cet assemblage disloqué,
ce morceau de géologie avariée.

                   (La Danse de Peyotl)


 〈私のうちへと出てゆく〉。「外」はいたるところにあったのだし、身体は「損傷した地質学の断片」でした。だからアルトーが言うように、われわれは身体のなかに出てゆかねばならないのです。これは別の言い方をすれば、身体という「外」へと出てゆくということです。
 アルトーはずっと後になってこの経験について再び述懐しています。

 

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
 ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためであるが、
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。
                (「アルトー・モモのほんとうの話」)


 Je n’ai pas toujours retrouvé mes souvenirs concernant ma vie passée
jusqu’à des époques indéfiniment reculées comme je tiens depuis dix
années.

 Et c’est au Mexique, dans la haute montagne, vers août septembre
1936, que j’ai commencé à m’y retrouver tout à fait.

 J’étais monté chez Tarahumaras avec un signe, une espèce de petite
épée de Tolède, attachée de 3 hameçons, qui m’avait été indiquée par un
nègre sorcier de La Havane.

 Avec ça, me dit-il, vous pouvez entrer.
 Mais je n’avais pas désiré entrer.
 Or qui va pour voir quelque chose c’est pour entrer dans un monde
donné, mais jusque-là clos, insoupçonné,

 ce n’est pas l’idée que je me fait des choses,
 pour moi il ne s’agit pas d’entrer mais sortir des choses,
 or qui se détache c’est aussi pour entrer,
 sortir peut-être, mais dans quelque chose, quitter l’ici pour fondre
ailleurs,

 fondre et se libérer hors de l’ailleurs,
 ne pas fondre, mais se libérer dans nulle part,
 ne plus savoir,
 renoncer à avoir existé,
 alors ne plus souffrir jamais,
 les alternatives sont innombrables et ce n’en sont plus, chaque religion et individu a la sienne,
 or tout cela est idiot.
            (Histoire vécue d’ARTAUD- MÔMO)

 

 タラウマラ族のもとで過ごした数日間は、人生のうちで最も幸福な三日間であったとアルトーは言いましたが、山岳地帯のアルトーにとって身体はすでに錯乱したお荷物でしかありませんでした。
 そしていま引用したとおり、アルトーのペヨトル体験は、「外」、あるいは自分自身のなかへ「出てゆく」という点で、例えば、ミショー、カスタネダ、ヒッピーたちの経験とは異なるものだったと言うことができるかもしれません。ペヨトルによって、ヒッピーたちは自分のなかへとわけ入って、「意識」を〈拡大〉できると考えました。「記号の山」があまりに強力なので、彼らは自分のなかに逃げ込むしかなかったのです。アルトーもわれわれも中に入りたいなどとは思いません。しかもアルトーの場合、むしろ「意識」は〈縮小〉されるように思われます。彼は言います、「それはやすりにかけられる」、と。道を指し示すのはけっして意識ではなく、アルトーや室伏が言うように「外」と混じってしまう肉体の縁なのです。

 
 室伏鴻は亡くなりましたが、彼の舞踏の身体が滅びることはないでしょう。
 彼のからだを思い浮かべるたびに、私の眼前に一匹のトカゲが現れます。壁の暗い裂け目から出てきたばかりのトカゲは、陽の光を浴びた日時計の上でじっと動きません。錆びた鉄、ブロンズ、乾いた大気、反射する鱗、粘液、静寂。トカゲはさっきまで闇を食べていたところなのです。
 悪魔の陽のもとにまで旅をしたのは誰だったのでしょうか。強い日差しの下で、大地は赤く、トカゲは地面に横たわった私をじっと見ています。
 トカゲは言います、
 「おまえは誰だ?」

メキシコにて

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  第79回 絶腸亭日乗 - 2016.10.04

第79回 2016年10月



絶腸亭日乗



鈴木創士


 

アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
撰集抄 上 

 

 

 十月二日〔大正十四年〕。午前驟雨来る。天候猶穏ならざりしが日暮に至り断雲の一抹の晩霞微紅を呈するを見る。今宵は中秋なれど到底月は見るべからずと、平日より早く寝に就きぬ。ふと窓紗の明きに枕より首を擡げて外を見るに、一天拭ふが如く、良夜の月は中空に浮びたり。                     
                           永井荷風『断腸亭日乗』


 前口上。別にとりたてて荷風に恩義を感じているわけではないが、荷風のことはいまでも好きである。昔、生田耕作先生にさんざん荷風のことを聞かされたが、私にとっていまも愛惜措く能わざる「雨瀟々」は、難解ではあるが、いつまでも忘れられない捨て難い作品である。時々、不埒にも、酔っ払ってぱらぱら繙くこともある。生田先生と付き合っていた当時、私は下戸で、毎晩しこたま日本酒を飲まされては、勤めていた小出版社近くの小料理屋の表の溝でゲロを吐いていた。酒を飲めるようになったから言うわけではないし、下痢ばかりするということではないが、「脱腸亭日乗」というタイトルのものも書いたことがあって、それでは荷風にあまりに失礼だと思ったので、今回は荷風に敬意を表してこのような題にした。日々絶腸とはいえ、直腸癌のことを言いたいのではない。悪しからず。

 
 九月二日。高田馬場にてアルトーの会。題して「未知のアントナン・アルトー」。会場は舞踏家であった故室伏鴻のアーカイヴ・カフェ。窓からは明るい欅並木が見えていた。喋ったのは宇野邦一、荒井潔、岡本健、私。全員がこの度完結の日の目を見た『アルトー後期集成』(河出書房新社)全三巻の訳者たちである。私が翻訳を行った第三巻に共訳者としてもうひとり佐々木泰幸がいたが、残念ながら彼はすでに故人であり不在であった。悲しいことだが、仕方がない。合掌。

 自分たちをけっして甘やかすわけではないが、アルトーの翻訳は相当にしんどいし、病気になるくらい困難を極める。かつて70年代初頭に錚々たるメンバーによって企まれた『アントナン・アルトー全集』(現代思潮社)は第一巻を刊行した後、そんな話がはじめからなかったかのように頓挫し、消滅した。当時としては、無理からぬことであった。だがわれわれのほうは完結することができた。これは僥倖であると言わねばならぬ。
 会の当日、私はできれば新しいアルトー像を談話の中空になんとか結ぶことができればよいと考えていたが、なかなかそうはいかない。アルトーは結像しない。ずっとアルトーを読んできたが、この人は玄武岩のように存在していながら、たまに机にもたれて腕組みをした恐ろしい顔が空気を透かして見えるくらいが関の山である。アルトーの分身ですら容赦するところはない。もちろんいつも恐ろしい顔ばかりというわけではなく、そこがまたアルトーの一筋縄ではいかないところであるが、そもそも彼の顔自体が謎なのである。見たことがあるようで、見たことがない彼の不思議な顔! 亡霊は見てのお楽しみである。いったいいつの時代の人なのか。いや、アルトーはわれわれの同時代人であり、隣人なのである。


 
 われわれが何を喋ったかは、あらかた忘れてしまったし、ここには詳らかにしない。このような会はライブであり、ライブにはライブとしての意味があるからだ。喋った言葉はしかるべく消え失せるのである。覚えていることをひとつだけ言えば、たしか私はアルトーとギリシア悲劇との関わりの話をしたはずであるが、しかしそんなことがなんになるだろう。

 宇野邦一の提案で、室伏鴻のマネージャーだったWさんが企画してくれた小さな会であったが、よい会であったと思う。知った顔があった。知り合いばかりを探しているのではないし、それがよいというわけではないが、ずっと付き合いのある編集者だけではなく、新しい編集者、そして旧知の、長いこと会っていなかった編集者諸氏が来てくれていたのがうれしい驚きであった。他にも編集者や画家をやっている知り合いの女性たち、評論家たち、作家、若い舞踏家、私の参加しているEP-4を聞いてくれている人、学生、研究者、活動家などなど。余談ではあるが、かつての私のように何もしていない人、何もできない人はいないのであろうか。日本には、アルトーに関心があって、芸術や文学などやらずに、飲む、吸う、射つ、だけの人はいないのであろうか。
 終わってから若い編集者のAさんとテキーラを一壜空けてしまった(ここで身の程知らずのことを述べておけば、このテキーラ編集者は、私の最新刊の著書『分身入門』をつくってくれた御仁である)。宇野邦一夫妻と次の店に行ったときには、Aさんの目は動かないままあらぬ方に飛び去っており、まだ底のほうでキラキラしていた瞳の向こうにはサボテンがまっすぐに見えていたくらいである。サボテンはメキシコの大地の上で微動だにしなかった。言っておくが、私はサボテンと言っているのであって、ペヨトルやそれから抽出されるメスカリンの話をしているのではない。棘のたくさんついた美しいサボテン。マカロニ・ウエスタン。エル・トポの世界である。うれしいことにホドロフスキーはいまだ健在である。
 彼らと別れて新宿のホテルへ。Wさんを呼び出して深更の蕎麦を食う。まずかった。Wさんと別れてひとまず部屋に向かうが、それからが良くなかった。悪事。病気なのか。病膏肓に入る。何をやったかはここで言うことは到底できない。人に言えないことは、神のみぞ知る、というわけでもあるまい。悪い事は、最近はめったにやらないが、神といっても、悪の神だったのかどうかは知る由もないし、グノーシス主義の神がどんなものか見たことはないが、いまとなっては猿だって反省くらいはするのである。

 
 九月二十四日。神戸で「アルトーと音楽」の小さな会。最近ちょくちょく私がやっている音楽ユニットEP-4 unitPでノイズとトランペットとテルミンを演奏しているYが企画した会である。彼の新しい事務所兼音楽図書室みたいなロケーション。自分が喋ったことで覚えている話題は、作曲家エドガー・ヴァレーズとアルトーのこと。幻のオペラ。アルトーはヴァレーズのオペラのために「もう大空はない」という台本を書いたが、このオペラが実現することはなかった。

 このオペラは私にとってもはややけに親しげにも思える幻聴にすぎないが(だって存在しないんだもの)、最近、私はノイズ・ミュージックを(他に形容のしようがないのだ)、あるフランス人に言わせれば、エレクトロニック・アヤワスカ・ミュージックなるものをやっていて、いつもこの聞いたことのない幻のオペラが念頭にあると言っても過言ではない。耳の穴、というか頭にあいた穴を吹き抜ける空っ風のようにそいつが聞こえたり聞こえなかったりすることがあるのだ。ありていに言えば、私の聞いているつもりになっているものは偽オペラである。無理矢理耳のなかに音響仮想敵国をつくっているようなものだ。このポストパンク工場式偽オペラ風ノイズバンドで、ほんとうはシューベルトやショパンやカッチーニ、もしくはロネッツやゲンスブールのカヴァーを爆音ノイズで味つけしつつやってみたいのだが、ほぼ練習もしない、基本即興バンドでは、なかなかそうはいかない。メンバーはプロもしくはプロに近い連中ばかりなので、できないこともないのだろうが。
 この会で何を喋ったのか。アルトーが音楽に関心があった、とかそういうことではない。だがこれもライブであったし、自分の分身が喋ったことなど、はっきり言って私の知ったことではない。音楽と同じように、すべては壊れ、何度も言うようだが、すべては消え失せるのである。それでよしとしなければならない。
 健康な妙齢の女性もそれなりの年齢の素敵な夫人も若者もいたが、神戸の不良少年たちが何人か来ていた。少年ではなく、元少年たちである。彼らはみんな教養あるインテリで、インテリを商売にしていないところが清々しい。例外として、ひとりは商売にしていて、ロシア文学者のTもいた。まあ、いいだろう。会の後、そのうちのひとりインテリ・ハーレーダヴィッドソン野郎Tが知っている近所の安くてうまい中華に行った。インテリ和菓子職人もいるし、彼らは私の新しい友人たちである。この歳になって、これを僥倖と呼ばずして何と呼ぼう。古い友人である、つまりフーテン族の竹馬の友だったバーのマスターでミュージシャンのOもいる。彼と最初に会ったのは70年代の道端やジャズ喫茶である。神戸の連中は、どこか時間の流れ方が違うようだ。私は神戸にいなかった時期もあるが、私にとってほっとするところがあるのかもしれない(老人の証し、これは一個のチンケで儚い明証性なのだろうか)。昔の神戸はこの中華料理屋のような店が山ほどあったが、野坂昭如が言っていたとおり、震災以降、惨憺たる状況になってしまった。悲しいかぎりである。私の若い頃は、稲垣足穂や西東三鬼が書いているような神戸がまだ残っていたというのに。
 その後も呑み続け、帰ったのは朝の四時だった。トークショーなどというものをやると、ろくなことはない。トークに限らずライブはしんどいから、神経が剥き出しになるから(そのために怒り始め、手当り次第に喧嘩を始めるなんてことは近年はさすがに控えるようになったが)、後は酒を呑み続けるしかないのである。永井荷風は無論のことながらヘロインとかモルヒネとかLSD25とかはやらなかったのだから、推して知るべしである。

 
 九月二十五日。二日酔いの状態で、東仲一矩と娘さんの東仲マヤのフラメンコ・リサイタルに行った。「オイディプス王〜最後の日〜」である。何を隠そう、自慢するわけではないし、自慢にもならないが、私が原作脚本を書いたのだった。オイディプス王は、母と息子の近親相姦である。だが、今回の東仲親子フラメンコは父と娘である。ソポクレスの『オイディプス王』をそのまま使うわけにはいかない。親子の愛憎劇にしろ、というのが東仲さんの注文である。もちろんそれに近親相姦的色合いを加味することは暗黙の了解であった。関西フラメンコ界の重鎮である御大直々の申し出だったので、嫌ですと言うわけにはいかない。仕方なく『アンティゴーネ』を参照し、『コロノスのオイディプス』を混ぜ合わせて、まったく違う話をでっち上げた。

 自分で目をくりぬき、追放され、諸国をさまよい、尾羽うち枯らしたかつての王オイディプスは乞食となってコロノスのはずれに辿り着く。近親相姦によって生まれた娘アンティゴーネは甲斐甲斐しく父の世話をしている。父は娘を溺愛している。だが、娘の憎しみは? 彼女は不義の子なのだ。このラブダコス王家は呪われている。いや、彼女自身の怒りを越えて、父につき従うアンティゴーネはすでにして亡霊だったのである。その後、父オイディプスは死者の国ハデスへと召される。……
 ソポクレスのオイディプスは自分の運命とともに神をほんの少し呪いかけては、改悛する素振りを見せる。いっときの呪詛は改悛とセットになっている。天の象徴的秩序がオイディプスを縛っている。少なくともソポクレスにはそういうところがある。『コロノスのオイディプス』もそうである。ソポクレスは実際オイディプスを救っているし、最後に救おうとしたことは明らかである。そういうソポクレスはなまぬるいし、はっきり言って全然つまらない。それに比べて、画家のフランシス・ベーコンも言うように、アイスキュロスのほうが断然残酷である。私の場合はもちろんオイディプスを救わなかった。カタルシスはない。運命を嘆くのではなく、オイディプスは運命と戯れている。その点で私のオイディプスはけちょんけちょんである。彼はさっさと冥府ハデスへ死にに行かねばならなかったのである。
 私の戯曲は言葉だし、これはダンスなのだから、実際の上演はまったく違うものとなる。極度の抽象化が新鮮であることは言うを俟たない。紙に書かれた二次元はダンスと音楽によって三次元になり、あわよくば四次元に突入できるかもしれない。それは演出家の手腕によるものでもある。娘を演じたほんとうの娘であるマヤさんは、父への憎しみを美しくも激しく踊っていた。死にゆくよれよれのオイディプスを演じる東仲氏の踊りには鬼気迫るものがあった。歌も音楽も良かった。フラメンコ音楽とストラヴィンスキー。私は昔ヨーロッパにいた頃、スペインのグラナダでフラメンコを踊っていたジプシーの娘に恋をしたことがあったが、フラメンコはいつ見ても絶望と怒りの仕草が素晴らしい。死にゆく王の忘れ難い手、指、そして足さばき。
 一緒に行ったHは感動したと言っていたし、めったにないことだが、フラメンコを見たいと言っていた私の老母も私の姪っ子と一緒に会場に来ていて、死にかけの東仲さんが素晴らしかったと言っていた。会場には多くの顔見知り、親しくしている知り合いがいた。私が10代だった頃の、ジャズ喫茶バンビ時代からの古い知り合いのOにも会った。彼は私の最新刊の本の感想も言ってくれた。うれしいことである。われわれはみんな生き残りなのである。神戸だとこんな感じになるのかもしれない。

 
 十月一日。つい最近、詩人正津勉の好著『乞食路通』(作品社)を少しずつ読み始めた。路通は芭蕉門下の乞食坊主の俳人であった。乞食俳諧師といえば山頭火や井上井月のことが思い浮かぶが、路通のことはよく知らなかった。著者の正津勉は若い頃から路通に親しんできたらしい。ああ、そうなんだ。ほんとうのことを言えば、私は若い頃、日本の現代詩なるものを馬鹿にするきらいがあったかもしれないが、私の大いなる間違いであった。現代詩人といえども、心して姿勢を正し、刮目して読まねばならない。

 路通に戻ろう。

 
 死(しに)たしと師走のうそや望月夜

 草枕虻(あぶ)を押へて寝覚(ねざめ)けり

 
 浮浪者、放浪者を地で行く者の句としか言いようがない。路通は蕉門下では嫌われ者だったらしい。著者はそこには差別があったと言っているが、まさにその通りだと小生も愚考した。ここには深い問題がある。私も襟を正さねばならぬ。まだこの本を半分くらいしか読み通せていないので口幅ったいことは言えないが、師匠に対する路通の葛藤、そのもじもじとした心の機微、悲しみ、愛、諦め、放擲。そして同じように弟子に対する俳聖芭蕉自身の葛藤、戸惑い、怯懦、慚愧、悲しみ、そして男色…。

 ずっと前、フランスのハイ・クォリティーな詩の雑誌『ラ・デリラント』というのに芭蕉の『嵯峨日記』の素晴らしいフランス語訳が載っていて大いに驚愕したことがあったが、フランス人もさすがに路通は知らないだろう。それにしてもこの正津勉の本は良い本だなあ。いろいろ書くべきことはあるだろうが、それはまたの機会に。

 
 日乗には日常の旅のようなところがある。日記を書いていると、他人の旅のようで、心を絶ち、意を絶ち、身を絶ち、その場にとどまって酩酊のような旅ができるとでもいうのだろうか。できるような気がすることもきっとあるだろう。そんな風にも思う。でもこの日記は他人に見せるために書いているのだから、いま言ったことにはほんの少しの嘘が含まれているかもしれない。

 路通の代わりといっては何だが、同じく果ては乞食坊主と変わるところがなかったはずの旅の人西行を最後に引用しよう。
 西行はいろんなものを見てきた。反魂の術を使って山中に散らばった死体の骨から人造人間もつくったが、怖くなって壊してしまった。諸国漫遊などというが、なまやさしいものではなかったろう。西行その人自身はどうだったのか。ねがはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ。西行は詠んだ歌のとおりに死んだ。やったね! いろんなものを見て、西行はさぞ面白かったであろう。

 
 ……此事無限哀(かぎりなくあはれ)に覚(おぼえ)侍り。何と、げに世を捨(すつ)といふめれど、身の有(ある)程は、き物をばすてずこそ侍るに、哀にも賢(かしこく)もおぼえ侍る哉(かな)。凡(およそ)、此聖人は万(よろづ)物ぐるはしき様(さま)をなんし給へりける也。或(ある)時は、清水(きよみづ)の滝の下に寄(より)て、がうしと云(いふ)物に水をうけて、かくれ所をなむあらひ給ふこと、つねの態(わざ)也。いみじくしづかに思澄(すまし)給ふ時も侍るめり。一(ひと)かたならず見え給(たまひ)し。すみ渡る心のうちは、いつもおなじさきらなれ共(ども)、外(ほか)のふる舞は百(もゝ)に替わ(かはり)けるは、無由(よしなき)人の思を、我のみ一方(ひとかた)にはとゞめじとおぼしけるにや。

                           『撰集抄』

 
 明日、十月二日はEP-4 unitPの神戸でのライブがある。先日、古い知り合いのTがやっている京都のバーで、ルネッサンスの専門家である大学教授のYと一緒に飲んでいたのだが、泥酔してひっくり返ってしまい、突き指した親指がまだ治らない。あまりよく覚えていない。明日は、満身創痍の親指姫みたいな親指その他の身体パーツとともに轟音のなかに私も鍵盤で出演しなければならない。冒頭に引用した荷風の風情ある十月二日の日記とはえらい違いである。

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第78回 2016年9月

 


記号の山のアントナン・アルトー

 


鈴木創士

 


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『サブ・ローザ

 

 


 アントナン・アルトーには、精神と肉体が奇跡的な一致を遂げる瞬間がたしかにあったように思われる。この一致にあっては、精神はもはや精神ではなく、それどころか精神はもはやほとんど意味をもたないばかりか 、無に等しく、健康、病気であることを問わず、肉体は明らかに通常の状態を脱してしまっている。
 これは何らかの統合の結果や、その反対に分離ではなく、アルトー自身の言葉によれば、「諸事物の深い統一の感覚」であり、それこそがアナーキーな状態なのだ。それ以外のものはすべてカオスのなかにあり、だからこそこの統一を得るためには、「諸事物の多様性」、その「塵の感覚」をもたねばならなかったのである。大方の予想に反して、したがってアルトーの言うアナーキーの感覚はカオスの対極にあったと思われる。
 このアナーキーは別の側面から見れば「歴史」的思考から、歴史の原理から抽出された観念であったが、『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』を書くことによって獲得されたこの思考は、さらに何度となく責苦のような思考の分裂を経めぐり、長い経験の果てに、やがて晩年に至って「器官なき身体」と言い換えられることになったのだと私は思っている。

 
 世界は複雑だ。このカオスを注視しなければならない。われわれの肉体の外、同時にそれはとりもなおさず肉体のなかにある外部だった。カオスは肉体を食べるが、われわれはそれに抵抗することができるのだ。ただし通常とはまったく別の手段、手段ならざる手段によって。


 一九三六年、アルトーはメキシコの高地のタラウマラ族のもとを訪れる。『ヘリオガバルス』を書いてから二年が経っていた。メキシコでペヨトル(ペヨーテ)の儀式に参加するためである。ペヨトルはメスカリンなどのアルカロイドを含む幻覚作用のあるサボテンだが、これが「本物の」威力を発揮するためには、メキシコの大地、太陽、雨、そして何よりもタラウマラの秘儀的知識が必要だった。夜店で売っていたような日本産のウバタマからは大した効果が得られないのはそのためである。

 
 タラウマラの国は、記号と形態と自然の姿に満ちているが、これらはまったく偶然から生まれたものではないように思われる。ここでいたるところに感じられる神々は、あたかもこれらの数奇な署名を通じて、彼らの権能を示したかったかのようだ。この署名においてあらゆる面で追跡されているのは人間の形象なのである。

  (「タラウマラの国への旅について」、『アルトー後期集成』Ⅰ所収、以下同様)

 
 この文章は「記号の山」と題されているが、これをよく言われるような単なる心理的錯覚などと思わないでいただきたい。ただし心理的錯覚といえども、そもそもわれわれが信じて疑わない「現実的知覚」なるものと何ら質的な違いはないのだから、それにわれわれ一人ひとりの「現実的知覚」には言うところの科学的で確固たる「共通性」があるとは何ら証明できないのだから、自信たっぷりに現実の知覚とやらについて大見得を切ることはやめておいたほうがいい。

 私と君たちは現実のなかにいるのだろうか。なるほど日々の食べ物や電車の時刻表、あれこれの仕事、金銭、その他山積された現実的主題についてはそんな感じがすることもある。しかし現実はそんなものだけで構成されているわけではない。例えば、君の運命は現実なのか。現実のなかにあるのか。君の感情は現実的障壁にぶちあたってどうなってしまったのか。「現実」にはさまざまな次元があり、未知の様態があり、「塵の感覚」があり、それらはさっきのいわゆる現実的主題とは別のものである。
 知覚の領域ではとりわけまったく様相を異とする。例えば、絵画も現実である。そうでなければ、アルトー自身も言っているように、どうしてピエロ・デラ・フランチェスカやフラ・アンジェリコやマンテーニャの絵画を他のルネッサンスの「人文主義的」思想と区別することができるだろう。
 アルトーはさっきの文章に続けてこう言っている。

 
 確かに大地のいたるところに、自然はある種の巧妙な気まぐれに動かされて人間的形態を彫刻したのだ。しかしこの場合は違っている。というのも自然はここで、一つの種族の地理的な広がり全体について語ろうとしたからである。

 そして奇妙なことに、ここを通る人々はあたかも無意識の麻痺状態に襲われたかのように、あらゆるものに無知であろうとして彼らの感覚を閉じるのである。自然が突然、数奇な気まぐれによって岩石の上で責め苛まれる人間の身体を見せつけるということ、それは気まぐれでしかなく、この気まぐれは何も意味しない、とさしあたって考えてもよい。しかし来る日も来る日も馬で旅を続けるなかで、同じ巧妙な魅惑が繰り返されるとき、そして自然が頑固に同じ観念を表明するとき、同じ悲壮な形態が繰り返されるとき、すでに知られている神の頭部が岩の上に現れるとき、死の主題があらわになり、人間がひたすらその犠牲となるとき、——そして人間の引き裂かれた形態に、より明らかになり、石化する物質から出て、よりあらわになった神々の形態が応答するとき、——一つの国全体が石の上に人間の哲学に並行する一哲学を展開するとき、最初の人間たちは記号の言語を用いていたということをわれわれが知り、この言語が岩石の上に拡げられているのに目を見張るとき、確かに、これが単なる気まぐれであり、この気まぐれが何も意味していないとはもはや思えない。

 
 これらの記号群はアルトーを誘惑し、アルトーに襲いかかり、最初はアルトーを拒絶していたように思われる。アルトーがヨーロッパ人だったからだけではない。彼は馬に揺られて山岳地帯を登攀していたとき、最後のヘロインの一包みを急流に投げ捨てたと言っていた。これは生理的次元の問題でもあった。彼は「さら」の状態で事物との新たな接触を求めていたのだ。もちろん禁断症状がなかったわけではない。山岳地帯を馬に揺られながら、「五日目に私は地獄に足を踏み入れたと思った」とずっと後になって述懐しているほどである。このとき記号はこの「さら」の状態を埋め尽くしたに違いなかった。しかしこれはまた「呪いの網状組織」の別の側面を示すものだったのかもしれない。

 ともあれ、われわれの想像を絶する旅が続けられていたのだ。

 
 一歩進むということは、もはや私にとって一歩進むことではなく、どこに頭を運んでゆくかを感じることであった。誰かこれがわかる人がいるだろうか。次々服従し、次々前に運ばれる四肢、大地の上で保たなければならない垂直な静止。というのも頭の中は波動にあふれ、もはやその渦巻きを統御することはできず、頭を狂わせ、まっすぐ立つことを妨げる下方の大地のあらゆる渦巻きを、頭は感じるからだ。

 二十八日にわたるこの重々しい支配、この私という拙劣に組み立てられた器官の塊に立会っているという印象を私は持っていたが、それはいまや崩壊しかけている巨大な氷河の風景のようであった。

 
 そしてアルトーはシグリ(ペヨトルを吸飲し、踊りをともなうタラウマラ族による伝統的祭儀)の密儀に参加を許される。ここでアルトーが何を見たのかは、あまりに多くの濃密なことが含まれているので詳述できないが(ぜひ「タラウマラ族におけるペヨトルの儀式」と「タラウマラの国への旅について」を読んでいただきたい)、たぶんアルトーは超人的な努力によってその大地と自然と人間を含めたすべてを凝視し、「読み」尽くしたのだろう。

 
 彼らは私を地面にじかに、あの大きな梁の下に横たわらせた。そこに三人の魔術師が次々踊る合間に坐るのだった。

 地面に横たわっていたのは、私の上に儀式が降りかかり、私の上で、炎、歌、叫び、ダンス、そして夜そのものが、生命を吹き込まれた人間的な穹窿のように生き生きと回転するためである。したがってそこには回転する穹窿、叫び、抑揚、足音、歌の具体的編成があった。しかし何よりもまず、すべての彼方で、巡ってくる印象があった。これらすべての背後に、これらすべて以上に、そして彼方に、まだ別のものが、原理的なものが隠れているという印象が。

 
 この原理的なものは、タラウマラ族が「原理の種族」であるということだけを意味するわけではなかった。この原理的なものの現れにともなう長い苦闘は、彼が『ヘリオガバルス』で綴った、古代の歴史のなかに現れた「諸原理の戦争」とまったく別のものではない。アルトーはメキシコの山岳地帯でペヨトルを吸飲したとき、「私の人生の中でもっとも幸福な三日間を過ごしていると思った。それ以前にもう、うんざりしながら、私が生きる理由を探しており、自らの身体をたずさえるという義務を停止していたのである」と書いていたが、この原理の観念を理解しなければならないために、それを生きんがために、古代ギリシア時代に少年皇帝ヘリオガバルスがそうだったように、アルトーの身体、アルトーの生体組織が飛び散るモナドのように破裂し、ひきずり回されたことに変わりはなかった。彼はメキシコの大地で「やすり」にかけられたのだ。

 そしてアルトーは「自分を洗い流すために」、「中に入るためではなく、外に出る」ためにペヨトルに向かったのだった。しかしペヨトルを通じても、アルトーのあらゆる意味における分裂、原理の分離の悲痛な体験はもちろん避けることはできなかったのだ。これには、後にアンリ・ミショーやル・クレジオ、あるいはまたヒッピーたちがやったようなメスカリンの使い方とは決定的に違うところがあるように思う。
 アルトーは、ペヨトルのダンスを経験したときにすでにこう言っていた。
 「肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。——自分自身へと出てゆく、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ」。

 
 「自分自身へと出てゆく」。すぐれた暗黒舞踏家であれば、肉体のエキスパートたちであれば、ただちにこの言葉を理解できるだろう。アルトーはアルトー自身のなかへ出て行った。「出て行かねばならない」というのは、アルトーの旅が黎明期における人類学的とも言える旅であったこと、いや、それ以上に、こちら側の人間による人類学の限界を遥かに超えるものとしてあったことも示しているのだろうが、このことはここではあえて強調するには及ばない。

 それはアルトーのまったく独自のものといっていい思考の出発(『ジャック=リヴィエールとの往復書簡』の頃だ)、あの最初にあった思考の崩壊、存在の基底に生起していたあの「殺害」とは無関係ではあり得なかった。「この世があの世の逆ではなく、ましてやその半身ではない以上」、アルトーの宇宙卵はつねに「反卵状態」になければならなかったのである。簡単に孵化できるものなど何もないのだ。

 
 原理は手つかずのままでは存続できなかった。分裂した原理はさらに分裂し、この世があの世の逆ではないように、最後に至った自身の記憶を含めて、この世を死の反対側から、「墓の反対側」から見なければならなかったのだから、それは当然のことであったし、この苛烈な旅程は、アルトーの偉大さと不幸な天才(ほんとうに不幸であったかどうかは誰にもわからない)の一端であったのだと私は思っている。

 ゲームの規則が例外を証明せざるを得なくなるのは必定である。アルトーはメキシコから帰ってアイルランドへの旅を決行し、フランスへ強制送還となって、精神病院に監禁され盥回しにされることになるが、監禁を解かれた死の前年にはこんな風に言っていた。

 
 私は野次馬としてペヨトルに向かったのではなかった、そうではなくて自分からさらに最後の希望の切れ端を取り除き、肉の霊的希望の最後の赤い小さな繊維を切り離そうとする絶望した者として向かったのだ。

 ペヨトルとは、すでに言ったように、ひとつの卸し金、切り込みの入った、すべての除草、すべての記憶の小さな刻み目の入った木片であり、それはがちがちに凝り固まったその身体に穴を穿ったのだ。
 そこにひとつの観念を見つけようと欲する者は、精神の一肢よりさらに少し、生きている一個の骸骨よりもさらに少し失うことになるのだ。
      (「アルトー・モモのほんとうの話」、『アルトー後期集成』Ⅲ所収)

 
 失ったものは甚大である。ほんとうは誰が何を失ったのか。文明は失われたのではなかったか。アルトーには最後までユーモアがなかったわけではない。だがそれを感じたとしても、またそんな風に感じなかったとしても、われわれが笑えないことを必死になって主張すべきではない。笑えない奴はわれわれの敵であることがあるのは知っている。だがわれわれの意見などどうでもいい。問題は「笑い」などではないこともたしかである。こういったアルトー的「現実の」次元にあっては、備給される心理的エネルギーなどまったく問題にすらならないのだから。

 「ほんとうの話」は、どこで、いつ、どんな風に語られるのか。ギリシアがあった。バリ島があった。チベットがあった。メキシコがあった。マヤがあった。アステカがあった。アイルランドがあった。われわれは、これらのものすべてが無駄であり、徒労であったと考えているのではないし、それを蔑視しているわけではけっしてない。だが、それでどうなるのか?

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
  ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためである。
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。

           (アントナン・アルトー、同上)

 
 メキシコの高地には、われわれの知らない太陽がある。「そしてまさにここで、メキシコ人の老いた酋長は私の意識を新たに開こうとして私を打った。なぜなら私は生まれ損なったので、太陽を理解することができなかったからである」。

 アルトーはそれを全身に浴びて山を進んでいったはずである。ヘリオガバルスも太陽王だったが、しかしこのタラウマラ・インディオの地の太陽は、アルトーが生涯の最後に語ったヴァン・ゴッホの太陽とどんな違いがあるというのだろう。ヴァン・ゴッホのタブローのなかには亡霊はいない、ヴィジョンもなければ、幻覚もない、ただ午後二時の酷熱の太陽があるだけだと語ったあの太陽と。記号は経験のなかに消えてしまい、むろん象徴的なものも含めてその意味を変えてしまったが、これらの二つの太陽は結局のところ同じひとつの太陽だったのだ。

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第77回 2016年8月

 



病院、アルチュセールのことなど





鈴木創士

 

 


エリック・マルティ『ルイ・アルチュセール 訴訟なき主体

 

 

 

 今日は病院に行かなければならない日だった。夏の病院はどこかいつも夏の終わりを思わせる。蟬の鳴き声は聞こえてこなかったが、蟬の抜け殻が私の妄想のなかに散乱しはじめていた。この妄想は穏やかなものだが、私自身も蟬の抜け殻のようなものだったのかもしれない。いつもより混んではいないが、それでも綜合病院だから、大勢の人がうろうろ行き交っている。待合室でぼんやり車椅子の老人たちを見るともなく眺めていた。痩せこけた老人、笑っている人、明らかに不満げな人、介護人に一方的に喋りつづけている人、じっと前だけを見据えている人、うなだれて半分眠っている人。彼らは人生の最後に差しかかっているのだろうか。
 だが人生の終わりは、年齢に関係なくどこにでもある。終わりは生の条件を規定するが、生の条件が終わりのなかで何事かを主張することなどほとんどないといっていい。終わりは後ろからやって来るのか。目の前にあるのか。終わりがただの強迫観念でないことは蟬の脱け殻が証明しているし、しかも始まったものは終わるに決まっているが、終わりはいつも「事後」にしか自明なものとならないではないか。延期された行動、絶望を装う諦め、放棄と少しの希望。そしてささやかな喜びの予感。それから終わりがやって来る。確信がどこにあって、それが何を促しているかは、いまここではっきり述べることはできない。その段では、患者である私も、患者を診る医者だって同じようなものである。


 不吉な事柄すべてをそれとなく隠しているのは、この平和な病院だけではない。最近、重度の障害者を殺害したあの男の犯罪は心神耗弱による犯罪などではなかった、と私は声を大にして言いたい。ごく少数のプロによる殺人をのぞけば、戦争も含めて、どんな殺人でも、それが実行される刹那、「狂気」が介在しないことはなかったであろうが、殺人の動機と言われるものは、たいていの場合「理性」のなせる業であって、「狂気」とは無関係である。あの男が「狂人」ではなく、ただの「差別主義者」であって、あの犯罪がヘイト・クライムの一環であることは一目瞭然であるのに、大マスコミはそのことに触れようともしない。これはいったいなんなのか。われわれ全員が、たぶんあの男と同じように、「早発性痴呆」のもたらす根絶やしにされた「感情」の虜になってしまっているからなのか。私の意見では、あの犯罪があの男の痴呆的な「思想」によって引き起こされたことは間違いないと思う。

 病気にもいろいろあるし、病気も様変わりする。テレビでは、精神科医と称する輩が例えばあの男の「ファミリー・ロマンス」をしかるべく調べ上げるかわりに、思いつきのように、あるいは待ってましたと言わんばかりに、大麻精神病などというきわめて非科学的なシロモノまで持ち出している始末である。そんな精神病のことを云々するのはまともな医学のすることではない。あの男の殺人の衝動に感情的なスイッチを入れたひとつの要因をドラッグだと言い張るのなら、大麻などではなく、むしろ脱法ドラッグの誰も知らない複雑怪奇な薬理作用のほうを研究すべきである。そう進言しておこう。だが問題は、言うまでもなくそんなところにあるはずがない。
 不要なものを抹殺していいという考えは「合理主義」などではない。馬鹿も休み休み言ってもらいたい。有用なものから成り立っている世界では、重度障害者たちではなく、むしろわれわれ全員が不要なのである。それなら有用な社会をわれわれに示してもらいたい。それを見せれるものなら見せてみろ、と社会それ自体に言いたい。したがってこの事件は差別主義者による虐殺でしかない。アクチュアルなものも含めて歴史を眺めてみれば、そんな例には事欠かない。われわれはそれを不幸なことだと思っているが、おぞましさは普通にわれわれの日常のなかにあって、日常のあれこれを骨抜きにしてそれをつくりあげてきた。何度となくだ! それどころかあの男はヒトラー主義者であるらしいし、実に言うも恥ずかしいことだが、たしか憲法改正に関して、副総理である麻生太郎による「ナチスの手法を見習うべきだ」という発言が公の場でなされたにもかかわらず(麻生がかわいいなどと言われるのは、麻生がとんでもない馬鹿だからである)、あきれてものが言えなかった人を除いて、マスコミの誰もが問題にしようとはしなかったような「特殊な」社会にわれわれは暮らしているのだから、あの男がやったような犯罪が実行されるのは、残念ながら、言ってみれば時間の問題だったかもしれない。これは、慚愧に堪えません、などと言って済まされることではない。その意味でもこの事件は、アルチュセールの言葉を借りれば、「国家のイデオロギー装置」の囲いのなかにあると言っていい。国家的イデオロギー装置があの哀れな許し難い男をつくりあげたのだ。総理や、副総理や、死して護国の悪霊となってもなお自分のガールフレンドには絶対したくない靖国国防女衒大臣が誰であろうとどうでもいいが、事ここに及んで、そんな連中が現実の政治を牛耳っている社会では、「国家のイデオロギー装置」は以前にも増してますます幅を利かせ、ショートして出火するまでつけ上がるばかりである。早発性痴呆がそんな政治に憧れても不思議はないのだ。


 いま名前を挙げたフランスの哲学者ルイ・アルチュセールもかつて「早発性痴呆」と診断されたことがあったらしい。病名はすぐさま取り消され、重度の鬱病と訂正されたようだが、ずっと後の一九八〇年十一月十六日、朝の九時頃、アルチュセールはその妻エレーヌの首を絞めて殺害する。そのとき十一月の灰色の光が射していた、と彼は自伝のなかに書いている。

 この事件が起った時のことはぼんやりと覚えている。世界中が驚愕した。私もまた事件の一報を聞いていささかショックを覚えたことを思い出す。時代を代表するきわめて独創的で、犀利な、気鋭の哲学者であっただけではなく、アルチュセールは全世界の左翼の大星雲における希望の星ともいえるマルクス主義理論家であったからだ。私が彼の哲学、その「マルクス主義哲学」も、そして「偶然性唯物論」もちゃんと理解していましたとここで胸を張って言うことはとてもできないが、彼の哲学者としての文章がとにかく気に入っていた。彼はすばらしい書き手だった。才気煥発を地で行くマルクスの文章を思い起こさせた。レヴィ=ストロースは文章を書く前に必ずといっていいほどマルクスを読んで自分を鼓舞していたらしいが、(一部のマルクス主義研究者を激怒させることをあえて言うなら)ロマン主義的なところがあったといってもかまわない高揚したアルチュセールの文章にも、そんなマルクスの文章に近い抑揚があった。
 この事件の後もアルチュセールは読まれ続けた。それどころか若い世代によって「左翼のための」彼の哲学はいっそう有名になった感がある。勿論、この事件によって彼のかつての思想が根底から揺らぐということはないし、またそうでなければならなかったというのは私にも理解できる。しかし私が目にした限りでも、彼ら、若い研究者を含めたほとんどがこの事件を棚上げしにかかっているのではないかという印象を私は受けざるを得なかった。率直に言って、このことは一読者として私の不満を募らせた。一読者として、その理論装置だけではなく、アルチュセールの全体を知りたかったし、すべてがなければ部分を目にすることができないのは普通のことではないか。
 アルチュセールは事件の後「免訴」となったが、免訴の決定の後、措置入院によって精神病院に収容されることになる。免訴は、それに対する評価がどうであれ、この社会のなかの居場所を完全に失うということである。事件の本質はおろか、事件の当事者の弁も明らかにはされない。彼は「行方不明」を余儀なくされる。免訴によって裁判は行われなかったのだし、彼は病院に入ることによって、つまり「狂人」になることによって、その弁明の機会、自分の起こした事件への返答を社会によって拒絶されることになる。そうこうしているうちに、自宅に戻ったり、再び精神病院に入院したりした後、アルチュセールは死去する。そして彼の死後、その自伝『未来は長く続く』が刊行されることとなった。これは哲学者の自伝としては破格のものだったし、必然的にも思える彼のひとつの回答であったことは間違いないだろう。このような明晰な回想録は親族三人を殺害したピエール・リヴィエールの手記(フーコーを参照せよ)以来のことであろうし、自分の犯罪を含めてこれほど詳細な自己弁明にはなかなかお目にかかれるものではない。殺人を犯したルネッサンス後期の芸術家チェッリーニの『自伝』といえども、この超絶的彫刻家は途中で筆を折って投げ出しているし、事件と自己の歴史についてのこのような詳細な記述、ましてや回答じみた記述は望むべくもなかった。しかし、このアルチュセールの自伝は非常に興味深いものではあるが、その面白さゆえに、どこかしら宙に浮いたようなところがあった。前言を翻すようなことを言えば、彼の作家としての力量がそうさせたのだろうか。そんな風には言いたくないし、必ずしもそうは思わないが、彼の「哲学」と「狂気」が、エピソードの外ではかえって見えにくくなってしまったように私には思われた。


 ところが最近、少なくとも私にとってさらに興味深い本が翻訳された。ルイ・アルチュセール『終わりなき不安夢』(市田良彦訳、書肆心水刊)である。彼が自ら綴っていた夢の記録である。これでわれわれのためにアルチュセールの仕事の環が一応閉じることになったが、この本が驚天動地のものであることに変わりはない。

 おまけにこの本のエピローグには「二人で行われた一つの殺人 主治医作を騙るアルチュセールの手記」という、私の知る限り、どんな哲学、どんな文学の歴史にも他に類を見ない、瞠目すべきテクストが収録されている。アルチュセールが自分の主治医に見せかけて、殺人を犯した自分についてアルチュセール自身がまるでテクストの外にいるかのように語っているのである。「きみ」と「ぼく」を巧みに使い分けて。ただし「きみ」と「ぼく」をいくら使い分けようとそんな嘘はすぐに見破られることであるし、このテクストを書いたとき、アルチュセール自身がこの奇妙なテクストの構造を強く意識していなかったなどとは考えられない。このテクストは恐らくは「かつての妄想」の外で書かれたのだろう。だがそれが書かれた瞬間はいざ知らず、アルチュセールはいずれこれが刊行されるだろうということすら見越していたとも思われる。この点で匹敵できるものがあるとすれば、サドの遺言くらいしか思いつかない。彼はこのテクストで、「書き手」つまり「私」、そして「きみ」と「ぼく」という奇妙な構造のまま自分自身の「精神分析」を行っているのである。詳細は、周到にして非常に示唆に富んだ訳者市田良彦の解説を読んでいただくとして、いま私には読んだばかりのこのテクストと夢の記述について理論的な考察を加える余裕も力量もないが、気づいたことをほんの少しだけ述べたいと思う。


 例えばこんなくだりがある。「極論すれば、二人〔アルチュセールと殺害された妻エレーヌ〕が無意識にそれぞれ望んだこの役割の逆転は、事後にしか存在しない。出来事が起きたから、それはある。きみが無意識に彼女の死を望んでいたとすると、殺人は計画的であった(無意識による)ことになるかもしれないけれど、それでは無意識の幻想に本来もっていない役割を与えることになる。事後(役割の逆転という)が意味をもつのは、出来事が起きたからでしかない。役割の逆転という表象がその体をなすには、第二の時間(出来事)が決定的だ。取るに足らない人間に、永遠に悪者でいさせてやることは、取るに足らないことからの究極の救出にもなる。批判はすべてぼくが背負い(マスコミを見よ)、彼女はかわいそうな犠牲者になる。とにかく無意識のなかにはあらゆる幻想がある。幻想が行為を決定したなどと言っても、論理的、機械的な演繹にすぎない。出来事や行為のなかで、ものごとがそんなふうに起きるわけがない」(「二人で行われた一つの殺人」)。

 だからといって、アルチュセールは殺害の衝動の瞬間に「ほんとうに」何が起きたのかを語ってはいないし、語ることはできない。この構造の結構にしてからが、原理的にそうなのである。事後の語りとしては、「ほんとうに」何が起きたのかは誰にも知ることができないのは言うまでもないではないか! 事後的に袋小路を指し示す殺人者のこんな言は犯罪の被害者やその家族を怒らせるだけだろうが、出来事に、事実に、「そと」がないのであれば、アルチュセールは、スピノザ主義者として、全体の外には実は何もないのだ、神さえも、ということをわれわれに突きつけているとも言えるのである。「事実」にはたしかに形式らしきものがあるが、彼の見ていた「夢」と同じように、あるいはそれと対をなすかのように、この形式は空っぽであり、空虚であるほかはないということなのか。


 やけに細部が際立つ彼の夢はエロチックなものとそうでないものもあるが、彼が女性との性愛、あるいは女性自身の性愛に強くとらわれていた人であることはよくわかる。共産党の心強い同志であり、レジスタンスの闘士でもあった、年上の嫉妬深い妻エレーヌとの関係に彼の性癖が強く影響を及ぼしていたこと、アルチュセールが多くの女性を「愛した」ことはたぶんその通りだろうが、私にはこの点で言うことは何もない。しかし、ここで詳述はできないが、彼の夢にはもっと別の事柄、もっと不吉な夢との関係、そしてそれとは対称をなすことがけっしてできない非関係が刻まれているようなのだが、この夢のなかで「主体」はすでにして無意識の主体ではあり得ないように思われるのである。

 市田良彦の解説からアルチュセールの文章を孫引きしよう。この文章は「言説理論に関する三つのノート」(『精神分析論集』所収)のなかの一節である。
 「「自我分裂 Ich-Spaltung」に関して「無意識の主体」を語ることは間違いである、と私には思える。分裂した、分割された主体はない。まったく別のものがあるのだ。すなわち、「自我」のとなりに「分裂」がある。言い換えると、まさに深淵、断崖、欠如、裂開がある。この深淵は主体ではなく、主体のとなり、「自我」のとなりに開ける」。彼の夢の記述と手記はこのことを証明して余りある。


 アルチュセールは精神分析を受け続けた。自分の哲学の糧としながらも批判的に読解したのはラカンの思想だったが、分析を受けるために彼が通いつめた精神分析家はラカンではなかった。自伝『未来は長く続く』に書かれていたとおり、ラカンとの関係は思想家どうしの付き合いだけではなかったのだし、その関係が複雑であったことは想像に難くない(一例として、ラカンの娘に恋をしてしまったマルクス主義人類学者リュシアン・セバーグが自殺したとき、分析医であったラカンがあわてふためいたエピソードを参照せよ)。


 しかし、いずれにせよ、被精神分析の経験はまるで招かれざる客のようにアルチュセールの夢のなかにまで入り込んでいる。むしろ私にはそれは長い間むりやり性行為に及んだレイプ犯か押し込み強盗のように思えてくる。フロイトが報告しているシュレーバーの神のおかま堀りのことを言っているのではない。ラカンが日本語のシニフィアンの特性として日本人は精神分析を受けることができないなどと言ったことを信じているわけではないが、精神分析を受けたことがない私は、この本を読み進めているうちに、精神分析それ自体が彼の妻の殺害と無関係であったとはどうしても思えなくなったのはほんとうである。精神分析的思考の道筋が、その硬直した強迫、分析家あるいは精神科医との関係と非関係が、アルチュセールに殺人という行為の最後の引き金を引かせる結果になったのではないか。これではヴァン・ゴッホと同じじゃないか! こんな意見が突飛であることは重々承知の上だが、最後にそのことを指摘しておきたい。
 アルチュセールが好んだ比喩を使うなら、彼は走っている列車から飛び降りたかったのか、それとも停まっているにしろ、全速力で走っているにしろ、その列車に飛び乗りたかったのか。私にはそのどちらでもないような気がするのだ。その列車の運転手は精神分析家であったように思われる。行き先は、ありふれた、しかし殺伐としたどこかの終着駅でしかないからである。汽車から降りても、未来はずっと続くのである。

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第76回 2016年7月

 

 

身景累ヶ淵

フランシス・ベーコン

 

鈴木創士

 


ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
鈴木創士『サブ・ローザ

 

 


 身体のカサネガフチがある。身体の風景が深淵を取り巻いている。それは深淵に、あるいは時には重力を無視し、上方へ向かって落下する。落下。それは感覚の特質であり、崩壊や悲惨さとは何の関係もない。
 三遊亭圓朝の怪談落語『真景累ヶ淵』の「真景」とは「神経」のことであるが、神経の累ヶ淵と身体の累ヶ淵はさほど遠く隔たってはいない。神経の淵と身体の淵はむしろ同じものである。いたるところで、ここで問題にしようとしている絵画以外の場所でも、そういうことがある。というか、そもそもそのようにして、つまり神経の淵と身体の淵が同じであるような地点で、身体は絶えず変容を繰り返し、蘇生し、触手を延ばし、涎を垂らし、排泄し、ときには糞尿まみれになって、死滅し、灰になる。しかもそれが身体の外縁、身体の外側を決定するのだ(病理学的に言っても、身体の内側を確定することはかなり困難である)。それが身体である。
 キリストは「これが私の身体である」と言ったが(ゴリラのように胸を叩きながらそう言ったかどうか私は知らない)、この場合はキリストにならってこう言わねばならない。「これは私の身体そのものであって、同時に私の身体ではない」、と。だがたとえ究極的に栄光の身体が人間的事象についても言えることだとしても、栄光の身体だけがあるのではもちろんない。歯が痛む。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。心臓が手術台の上で取り出される。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。ただし断っておくが、私は社会的、政治的、制度的構築としての身体のことを言っているのではないし、この身体は医学的身体や美学的身体ですらない。それでは話が逆なのだ。蛇足ながら、「器官なき身体」を社会的網状組織のモデルのように考える人がいるが、まったくの誤りである。論点後取の虚偽である。
 「いかにして絵画は神経組織に直接触れるのか」とフランシス・ベーコンは問いを立てていたが、ベーコンの絵を見ていると、神経と身体がほぼ同じものであるいくつもの契機が彼の絵画のなかには確実にあるのだということがよくわかる。それがベーコンの「絵画」の常態であり、彼の芸術である。これは両者が単に同一の平面にあるということではない。直接的介在がひとつの直接性によってひとつの全体を一気に生じせしめるということではないし、直接的接触がひとつの統合を形づくるということではない。神経が身体を外に出そうとしたり、追い払おうとしたり、あるいは身体が神経を保護的存在、ひとつの有機性、あるいはひとつの道具のように見なすこと、そのこと自体は日常的である。これは確かに「感覚」の問題であるが、絵の側にも、画家の側にも、それを観る側にも感覚の問題があって、タブローを前にしているときでさえ、ひとつの感覚の次元を措定することはできない。そして感覚が身体とひとつに結ばれる瞬間が突然タブローのなかにやって来る。あらゆるものが表象的であることをやめるのだ。ジャン・ルイ・シェフェールはベーコンについての文章のなかで、事実の粗暴さや情動の絵画の直接性を信じることができなかったと書いているが、それらが感覚のひとつの次元の執拗さとまったく同じものを指していないとは私は断言することができない。
 ところで、神経と身体が同じものであることによって何が起こるのか。何が在るのか、ではなく、何が起こるのか、としか言いようがないのだが、しかもそれは現象学的身体とは無縁のものであって、身体から出てくるひとつの身体があるのだ。身体の位置をそのつど確定し得ない身体がある。ドゥルーズはこう言っている。
 「もはや問題は場所ではなく、出来事である。もしそこに努力があり、強度の努力があるとしたら、それは決して特別な努力ではなく、身体の諸力を超えて、他と区別される対象をめざすようなものでもない。身体は厳密に努力し、あるいは厳密に脱出に備える。私の身体から脱出しようとするのは私ではなく、身体それ自身が何かを通じて脱出しようとする。いわば痙攣であり、つまり神経叢としての身体であり、その努力その痙攣の期待である」(『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、宇野邦一訳、河出書房新社)。


 身体がつねに身体から抜け出そうとしていることは言うまでもない。私が身体から出て行くのではない。身体が身体から出て行くのであるし、それを私が見ているのだ。なるほど私も君たちもそれを見たことがあったのである。しかし痙攣がいつも起こるとはかぎらないし、強直性痙攣はなにもアルトーの専売特許ではない。そういう事態とは反対に、例えば能の身体のように、首尾よく身体から抜け出しかけた身体が、身体にダブって見えてくるということも、奇跡的ではあるが、あるにはある。演者の身体は演者の身体ではない。というか、少なくともそれはもはやすでに演者の身体ではない。うまくいけば、それはじわじわと滲み出てくるのだ。この場合、痙攣は起こっていないように思われる。

 
 圓朝ゆかりの日本の幽霊画、応挙、それとも、もっと近代なら上村松園の幽霊画ならどうだろう。日本画の特質ということを差し引いても、ここにも身体から抜け出しかかっている身体、別の身体になろうとしている身体があると言えなくもない。

 「図像の領域において、陰影は身体と同等の存在感をもっている。しかし陰影がそういう存在感をもつのは、それが身体から脱出するから、それが輪郭の中に局在する何らかの箇所を通じて脱出したからである」(ドゥルーズ)。
 幽霊は、ネガディヴな統一的側面において、つまり陰画的に、身体から出て行ったのである。そしてそれにもかかわらず、それ自体が充満する一個の身体なのである。充溢身体は、当然のことながら、デュシャンの言うアンフラマンスのように稀薄な身体であることもある。幽霊の身体、でもそれは身体なのだ。ここでなら、それが死せる肉であったとしても、「肉への慈悲」について語ることができるかもしれない。ベーコン自身が肉屋にぶらさがった肉であったように、私はひとりの幽霊であるからだ。


 しかし図像の歴史においてキリスト教的身体、イスラム教的身体(この幾何学的身体は身体であると言えないかもしれない)などなど、あるいは異教的にしろ、そうでないにしろ、その他さまざまな身体があるように、日本の身体というものがあるのだろうか。幽霊画の幽霊が美術史的に見ればかなりの点でそうだったように、例えば、舞踏の領域においてなら、それがあったと言っていいのか。土方巽が舞踏『疱瘡譚』で踊った病んだ女郎を見ていると、病んだ遊女の「存在」が踊られただけではなく、舞踏家は病んだ女郎の身体が身体を抜け出そうとする葛藤を、そのジレンマを、その日常の地獄を踊ったのだと思えてくる。しかしそこには日本人の身体、日本人の身体的特徴というものがあったとしても、日本なるものは身体をもつことなどできるのだろうか。だがその前に、こういう問いを立てることができるかもしれない。そもそも舞踏家土方巽の身体は日本の身体だったのか、と。彼の身体が秋田の身体を纏っていたことはたぶん間違いないだろうが、だからといって彼の身体のさまざまな状態と時間を外側から内側へ向けてあえて下降するかのような踊りは、日本ではなく、むしろ日本の「あの世」で行われていたのではなかったのか。

 
 上村松園を引き合いに出したので、現代画家である松井冬子をとりあげてもかまわないだろう。彼女の絵に登場する女性の身体は、女性性の現実性を表しているにしろ、レオナルド・ダ・ヴィンチの『アナトミア』から一歩も出て行こうとはしない。その意味ではルネッサンス絵画の視覚的「紋切り型」から一歩も出ていないということになる。紋切り型は別の紋切り型を生み出すことができるだけである。無論、かつてルネッサンス絵画に描かれた名だたる数々の身体がそれを免れてはいなかったなどと私は決して言うつもりはない。例えば、ジォットやウッチェロやピエロ・デラ・フランチェスカの身体を思い浮かべているのだが、彼らはかなりドゥルーズの言うベーコン的な意味での「図像」(フィギュール)に近接したものを描いたと考えることができるかもしれない。しかしながら松井冬子の作品では、臆せずクワトロチェントに始まる伝統のなかにあるかのように主張するこの現代の「解剖学的身体」は、あえて言うなら、内臓をさらけ出し、恐怖を植えつけることによって、逆にわれわれの身体の思考にとっては一種の後退を示すものでしかなく、「器官なき身体」の対極にあると言っていい。松井冬子の死せる身体は、ベーコン的な「図像」ではなく、それが凡庸であるにしろ、そうでないにしろ、「物語」の身体であり、その意味において、松井氏にとっては大きなお世話だろうが、ベーコンの絵画的冒険とは似ても似つかぬものである。具象との戦いに挑むことはないし、その意味ではイラスト的であるし、残念ながら、物語はそこでただありきたりの例証を繰り返すだけである。

 ルネッサンスの「解剖学的身体」はもうひとつの重要な発明、遠近法の発明とセットになっていたように思われる。解剖学と遠近法は似たような姉妹である。なぜなら解剖学的身体は器官の綜合から成り立っていて、空間とは「神の器官」(ニュートン)であるからだ。しかし実際には、空間の綜合は生起しない。われわれは有機的な器官の綜合を探し求めているわけではないが、神は、遠近法の消点の向こう側に隠れたままになっているらしいからである。時とともに、この空間は病んで、ところどころ完全に壊れ、ぼろぼろになって、すたれてしまったのかもしれない。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画を見ればわかることだが、むしろデジタル的であると思われるこの空間の伝統は、直観としてではなく、伝統としては、未来においてそれほど重要な意味をもつとは思われないが、それでも厳密な遠近法の空間は視覚的にも触覚的にもどこかしら奇妙な空間であるし、確かにそれを逆転して、伝統を逆に遡るようにするなら、有意義なものとして考えることもできるだろう。しかしここでわれわれが知りたいのは、「器官なき身体」に基づいた空間であり、空間の概念である。

 
 「身体から抜け出す身体」に戻ろう。

 ドゥルーズは書いている、「叫ぶ口を通じて、身体はまるごと脱出しようとする。法王や乳母の丸い口を通じて、身体は、まるで動脈を通り抜けるようにして脱出する。しかしながら、ベーコンによれば、口のシリーズにおいて、決定的に重要なのはこのことではない。叫びの彼方には、微笑があるが、彼はそれにたどりつけなかった、と暗示して言うのだ。ベーコンは確かに謙虚である。実は、絵画における最も美しい微笑を描いたのである。しかもそれは身体の消滅を保証するという、まったく奇妙な機能をもっているのだ。ベーコンはただこの点において、ルイス・キャロルを、猫の微笑を再発見している」。


 法王のどちらかといえば醜い「叫び」を描いたはずなのに、絵画における最も美しい微笑がそこに出現する。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に登場する猫、木の上にのぼっていたチェシャー猫は、じょじょにからだが消えていったが、すべてが消滅した後、空中に「にやにや笑い」だけが残ったのである。微笑は消滅を前提としていた。叫びのあとには、微笑が……。それは身体の消滅を前提としているのである。口から叫びが出ていき、叫びから身体が出ていき、身体が消え、すべてが消えて、微笑だけが残される。これほど豪奢なことがほかにあるだろうか。絵画の頭脳、その頭脳的解決は消滅に委ねられるのである。
 そして消滅を前提としてあらゆるものの現前がある。ドゥルーズは、現前がヒステリー的であるのはあり得ることだろうか、と問いかけている。私にはそれはつねにあり得ることだと思われる。
 「私たちがほんとうに言いたいのは、絵画とヒステリーのあいだには特別な関係があるということである。実に単純なことだ。絵画は、表象の背後に、表象を超えて、もろもろの現前を取り出すことを、直截にみずからの課題にするのだ。色彩の体系そのものが、神経系統に対する直接的作用の体系である。それは画家のヒステリーではなく、絵画のヒステリーなのである。絵画を通じて、ヒステリーは芸術となる。あるいはむしろ画家を通じて、ヒステリーは絵画となるのだ」。
 身体から抜け出した身体は、ここでもう一度、セザンヌが見たようなすさまじい生の風光、「線と色彩のあらゆる歓喜」に出会うことになる。そしてこのヒステリーを追い払ってしまうかどうかはまた別問題である。

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第75回 2016年6月



ひげの吸血鬼



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
鈴木創士『アルトーの帰還

 


 「イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を摘み取って、ユダヤ人たちの怒りをかった。彼らを駆ってそうさせた飢えは、それらの穂でたいして満たされるはずはなかった。もし安息日に対する畏敬の念があったなら、彼らは準備された食物を見いだすことのできる場所へ来るまでに必要な時間だけ、このわずかばかりの満足を延ばすことができたであろう」。
           (ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』より)

 ヘーゲルが取り上げたこのイエスの弟子たちの話は、カフカの短篇「断食芸人」と対照的である。イエスの弟子たちはさして食べたくもないのに、人々の目を食べ物のほうに向けさせた。パンだけを食って生きているわけではない、と師匠は言ったのに。一方、断食芸人のほうは、結局、食べたいものがなかったから、断食芸をやり続けたのだということである。食い物の話は恐ろしい。だがどこかにもっと別のものがあるはずである。フロイト派に言っておくが、ヘーゲルの取り上げた話も断食芸人も欲望とは無関係だった。

 
 むこうに、茶色に変色して、くしゃくしゃになったヘーゲルの頁が砂にまみれて落ちていた。読まなかった頁だ。これらのヘーゲルの重々しい頁は永久に読まれることはないだろう。たいそうな話じゃないか。中味をくりぬかれた言葉がある。私の生きた現実の時間が消え失せてしまうまでそいつはひとりで勝手に喋り続けることだろう。頭にくるといつもやっていたように、湿った土の上をずるずる匍匐前進したくても、いまはそんなことはできない。散歩中のばあさんはさも軽蔑した顔をわざとこちらに向けてから、いそいそと立ち去った。ばあさんに手を振るかわりに、ゲイの連中が花束にそうするみたいに俺は榛(はしばみ)の茂みに顔を突っ込んでみた。二度とはやらない。蝉は鳴いていない。世界は小さい。原則はすたれた。ばあさんの後ろ姿が見えた。

 全身癌で亡くなった俺のばあちゃんの黒ずんだ顔を思い出す。ばあちゃんは母が嫌いだったのか。母ちゃんがいじめられているのを見ると、いつも近くの親戚の庭まで駆けていって、玄関の靴を全部かっぱらって庭のしょぼい池に投げ入れた。それが子供にとっての道理というものだった。とうとう池の魚は全部死んで、どろどろのヘドロの底なし沼になった。しょぼい庭など猫だって見向きもしないのだから、それに気づく者なんていやしない。神社の裏手の土くれから掘り出した女の恨みの櫛のように、何足も何足も靴やスリッパが池から出てきた。俺はわざとそれをコンクリの塀の上に並べて乾かした。陽が照っていた。犬が吠えていた。塀のむこうにバリバリになった靴やスリッパが散乱していた。

 
 しょぼい植え込みのところまで走っていって、さっきうんこをしたのだった。雲雀が頭上をかすめて、ピッという鋭い鳴き声だけが落ちてきた。榛の葉っぱの香りがした。茂みの向こうにばあさんがいるのがわかった。ばあさんはうんこをする俺をじっと見ていた。何も見えないくせに、何かをことさらに見ている風に。笑っているのか泣いているのかわからないばあさんの顔はぼやけて広がり、薄い空気に霞んで溶けてしまいそうだった。あたりは深閑としていた。ばあさんのほうを見ながら、ポケットに突っ込んでいたヘーゲルの文庫の頁をひきちぎってお尻を拭いたのだ。微風が頬を撫でる。精神現象学。産みの微風。モロッコのララシュの寂しいスペイン人墓地が脳裡をかすめる。黒い頭巾をかぶった男がひとり海辺に立っていた。どの墓もいずれは砂浜の砂に埋もれてしまうだろう。知らんぷりを決め込んで急いで藤棚の下に行くと、あの娘の髪に顔を埋めるように藤の匂いをかいだ。むせ返るような春の髪の毛。千の絵。俺は自分の手をじっと見つめた。遠くに海を望むこの高台は俺の手相のように殺伐としている。風の音だけがして、光に溢れた砂浜の墓地にいるように斜めの光線が見えた。ここはララシュの寂しい墓地にたしかに似ている。黒頭巾と光がある。黒頭巾? ハレーションを起こした目玉のなかに見知らぬ小人(こびと)が映っていた。ひげの吸血鬼。ぞっとして、俺は空を見上げた。俺はしらばっくれた。誰に対してなのか。雲雀や榛に対してでも、ましてやばあさんに対してでもない。空は青い。ララシュの幻影はすぐに消える。突然、蟬が一斉にやかましく鳴くのがひどい耳鳴りのように聞こえた。蟬が鳴く季節ではないので、ありえない。誰かがかつて首を吊ったにちがいない古い樫の大木が目の端にちらっと見えた。木に梯子が立てかけてあった。


 
 時代などいつでもいい。いまだにペストの時代だ。中世の町並み。ぬかるみ。すべてが不潔きわまりない。ぼろぼろのフリルの衣装。黄ばんだダンテル。雨が降っている。尿の臭いで目が痛いほどの路地。鼻汁と痰と唾。鼻くそ。そいつをあたりかまわず吐き捨てる。やりきれない毎日だ。彼女のことを思い出す。なぜか空はよく晴れている。

 静まり返った夜のパドヴァのピアッツァ・デル・エルベが目に浮かぶ。広場を照らしていた一昨日の月明かり。月明かりはいつも過去のなかに射しているのか。冬の冷たい光が透き通る。それだけだった。なんて美しいのだろう。中世なのか中年なのかもう誰にもわからない。そのときも月明かりの下であいかわらず自分の手相を飽きずに見ていた。ささやかな日課だった。広場のまんなかで、ハムを包んでいた黄ばんだ包装紙が風にあおられて舞っていた。影が揺れている。むこうで立ち小便をしている輩がいる。汗をかいた彫像。ここにはない、崩れて跡形もない神殿。パラティヌスの丘の神殿。ほんとうにかつてそんなものがあったのか、という思いが俺をよぎる。そのまたずっとむこうに寄せては返す潮騒。不吉な波また波。見えないのに、押し寄せてくることがわかる。真夜中だというのに、いまでもそいつが窓を開け放った眠れぬ病床にいるようにしつこく聞こえてくる。
 ほんとうにユリシーズは帰還したのか。あの嘘つきの放蕩息子は。いくら知謀にたけてはいても、息子って歳じゃない。死にかけの愛犬、蚤とシラミだらけのアルゴスがほんとうに待っていたとでもいうのか。犬はいつだって俺の味方だった。だがユリシーズといっても、いろいろいるさ。ならば俺や君たちの時代はあったのだろうか。それともいつか来るのだろうか。耳と足がかゆくてしかたがない。耳と足が君はもう終わりだと言っている。終わったことは終わったことだ。足から肛門にかけてミミズ腫れのような戦慄が走る。

 
 夜であればいつ田舎の祖父の家に行こうとも、厠(かわや)に通ずる吹きっさらしの木造の渡り廊下にはあたりの闇からじめじめした冷気が伝わって、ヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのがいつも見えていた。虫がちっちっと鳴いていたのを覚えている。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのはとても怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。ひげの吸血鬼。小便をするのを諦めることもある。そんなときは知らん顔して風呂場で用を足した。

 昔の厠は怖かった。厠の小さな明かり取りの窓からもヤツデが見えた。しゃがんでいると、否が応でも耳をすまして、目をこらす。雨が降っていたりすると、時にはヤツデの葉っぱが黒一色のなかで白っぽく見えることもあったが、その幾層をもなすこの闇の層のことは今でもよく覚えている。闇の層は重なることなく目の前で幻覚の奥行きのようなものをつくりだし、闇が闇の質料だけでできているのではないことを知らしめる。目をじっとつむっていると、闇のなかに時おり白いヤツデが現れる。ヴェネツィアの画家ティントレットが天使を描くときに使った幽霊線のような白い輪郭が不意に現れる。もやもやしたヤツデの白は闇のなかでさらにもっと黒い部分を浮き上がらせ、気まぐれにずっと下のほうへむかって、まるで俺を誘うように目のなかをゆっくりと降りてくる。麻ひものようなものが下のほうへ飛んでゆく。火の玉が見えることもある。それは風に少しだけ震えるようにゆらゆらと消えてゆく。だが突然、白いヤツデは奇妙な百合の花に変わっていたりもした。恐怖から逃れようとして、だから目をつむるのも考えものだった。

 
 いつも俺は急いでいた。霙まじりの雨が思い出したように降っているのに、家路についていると、スイカズラの匂いが急にしてきた。スイカズラは漢字で忍冬と書くくらいだから、塀から垂れ下がった蔓草のような枝は冬でも毎年けなげに緑の葉っぱをつけている。それにしてもきつい香りである。頭がくらくらする。スイカズラの花を思いっきり吸うと蜜の味がしたことを思い出した。子供の頃は学校の帰りにいつもそれをやって、道端にスイカズラの小さな白い花をひきちぎってはまき散らしていた。遠くから見ると、物心ついた俺が効き目を強めようと外側のいらない成分を捨てるために剥いていた鎮痛剤の錠剤の粉をまき散らしたみたいだった。チョークの粉のようにも見えた。後になってそれを思い出した。スイカズラという言葉を前頭葉のあたりで反芻すると、いまでも頭がぼおっとなるのはそのせいかもしれない。

 冬だから花は咲いていないはずなのに変だった。そう思って歩いていると、家の近くまで辿り着いていた。雨は小降りになっている。見ると我が家がない。てくてく歩いてきた家並みはいつもと変わるところはなかったはずなのに、いつもと違うところがあるとすれば、ひどい腰痛をかばって斜めに傾いたまま歩いていたからなのか、我が家に近づくと、暗闇に浮かぶ家並みが映画カリガリ博士の書割りの影のように斜めに見えていたことだけだった。書割りは段ボールでできているのか、ぺらぺらだった。ほんとうに家なのかよくわからない。四つ辻はけっして直角には交差しない。いたるところに三角形がある。薄暗い平行線はすぐに交わり、鼻がぐすぐすするほど埃っぽい。ドイツ表現主義映画の書割りだな、こいつは、などと考えていると、自分の着ている服から黴のような臭いがとってつけたように漂ってきた。雨の臭いだった。俺は途方に暮れた。こんなことがしょっちゅう起きるなんてほんとうに辟易する。南米の町の郊外にでも行けば、きっと夕方に、ずっと続くピンク色の壁からかわいらしいスイカズラの花がのぞいているのが見えたかもしれない。俺は不幸な気分を振り払うように立ち止まった。いや、けっして不幸な気分などではない。うれしくなって、あたりにはひと気はないはずなのに、輪遊びをする少女に手を振ってみた。目の前をこうこうと照らしている、はじめて見る明かりの灯った家からは、死んだはずの友達が咳をするのが手に取るように聞こえていた。少女なんかどこにもいなかった。

 
 アルトーは見ようによっては謎の戯曲のようにも受け取れる本、彼が自分で構想した最後の本のひとつのなかにこんなことを書いていた。ところで、アルトーはある意味でギリシア人だった。たぶんニーチェが言うような意味で。




    ひげの吸血鬼。
    
    目覚めもなく、眠りもなく、
    腐った卵を運ぶダンプトラックの列があるだけ、
    それらは議論には答えもしない。
    
    黒い板、
    植物たちの粘液、
    身体とはすべて、
    空間、空間とは想像しがたいもの、
    その外には何もない、絶対的に何もない
    (…)
                         アントナン・アルトー『手先と責苦』

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  第74回 悲劇・・・ - 2016.05.04

                                                            第74回 2016年5月




         悲劇…



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
シェストフ『悲劇の哲学
バタイユ『ニーチェについて

 



 「ヘーゲルはどこかでこんな指摘をしている、すべての歴史的大事件と人物は言ってみれば二度繰り返される、と。彼はこうつけ加えるのを忘れたのだ、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。マルクスはこの有名な言葉で『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』をはじめているが、歴史のなかから死者たちを呼び出してみると、際立った違いがあることに気づくとも言っていた。カール・マルクスが? 際立った違い? それはそうだろう。
 この場合、反復は微妙な差異によって台無しにされた戯画となる。そしてこの戯画のオリジナル・デッサンは、えも言われぬ動揺、微妙な風合いとともに、のちの反復をそのつど「別の装いのもとに」反復させる。歴史はただ繰り返されただけなのか。だけど人間たちは自分たちの歴史を知ってか知らずか自らつくり出すことができる、というのはほんとうなのか。死に絶えた世代のあらゆる伝承の伝承は生きている者の頭脳に重くのしかかっているとしても、反復された頭脳のほうはそれでも破裂しないのだろうか。誰もがその反復のなれの果てをただ個人の歴史においておや経験しながら、それでも過去のあからさまな亡霊を知らぬまに呼び出し、あげくのはてにそれに愛想を尽かしているのはわかっている。
 悲劇はたしかに二度目以降は茶番であるかもしれない。だが結局のところすべての茶番は悲劇ではないのか。

 
 柄にもなく、とってつけたように悲劇などと口にしたのは、最近、ソポクレスの『オイディプス王』を再読する機会があり、またアントナン・アルトーの中期の作品『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』の新訳に取り組んでいるからなのだが、それにしても悲劇の残酷さ、残虐さにもいろいろあって、つくづくこの飽きずに反復しつづける人間というものが嫌になってしまう、と言えば大袈裟にすぎるだろうか。われわれは何をここで反復しているのか正確に知るべきだろう。

 あんな機会、こんな機会は、極限においてなされる置換のようにわれわれに何かを強制するとしても、歴史が書かれたものである限り、歴史は「私の歴史」を書くほかはなく、それは無数の「私の歴史」でしかない。私の勘違いでなければ、そんな風に言ったのはフランスの歴史家ジョルジュ・デュビィだったと思うが、「私の歴史」とは唯名論的な歴史、無数に増殖するそのなかのひとつのことなのだろう。



 だが、実在したのか、しなかったのかと、歴史の前でわれわれが戸惑っていようがいまいが、天罰に対して何度か態度を変えようとしたとも受け取れるオイディプスにあっては、悲劇が天から降って湧いたように、明らかに天上的なものの象徴的秩序が下界にむけて折り畳まれていて、それこそがそもそものオイディプスの怒りの原因であり、悲劇である。だが『コロノスのオイディプス』を読むかぎり、彼はヘルメスに手を引かれて冥府に連れてゆかれるのだから、彼の怒りもまた曖昧なまま終わってしまうようである。反復は断ち切られない。ソポクレス自身はこの戯曲を生涯の最後に書いたのだから、ソポクレスはいったい天上の何と和解しようとしたのか。

 
 画家のフランシス・ベイコンはソポクレスよりもアイスキュロスのほうを好むらしく、インタビューでもさかんにアイスキュロスの残酷さと現代社会の残酷さを比べたりしていたが、残酷さはさておき、たしかに悲劇作家としてはアイスキュロスのほうが、ソポクレスよりもタガが外れていて、実験的で、しかも難解だが格調高くポエティックで、面白いのかもしれない。ホモセクシャルでもあったベイコンの深刻きわまりない、つまり時にはかなり悲しげに見える豪放磊落さには、なるほどアイスキュロスがぴったりだと思う。




 ところで、悲劇とは人間性と因果律の歪曲である。悲劇は何かを偽造しようとする。アイスキュロスは、鷲が空から思わず落とした亀の甲羅が頭にあたって死んだらしいが、それもまた悲劇だったのだろうか。大空にはわれわれのことなどつゆ知らない鷲が旋回していたのだ。
 ギリシア悲劇。アルトーが最晩年を過ごした部屋の写真をよく見てみると、もうひとりの悲劇作家エウリピデスの本が置いてあるのがわかる。アルトーは死の直前までギリシア悲劇を読んでいたらしい。なんということだろう。阿片チンキを飲みながらひとり部屋でギリシア悲劇をしずかに読んでいる、内側から焼き尽くされたような最期のアルトー! 反乱開始は昔のことではなく、そのつど幾度となく繰り返されたようにスリッパを片手に死の直前に開始されたのだろうか。焼けただれ、石灰と化した旗印! いつの世も若者たちはそれを自分のものとして認めるだろう、と実際にはペシミストだったブルトンは言っていた。



 アルトーの血のなかには母方のギリシアの血が流れている。だからというわけでもないだろうが、アルトーの演劇論の細かな部分ですら、随所に古代ギリシア演劇の、影響ではなく、激しい余波を、あの残忍で、神的で、狂っていて、それでいてどこか静謐なたたずまいを思わせる長い波長を感じることができると私は思っている。私はそのことに少しは感動する。電波はどこからでもどんな方向からも飛んでくるのだ。

 
 人間の残酷さはとどまるところを知らないように見える。だがこの残酷さは歴史のちんけな原動力であったと誰もが考える。性の歴史や資本主義の歴史がそうだったように。だがこんな不埒な原動力などかつて存在できたためしはないのだ。死は死であり、殺害は殺害であり、大量虐殺は大量虐殺なのだが、それでも残酷さにもいろいろあって、われわれは何ひとつ学ぶことができなかったのかもしれない。われわれは悲惨なただの阿呆である。人がひとり死ぬたびに、世界が死ぬ、と言っていたのはジャン・ジュネだが、悲劇はいったい誰を、どんないたいけな子供たちを巻き込んだのか。巻き込んだなどという言い方はよしておこう。悲劇は誰の食べ物なのか。そのことは誰もがわかっていたはずなのに、ローマ帝国は滅んだ。すべての帝国は滅ぶ、そして未来永劫かならずや帝国は滅ぶだろう。万歳! 三唱! おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

 アルトーの『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』はこんな風に始まっている。

 
 「墓場なき死者、しかも己れの宮殿の便所のなかで護衛の兵士に喉をかき切られて殺されたヘリオガバルスの死骸(むくろ)のまわりに、血と糞便の激しい循環があるならば、彼の揺り籠のまわりには精液の激しい循環がある。ヘリオガバルスは誰もが誰とでも寝ていた時代に生まれた。しかも彼の母親がどこで誰によって実際に身ごもったのかはけっしてわからないだろう。彼のようなシリアの王子にとって、血統は母たちによってつくられるのだ——それに母たちに関していえば、生まれたばかりのこの御者の息子のまわりには、ユリウス一族の綺羅星のごとき女たちがいる——そして彼女たちが王権に影響を及ぼすにしろそうでないにしろ、これらのユリアたちはみんな高級淫売なのである。

 この淫蕩と汚辱の大河の母方の源泉、彼ら全員の父は、祭司になる前は辻馬車の御者であったに違いなかった、そうでなければ、ひとたび玉座に就いたヘリオガバルスが御者たちに自分のおかまを掘らせたあの執拗さが理解できないからである。
 ともあれヘリオガバルスの母方の起源にまで歴史を遡ると、間違いなくあの老いぼれのはげ頭とあの辻馬車とあのあご髭に行き当たるのだが、それこそがわれわれの見聞録のなかに示される老バッシアヌスの姿である。
 このミイラがひとつの宗教に仕えているとしても、その宗教を断罪することにはならないが、しかしユリアたちやバッシアヌスと同じ時代の愚かで気のぬけた祭儀は、そしてヘリオガバルスの誕生した頃のシリアは、この宗教をついにだめにしてしまっていたのだ。
 だがこの死せる宗教、バッシアヌスが身を任せた、儀式的仕草の形骸になり果てていた宗教、それが、エメサの神殿の階段に幼いヘリオガバルスが姿を現わすやいなや、信仰と新たな装いのもとに、いかにして凝縮した黄金の、鳴り響く小さな光の活力を取り戻し、奇跡的に影響力をもつようになるのかを見なければならないだろう」。

 
 あまりにわかかり切った、凡庸なことを繰り返すようだが、この少年ローマ皇帝のアナーキズムはもちろん気のぬけたユートピア思想などではなく、ひとつの悲劇の誕生を画するものであったとあらためて私は考えている。数々の残忍な罪人を生み出したのは歴史のほうである。神の歴史のほうである。アルトーはそのことをよくわかった上で、話を始めたのである。彼はそれを「諸原理の戦争」と呼んだ。当時の歴史家ランプリディウスから18世紀の歴史家ギボンにいたるまで、たぶんアルトーが読んだ歴史家たちはヘリオガバルスの乱行を嘲笑し、断罪することはできても、それでローマ帝国が、そしてローマ帝国の威光がほんの少しでも救われたわけではない。どう転んでも、詩も、ましてや形而上学も解さない歴史家たちは…、などとアルトーは苦言を呈している。アルトーは激怒しているし、歴史家の言うことになど、究極的にはこれっぽちも信を置かない。話はつねに半分、だから半分しか耳を傾ける必要はないのだ。

 事実? 事実の歴史だって? ほんとうなのか。いや、いや、ただの教訓など何の教訓にもならないではないか。われわれはそれを毎日嫌というほど目にしている。われわれは歴史を生きているのだ。そのことはわかっている。オイディプスもまた見ることが嫌になったから、自分の目をくりぬいて、自ら盲目となったのだった。だが人間と世界は踵を接していないし、隣り合ってもいない、とニーチェは言っていた。ニーチェは爆笑していた。この爆笑という言葉は、バタイユに逆らうようだが、それなりに悲痛で、しょぼい。自ら盲目となるのは世界ではなく人間のほうなのである。

 
 ロシアの哲学者シェストフの『悲劇の哲学』のなかにこんな言葉を見つけた。「ソクラテス、プラトン、善、人道主義、理念等——穢れのない人間の魂を懐疑主義やペシミズムの凶暴な悪魔の攻撃から護ってくれたかつての天使や聖者の一隊はことごとく跡形もなく空中に消え失せ、身の毛もよだつ敵を眼前にして人は生まれて初めておそろしい孤独を感じるのだ。最も忠実な、愛する者でもそこから彼を脱出させることはできない。悲劇の哲学が始まるのは、まさにここにおいてである(…)おまえは地獄に堕ちた者たちを愛するのか、俺に言ってくれ、おまえは赦されない者を知っているのか」。

 レフ・シェストフはドストエフスキーとニーチェを最後の希望の哲学的人間、つまり哲学者として尊重しているのである。だがそれだけではもはや十分ではないだろう。それに哲学者のことなどどうでもいい。悪魔は歴史的に見ても凶暴ではあるが、懐疑主義やペシミズムはもちろん悪魔の攻撃などではない。
 シニシズムや懐疑主義もまた悲劇と同じくらい古いものなのだろう。犬儒派たち。キュニコスの里は地球のそこかしこのことかもしれない。大いなる地球。グローブ座。さらば、ちっぽけな惑星よ。たまには、おお、マクベスよ、そいつのことも思い出してやろうじゃないか。キュニコス派の哲人クラテスが最古の地球儀をつくったのだった。彼らは地球の上に寝そべっていた。それこそ日なたの犬のように。だがシニシズムや懐疑主義と悲劇は何の関係もない。そればかりか、アカデメイアは大学のことではなく、ゴミ屑が時おり舞い上がる、いにしえの浮浪者たちの広場である。
 マルクスは、古代ローマの階級闘争は奴隷たちによってではなく、特権的な少数者、貧しい自由人によってだけ行われたと言っていたが、犬儒主義もまたイタリアへと逃げのびたのだろうか。やがては芸術のほうへ。

 
 知らぬ間にピアッツァ・デル・エルベに冬の月が懸かっている。この広場はギリシアからはそう遠くなく、この月はギリシアと同じいつもの月である。赤茶けた下弦の月。夜もだいぶ更けてきた、微醺に顔を赤らめ、犬の遠吠えが聞こえる…


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                                                        第73回 2015年4月





    彼は死のうとしている
              —ロラン・バルト




                                                                        鈴木創士




ロラン・バルト『神話作用』『零度の文学
清水穣『白と黒で-写真と…』『写真と日々』『日々是写真』『プルラモン』『シュトックハウゼン音楽論集




 一度読めば、そこには本質的な事柄が書かれていることが一目瞭然で、つまりもっとつぶさに見れば、どちらに転んでもそれが豊穣な何物かであることがわかっていても、なかなか再読する気になれない本がある。その本を本棚から取り出してなるべく手の届きやすいところに置いてみたり、しばらくするとまた本棚に収めてみたりする。すでに言われた言葉が、口の端に出かかるように、すでにもっと前の過去のなかでこれから起こる未来の錯乱に似てしまうことがある。本は読まれもしないで(再読でも同じことだし、絶えず現在進行形の作品のように肩越しに読まれなければ、読まれたことにはならない)、何かを語っているのか。そんな不埒な! 本がこちらをじっと見ている気がして嫌気がさすこともある。私にとってロラン・バルトの『明るい部屋』はずっとそんな本だった。
 写真論にことさらに興味があるわけではない。この本に書かれている写真についてのあれこれを重箱の隅をつつくように批判できることもわかっている。だがそんなことはどうでもいい。一度読めば、この本には悲痛な真実があることがわかるというものだ。たとえ真実がフィクションの形をまとい、本質においてそれを踏襲していたとしても、小賢しいそのフィクションの全体はこの真実の端緒でしかない。私は真実とフィクションの、深くて、なんというか非常に日常的でもある錯綜のなかに投げ込まれる。この錯綜が一気にからだに浸透してくる。
 私はこの真実から逃れようとしていたのかもしれないなと考えてみる。だが何も変わらない。本は相変わらず静まり返った静物画のように、まるで偶然のようにそこにあるのだし、まだページは再びめくられてはいない。だがそれは後ろ髪を引くように、知らずしらずのうちに私を既知の、危険な親密さのなかに引きずり込もうとする。この親密さのことを思うと、破局を迎え、何かが破綻してしまう前に、空には見たこともないような光が射してくる感じがするみたいに思える。もはや存在しない故郷がそのままそこでくっきりとした輪郭をまだ示していたとでもいうように、誰もがそこへ帰ろうとする。でもそれはほんとうに既知の親密さなのだろうか。それならこのひそやかさはすでに凌駕されてしまっているのではないか。親密さは裂傷や亀裂のなかから現れることもあるし、それらと見分けがつかないこともある。

 
 作家ロラン・バルトが、背中を丸めて、毎日、ライティング・ビューローに向かい、この本の一章一章のメモをカードに書き綴っている姿を目に浮かべてみる。……まだ私は彼の本を再読してはいない……。日によってブルーにも茶色にも見えた彼の眼差しを思い出す(ずっと昔パリで何度か彼を見かけたことがあった)。バルトのこの本自体が、私の(個人的な)「時間」に突き刺さったままの棘が残した「傷痕」になってしまったのか。……いまだに私は彼の本を再読できてはいないし、しかもよくよく考えてみれば、通りやカフェでバルトを見かけていた当時、この本はまだ刊行されていなかったはずである……。普段着の彼は自分の周囲や目の前の青年をいつもじっと目を凝らして見ていた。目を凝らして、というのは少し違うかもしれない。じっと見ていたのに、瞳のなかは空っぽだった。この眼差しはすでに過去のなかにしか時間の尾っぽあるいはその先端を見ていないかのようだった。彼はいつもセーターかジャンパーを着て(実際、そういう印象しかないのだ)スカーフをしていた。その眼差しにはささやかな快楽への期待がひそんでいたかもしれないが、そんなものよりも、そこには何かしら諦念に似たもの、やりきれない疲労に似たものがあったと言わざるを得ない。バルトはうんざりしていたに違いなかった。……まだ私は彼の本を再読してはいない……




 彼もまた私を何度か見たはずであったし、私の目を鋭く覗き込んだし、私も彼を見たのだが、視線はすべてを透過するように、どんな黒々とした記号の上でも停止しなかった。かつてバルトを見ていたときの私は何をしていたのだろう。覗き見をしていたのだろうか。何を覗くのか。世界のなかを、肩越しに? それはディテールなのか。細部もまた崩れ去るではないか。近眼であろうと、望遠鏡を覗くのであろうと……。写真のなかにいるように、〈彼は死のうとしている〉。この日本語は一見不正確に思えるかもしれない。そこには何の意志も含まれてはいないし、含まれようがなかった。彼が現在のなかで死のうとしているのか、それとも過去のなかで死のうとしていたのかもわからない。彼は死ぬだろう。偶然のように。だがこの偶然は必然性がもたらすいくつかの帰結の渋面のひとつにすぎない。バルトはそれから数年して事故死した。

 
 世界を覗いて何になるのか。何も見るべきものなどない、と別の悪魔が耳元で囁く。だが何人かの詩人たちは暗い万華鏡のなかに入り込むようにしてそれ自体が乱反射する世界を見ていたはずだった。疲れ切って、丘の上に座って、夜が明けるところをじっと見ていたはずだった。まだ若者だった彼はただ見ていた、微妙に不確かに曖昧に夜が明けて、夜が裏返り、夜が開けそめるところを。

 そうは言っても、穴をあけられ、あるいはひっ搔き傷をつけられた時間もまた、それ自体における過去のあれこれをそのつどつまらぬ妄想のように廃棄してしまっていたのではないか。時間は流れてはいない。停止もしない。君も私もある一点において過去のなかにいたはずなのに、もう今はそこにはいないのだ。もとあった場所は消えている。この過去と、そこは、ぜんぜん違う場所だった。


 そもそもこんな駄文を書くきっかけは、ある人のブログをたまたま見たからだった。人のブログをあまり読むことはないが、この辛辣でちょっとイカれた、現代風のディレッタントのブログをたまに覗くとはっとさせられることがある。ほとんどの職業的評論家や作家にはっとさせられることなど最近ではまったくないというのに! 勿論、ディレッタントという言葉を悪い意味で使っているのではない。バルトがどこかで言っていたように、われわれは全員がアマチュアなのである。そこにはバルトの『明るい部屋』のなかの文章が引用されていた。引用された文章は「39 プンクトゥムとしての「時間」」の一節だった。
 私はついに『明るい部屋』を手に取った。何十年ぶりだろう。ページをめくってみる。千夜一夜物語のようにアラブ風のジンが現れるわけではない。日本語訳があるのはもちろん知っているが、せっかくなので自分で訳してみたくなった。


 「いくつかの写真に対する私の愛着について自問していたとき(この本の冒頭で、すでにずっと前に)、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりこの場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様を区別できると思っていたが、私はその縞模様を〈プンクトゥム〉と呼んでいた。いま私は、「細部」とは別の〈プンクトゥム〉(もうひとつ別の「傷痕」)が存在することを知っている。この新しいプンクトゥムは、もはや形式ではなく、強度であるが、それは「時間」であり、ノエマ(「かつてそれがあった」)の悲痛な誇張であり、その純粋な表象なのである」。
 何を誇張しようというのか。それに続けてバルトはこう書いていた、



 「一八六五年、若きルイス・ペイン〔パウエル?〕はアメリカの国務長官W・H・スワードを暗殺しようとした。アレクサンダー・ガードナーが独房のなかの彼を撮影した。彼は絞首刑を待っている。写真は美しい、青年もまた。それは〈ストゥディウム〉だ。だが〈プンクトゥム〉は、「彼はいまにも死のうとしている」である。私は「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」を同時に読む。私は恐怖をこめて前未来を見つめるが、死はそれにかかっている。ポーズの絶対的過去(不定過去)を私に伝えることによって、写真は未来の死を私に告げるのだ。私に兆しはじめるのは、この等価性の発見である。子供だった母の写真を前にして、私はこう思う。母はいまにも死のうとしている、と。私は、ウィニコットの精神病患者のように、〈すでに起こってしまった破局〉に身震いする。被写体がすでに死んでいてもいなくても、どんな写真もこの破局なのである」。


 写真は偶然のように破局を示すのではなく、破局である、とバルトは言っている。写真とは、われわれひとりひとりをそのうちに捉えて離さない、それどころかそこにわれわれを釘づけにする破局そのものなのだろうか。分岐した偶然性のラインはそこで停止し、破局に向かってひとつのラインが決定される。
 私はやっとこの二ページだけを再読することができた。それ以上は読まずに、本を閉じた。最初からこの本に真実があることは知っていたのだから、ページをめくったからといって、何かが変わったわけではない。見るべきものはない、とまた悪魔が囁く。私は本から目をそむける。写真は閉じられる。
 プンクトゥムが、思いがけずピンの先であけられたような穴や、ひっ搔き傷、かすかな裂傷であるなら、光がそこから漏れ出たはずである。光学的に言って、「彼はいまにも死のうとしている」のだとすれば、すでに光はいまにも通り過ぎかかっていたことになる。光はもうない。前過去は消滅し、現在は前未来と過去完了のなかに食い込んでしまったのか。
 だが「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」は、同時に写真のなかにあって、それをたぶんいささか悲痛な思いで今見ているのは、そうなることもできず、かつてあったとしても、そうであったかどうかもわからない今の私でしかない。私が見なければ、写真は選り分けることのできない膨大な思い出のひとつにすぎなくなる。それは幸福な忘却のなかに落ちてゆく。私は必ずしも未来と過去に引き裂かれているわけではない。悲痛なのは、かつてあったものすべてが破局を前提とし、それをすでに含んでいたというそのときの現在である。ずっと続いてきた結果、現在になりかかった過去は、恐らくこれから前未来のなかへと続く現在と見分けがつかないが、このような時間はすでに断ち切られて、消滅している。過去完了も前未来もほんとうは存在しないのかもしれない、とまた別の悪魔が囁く。
 私は死ぬだろう。私はかつてあったのだから。
 だがもうそんなことはどれも写真の話に限ったことではない。
 私はここにいる。しかるに私はかつてあった。故に私は死ぬだろう。でもイマージュの真実を別にすれば、つまりこれは写真のイマージュという分身の話であるのだから、この三段論法が真実である保証はどこにもないのである。

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  第72回 氷の亀 - 2016.03.05

                                                            第72回 2016年3月



                                                                               
                                    氷の亀


                                        
                                        
                                                                        鈴木創士





アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『シュルレアリスム簡約辞典』『ナジャ

 




 つい先日、短期の入院から退院した。入院中はまったく眠れないことが自分でわかっていたので、看護師に無理を言って、多めに睡眠薬を服用した。病院では死んだように眠ったが、退院してから二日間、二、三時間しか眠れなかったので、飯を食って昼間に横になっていたら不覚にも完全に寝入ってしまった。

 
 ……その駅は地方のどこにでもあるような小さな駅だったが、かなり人でごった返していた。すでに終点の温泉地行きの電車がホームに停車している。僕は女性と一緒だったようなのだが、それが誰なのかぼんやりとしてわからない。母だったかもしれない、それも若い頃の母ではなく、年老いて、杖をついた母だったかもしれない。

 その女性は先に列車に乗り込んだらしく、姿がない。しようがないなあと思いながら、列車の一番後ろから乗り込んだ。どこかにいるだろう。列車の窓から日が差し込んで埃が舞っていた。塵のまた塵、という言葉を思い浮かべた。過ぎ去った時間の片鱗のなかでしか舞うことのない粉々になったダイヤモンドのようだ。埃の舞っているあたりだけが現実感があった。他はぼやけてしまっている。列車が混んでいたのかどうかもわからない。そのうち列車は動き出した。僕はどこに行くつもりだったのだろう。心臓を患ってから、温泉に入るのは嫌だった。血液の循環がおかしくなるのか、気分が悪くなって、目がまわる。下手をすると、吐いたりすることもある。
 ガタゴト揺れながら、通路を進んで女性を探した。地方の電車だから三、四輛しかないはずなのに、ずいぶん進んだような気がする。列車は延々と続いている。女性の姿は相変わらずない。僕は途中で探すことを諦めた。彼女が途中下車することはないだろうと思いながら、何か焦っていた。何かが、そしてすべてが、うまくいっていない。外は明るく、空は晴れている。それだけはたしかである。空いた席に座って窓の外を眺めていたが、どんな風景だったのかまったく印象に残っていない。考えごとをするでもなく、頭は完全な空白のままだった。居眠りをするわけでもないのに(普段まったくと言っていいほど電車で居眠りをすることができない)、それで電車を乗り過ごしてしまうことがたまにある。はっと気がつくと次の駅だ。空白があれば、空白の外というものはないのだが、現実に戻る前にすでに説明のつかない焦りだけがずっとくすぶり続けていた。
 終点に着いた。まだ現実に復帰してはいなかった。プラットホームのはずれまで歩いていると、人がまったくいないことに気づいた。光はどこからともなく燦々と降りそそぎ、空は相変わらず晴れ渡っている。乗客も駅員も誰もいない。見るともなくふと目をやると、駅の出口に向かう道の正面の植え込みに何か光る物がある。近づくと、氷の亀、氷でできた亀が置いてあった。氷の亀は溶けることもなく、日の光にピカピカひかっていた。日の当たっている場所だけに現実感があったように、この氷の亀も妙に生々しかった。……

 
 去年の秋に刊行された、自身詩人でもある朝吹亮二の『アンドレ・ブルトンの詩的世界』にはいろいろ教えられるところがあった。なるほど著者の言うように、ブルトンは何よりもまず詩人なのだ。




 ブルトンのフランス語! 高揚して、大きな波が打ち寄せるように激しくうねり、透明で、真摯で、それでいて慎重で、あちこちを警戒し、しかめ面で、時には強い閃光のように詩の激怒を感じさせずにはおかないあれらのブルトンの「散文」は、紛れもないひとつのジャンルをつくり出したのだし、結晶化した波間から無数の怒り狂ったヴィーナスのあぶくが生まれたように、そこからすべてが出て来たのだと私は思っていた。近くで影響をこうむりながら彼に敵対したこともあったフランス人たち、シチュアシオニストからテル・ケルの作家にいたるまで、そのことに反論はできないだろうし、後のシュルレアリストたちは言うに及ばず、ヌーヴォー・ロマンにいたるすべての作家がこの「ジャンル」から出て来たのだと讃嘆とともに私はずっと考えていたが、しかしそのためにはなるほどブルトンはまず詩人でなければならなかったのである。彼の詩は彼のエッセンスである。このことは動かし難いことなのに、それにもかかわらずわが国でブルトンの詩に正面から向き合った本を読んだことはなかった。どんな作家も批評家も、どの時代であれ、どこにいようと、何パーセントかは詩人でなければならないことなど分かり切ったことではないか。だがそのなかでもブルトンは特別なのである。

 
 朝吹氏のこの本にはあらかた目を通していたが、もっとも重量がありそうな詩論の章「ブルトンの詩の読解」だけは後で読もうと思って残しておいた。病院を退院して普通の生活に戻りかけた数日前、頁をめくっているとある言葉に目が止まった。「氷の亀」だって! それはブルトンが書いた詩のなかの「氷の亀」という言葉だった。

 ブルトンの詩集『白髪の拳銃』の冒頭の詩「薔薇色の死」の末尾にはこうある。


    そして氷の亀からなる汽車のなかで
    きみは警笛を鳴らす必要すらない
    きみはひとりこのひとけのない浜辺に到着するだろう
    そこでは星がひとつきみの砂の鞄のうえに降りてくるだろう
                         (朝吹亮二訳)


 私もまた列車のなかで探すことを諦めたのだし、降りる前の汽車のなかで警笛を鳴らしはしなかった。ひとけのない浜辺は遠くに温泉町を望む駅であり、星はただの日の光だったが、砂の鞄に見えることになるはずのものは一個の氷の亀だったのだ。


 これでは詩の辻褄が一巡したことになるのだろうか。私は詩の意味を追いかけてしまっているのか。私にとってこのブルトンの一節はウロボロスの蛇のように自分の尻尾を噛んでいる。ここには唯物論的にして神秘的でもあるアナロジーがあるのかもしれないが、もちろん一気にそのアナロジーの向こう側に「倫理的意味」を読み取ることは私にはできない。だがこの逆転というか転倒は、朝吹氏が言及していたように、ブルトンが「上昇記号」というエッセーの最後に引用した芭蕉とその弟子其角のエピソードをちょうど思い起こさせるではないか。
 弟子の其角が詠んだ「あかとんぼ羽をむしれば唐がらし」という残酷な俳句を、芭蕉はこんな風に直したのだった。「唐がらし羽をつければ赤とんぼ」。時の経過を越えて(そんなものは何でもない)、してみるとブルトンの詩もまた私の夢の辻褄に改変を加え、手直ししたことになるのではないか。


 『白髪の拳銃』はもうずいぶん前に読んで内容はすっかり忘れてしまっていたのだし、そのときに「氷の亀」に目が止まったことはなかったはずだった。私の無意識のなかにこの言葉が入り込んでいたのだと言えばそれまでだが、もちろんこの言葉を普通の意味で覚えていたわけではなかった。これはブルトンの言う「客観的偶然」の一例だったのだろうか。もちろん私の出会ったのは言葉であるし、ブルトンが『ナジャ』のなかで次々にその事例を示したような「現実」の事件や出来事そのものではなかったが、この夢の亀は目覚めの後も異様なほど目の前にちらついて現前していて、その光る氷は特殊なクロマチスムさえともなっていた。夢の情景のなかで手が触れんばかりのものが、これから読む読書の一種の核心を形づくる「現実」を準備したのだと言えないこともないのだ。しかもこのことは、こんな毎日を過ごしている私にとっては、非凡ともいえることだった。


 「客観的偶然」。詩はたしかにそれを誘発するものとしてある。それはシュルレアリスム的思想の要のひとつであるが、「客観的」という形容詞にも、「偶然」という決定的な言葉にも私はずっと引っかかりを覚えていた。どのように客観的なのか、事物と事物、なかんずく人と事物の出会いは偶然によって包囲されているとしても、それは単なる「通常の」印象にすぎないし、どうしてそれは偶然でしかない偶然であって、必然ではないのか。マラルメが何と言おうと、それは思考のゆるやかな敗北ではないのか。だがそれは恥ずかしながら長年にわたる私の早とちり、誤解にすぎなかったようである。誤解は朝吹氏の本によってあらかた氷解した。
 読んだはずなのに読み飛ばしていたのか、ブルトンは『通底器』のなかでエンゲルスを引用してすでに「客観的偶然」についてこう述べていたのだ。「因果関係は、必然の顕現形態である客観的偶然のカテゴリーとの関係においてしか理解されない」、と。はじめからブルトンは、それは「必然の顕現形態」であると言っていたのである。「この種の偶然は、無意識の道筋においては、偶然ではなく必然ということになる」、と朝吹氏も述べている。そうであれば話は早いし、話はより複雑なものとなる。
 ……しかも偶然が必然性の個々のエピファニーであれば、これらのちぐはぐに次元の異なる必然が錯綜する因果律のなかで、客観的偶然とは、研ぎ澄まされた、説明不能の、極端な主観性の錐揉みのような切っ先が、現実のなかに穴をあけ食い込み、あたかも観測者の存在が、観測している世界に根本的な影響を与える量子論的世界のように、現実というものに何らかの決定的最終的影響を及ぼすことだと思っていた私の考えもあながち間違いだとは言えなかったことになる……。
 だがアンドレ・ブルトンは客観的偶然をもっと高緯度に位置づけてもいた。かつて私はシュルリアリスムは一個の政治思想だと考えていたが、この政治思想が現実との関わりにおける詩の衝撃からなっていたという至極当然なことをいくら強調してもしすぎることはないだろう。もう誰ひとり言わなくなったことではあるが、この点をいまこそ何を措いても全面的に肯定しなければならない。


   

ごらんのとおり、このイメージが、前にはまだ不確実だったかもしれない点に関してどれほどはっきりすることか。光を創造しているのはまさに反抗そのものであり、反抗だけなのだ。そしてこの光はただ三つの道しか知らない、すなわち同じ熱中を吹き込み、この熱中を永遠の若さの断面そのものにつくり変えるべく、人間の心のもっとも秘められた、もっとも照らし出すことのできる地点に集まることになる詩、自由、そして愛。

                            (ブルトン『秘法十七番』)


 こんな文章を読むと、ブルトンのように語ってみたくなる。愛は、アナンケーへの愛と自由は、ひまわりの夜に沈んだ、裏箔のない、裏側のない鏡に映し出されるオブジェの方程式が示しているように、つる草のごとく巻きついた私の偶然からなる必然の打ち震える待機に、優雅な揺れる手をそこで差し伸べていたのか。ああ、詩、自由、愛。だがブルトンやゲーテの真似はよしておこう。むしろ暗く、不吉である事物の様相においては、例えば、なかんずく女性との出会い、それだけが悲しいかな私に客観的偶然を授けてくれるわけではないからである……。


 先ほどの文章のすぐ前にブルトンはこう書いていた。

  

《ルシファーが墜ちてゆくあいだに彼を離れた一枚の白い羽根から生まれた自由の天使は、闇のなかにわけ入ってゆく。彼女が額に戴く星はまず流星に、ついで彗星と猛火になる》。



 ところで氷の亀はもうすっかり日の光に溶けてしまったのだろうか。

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  第71回 旅の記憶 - 2016.02.03

                                                            第71回 2016年2月




                                 
旅の記憶




                                                                        鈴木創士




四方田犬彦『蒐集行為としての芸術』『俺は死ぬまで映画を観るぞ



 モーリス・ロッシュという作家がいた。もう持っていないので確かめようがないが、たしか80年代初頭に『流行通信』に載った、すでに老齢に差しかかった彼の写真をよく覚えている。撮ったのは写真家田原桂一だったと思う。モーリス・ロッシュは痩せていて、何も見ていないようなうつろな目で少し怒ったように上を向いていた。とてもいい写真だった。インタヴュアーによると、モーリス・ロッシュは若者が着るような太いストライプのシャツを着て、ウォークマンをしたまま、会うたびに、からだのどこが悪い、ここが悪い、といつも文句ばっかり言っていたらしい。
 最初、彼はジャーナリストで作曲家でもあった。音楽評論を書いたし、舞台音楽も作曲した。新聞のコラムか何かでフランスの作曲家プーランクのことを悪しざまに言ったので、プーランクの友人だった文壇の大御所アラゴンの逆鱗にふれて、仕事がなくなった。モーリス・ロッシュの最初の本はイタリア・バロックの作曲家モンテヴェルディについての素晴らしいモノグラフィーである。ジャン・パリが言うように、モーリス・ロッシュは「モンテヴェルディ、それは私だ」と言いたかったのか。



 彼は前衛的な文学雑誌『エレマン』や、ジャン=ピエール・ファイとともに『シャンジュ』を創設し、『テル・ケル』などにも寄稿していた。小説ともエッセイとも詩ともつかない奇妙で滑稽な本を書いた。自分で描いた幾つもの骸骨のデッサンのおまけ付きで。彼はつねに死に取り憑かれ、そのことばかり語っているのに、モンテヴェルディのマドリガーレのように軽妙なところがある。絶望とあらゆる次元の困窮は、ヴェネツィアの石畳の上か、どこかの墓石の前でまるで延期されているかのようだ。久しぶりに彼の本を探し出して、頁をめくってみた。降って湧いたようにたまたまこんな一文に行き当たった。
 「おまえは視覚を失うにつれて眠りを失うだろう。(…)うつろだ、おまえの眼差しは。今では言い表すことのできない、ある過去のすべてがある。おまえは待つだろう、大きく見開いた、からっぽの目を、この不在に注いで…」。

 
 何を待つというのか。おまけにこの「待つ」の時制は未来形だ。それなのに眠りは失われることなく、眠りは眠りを紡ぎ続けている。われわれは暗くて陰気な巨大な霊廟のなかを歩いていたのではなかった。ギュヨタの回想録めいた本に『昏睡』というのがあるが、記憶のなかに潜ったままでいることは昏睡状態に似ている。真っ白の昏睡状態。そこから覚める時がやって来る。死も同じである。死は何かから目覚めることかもしれないのだから。

 ある過去が頭をもたげる。ひとつの過去のすべてが。そっくりそのままで。だが言葉は口に端に出かかっているのに、いまここでそれを言うことがどうしてもできない。いや、言葉が出かかっているなどというのは嘘である。言葉は自らを吞み込み、自分を食い尽くすだろう。後に残るのは真っ白な昏睡というぼんやりとした記憶だけ。ある記憶が復讐しにやって来るのか。旅の記憶が? 私ではなく、記憶のほうが何かを待っているのか。不在であるのはどちらのほうなのか。復讐? 幸福な記憶が? そんなことはあり得ない…。

 
 四方田犬彦の新著『土地の精霊』が面白くて一気に読んだ。この本は旅行記で、ソウルからタンジェ、クラクフからカルナック、ハバナからパラオ、ウルルからタナ・トラジャ、ラサからルルド、奥出雲からノーンカーイまで、三十三の町をめぐる旅の記録である。著者には、ダンテの「煉獄」篇と同じように三十三の詩からなる『わが煉獄』という詩集があるが、その意味ではこの旅随筆も煉獄の記録なのだろうか。「私はこよなく聖なる浪から出てきた、新しい葉をつけ、すっかり衣がえした新身を浄め、いざ登るべく、かの星々へ」(寿岳文章訳)、煉獄の旅の最後に、ダンテはそう書きつけていた。

 記録などというと味も素っ気もない感じがするが、そうではない。戒厳令下のソウルや、きつい忘却にさらされたチェジュドや、ベイルートや、西エルサレムや、ユダヤ人の強制収容所のあったテレジンと、それらに比して、例えば廃アパートを乗っ取り勝手に住みついたパンクたちのたむろするロンドンのカメドンの家(私もよく聴いていたバンド、フライング・リザーズのメンバーの恋人の留守部屋でなんと四方田犬彦は寝泊まりしていたらしい!)、ハバナからのおかしな逃避行、インディオの町クスコのコカの葉譚では、その書きっぷりに違いがあることはもちろんであるし、旅がいつも同じトーンで彩られているはずはない。だが幸福な思い出はいつも苦い味がするし、太陽と月が苦いように、同じことである。
 著者の人格は時間と場所を引きずって旅そのものに憑依される。いずれもう誰のものかもわからなくなるはずの記憶のなかには、通りすがりに、日も照るし、雨も降るのだから、旅の随筆集というのはこうでなくちゃならないのである。主観的なノスタルジーのことを言っているのではない。その点ではこの本の文章はどこか緊迫していて、切り詰められている。この本には悲痛さの木陰にあっても真率さと爽やかさの大気が満ちている。ある種の口惜しさを伴いはしても、日本からやって来たこの「人生の乞食」も、まるで自然にそうなったかのように旅人であることを受け入れたように見えたこともあったに違いない。この本の四方田犬彦は何よりもまず土地を、場所を、人々を、世界を愛してしまったのだろう。われわれが生きているのはこの世界なのである。
 旅は「知識」を授けてくれるのだろうか。ニーチェを引用しなくても、たぶんこれらの喜ばしき知識は貴重なものとなるに違いない。ともあれ著者の記憶の鮮明さには驚くべきものがある。例はいくつもあるが、例えばイタリアの町レッチェについてのくだり。
 「レッチェの魅力は、長い午後がようやく終わり、いつしか忍び寄った夕暮れが夜へと転調していく短い時間の間に、いや増していった。昼間は老人の黄ばんだ歯のようにしか見えなかった建物の色調が、ひとたび夜間の照明を投じられると、深遠なる静謐さ湛え始める。静謐さは怜悧にして柔和であり、複雑な装飾を携えていながらも、手を触れれば溶融してしまうかのように流麗でもあった。建物のある部分は凍てついた花火のようであったが、その隣は溶けだしたままふたたび凝固した、黄金のクリームのようだ。
 不思議なことに、夜ともなれば広場でも大聖堂の前でも、人を見かけることがほとんどなかった。迷路を廻り無人の広場に躍り出たわたしは、そこが昼間訪れたのと同じ場所だと気付くのに時間がかかった。別の道を辿り、別の証明に導かれて到達した場所は、まったく異なった相貌をわたしに示した。わたしは自分が長らく育ててきた孤独が、この町に入り込んだ瞬間からより純粋に、より深く研ぎ澄まされたような印象をもった。とはいえ、邸宅の壁面や円柱に刻み込まれ、純白に輝く彫刻たちは、わたしにむかって永遠の喜びを説いてやまなかった。
(…)
 あるパラッツォのメンソーラ、つまりバルコニーの下の持ち送りの部分には、上部の突出を支えるため四体の女性の立像が設けられていた。彼女たちは目を見開き、腕にかかる台座の重量をものともせず、永遠の任務に就いていた。左側の台座の下にある二体の像は、美しい顔と肢体、そして細やかな襞をもった衣装を保っていた。だが右の二体はといえば、不幸な偶然から長年にわたって雨風に浸食され、ひどく傷んでいた。一体は鼻梁が半ば剥離し、片腕が惨たらしく欠落している。そのために優雅であった衣装は削ぎ落とされ、やせ細った肉体に浮かび上がる肋骨のような姿を見せている。だがもう一体はさらに悲惨なありさまであった。顔は損なわれてこそいなかったが、全面にわたって鱗ともケロイドともつかない泡粒に覆われ、それが首筋を伝わり、掲げられた両の腕から胸元の衣装にまで及んでいる。その奇怪な姿は、あたかもこの地を襲った悪疫が、任務遂行のためにこの場所を離れることを許されなかった彼女を、唯一の犠牲者として選び出したかのように思われた」。

 
 私はこの場にいながらにして、同じように鮮明な旅をすることができるだろうか。たぶん無理だろう。私は著者の旅のこの鮮明さに感嘆の念を覚える。旅人もまた風景のなかにいるように見えることがあるだろうが、旅人にとって自分は風景のなかにはいないのだ。

 だがここで私が私を思い出し、覚えているということは、私がそこにある風景のなかを通り過ぎたということとどう違うのだろう。私が風景のなかを通り過ぎるには、私は私を忘れていなければならない。私はどこにいたのだろう。どこにいるのだろう。どこにいることができるのか。だが厳密に言って、私が私を思い出すことなどほんとうにあるのだろうか。どの「私」なのか。

 
 記憶の鮮明さはどこへ向かうのだろう。それは発作のように突発的なものなのか。発作はずっと続いているようにも見受けられる。この場合の鮮明さは必ずしも固有名や実在論的な歴史=物語についてのそれではない。少なくともそれだけではない。そして無数の唯名論的な歴史は大文字の「主体」、歴史的主体と呼ばれるものを欠いてしまうのだろう。

 だがわれわれ全員が健忘症にかかっているのだ。それはプラトニズムの病いの結果なのかもしれない。「そのとき」というものはもうないのだから、瞬間が物語を開始し、物語が瞬間を動かしたというのは確かなことではない。むしろそんなことは「悪い」小説かもしれない。ぶよぶよの大頭の書いた小説。われわれが気に入っているのは、何の役にも立たない事物であり、ゴヤの描いた幽霊やゴヤの見た幽霊のほうである。三途の川を渡る六文銭はもっていないし、好きなのは三文オペラや三文小説のほうである。

 
 旅人はユリシーズのように帰還するだろう。待っているのは、ノミだらけになって死にかけている愛犬アルゴスだ。四方田犬彦は別の本『蒐集行為としての芸術』のなかにこう書いていた。

 「最後に真白い忘却が到来する。事物は来歴からも、寓意からも解放されて、どこまでも横滑りを続ける瞑想の対象となる。それは記憶をめぐる擽(くすぐ)りであり、永遠に辿り着けない想起の行為となる」(「洪水の忘却」)。

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                                                            第70回 2016年1月




もうひとつの陰翳


                                        
                                                                      鈴木創士




ベルナール・ラマルシュ = ヴァデル『すべては壊れる
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ

 

 


 年末、咳をごほごほしながらモランディ展を見に行った。
 この美術館は安藤忠雄の建築だが、いったいどこがいいのだろう。それどころか私にとっては最悪だ。必要以上に歩かされる。ほとんど無意味なだだっ広いだけのスペース、途中で休めるソファも、絵を遠くから眺めるには低すぎる。陰気で無味乾燥な近代的霊廟のなかをぞろぞろ歩かされている気分になってくる。気持ちがかさかさしてくる。ひどく疲れる。おまけに夕方ともなれば何ともいえない不気味さがあちこちから漏れ出ている。埋葬されかかっているのか。どこの誰が? 絵を埋葬するというのだろうか。いや、絵を埋葬できるのは画家だけである。展覧会を見終わると、コンクリートの貧相な霊廟の通路からすごい夕日が見えた。
 最近、大阪心斎橋にある大丸の建物、ヴォーリーズの最高傑作を取り壊すの壊さないのとすったもんだやっていたが、われわれはほんとうにどうしようもなく愚かである。あきれて、微熱のせいでよけいに無力感に襲われる。未来のため、未来の市民のためと言うならば、陰気な霊廟こそが破壊の対象になるべきなのではないのか。
 でもモランディ展なのだから、気を取り直そう。

                                      *

 光のなかに、淡い光のなかに溶けてしまったのだとずっと思っていた。だがそうではなかった。私の思い違いだったのか。

 
 イタリア・ボローニャの画家ジョルジョ・モランディの描く物も、物の置かれた平面も背景も、光の粒子に分解されてはいなかった。光の粒子は凝集し、背景の荒い筆の痕跡が消えないままに、それでいて絵の前景は丹念に塗りこめられ、そのまま別のあえかな発光体となって、ぼんやりと影を含めた影の反対側をつくり出していた。だが灰色がかった、歳月によって汚れたままのピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画を思わせる色調といえども、そこに強く物が在ることを弱めることはない。埃をかぶったままの壜や花瓶や水差し、これらの物が言葉を語らずに自らを、自らの本質を主張するためには、背景のどこか、あるいはまた別のところ、つまりタブローのなかに、見えない光の「白い穴ぼこ」が、あるいは「白い背景」のようなものがそれとなく口を開けていなければならないのだろうか。そうとは名指せない灰色とは、「白い穴ぼこ」なのか。この白さは闇をもたない暗がりの一種、すなわちある種の明るさだろうか。この無意味な白い穴ぼこのせいで、物はへこんで、後ろに少しだけ後退し、そのことによって一気に物は前のほうへと現前する。物はつねに前にある。小さくかしこまって、ちょこなんと、かわいらしくもあり…。私は矛盾したことを言っている。だがモランディの絵画は矛盾だらけなのだ。


 
 そこに描かれた物の本来の影もまた、ただそこを時が過ぎ去ろうとしていることを、そこがこの世であることを、そして物が生活のなかに、なにものにも邪魔されることのない静かな生活のなかに置かれていることを示しているだけだった。光と影と物は分解するどころか、薄明かりのなかで、それぞれがそれ以外の言葉をもたずに不思議なコンポジションをつくり出していた。これは明らかに画家が意図したことだった。そしてタブローのなかからは物音はほんの少ししか聞こえなかった。聞こえるのは窓の外の遠くの鳥の囀りくらい…それに誰もいない…。すべてが淡い光のなかに溶けるいわれはなかったのだ。光はそのままただぼんやりとそこにあって、そうして稀薄なまま何事もなかったかのように薄く淡く満ちているだけである。


 

 私はふらふらしながら絵を見て回る。一緒に行った連れは画家だから、彼女なりの見方がある。私には関知できないことである。私は絵をひとりで見ている。モランディの宇宙は選択されたものである。少なくともわれわれが見て知っていると思い込んでいる世界は、つねにわれわれの世界とは別種の世界なのだ。画家たちはそれを見ている。これは画家にとってほとんど公理と言えるものであるが、この世界には、画家が見ている世界には、いったい何があるのだろうか。われわれはそこに住んではいないが、私はそこにしばらく住んでみたいといつも思う。そしてウンベルト・エーコが言うように、モランディの絵は連続していない。マチエールであることをそれとなく主張するマチエールは連続を免れるのかもしれない。だがそれだけではない。それは不連続の物の世界であるし(この点ではやはりモランディが形而上学派を通過したことは無駄ではなかった)、同時に物の世界でないとも言える。



 「静物」はイタリア語ではnatura morta、つまり「死んだ自然」である。英語ではstill life「静止した生、または生活」である。これは同じものを指しているのか。もののけの物でもあることを考えれば、日本語の「静物」という訳語は折衷的でなかなかいい。モランディはイタリア人だったのだから、彼の静物はまずは死せる自然であったことは覚えておいたほうがいい。ところで、花瓶に生けられた、モランディが描いた花はつねに造花だった。では、風景画に描かれた風景も含めてモランディにとって「自然」とは何だったのか。少なくともそれは画家の目にとって選択された自然、選択されざるを得ない自然である。埃はそのままなのだから、淘汰されるのではない。自然はけっして淘汰されず、フレームのなかに選択されるのだ。たぶん望遠鏡を使わずとも、モランディの目は望遠鏡の機能も果たしている。だが、それならそもそも「形の生」というものがあるのだろうか。
 モランディの静物を近くから、そして遠くから何度も見てみる。形は好みどおりにそれぞれ違っているが、たしかにそこには円錐、円筒、球がある。だが、セザンヌが言うようにそれだけなのか。私にはいまのところ何も言うことができない。言葉は予兆になる寸前に、喜ばしくも地に墜ちる。モランディの沈黙は知性であり、知性の外面を必要としない知性の賜物であり、この不退転の頑固さには厳しさも激しさも愛嬌もある。

 

 暗い色調の絵は、実物を見ると、誰の絵ということもなくどこか伝統的なイタリア絵画を思わせた。これはモランディがピエロやジョットに心酔していたということとは別の意味である。ああ、それにしてもあれらのルネッサンスの画家たち! モランディの暗い色調の絵がそれほどずっしりとしていることに私は今回あらためて気づいたのである。明るいほうの絵とはまったく別物である。そして暗いほうの絵にはすべてを抹消しかねない「白い穴ぼこ」は描かれてはいない。水彩画と比べてみれば、それははっきりしている。われわれには見えているはずのものを誰も見てはいない。私はモランディとよく比較されるシャルダンを比べようとは思わない。シャルダンの静物も素晴らしいが、私にとってはまったく違う絵にしか見えない。

 

 光による類似。光を透過する、光に透過された物による類似。差異が際立つのはしたがって当然のことである。モランディの絵画のなかの類似性は、批評家たちがかつてこぞって差異について言っていたこととは反対に、汲み尽くし得ないものとしてある。光は、淡い光もハレーションも含めて、すべてを似たものに近づける。たしかジャン・ルイ・シェフェールが『エル・グレコのまどろみ』のなかで言っていたように、光による類似があるのだ。コンポジションが変えられたとしても、それでいて類似性は充満する。もうひとつの平凡さ、もうひとつの平板さが姿を現す。その様は誰も見たことがないものであり、もはや凡庸とは似ても似つかぬものだ。もうひとつの陰翳、つまりもうひとつの暗がり、もうひとつの明るみがこれに関与する。これらの壜の単独性、その明るさは、細部が全体と相似であるという条件において、まさに類似のなかで現実化される最終的な光の様態なのである。魔術の解説をしているのではない。私が言いたいのは、現実は、少なくともモランディの絵画のなかに描かれた現実は、そうなっているということである。

                                      *
                                        
 久しぶりに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み返してみた。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは写真家田原桂一について「写真的行為の諸様態」という見事な写真論を書いているが、そのなかに、写真家の目とカメラが捉え、写真が写し出す光の様態と特質をめぐって、谷崎のこの本についての言及があったからである。田原桂一の写真についてここで詳しく論ずることはできないとしても、彼の作品集『窓』もそうだが、それより前に見たはずの作家たちのポートレートを集めた写真インタビュー集『ホモ・ロクウェンス』もまた私にとってとても印象深いものであったことを言い添えておこう。私はそれらの作家たちのポートレートをいまでもありありと思い浮かべることができる。そればかりかラマルシュ=ヴァデルは、田原桂一の「窓」をマチスやロスコの「窓」の命題を覆すものだったと言っているのである。これが絶賛にほかならないことは言うまでもない。

                                       田原桂一『窓』より

 宇野邦一は新著『〈兆候〉の哲学』のなかで、このラマルシュ=ヴァデルの田原桂一論がほぼ完璧という印象を与える精緻なエッセーであると書いているし、また川端康成や芥川の言う日本人の「有終の美」や「末期(まつご)の目」、はたまたラマルシュ=ヴァデルの言う「日本人のベネディクト会的パラノイア」については、「かなり繊細な思考や感性をもつ西洋の人でさえも、アジアを外からながめるときには伝染してしまう〈エキゾティスム〉に彼もまた陥っていることを否定しようとは思わない」と述べているが、私もそれらのことに同感である。だが、ふざけた言い方ながら、われわれはラマルシュ=ヴァデルの味方である。さしあったてここで私が取り上げたいのは、ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのエキゾチズムについてではない。

 

 ここで谷崎潤一郎のことを長々と書くのは嫌だし、私は大谷崎の文章のうまさを認めることに吝(やぶさ)かではないが、彼のエッセー、この『陰翳礼讃』や『饒舌録』が、ラマルシュ=ヴァデルとは違ってどうしても好きになれない。
 たしかに光にはさまざまな質があり、闇にはいくつかの層があることを、谷崎は自家薬籠中の物を懐からでも取り出して、光と闇の手まりをうまく手なずけでもするように、説得力をもって、出だしは繊細な筆致で描き出しているが、それがどうして日本人と西洋人の光の捉え方の違いなどという結論に落ち着くのか私には合点がいかないのである。おまけに厠の話を筆頭に、光と影の質というきわめて繊細な問いかけからこの随筆が始められたにもかかわらず、あげくの果てに陰翳をとらえる能力が、あたかも肌の違い、黒人や白人や黄色人種などというものに関わっているなどという結論じみたことを言われた日には、そんな馬鹿な、大谷崎もただの俗物でしかなく、彼の美学はその悪趣味を映す鑑であったのではないかとしか考えようがなくなるではないか。彼の「趣味」とやらを百歩譲って尊重するにしても、この『陰翳礼讃』のなかで述べられた彼の和風美学から鑑みれば、神戸の岡本にあった恐らく彼が建てた唯一の家屋、阪神大震災でつぶれてしまった和洋中折衷のかなり奇矯な家のことを考えれば、いかにそれが歴史的には貴重なものであったとはいえ、まあ、余計なお世話であろうが、趣味の世界においておや、言行一致はなかなか難しかったのではないかと同じ日本人として少しだけ意地悪も言ってみたくなるのである。

 

 薄暗がりは薄明かりでもある。
 もちろん西洋絵画のなかの光、というか絵画のなかの光の質も、それ自体すべてが独特のものである。それに関しては光と影について谷崎の言うことに一理あるとしても、まったく反対の含意としてである。例えば、南フランスや地中海の風光、その光と影の質とは無関係であるとは考えられないニコラ・ド・スタールの晩年のタブローの明るさについて思ってみるなら、結局は自殺してしまったこの亡命ロシア人の絵には、明るさと、明るさだけによる陰翳がほとんど取り返しのつかない形で塗り込められているからである。このことは動かし難いし、ある意味では異様なことだった。グレコにとってのトレド、ヴァン・ゴッコにとってのアルル、セザンヌにとってのエクス、モランディにとってのボローニャなどなど、ある場所が画家にとって決定的であるということはあるだろう。その場所には独特の光が射していて、独特の暗がりがあるからである。谷崎があえて日本の暗がりについて言うまでもなく、画家たちの目からすれば、至極あたりまえのことではないか。

 

 夜であればいつ祖父の家の厠に行こうとも、あたりの闇からじめじめした冷気が伝わって来る木造の渡り廊下から、いつもヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのが見えていた。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのは怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。私には白っぽくも見えた幾層をもなすこの闇の層のことはよく覚えているが、谷崎潤一郎が言うように、だからといって自分が真に風雅の骨髄を心得ているなどとはとうてい思えないのである。

 

 最後にベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの「陰翳礼讃」ともいえる詩の一部を引用しておこう。陰翳礼讃とは光の礼讃でもある。詩は「カテドラル」と題されている。

    遺灰へと通ずる足音は
    薄暗がりのうちのいったいどこで響いているのか
    一年中陽に照らされて赤銅色になった
    希望のかけらに寄りかかる
    シルエットのなか
    上のほうに置かれた光の象嵌のあいだで。

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  第69回 病気の窓 - 2015.12.04

                                                          第69回 2015年12月




                                  病気の窓


                                        
                                        
                                                                        鈴木創士


                                        


アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『ナジャ
笠井叡『銀河革命』『天使論』『聖霊舞踏
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに




 以前、フランスの作家が、窓の外から、寝具の乱れた、誰もいない寝室を写真に撮って、それに「恢復期」というタイトルをつけたい、というようなことを書いていたが、それでいいのだろうか。窓越しに光の射した、誰もいない明るい部屋は、むしろ死の部屋である。タイトルは「死後」か「死臭」にしたほうがいいと思うけれど、それではあまりにあからさまに過ぎるだろうか。

 

  数日前からひどい扁桃腺炎をやってしまった。子供の頃、いつも扁桃腺を腫らしていたことはおぼろげに覚えているが、こんなにひどいのははじめてのことだった。
 金曜日に大阪の画廊に行って、そのあと近くでコーヒーを飲んでいたら、ずいぶん喉が痛いな、と人ごとのように思っていた。さっき見た友人の描いた静物画以外のことは何も考えていなかった。つまらない現代美術ではなかったので、とても気に入った。できればほしいし、値段くらい知りたいとも思ったが、画廊の人と口をきくのが嫌なので、諦めて画廊を出た後だった。
 コーヒー店は客も一組くらいで、がらんとして、微熱状態にはうってつけだった。ガラスの向こうはもうすっかり暗くなったばかりである。孤独と病いがからだの感覚を研ぎすますことがある。からだが他人そのものではなく自分の他人のようなものと化し、自分が自分を見る他人のようになっている。それでいて当然すべてが自分のなかで起きているのだが、言えることは、ただ時間だけが無駄に流れ去るということだけである。自分が無為のただなかにいることがわかる。これは非常に哲学的な経験なのだが、この感じは案外好きである。ジャン・ジュネは無為のなかで星空を見上げたとき、シーザーが見た星空と同じ空だと思って驚愕したことがあったらしいが、このコーヒー店の窓の外を誰が見たのだろう。相手がジュネなのだから、こんな比較は馬鹿げているが、誰もが、万人が、窓の外を見たのだ。ということは誰も何も見てはいないのか…
 電車で神戸に戻った。しみったれた感じのする電車のなかでひどく肩が凝っているのがわかった。三宮に着いて、入ったことのない居酒屋に入った。食べ物がひどくまずく感じられた。喉のせいではなく、たぶんほんとうにまずいのだろうと思った。金曜日なのでかなり込んでいたが、まわりに興味を覚えるような若者も老人もいなかった。魅力的な亡霊も外道(これは仏教用語で、妖怪その他のことである)もいなかった。類似はあった。灰色の類似ならいい。でも灰色ではない。これはけばけばしい、うるさい類似だった。こんなときにひっそりと愛すべき孤独を感じることができるのか。まったく無理である。退屈が嵩じると、しまいにどうしてこんなところにいるのだろうと考える自分にいらいらしてくるだけだ。早々に引き上げるにしくはない。大阪でも少し飲んだので、もうかなり酔っているなと感じられた。顔がやけに熱い。植物の気持ちはわからないが、花が咲いたみたいである。たぶんかなり熱が出ていたのだろう。
 よせばいいのに、もう一軒知らないところに入った。一種の悪癖のように何かを考えようとしていたが、頭のなかは空洞で、脳軟化症を起こしそうなほど退屈とつまらなさと疲労が押し寄せて来たので、店を出た。友人のやっているバーへ向かった。こういう感じになると、最近は、軽い病気のごとくさっと引き上げることがなぜかできなくなってしまっている。ナジャのことを書いたブルトンの気持ちがわかると言えばおおげさだが、私はいい歳をして何かを「待っている」のだろうか。だが、私は、ブルトンのように「私とは誰か?」などとは思わない(ナジャを書いたときブルトンは32歳だった。まだ32歳だったとも言える)。自分を棚に上げて、ただの通りすがりの人を決め込んで…。酔っていても、通行している人々や、たまにはまぼろしを眺めることはできる。見ているのはこっちのほうである。雑踏はもともと嫌いではなかったのに、どうでもいい世の中だ。一億総活躍社会だって? 本気で言っているのか。心の底から嗤わせる。臍が大やけどだ。いったいこの国はどうなってしまったのか。この国の文学だってつまらないことこの上ない。もう誰かと誰かは同じ言語を喋ってはいない。ああ、そうだとも、元々そうだったのだから。だが今は危機的だし、歴史的惨状と言ってもいいかもしれない。まあ、いいさ、それにしてもほんとうにうんざりする。
 バーで、喉の消毒になると思ってテキーラを何杯も飲んだ。私よりずっと若い友人のTがやって来たので、気分がよくなり、飲み過ぎてしまった。二人で次の店にも行ったのだが、どういう経緯なのか、何が悲しいのか、何が悪いのか、よく覚えていない。悪いのはたぶん私なのだろう。帰ったのは朝方近くになっていた模様だ。その日が最悪だった。土曜なので、もう医者はやっていなかった。寝ないまま午前中に医者に行く元気はまったく失せていた。真夜中を過ぎると、喉が腫れすぎて息が苦しくなった。鼻も詰まっていたので、息ができない。まったく眠ることもできない。救急車を呼ぼうかと思ったが、扁桃腺くらいで救急車を呼ぶのもアレだろうと思ってやめた。月曜朝一番に医者に行ったら、そういう場合はすぐに救急車を呼んで下さいと叱られた。死ぬことがあるらしい。
 以前、文楽について「息をつめる」という文章を書いたことがあるが、こちらは、浄瑠璃や人形が、息をこらす、息をこらえる、息を殺す、息を吞み込むということである。浄瑠璃の歌というか科白が途切れ、そして人形が絶句するのである。だけど今回は息をつめたのではない。文章が絶句するように、言葉と言葉のあいだで絶句したのではけっしてない。パニックは言葉を全部消し去ってしまう。
 以前、心臓が悪くなり、肺に水がたまって息ができなくなったことがあったから、二度目だった。二度あることは三度あってほしくない、とつくづく思う。
 息ができない。この怖さはそんな経験をするずっと前から感じていた。阪神大震災を経験してからよけいに窒息を恐れるようになったかもしれない。でもエドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」という短篇が昔からめっぽう怖かった。棺桶のなかに生埋めになる話である。落語にも河豚毒(テトロドトキシン)で仮死状態になって棺桶のなかで目が覚めるという似たような話もある。アルトーは、棺桶の四つの板があるから人は死ぬのだと言っていたが、一理ある。

 

  ずっと床に臥せっているので、俺のからだはどうなっているのだろうと考えざるを得なかった。昨今は喉だけではなく、ご愛嬌のように、あちこち悪くなっているが、最初にひどくからだが悪くなり、ほとんど歩行困難になった頃、ダンスを見たことがあった。笠井叡の弟子筋に当たるとかいう人が振付けをして(失礼ながら、お名前は失念した)、クラッシック出身の女性ダンサーばかりで構成されたモダン・ダンスだった。美しい跳躍。伸びた脚。軽い肉体。空中というものが、空気が、そこにあった。私はひどく感動した。舞踏を見て感動したことはそれまでにあったが、そのときは少し違った。変な気持ちだった。私は、どうやってその会場にまで行ったのか、この人はどこへ帰ればいいのか、というくらいひどい状態だったはずである。その感動はたぶん野蛮人の感情だったのだろう。繊細と野蛮はもちろん両立する。



 だが病いは何らかの欠損や欠如ではない。じつはほとんど充溢の状態である。タマゴのように充満している。マルセル・グリオールの本にドゴン族の宇宙タマゴのことが書かれていたが、そんな感じである。そんな感じと言われてもわからないかもしれないが、こんなからだは日常のなかにもいくらでもある。アルトーがそうしたように、つまり組織や構成や構造のないからだというものを考えることができるし、実際われわれはそれを生きている。病んだからだ…そこから始まるものがあるのだ。
 病んだからだは不動であるが、不動は動とまったく対等である。今年急逝した舞踏家室伏鴻の映像を見ていて、彼の美しい肉体が地面で動かなくなったとき、はっとしたことがあった。動かないこのブロンズのようなからだは、日時計の上でじっとしている蜥蜴のようだった。蜥蜴は冥府から戻ったばかりだった。すぐれた彫刻が不動のなかから浮遊や揺れや上昇や沈下、逃亡や消滅をつくりだすように、そこでも同じようなことが起きていた。だがやはり実際には動いていないのだ。

        

 世阿弥は足さばきがうまく、上手に歩く人だったらしいが、年がいってそれが嫌になったのか、少し考えに変化があったようである。現在、われわれの知る能の動きはむしろこちらの考えが元になっていると言える。なるべく動いてはならない。『花鏡』の冒頭近くには、「心を十分に動かして、身を七分に動かせ」とある。「立ちふるまふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ちはたらけば、身は体になり、心は用(ゆう)になりて…」。「用」とは、働き、あらわれのことである。動かなくても、心はさらにもっと現れるのである。河村悟の土方巽論は「裏の身体」について語っていたが、裏の身体がつくりだす裏の動きがある。つまり動かないことから始まるものがあるのだ。舞踏家と病人。

 

  疲れたのでもう筆を擱く。恢復期。なるべくなら動きたくない。

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                                                          第68回 2015年11月





 ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルと小説『すべては壊れる』





                                                                        鈴木創士





ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル『すべては壊れる』(11月中旬発刊)


 

 


 「もう誰もが誰にとっても誰でもない」(ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル)。

 


 ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは1949年フランスのマイエンヌ県に獣医の息子として生まれ、2000年に自らの頭をピストルで撃ち抜いて自殺した。
 今回、『すべては壊れる』を翻訳したのだし、以下は、まだ未刊の訳者後書きに書いたことと重複するところもあるだろうが、まあ、いいだろう。

 

 もうずいぶん前の話になるが、ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルが小説を書いていることを新宿のバーで宇野邦一さんから聞いたとき、ああ、ヨーゼフ・ボイス論の美術評論家だなと思ったくらいで、あまりぴんときてはいなかった。宇野さんはラマルシュ=ヴァデルに会ったことがあり、その小説を原稿の段階で読んだらしく、最初の長編小説『獣医』を翻訳する気はないかと宇野さんから勧められたのだが、私はその小説の存在すら知らなかったので、勿論、その場で返事はできなかった。
 このようにして自分が翻訳すべき著者と出会うことはそれまでまったくなかったので、少しばかり面喰らったが、ラマルシュ=ヴァデルが監修していたクリスチャン・ブルゴワの美術評論叢書や彼のやっていた雑誌『アルチスト』を手に取ったことはあったし、それ以外にも彼の名前に妙にひっかかるところがあった。

 

 フィリップ・ソレルスたちがスリジー・ラ・サルで行ったテル・ケル主催のアルトーをめぐるコロック(「アルトー/バタイユ」)の記録にたしかベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの名前があったことをぼんやり覚えていたのである。自信がなかったので宇野さんには黙っていたが、帰って本を見てみるとやはりそうだった。
 ソレルスの「アルトー状態」と題された発表の後の討論会に彼の名前があった。時代は『アンチ・オイディプス』の影響さめやらぬ、まだ騒乱の気配が残っていた頃である。当時ソレルスはおおむね何を語ろうが喧嘩腰だったし、ソレルスとベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのやりとりもやはり刺々しいものだった。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは、文面から察する限り、紳士的な物腰で意見を述べていたはずだが、ソレルスのほうは、アルトーについての討論会なのにアルトーの名前を一言も出さず、「倒錯」の話をしていてクロソフスキーの名前でそれに答えようとするのはどういうことか、と最初からほとんど喧嘩腰で喰ってかかっていた。今から思えば、当時のソレルスとテル・ケルは、勿論日本の読者にはあずかり知らぬ狭量な事情その他によって(私にはよく理解できたのだが)、必要以上に党派的だったのだと言わざるを得ない。これは余談であるし、彼自身が書いていたことだが、ソレルスはずっと昔にクロソフスキーに会いに行って幻滅したことがあったそうである。



 そのソレルスの全面的な肝煎りで、ラマルシュ=ヴァデルが四十歳を過ぎてはじめて書いた長編小説、三部作第一作の『獣医』と第二作である本書『すべてが壊れる』が、ソレルスが監修する「ランフィニ」叢書から刊行されたのである。ずっと後で知ったことだが、ガリマール社の原稿審査会のメンバーであるソレルスは、ラマルシュ=ヴァデルの『獣医』の原稿の一節を審査会のメンバー全員の前で朗々と朗読して、その文章の価値を力説し、彼の小説の出版を強く推奨したほどだったらしい。除名や絶交や、その裏返しの友愛にたけた執念深いフランス人のことだから、アルトーをめぐるやり取りからもうずいぶん時間が経っていたとはいえ、これには余計に興味をそそられずにはいられなかった。『獣医』は最初の小説に与えられる部門のゴンクール賞を受賞した。


 

 ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは数多くの現代美術の展覧会を組織した著名な美術評論家であり、美術作品のコレクターとしても知られている。ヨーゼフ・ボイスのフランスへの最初の本格的紹介者であったし、ミケランジェロ、ジャコメッティから、ヴィルグレ、パラディノ、クロソフスキー、タピエス、オパルカなどまで、数多くの美術評論書がある。写真についても書いていて、ヘルムト・ニュートンや友人だった田原桂一をはじめとして、ジャン=リュック・ミィレンヌ、ルイス・ベルツ、ベッティナ・ランスなど数多くの写真論がある。



 彼の美術評論と他の美術評論の違いは、まずは対象との独特の距離、つまりその近さや接近の仕方にあり、何を書くにしてもラマルシュ=ヴァデルは生半可な「一般論」を徹底的に排除しているということだ。「もう誰もが誰にとっても誰でもない」のだから、彼は論ずる対象、剥き出しの、裸の対象に近づき、まず評論と作品や画家との関係を繊細に、ときには記号論的なまでに精緻に織り上げることから始めていたようである。いまではわが国の評論の現状を見ればわかるように、美術評論といっても、そこには誰もが簡単に調べることのできる一般論しか書かれていないのだから、ラマルシュ=ヴァデルの評論には読者としても特別の集中を要することになるのは言うまでもない。彼のエクリチュールは厳格である。ラマルシュ=ヴァデルは現代美術を論ずる「前衛的」な批評家だったのだが、彼の評論の背後に、日本ではほぼ考えられないことだが、例えば、彼の属さない(偉大なところがあると私も認めざるを得ない)フランスのアカデミックな美術論の伝統がそれでも厳としてあることを垣間見てしまうことがあるのは、恐らく彼の意に反してであろうが、このことと無関係ではないかもしれない。彼はどんな対象に対しても言葉の正当な意味において真摯であり、きわめて誠実である。その繊細な写真論についても同じである。

 

 彼はいつもスーツにネクタイ姿で、紳士的でダンディーで、慇懃でそれでいてユーモアがあったらしいから、その人となりについても同じことが言えるのかもしれない。誰だったか、作家としての彼とレイモン・ルーセルを比べていた人がいるが、作品の質はまったく違うとはいえ、ラマルシュ=ヴァデルの独特の「孤絶」の仕方から見るなら、この意見には私もどこか同感である。さまざまな証言から察するに、彼の人となりやその物腰は、言うまでもなく、逆に彼の晩年の小説作品からも直接想像できるように思われるが、別の一面というか、もうひとりのラマルシュ=ヴァデルもいる。



 本書『すべては壊れる』にもはっきりとそれを感じ取ることができるが、最晩年に近づくにつれて、ラマルシュ=ヴァデルの書くものからは、さらに「死」に取り憑かれ、死を見つめ、死を研究し、死を前にする姿が容易に見て取れた。かなりの期間ひどい抑鬱状態にあった晩年の彼を知る人たちが口を揃えて言うには、だからこそ彼が自殺したときも、それを当然のことのように受け止め、死を知って騒いだりする者はいなかったのである。三部作の最後の本『彼の生、彼の作品』は完全に死を準備するようなとても奇妙な筆致で書かれた本だったし、最晩年の『芸術、自殺、プリンセスとその臨終』にはダイアナ妃の事故現場の詳細な記述があり、とても印象的なものだった。

 

 彼がどうして晩年に小説を書き出したのかはわからないが、それから十年ほどして彼は自らこの世を去ってしまうのだから、このことに意味がなかったはずはない。彼は死を前にして何を見ようとしていたのだろうか。彼はとにかくずっと長いあいだものを注意深く見ていたのだ。それが尋常ではない本書『すべては壊れる』の訳者である私にまず言えることである。
 すべての美術評論家がものを見ていると考えるなら、それは残念ながら大きな間違いである。トレンドと紋切り型とマーケティングと人から借りたコンセプト、自分の知識ならぬ情報と平凡なインスピレーションを混ぜ合わせただけなら、たいしたものは生まれるはずがない。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルにそのようなところはひとかけらもなかった。文章は恐ろしい。人生は恐ろしい。書くとはそういうことである。
 ラマルシュ=ヴァデルは若い頃に詩集も出していたが、彼にとっては、小説であれ、美術評論であれ、写真評論であれ、恐らく「書くこと」だけが問題であったのだろうから、彼の、彼にしかできない独特の「物の見方」がそのまま小説に投影されていることは避けられないし、動かしがたいことだった。すべては理屈どおりなのである。そうでなければ、彼の作家としての人生は無駄だったことになるではないか。

 

 小説芸術は、そのまま物語や説話やナレーションを意味するわけではまったくないし、そもそもそれらとは全然別のものである。小説『すべては壊れる』は、言ってみれば物語から漏れ出しては再び物語に浸透してしまう「細部」だけで書かれていると断言していいかもしれない。はっきり言って、細部がすべてである。
 ものを見るとはまずディテールを見ることであり、それが「全体」を形づくるかどうかは、後になってからのことだ。この小説にはたしかに全体らしきものはあるが、「全体」は不分明なままであるとしか言いようがない。概念もまた全体ではなく、細部である。審美的対象についてもしかり。そうでなければ、ドゥルーズが言うように、概念を創造し、美学を発見することはできない。小説に関しても、場合によっては、まったく同じようなことが言えるのではないか。
 翻訳しながら、『すべては壊れる』がバロック芸術に似ているという思いを払拭することができなかったのも同じ理由からである。細部は増殖し、分岐し、別の様相を帯び、さらに肥大する。それによって全体のバランスはじょじょに崩れ、別の(小説)宇宙がそれとなく出来(しゅったい)する。この細部を読むことが私にとってほとんど快感に近かったことを告白しておく。読者にとってこの小説を「読む」ことが、しかも翻訳で読むことが、いかにも容易いものでないことは認めるが、それはそうなのである。
 そして驚くべきことに、その不分明さのなかから、静かな、しかし強い怒りと独特のユーモアが醸し出されていることが明瞭に感じ取れるのだ。ラマルシュ=ヴァデルの長編小説を読み出したとき、これはいったい何だろうかと最初に私は思った。どの本もどこかがおかしくて変なのである。妙な通奏低音がずっとかすかに聞こえている。これは彼のポエティック、詩法なのである。怒りもユーモアもそのようなものとしては「表明」されることはないが、この手法というか、彼の文章「芸術」が、他の追随を許さない、真似ができないほど高度で独創的なものであることは間違いない。
 だが何への怒りなのか。勿論、日々の(フランス)社会全体、隠然たる「全体主義」に対する怒りである。「死」は、社会への「死刑宣告」は表明されるのか? その意味では、この小説がいかにそれ自体「臨床的」なものであれ、本全体は現代社会についての立派な「解剖所見」であり、「死体検案書」なのである。ラマルシュ=ヴァデルは美術評論家であり、さんざんその世界にいたのだから、「芸術の世界」、「芸術家たちの世界」もまた同じようにその偽善的な現代社会生活の全体主義に含まれていることにラマルシュ=ヴァデルが苛立っていたことは言うまでもない。彼がうんざりしていたのは間違いないし、われわれもまたそれを共有しているのである。なお、彼の独特の社会批判の言葉はゴダール監督の映画『映画史』のほぼ末尾にも引用されていたことを申し添えておこう。

 

 『すべては壊れる』の主人公は、17世紀のカトリック司祭で説教家で神学者であった大文章家ボシュエ(ボスュエと表記すべきかもしれないが、慣例に従った)が雄弁に述べた歴史的登場人物たちへの格調高き弔辞集である『追悼演説集』を枕頭の書とし、日々それを読み、研究し、その本と、彼が偏愛する犬たちだけを拠り所として暮らしているのだが、私自身、このアナクロニックな設定がとても気に入ったのもたしかである。そしてこれが単なるこの本のお話の設定だけではないことは、ラマルシュ=ヴァデルのどの小説を読んでも、文章自体にあらわれていたし、ボシュエが作家ラマルシュ=ヴァデル自身のお気に入り以上の存在であったことははっきりしている。
 ずいぶん前、この説教家の「死についての説教」という有名な文章にはじめて接し、その文章のブレスト調、早さ、同時にその緩徐法に、そしてその哲学的で感動的な調子に私もまた魅せられていたのだから、なおさらこのボシュエの登場が気に入ったのも本当である。20世紀になっても、ボシュエはポール・ヴァレリーに讃辞に近い称賛の文章を書かせたのだし、そればかりか現代フランスの前衛的な作家たちにも隠然たる影響、どういう影響かはしかとはわからないにしても、とにかく影響を与えているらしいのである。ギー・ドゥボール、フィリップ・ソレルス、アラン・バディウといった人たちである。

 

 たぶん骨の髄までペシミストであったはずのベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの、これまた尋常ならざる動物への愛、とりわけ犬たちへの偏愛についてもここで触れておかねばならないのだろうが、これは本を読んでいただくとして、その深遠で複雑な現代的問題をはらんだ主題については読者に委ねたいと思う。

 

 最後に、小説の一節を行き当たりばったりに紹介しておこう。寄生虫のくだりである。

  われわれを占領している女たち、そして占領されたわれわれに対して占領を遠隔操作する男たちにとっての主要な困難は、毎日われわれを占領することである。われわれの地方へ向かう虫下しの飛行機はないし、貨物船をチャーターしたりはしないというはっきりして筋の通った決定、われわれをしつこく悩ますあらゆる本性をもったダニを撃退する殺虫剤、それにノミもシラミもだが、その貴重な殺虫剤の荷物を積んだ貨物船のボートはわれわれのほうへ向かって大河や川をきっと遡るのだろうし、死んだ獣の毛や羽根から出てきた、からだからからだへと移動する漂う褐色の外套膜、激しく刺されて死んだ獣の皮膚は、より温かい骨盤へ向かう彼らなりの猛り狂った大陸間亡命に向けて、寄生虫の茶色く黄ばんだ波のような表皮の毛穴のなかに最初の寒気がやって来るとすぐに裸になるのである。繁殖する輸送隊がそこを通ってマールバッハに侵入する道の端へ向かう、マールバッハの占領者全員を毎日養うなどというひどい約束を敵にまわして殺されずにすんだわれらが犬たちは、最も確実で最も直接的な伝令である。死んで嗅ぎつけられた鳥小屋のなかの鶏から、黒革の外套の上に寝転がった身体の脇の下と腹の皺まで、あるのはひとつの線、赤足たちの暗い背中の線だけであり、皮膚から吸い取り、別の場所に卵を産むという絶望の波打つ航海である。運の悪いノミや、体毛にちゃんとしがみつかず、ドラやファウスト、あるいは他の大きな犬の背中の丘の縁(へり)から落っこちた呑気なケジラミにとって、湿ったクローバーのなかの最後の希望は、最終救命ボートであるヘルツォークを待ちかまえることであり、そのヘルツォークの小さな身の丈は、おぞましい虫に対して、計算された跳躍によって、そして毛むくじゃらの足が通りかかった際には、列車に再び乗り込むことを許すのだが、その列車こそが、私の犬たちのうちの一匹の前腕の上や、何らかのより秘密めいた隠れ場所に、下顎骨を吸ってはさらに卵を産もうと縮こまったままそいつを連れてゆくのだ。パラシュートの末端に結わえられた空から落ちてきた小包は、地面に激しくぶつかって口を開けたか、それとも森のなかへ枝から枝へと落ちてくると、幹に垂直にぶつかって壊れてしまい、幹の皮を剥いでしまうが、われわれはそれを待ち望んだのである! スプレーよ、軟膏よ、腸のなかの砲撃よ、多種にわたる虫たちの幅広のスペクトルのための弔鐘の時刻よ、微細な爬行で渋滞した深い亀裂を詰め込むことのできる粉末状物質の小瓶よ、研磨剤よ、両手でしっかりと押した噴霧器のひゅうひゅう音を立てる毒性の煙よ、導入管付きの主チューブよ、われわれは十分に空を注視しているだろうか? 希望はわれわれによって下手に甘やかされているのだろうか? ひとつの策略とひとつの計画が支配しているのだ。つまりひとつの悪意とひとつの戦略、原子爆弾についての新しい視点、投獄、強制収容、だが贅沢な出費はなしで。今日では、誰ひとりもはや誰の心も個人的に占めたりはしない、それはあまりにも高くつきすぎるのだ、誰が番人たちの番をするのかを知るという古典的な問いのしつこく際限のない反響を考慮に入れないとしても。誰にもこれ以上時間はない、時間もまた崩壊したのだし、会計欄の衝撃によって吹き飛ばされたからだが、その会計欄というやつは時間を頭蓋冠の下で格闘する数字の怪物じみたごたまぜのうちにばらばらに解体し、その頭蓋冠の中味は取り返しがつかないほど分割され、その結果陰険にも無に帰せしめられたのだ。人間の目的の「占領」は次のことを命じている、すなわち人間を監視しながら、不可視の、そして誰にも知られていないが、それに向かって全員が急いでいる振りをしているひとつの数字が、人間の終局のいくつかの任務を十分すぎるほど課すことを、その終局のすべてを麻痺させ、そして反逆の唸りを呼び覚ますかもしれない苦痛をより少なくするために、この終局の任務がちゃんと選ばれるようにと。われわれの目にはテレビ、われわれの手にはシラミの卵とノミ、われわれの勃起には人を誘(いざな)う傷がへこませた骨盤、内側にある終わりのない破傷風がわれわれの頭上でとても生き生きとした木蔦の様相を呈しているが、その節くれだったねじれがわれわれの関節のまわりでそれらを凍りつかせているのである。

 

  (お断りしておくが、最後は洪水にすべてが吞み込まれてしまうこの小説は、このようなばばっちい場面ばかりでできているのではないし、おおむね格調高いものであることを言い添えておきます。)

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                                                              第67回 2015年10月
                                        
                                        
       

 
 

土方さん、死出の道連れのような散歩でもしましょうよ


                                                                       

 

鈴木創士



 

河村 悟『舞踏、まさにそれゆえに——土方巽 曝かれる裏身体

 

 

 私は江戸時代など嫌いだが、幻想の辰巳の里はもうない。土方巽は書いている、
 「春先の泥に転んだ時の芯からの情けなさが忘れられない。喋ろうとしているのに喋られたような、泥に浸されて下腹あたりにひっ付いた木の瘤が叫びを上げているような、自分という獲物がそこに現れているのだった。癇癪(かんしゃく)玉も、破片のように考えられるものも、泥で湿ってしまっていた。転んでいるからだは確かに餌食のようでもあったし、飛びかかってやりたいようなものでもあった。しかしそれもまた心の中の出来事がかたちをおびて見えてきているのではなく、ただ泥にまぶされた切ない気分となってそこに現れているのであった」(『病める舞姫』)。

 

 俺は三歳だった。サロペットというのか、新調した半ズボンを着せてもらって、喜びいさんで遊びに行った。背丈くらいにぼうぼうに草の生い茂る近所の野原でかくれんぼをやった。俺は地べたを匍匐前進していた。空が晴れ渡っていたことは言うまでもない。蒼天。雲ひとつない。記憶もない。俺はずるずる地面を這っていた。一緒に遊んでいたのが誰なのか、気のきかない幽霊なのかもう覚えてはいないが、みんなが、突然、わーと叫んだ。立ち上がってふと春うららの自分の姿を見ると、我ながら、俺はうんこまみれになっていた。まっさらのズボンがうんこの虜になっていた。恋をしていたわけではない。べとべとだった。犬の糞ではない。人糞を踏んづけて、その上をずるずる匍匐前進していたのだった。戦いはすでに終わっていた。空は翳った。臭気は宇宙の果てに行き着いたみたいだった。臭いなんてもんじゃない。口先三寸、目を閉じさえすればいい、するとうんこはもう目の前だ。卑怯にも大人のくせに、こっそり誰かが野ざらしのババをしたのだった。

 

 野ざらしや髑髏の眼窩にクソ蠅死に

 

 春先の情けなさが忘れられない。殺されかけのスパイになったみたいだった。喋ろうとしても喋れず、喋らされもしなかった。別の誰かが喋り、耳元でわめいていた。うんこに浸されて下腹あたりにひっついた人間(じんかん)の業と宿痾が瘤の叫びを上げていた。瘤はぐちゅぐちゅにつぶれてペースト状になっていた。自分という獲物がそこで、三歳だというのに、バターがわりにレバーペーストを塗られたパンのように、無惨に食いちぎられていた。人間を憎しみで歓待してやりたかったが、歓待など子供の俺は知ったことではなかった。俺は泣きべそをかいていたかもしれない。覚えていない。忘却もまた俺を食い尽くす。転んだからだはたしかに獲物の涎のようでもあったし、飛びかかって、めちゃくちゃに殴りつけ、自分を噛んでは血の唾を飛ばし、さっさと自殺させてやりたいようなものだった。心のなかで出来事がかたちを崩して、目の前どころか瞳孔が、網膜が、真っ暗になった。うんこにまぶされた気分は何十年後の最悪の気分となってそこに現れているのであった。あっという間に友だちはほとんど消えていた。いまからやろうという鬼を、かくれんぼうの真の鬼を、うんこまみれの鬼をひとり残して。鳥丸君がひとりだけとぼとぼ家までついて来てくれた。
 俺は三歳だった。それが人生で最も美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。

 

 普段の生活をしていると肉体が絶えず「死」のようなものに見入られていることを忘れてしまっている。肉体は呑気に動き回っている。それが生のかそけき条件だということもつねにないがしろにされる。散歩できなくなったり、病気になったりもするが、あるいはけっしてそんなことはないと心のなかで言い張る人たちもいるが、これは死に魅入られるというのとは少し違う。人はそれを通過儀礼だなどと能天気に言うが、実際に人は何度も死んでいる。
 死にそうな経験をしたということではない。うんこのせいではなく、私はすでに死んでいてもおかしくなかったことが何度かあったが、そういうことが言いたいのではない。そうではなくて、ふと気がつくと、生きるために死ぬのか、死ぬために生きるのか、それともそのどちらでもないのかがわからなくなっている自分に気づくことがある。死は不死によってしか思考できないからだ。

 

 河村悟の新著、『舞踏、まさにそれゆえに——土方巽 曝かれる裏身体』と題された瞠目すべき土方論を読みながら、舞踏のからだは、何故に「ことばの外部にあるものが、「私」のことばのうちに「私」の同一化を拒むものとしてありつづける」ということを白日のもとに暴き出したのかをあらためて考えさせられた。
 「私」と「私」の類似は、この同一化のことではない。この類似のどまんなかに、肉体は知らん顔を決め込んで居座っている。そいつは最初からはぐれて、ぐれてしまったのに、舞踏などというものを、たぶん舞踏病よりもっと古いものをつくり出してしまった。肉体が勝手に動いているぶんには問題はない。あるいは肉体は勝手に動くのではない。あらゆる自動症は、脳ではなく、結局は肉体自体のささやかで、いたずらな欲求であり、ある種の自己統御である。ただ肉体が最初に脳に命じ、ついで脳が肉体に命じたにすぎない。危機はもっと後になって訪れる。
 だが「肉体」はいずれ復活するのか。いや、そうでもないだろう。肉体は負の様相を帯びれば帯びるほど、己れを主張しはじめる。痛み、痛み、痛み。欠損、最初からの欠如、脱落、堕落、腐敗、崩壊。しかし肉体にはほんとうは部分がないからこそ、フェティシズムが存在し得るのではないか。それはすべてを消し去る衝動を抑えとどめる技術なのかもしれない。だがこんなことは余談にすぎない。

 

 足は曲がり、手はねじれる。腰は壊れる。肩は鉄の鎧と化し、首が回転し、とれる。すべての動きと均衡は歴史を背負ったさまざまな瑕疵にしか見えない。ギリシア彫刻のあの理想的なからだはナチスの専有物などではなかったが、いったいどこへ行ってしまったのか。それはそもそもどこにあったのか。
 「なるほど、「私の身体」は「私の脚」「私の手」「私の肩」というように「私」固有の皮膚と筋肉と各器官の有機的な構成で成りたっていることはたしかであろう。しかしそうした「私の」肢体や「私の」器官の裏に、それぞれ影の肢体や影の器官が「私」をとりのぞいた影の身体として蔵されている。つまり、「私の足」なら「私の足」の裏に「私」固有のものの轍(わだち)からはずれた、非-人称の、だれのものでもない影の足があるということである。それは「私の手」においても同様である。ただし、それは幻影肢のたぐいではない」(河村悟、同上)。



 舞踏が身体を裏返すところを何度か見たことがある。私はそれを見たと思った。そこにあったのは裏の手や裏の足だったのだろうか。アルトーは裏返しのダンスと言っていた。それなら裏の首、裏の目、裏の耳もあったはずである。とりわけ裏の舌も。この裏の手や足が誰のものでもないとすれば、それは突然「私」になる可能性があったということである。例えば踊っている土方巽の「私」ではなく、私の「私」に。
 手は手から出てくるのではない。足は足から出ない。首は首から出ない。われわれは誰もが目玉の劇場にいると思っているが、目玉も裏返っているのだから、そこはただの舞台裏であった。この薄暗い舞台裏に「肉体」はじっとして潜んでいたはずである。それをつまんだり、つねったり、引っ張ったりすることはできるが、それをうまく言うことはできない。舌も裏返ってしまっているからである。

 

 「暗い空を背景にして、光を受けた雪の上に取り残されたように坐っている私の尻のあたりから、からだの電気がすっかり放電され尽くしていた。そのうえ額に氷嚢をのっけたようなだるいからだになっていた。のほほんとした鴉が私のそばで餌をつっついており、私の坐っている雪の下からは幽かな声が聞こえていた。ぴったりと雪に耳をつけて、虫のしゃべってるようなその声を私は聴き取ろうとしていた。そこらあたりの雪は光線をすっかり吸収した残り滓のように散乱していた。そのとき、立ちあがった私の頭のてっぺんで、コンパスのようなものが輪を描きながらくるくるとそのまま輪を縮めていった。わけのわからない合図が私を襲った。あやふやな雪道をただぼんやりと歩いている私に、眼には見えぬ芒のような弱い光が届いていた」(土方巽、同書)。

 

 掛け値なしにいい文章である。私は北国の出身ではないから、雪の反映に包まれ、そこに取り残されたからだというものをよくは知らない。だが、からだから何かが放電されるその刹那、からだが身震いするような、あるいは、どう言えばいいのか、身震いとは反対の、意志をもたないかすかな仕草ともいえない仕草を示すことは知っている。示す、というのは少し違うかもしれない。それは何も示さない。からだがその示すという行為をすかさず飲み込んでしまうからだ。
 私の場合は、思い出せるかぎり、京都建仁寺のなんの変哲もない、さして美しくもない境内でぼんやりしている時にそれが起こった。放電と同時に私のなかで何かが溶解するのがわかった。静けさのなかで遠くに幼稚園児たちの歓声が聞こえていた。他にも何度か謎の放電があった。
 雪の下からはかすかな声が聞こえたが、土方自身によれば、彼は蝦蟇の匂いを嗅ぎ、蝦蟇の合唱を聞こうとしていたらしい。だがもしかしたらそれは土方の思い違いかもしれない。土方はからだを動かしていたからだ。脳の襞がさわさわしていたからだ。だからそれは彼の体内にいる鴉や蝦蟇の声かもしれなかった。鴉はそばにいて見えない餌をのほほんとついばみ、かつ鴉は彼の体内にいるのである。リルケがどこかで言っていたように、内部の空間にも同時に鳥は落ちるのである。
 この刹那が信じられないくらい「親密な」瞬間であることは間違いない。親密さはひそやかな幸福の証であり、ここにいるのは私だけであり、他の誰でもなく私だけであり、かつ「私」はほとんど意味を欠いているだけでなく、とっくに意味の器であることを自らに許さなかった。過去も未来もそれらの瞬間は髪の毛一本先にあり、同時に同じようにあたりに溶けてしまっている。つまり私が、私の「私」が溶けたのである。
 芒。すすき。のぎ。イネ科植物の実の外殻に生える針のように細い毛。ぼう。芒にはもともと弱い光線という意味もある。すすきはこの過去か未来へ分裂し溶けてゆく毛一本の弱々しい光を透かしてしか風にそよいでいることはできないかのようだ。これはれっきとした「風景」である。肉体の風景である。肉体は「宇宙の一番遠いもの」である。どこにでも目には見えないすすきがそよいでいる。空は暮れなずんでいる。声はこの益体もない喜劇を全滅させる一本の弱々しい光線だったのか。
 コンパスのようなものは魔術の道具を指すのではなく、たぶん尖ったものが二重になってそう見えたのだろう。私の溶解には必ずや尖ったもの、人を刺すものがともなうのである。それは輪を描き、輪を縮め、最後には頭の上で消えてしまう。コンパスは鴉の不吉な残像であり、二匹の鴉であったかもしれない。この鴉は魔術の道具より恐ろしい。いや、そうではない、という声がする。わけのわからない合図が土方巽を襲ったからである。頭上を旋回して土方をつけ狙っていたのは、踊り出しては消えてしまう物語ではない。物語は最初から隠されていたではないか。肉体の物語は語るに落ちるというものだ。だがそんなものはどこにでもある。幼年期や舞踏家だけが持っているものではない。それは物語ではなく、物語がそのつど終わったという合図なのだ。わけがわからないのは、そいつがいきなりやって来るからである。

 

  「二本脚で立っているので、右にしようか左にしようか迷ってしまう。迷いだけが争って、野ざらしになるのはわたくしのからだなのだ。もともと脚は一本なので、こうして脚の上に乗っている骨盤も一つ。ぐるりと身体をそり曲げれば、身体の極限の口腔の中で舌を転ばしているだけの舌の由来、脚の上に脚を重ねてみれば脚の由来が知れよう。うらめしそうに運動を眺めている姿勢を支えるのがやっとだ。この文章が終わるのはこれが寝床の中で書かれているからだ」(土方巽「犬の静脈に嫉妬することから」『美貌の空』)。

 

 二本の脚は日本の脚ではなかった。土方が田んぼで鴉についばまれる案山子(カカシ)をやっていたとしてもである。田んぼのそばに置かれた、赤ん坊を入れておく「飯詰(いづめ)」のなかにたとえねじ込まれていたとしても、籠のなかで手はねじれ、足は曲がっていたとしても、そこは東北ではなく、東北のあの世だったからである。野ざらしになるのは土方のからだであって、日本の身体などではないからである。肉体の由来は死にあるのか、生にあるのか。二本足があるのに、一本脚の土方巽。なかなか壮観な眺めだ。すべては異郷に変ずる。ただちに、いまここで。足は大地についてはいない。足の裏は風の便りであり、未来の風聞であり、異郷の消息どころか、それを越えて異郷そのものだったことはわれわれだって知っているではないか。



 肉体は迷っている。どちらに行こうか。それは病気になろうとしているのか。これではまだ観念だ。肉体はうらめしそうに勝手に動くものを眺めて暮らしている。何かがうごめく。肉体は普通は蟹のように進み自分の横を向いている。兵隊の真似をしてはならない。匍匐前進してはならない。横に進むものはたまにクソまみれになるのだ。一本脚の日本の舞踏家はだから肉体のなかの井戸を下に降りていったのである。

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                                                            第66回 2015年9月




                                    瓦礫
                        ジャコメッティとジュネ その二




                                                                        鈴木創士




ジャック・デュパン『ジャコメッティ――あるアプローチのために
鈴木創士『サブ・ローザ――書物不良談義

 



 もう通りのゆるやかな上り坂も最後までのぼりきれないような気がする。坂の傾斜は私に湾曲して涸れた一種の底をつくりだす。底は無底であり、むろん目には見えない。すでにそこへ向かってのぼることも降りることもできない。私の周囲にあるものは一切が生彩を欠いてしまっている。もう明日の脚がないかのように、すべてが目のなかで壊れる準備ができたかのように、私は坂をのぼることを諦める。オベルカンプ通りもメニルモンタン通りも消えている。


 常軌を逸したものが生きていて、光をはね返す梢の下で、カケスが鳴いてやかましい。カケスの真似をして、言うことができることすべてをいまこの瞬間に言うことはできない。私はそのことをすでに言ったのだろうか。


 だが彼は簡単には通り過ぎない。けっして通り過ぎることはないだろう。彼はきっと疲れ切って、あるいは何を措いても急いで戻ってくるだろう。誰のもとへでもない。幽霊が数人だけ足早に通り過ぎる。彼はただ埃だらけの古めかしいアトリエに戻ってくるだけだ。昨日と今日、外では、陽だまりにあったように、言葉がぐちゅぐちゅに腐って悪臭を放ち続けていたというのに。


 あらゆるものが瞬時に違って見える。この感じをどう言えばいいのだろう。毎日見ているこの通りもあの通りもあの曲がり角も異国の風景のように見える。何もかもが、あるときは強く、あるときは弱々しい光を受けて、違っているのだ。そこを歩く女の薄手のスカートの襞の光沢にいたるまで。さっきまで風にそよいでいた金髪の髪はもう消えている。松果体が混乱を起こす。店はなぜか閉まっている。永遠が誰かを誰かに変える前に、永遠は目の前をよぎり、いっときしかめ面をしたのだ。バスから見える通りを行く灰色の老人は、あの隠された類似を受けて、この同一性の揺れと錯乱のなかで、静かに別人から別人へと姿を変える。いま見たはずのすべての印象をぺしゃんこにしてしまうような、もはや彼とも呼べない見ず知らずの人がこちらを見ている。いつもありえないような場所に人が立っている感じがする。錯覚なのだろうか。ここでもあそこでも、夕暮れの行方が誰にもわからないように、画家たちの言う空間と時間は見分けがつかないし、すべての瞬間が周囲からさっと逃げてしまうのだ。どこに逃げるのか。こちら側の灰色で薄茶色の世界のなかには、その溜まりがあるように思われる。それは動かない。


 フランス風に煙草で穴だらけになったツイードの上着を頭からかぶり、斜めに降り込む雨が、肩の上に石が降るように、突如として血の雨に変わったりするのを見てしまったような気がする。彫刻家がいるのだ、雨のなかに。
 愚かなことだ。硫黄が降り注ぐ空の下、「芸術のすばらしい錯覚でしかまだなかったものを雲散霧消させてしまう」雨のなかを走るなどということは。
 だが雨は一本の木ではないし、木立でもないし、二、三人の若い娘でもなかった。結局、彼が見るままに見たその刹那、果てしないもの、不動のもののなかで果てしなくかすかに揺れ動くものだけが、それでいて何か固い核のようなものを持つものがあったのだ。芸術の錯覚も現実の錯覚も何ら変わるところはなかった。違うだろうか。そうでなければ、いかに画家自身の言葉に反してであれ、アッシジのジォットやヴェネツィアのティントレットを穴があくほど見つめることに何の意味があっただろう。
 彼の見た、矛盾に満ち、暴力と呼ぶしかなかったものが充満する幻影を通して、目の前の雨の跳ねがかたちづくる蜘蛛の巣を振り払い、そうしつつ不器用な口ごもりのこちら側で、蒼白い出現に似たものを透明な帳をかきわけるようにして私もまた垣間見たいと思ったのだ。


 脆くて、軽くて、死ぬほど貴重で、望みもなく、羽のあるもの。私はひっそりと静まり返った夜の美術館にいる。何かを無頓着に写しとらねばならなくて…、と彫刻家にそそのかされるようにして、こんな風に反り返った姿勢で地べたに倒れてしまう前に、エジプトの古代彫刻を叩き割る。そんな夢を見る。ガラスのない窓から黄色い土煙をあげて王家の谷のいたるところが陥没していくのが見える。谷からはごーという音が聞こえる。雲間に隠れたアメン神の肩をつかんだネフェルティティの手が粉々に砕け散る。彫像の首が、肩が、脚が、手が地面に落ちている。やつは、隠れた太陽神のほうは、『ゴエティア』の書に記された悪魔だったのか。断片となった片目の残骸が馬の首に突き刺さっている。だが彫像はいまだに無傷のままなのだ。ばらばらになった無傷の断片。ジャコメッティの教えのように、それを見て心底感心したり、口ごもって、他の芸術、とりわけ美術を馬鹿にして笑ったりすることができるのはわかっている。


 「たえず作っては壊す、ということは、減ずること、動作を連続の中、数の中に、おだやかに沈めることになる」(ジャック・デュパン)。そうだ、減ずること。こうして立像が塑像されたのだった。晴れた空の下でも、曇り空の下でも、ペストの時代の大昔に修道院の回廊の蔭に隠れて、遠くから微風に乗ってかすかに聞こえてくる途切れ途切れのホモフォニーに耳を傾けていたかのように、それは確かにかろうじて旋律と言えるものではあったのだが、この切り詰められたような旋律さえも忘れるようにして、けっしてむやみに実体の数を増やしてはならなかったのだから。
 だが見かけの上でだけ現実がそれを強要する動作は、連続のなかに回帰するように見えようとも、しかし数の連なりのなかからそのつど数字をひとつの非連続としてはじき飛ばし、孤立させることになる。それは連続性の外に出てしまう。個々の数字はしどけなく、すべての無理数のようにそれ自体としてはまったく意味をなさなくなる。あたかもすべてが不動の中心であったかのように、こうしてありとあらゆる動作は消えてしまうが、それは、ジャコメッティをよく理解した詩人の言葉に反して、けっして数の恍惚のなかにおだやかに沈んでいったりはしない。後にはかならずや皆殺しの残余が、残骸が、湿った粉のこびりついた藁屑や、針金の切れっ端や、石膏の屑が残される。


 ジュネは、ジャコメッティの彫刻が、ある秘密の場所に、引き潮の海が岸辺を打ち捨てるように引き退いていったと言っていた。それはカフェで白痴のような痩せた盲目のアラブ人が世界とフランス人を罵倒しているところに遭遇したときに彼が思ったことだった。「彼を万人と同一にするあの地点」とジュネは言っていた。その類似の地点は、彼が彼自身のなかにもっとも遠くまで退却するとき(中世のカバラ主義者によれば、世界のなかに世界というひとつの場所を創出するために、かつてユダヤの神は自己から自己のなかへと退却し亡命したのだった)、存続し維持されたのだ。
 このアラブ人はジュネとジャコメッティのあいだにただ気詰まりな沈黙を与えただけだったのだろうが、しかしジュネはこれに似た感想をいたるところで持ったはずだった。この印象はきわめて独創的なものだった。一見、世界のなかにいるかのような彼は、ジャコメッティの向こう側に、画家の目を透過して、崩れ落ちる前の最後の世界を見ていた。画布はとっくの昔に落ち着きを失っていた、とジュネは言っていた。
 遠さによっても近さによっても測れないものがある。そこでは接近と遠ざかりはほぼ同時に起こるからだ。尺度はなく、岸辺は打ち捨てられるのだ。流されなかった流木も、洗われた砂も、残りの世界の一部にすぎなかった。


 立像が、石膏像が、ブロンズ像が、ある退いた地点からやって来ることは確かだった。われわれがどこにいようと、立像はわれわれを巧みに回避し、結局、われわれは一段下にさがってしまう、とジュネは言う。



 昼下がりに、誰もいないとき、ジャコメッティのアトリエにこそ泥のように忍び込むことを私は夢想する。アトリエはひっそりと静まり返っている。外の喧噪が遠くに申しわけ程度に聞こえるだけだ。ここには誰とも交わすことのできない奇妙な親密さがある。親密さはどこまでも孤立している。埃だらけの粗末なテーブルの上に無造作に置かれた立像。小さなものも少し大きめのものもある。腰をかがめ、小さな立像の目の高さにまで私は低くなってしゃがみ込み、立像たちを見つめてみる。私は底にいる。そこでしゃがんで、じっとしているだけだ。冷や汗が背中をつたう。立像の目は私を見ているようでもあり、何かをたしかに見ているようなのに、けっしてどこにも向けられてはいない。目は突き出ることによって虚ろに陥没している。


 ここには、この立像たちの埋葬場所には、何か恐ろしいものがある。誕生と同時に埋葬されたもの。生まれつつあるものは、実際、恐ろしい。神聖ではあるが、何かを剥奪された神聖。ものを言おうとしても、それでも言うべきことなど何もない、ささくれ立った神秘。空間がかすかに振動し始めたのか。一瞬のうちに何かがすり替わり、それとは名指せない変容が起きているのがわかる。女神たちがいたのだろうか。ひとりでに位置を変えたのだろうか。退却した自己の芯は溶け始め、立像はつねに遠ざかる。遠くの平面、それが見える。そして物と物の関係が稀薄になり、あらゆる権利を剥奪され、仮面から別の仮面を剥ぎ取るように裸にされたとき、最後まで退却した地点にあの類似が現れるのだ。すべてが絶対的実在のなかで凝固してしまった、とジュネは言っていた。世界のなかにそのまま置かれていたはずの事物に限りなく似ているのに、ぞっとするほどそっくりなのに、よそよそしく、少し翳った、馴染みがあるとは言えない世界の場所が瓦礫のようにぽっかり口をあけている。そこに立像は立っている。ここは空地なのか。林間の空地。立像の置かれたあたり、すべては彼の造った顔と同じように、じょじょに鋭角的になり、尖り、同時に果てしなくぼやけて、中心から外へと流れるように消滅の線が現れ、しみだらけの灰色を背景にして、私をあのディレンマのなかに突き落とすのだ。

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第65回 2015年7月





                          ジャコメッティとジュネ




                                                                        鈴木創士





ジャック・デュパン『ジャコメッティ――あるアプローチのために
鈴木創士『サブ・ローザ――書物不良談義



 通りは不安げで、灰色で、震える大気のこちら側で静まり返っている。オベルカンプ通りの先はメニルモンタン通りに変わるが、それは上り坂のまま未来からやって来る錯乱のように空までずっと続いていて、顔の破片が反射するように、あの世から射してくる細かな光に満たされているように見える。針のようにしだいに細くなり、最後には尖った先端だけになる道。最も不確かで最も軽く、時には最も重々しい、ありそうもない輝きを帯びる恒久不変の実在性。彼らが見たものを私もまた見たというのだろうか。非現実性としか言いようのないものがこの世には溢れている。それは向こうでもくもくと立ちのぼる空の雲のぎざぎざの縁のように、この世のものとは思えない鋭利で曖昧な美しさに縁取られているのがわかる。
 非現実の一種の縁飾りが時おり向こうに覗いている。私は事のついでのようにそれを見つめているが、それを表現することはできない。口でも手でも言ったり描いたりすることはできないのだ。色彩はほとんどない。暗い色彩すらない。レンブラントの描く装飾品のようには。とんでもないものを見てしまったのか。だが雲の立つ空はあまりに明るくて、私ははっとして、その明るさのなかで目を細めると、やはりそれはうまくいけば反射のなかに虹色が見えることもあるただの雲の縁でしかなかった。だがこの灰色の通りはそんな空や雲とははっきりとしたコントラストを示している。対照のなかには対称を破るものがある。まんなかには捉えどころのない亀裂が走っている。目には見えないだけだ。私たちに塵を軽蔑する権利はない。


 通りはすでに彫像であり、彫刻家が造らなかった彫像の雛形であり、それは縦にすくっと立っている。その立像はこれほど甘美で遠く恭しい通りのなかに空気のように充満しているが、実際には誰もその立像を目にすることはできない。ジャコメッティの立像でさえも。イマージュは実現されたのか。キリストは彼のイマージュの実現を阻もうとしたペテロを叱りつけたのだとジュネは言っていた。



 雨上がりのみぎり立像には鳥がとまりに来たこともあっただろう。目の端で水辺(みぎり)に映る日本の円い月を思い出す。請け合ってもいい、ジャコメッティは雨上がりの千夜一夜の視界が何よりも好きだったに違いない。実像などない。それは紛れもなく視界と呼べるものだったはずだ。このみずみずしさに反して、彫像はからからに乾いているようにしか、からからに乾くほかはないようにしか見えないのだ。
 彼は暗い映画館から出て、雨上がりの最初の数分間にそれを見たのだった。舞台のスクリーンではすべての記号が混じり合い、もうどの記号も意味をなさなくなっていたのに、映画館の暗い森を出た途端、すべては信じられないほど鮮明になり、記憶を消し去り、過酷だが風格のある、過ぎ去りゆく世界の一端を彼に見せたのだった。それが永遠に思えたのは、あまりに孤立しすぎた一瞬の出来事だったからに相違ない。



 ちょうどいま私の目から五十メートルくらいのところにある白く焼けてしまったような屋根の上に山鳥が墜落したところだった。ほとんど急降下だった。山鳥は猛暑のせいだろうか屋根の上でさんざんもがいた後でぐったりしていた。このまま焼け死んでしまうのだろうか。私は固唾をのんで見守る。死んだと思っても死んではいないもの、死なないものがある。山鳥はやおら身を起こすと思ったより長い羽をばたつかせ、それから日影にある黒い屋根のほうへ向かって飛び立った。
 だが今この通りに物欲しげに囀る鳥はいないはずである。


 パリの通りにはそれぞれひとつの人格があることがわかっているとしても、むしろさまざまな通りの人格は名前も持たずにどこからともなく現れるか、あるいはたまには暑苦しいほどのほとんど架空ともいえる歴史的登場人物のようなものであって、しかしこの通り自体は優しい灰色をしているのだし、見られれば見られるほどこちらを見返すのにそれでも消え入りそうな廃品同然の風情がある。だがここで急いで名指ししなければならないこの通りの人格とは、むしろ今はそこを歩くジャン・ジュネのことを指している。したがってジュネ自身にはあたかも重さも人格もないかのようであるし、彼は彼を無のなかに突き落とした誰かにもう似始めている。向こうにアーチ状になった奇怪な枝振りの大きなケヤキの木が見える。葉っぱは日の光を透かし、小声でさざめき、聞こえないくらいの死後の光の歌をうたう。昨日まではそこへ種々様々な鳥がやって来ていた。鳥たちは喧嘩をして羽を大きくばたつかせていた。


 木の潜り戸を押して、ジュネは勝手を知った近所の人のように中へ入る。勿論、通りからこんなところへ入っていくのは始めてのことである。蔓薔薇が生い茂って、古い庭のタイルをほとんど隠してしまっている。タイルはすでに残骸であり、ずいぶん古びてはいるが、ところどころコバルトブルーと白と緑とオレンジ色とおぼしい色彩が残ってはいるのだけれど、このタイルが何のためのタイルの残骸なのかはわからない。図らずも庭師はここに埋葬されているのだ。蔓薔薇を剪定する彼の指先がジャコメッティに乗り移り、朝を迎える。石膏のかけら、縄、麻屑、ちぎれた針金が落ちている。ジュネは昼間の押し込み強盗のように、それとも神殿内の物売りを蹴散らすイエスのように、ずかずかと遠慮なくさらに庭の奥へとわけ入る。ほんのりと汗をかいて光った禿頭の後頭部が揺れているのが見える。ジュネの着ている白黒の派手なチェックのコートはクロード・モーリアックからの頂き物である。クロードの妻はプルーストの姪孫だったが、このコートは勿論プルーストのものではなかった。


 それほど広いとはいえないこの中庭でジュネは尿意をもよおす。ジュネは口元にほんの少しだけ笑みを浮かべ、音程のはずれた鼻歌をうたいながら(古いシャンソンだ)、蔓薔薇の茂みに向かって立ち小便をする。まるでずっと青春期にいるみたいに、つまり生まれたときから年老いたままの古代人のようだ。小便は光を浴びて空中に弧を描いている。濡れたのは薔薇ではなく古びたタイルだった。後にパレスチナの地で同じことが起きたように、立ち小便の直立不動のまま、彼は何かしら光に導かれ、空に鼻を向け、パレスチナの地ではフェダイーンたちが手渡してくれた毛布のなかにいたように、自分のコートのなかにじっとして、何かの渦のなかに捕らえられていくのを感じる。この渦はそんなものがあるとして大気の眩暈に似ていなくもない。途轍もないことが起きたのかもしれなかった。彼は何かに慰められていたのだろうか。幸福だったのだろうか。ヨルダンの川が流れる音がする。ジュネは凍えている。わけても季節を感じる大気の感触、風のそよぎ、オリーブの木々のあいだから何年か前に見た、あるいは何年か後に見ることになる埃にまみれた女性たちのぼろぼろの民族衣装、空と土と樹々の色、軽やかな酩酊、純真な少年たちの目の輝き、あらゆるものが透けて見える、突然、笑いさざめくものすべてが耳のなかに波浪のように押し寄せ、死体とともに、モーツアルトのレクイエムの冒頭が切れ切れに聞こえ始めたのだ。
 ジャコメッティのアトリエにいるときとは反対に、ここではすべてがまるで真実ではないかのように見える。死体から死体へと飛び越えて行かねばならなかった。写真には写らない蠅と屍衣の皺とあれらの臭気とともに。死にゆく人々の死はそのまま世界の死である、とジュネは語っていた。


 ジャン・ジュネは、狭い中庭にいながら、そこは古代ローマの遺跡の風穴だと直観する。だが風穴ではない、ただの穴ぼこなのだ。どちらかといえば薄汚くも見える雑然としたこの庭の地下にはきっとそれがある。埃と砂、土と乾いた血だけがある。彼ははっとする。乾いた風が、恐ろしく古い風が、太初の時間の闇から吹いてくる。かつて国家であったものの屑が風に舞っている。カエサルの見た空、ギリシアの哲人たちが地面に吐いた唾。賽は幾度となく投げられたし、乞食の知恵というものがあった。砂を噛むような日々だ。ジュネは神の狂人たちとも言っていた。あれらの狂人たちに囲まれて、柩の蓋は閉まっていた。彼は墓の平石を恐れていたのかもしれなかった。
 それにこの世の生とは反対のものがあったのだ。蔓薔薇は生い茂り、そもそも名前すらわからない遺跡は実際にはどちらを向こうとも跡かたもない。欲望が輪を描き、そこを通り過ぎた者たちがいたのだろうか。モーツァルトはほんとうに永遠の休息、もうひとつの生を願ってこの曲を書いたのだろうか。すべては未完のままだ。すべての遺跡は架空なままのもののなかでわれわれの喉元を締め上げる。血がごぼごぼいう音が現実の琴線を隠蔽する昨日の出来事のように聞こえる。怒りの日々。軽い狂気の発作。心に呟くものがある。臨終のみぎりはミサではなくオペラに似ているとジュネは言いたかったのだろう。なぜなのか。画布は灰色に塗られ、すでにとっくに落ち着きを失っていた。何かが動揺していた。染みだらけの絶対的実在。ひとつの実在性。それを前にして、ジュネは死に絶えた古い土地の遺跡の上で凝固する。石膏のように。


 ジャコメッティがジュネに言ったことには一理ある。立像を造って、それを地中に埋めてやるというのだ。彫像の記憶を、そしてわれわれの記憶を消してしまうには手っ取り早いやり方かもしれなかった。埋葬の際には、誰が彫像に土をかけるのだろう。パスカルが言ったように、それはそのまま「どうか彼にとって土が軽からんことを」ということを直接意味するわけではないが、埋葬の次の日のお天気を私は思い浮かべてしまう。二千年か三千年のあいだ。雲ひとつない晴れ渡った青空。言い知れぬ恐怖を味わった人たちがいる。瞼は閉じられることを拒否している。死者たちに差し出された彫像は、しかし空の下のあらゆる儀式をまぬがれてはいても、それでいて私たちをとても古い儀式のひとつの端緒につかせるのだ。恐ろしく溌剌としたものがある。金輪際もう誰も何も覚えてはいない。生命が極端に蓄積されると、後には生きるべき時間は一秒たりとも残らない。死者たちに差し出すために、死者たちが必要である。それを書き、描くのだ。過ぎ去った時代が、存在が限りなく欠如するようにあったのだろうか。少なくとも彼が象るものには。


 中庭の引き戸を開けて階段を上がる。神殿がそこにある。いや、神殿であってそうではない。ネクロポリスの黒い西瓜。それは人の頭だった。アトリエの扉を開ける。新しい、見たこともない自由。髑髏の眼窩のなかの執拗な眼差し。それは死んでいるのに、最も生きているものだった。この埃だらけのアトリエの隅に小さな立像たちが打ち捨てられてあるのはわかっている。その目はじっと見ている。こちらを見てはいないはずなのに、間が悪いことにこちらを見ているのだ。眼差しは部屋中に充満する。彫刻というものにはそもそも何かしら禁忌を思わせるものがある。なすべき仕草など何ひとつないではないか。身じろぎしないもの、動く気配を見せる前からずっと不動であったもの。ここにはどちらかといえばみすぼらしい二人の男しかいない。アルベルト・ジャコメッティとジャン・ジュネ。投げ出されたように乱雑に部屋に置かれたこれらの彫像は彼ら以外のすべてのものを取り除く。彼は素描を始める。空白に何かが付与される。何かが付与されなければならないのではない。ひとりでに、いや、ひとりでにではなく、何かが付与されるのかもしれない。そんなことは滅多に起こらず、とても稀なことだが、そうなのだ。素描が優雅なのではなかった。とんでもないことだ。充実しているのは描線ではなくむしろ白のほうだ、とジュネは言っていた。素描は何かを存続させることではけっしてない。それなら、たしかにその通りではあるけれど、モデルだった彼は無のなかの無であったことになる。それを言祝ぐために、絵が描かれることもあるのだ。


 ジュネはスツールに腰掛け、ジャコメッティのほうを向いている。彼らは友人である。少しでも動くと大声で文句を言われる。煙草を吸って一からやり直しだ。死を狩り出すように、からだはどこまでも弛緩している。硬直していなければならないのに。大変な作業だ。からだに命じたからだが抜け出して、明日の通りを歩き回っている。彼がプロのモデルのようにできるはずもない。ジュネはポケットのなかを探る。ネンブタールの錠剤が二、三錠残っていることはわかっている。その点では間違うことはほとんどない。ジュネは自分の半身を探すようにポケットに手を突っ込み、ジャコメッティがトイレに立ったとき、微笑みをうかべてズボンをちょっとだけたくし上げ、それをすかさず飲み込む。窓からモーブ色の空が見える。半ばオリエントの地とはやがてそこへ行くことになるヨルダンのことだったのか。


 残りの世界のすべてと離れて彼がいる。脱色したようなジャコメッティの目。彼が万人と同じに、等しくなる一点を逆にモデルであるジュネが見つめている。それがあるいは醜さかもしれないとしても、ジュネは何かの番人ではない。自分だけが見分け、見破った光と影の分岐線があるのだ。このままスツールに座って、夕日の最後の光の名残りのように、できるだけ遠くにまで退却しなければならないのだと考える。笑い転げていたのは誰だったのか。言うまでもなく死は何度となく確実だったのだ。この埃だらけのアトリエで、引き潮の浜辺が見えるようだった。



 空っぽの空間をつねに見ていたいと思う。それに憧れる。ほんとうなのか。だが庭園は荒れ果てて、見るかげもない。木立の下ではいつも裏返しのトランプを、あの駆け引きの続きをやっている人たちがいた。監獄はへこんでいる、とジュネは言っていた。これを最後に見たと言ってもいい、いや、その都度、そう言い切ることのできる世界の最後のイマージュというものがあって、モデルのジュネはジャコメッティの瞳のなかにそれを覗き込んでいたのだ。砂漠に散らばる銀河の下で、ジュネは小熊座のなかのいつもの場所にある北極星を見ていた。

 あるインタビューで尊敬する人は誰かとジュネは訊ねられる。彼はためらうことなく即座に答える。
 「アルベルト・ジャコメッティ」。

 

*以上の文章はジャン・ジュネの著作『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室)、『恋する虜』(人文書院)、『シャティーラの四時間』(インスクリプト)の幾つかのページを元にしている。鵜飼哲氏をはじめとして訳者の方々に感謝を申し上げたい。

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                                                        第64回 2015年7月




                      舞踏家・室伏鴻の白いズボン




                                                                        鈴木創士





宇野邦一『詩と権力のあいだ
鈴木創士『サブ・ローザ





 舞踏家の室伏鴻が急逝した。死を踊り、死を演じ、死をねじ伏せてきた者の死。ソロ公演があったブラジルのサンパウロからドイツへ向かう途上だった。


 メキシコの空港。日常の雑踏。
 ゆっくりとくずおれる舞踏家の肉体。弧を描く大きなシルエット。
 シルエットの輪郭は灰色を背景に際立ち、鋭い。だがその縁を流れる時間は緩やかに、突然あらゆる動きは緩慢になり、音は消え、心臓は鼓動を止めた。あらゆるものがゆっくりと停滞してゆき、そして一瞬、ぴたりと停止する。室伏鴻がそこにいた。するとふたたびすべてが騒音のなかに動き出した。
 肉体。そこにあり、そこにあったはずの肉体。肉体は肉体だけのものである。そうなのか? その肉体と対をなす蒼白の顔。室伏鴻の死顔はとても美しかった、と彼女は言う。彼は突然いなくなったのだ、と。


 暗黒舞踏の踊りがかつて私に花を思わせたことはなかった。大野一雄になら、花の喩えも、花言葉も、そして一輪の花も、彼の仕草に捧げることができたろう。丘の上の一本の古木に鳥がとまりにやって来たのだから。だが、室伏鴻の死の一報を耳にしたとき、私の脳裡をダリアの花のありそうにない映像がかすめた。少しくすんだ薄紫色のダリア。そんなダリアをかつてほんとうに見たことがあったのかどうかはわからない。


 金属の肉体が空港の床の上でダリアの花に変化(へんげ)したとしても、花に罪があったのだと誰も言うことはできない。室伏鴻のかつての舞踏の肉体には、どのように見ようとも、合い言葉のように、威厳と優雅が流れていた。血と乳が流れていた。


 花は枯れただろうか。花が枯れ、朽ちたとしても、それ自身が他の残りのものすべてとともに消えたとしても、昨日の薔薇はその名のみだとしても、そして肉体が死してもなお、舞踏家の肉体が滅びることはないだろう。


 舞踏は恐らく肉体を、ほら、そこの、虚空のなかの肉体に刻んだのである。肉体はかつて肉体のオーラを纏っていたが、この生命のオーラは、とっくに死の芳香を大胆に放っていたからだ。それはいつも別のかたちを必要としていた。われわれはそれを懐かしいと思ったことさえあったではないか。


 この死んだ肉体を見ることを拒否できる者はいない。室伏鴻の師であった土方巽が言っていたように、舞踏家の肉体とはそもそも死に物狂いの死体であったからである。それは丘の上に、軒先に、地下室に、路傍に、水辺に、陽だまりに突っ立っていた。この肉体の廃墟のなかに。この井戸のなかに。この消滅のなかに。この不敵な別のかたちのなかに。別の誰かがそれを知ろうが知るまいが。


 室伏鴻の誰が見ても美しいと思うはずの肉体を瞼の裏側で再現しようとしたら、なぜか吉田一穂の「后園」という詩を思い出した。裏側に写映されたものがもし言葉だったとしたら、それは僥倖であったと言わねばならない。万一、この詩が彼にはそぐわないように思えたとしても、それはただのつまらぬ肉体の錯覚というものである。


    明るく壊(こわ)れがちな水盤の水の琵音(アルペジオ)
     (日時計(サンダイアル)の蜥蜴よ)
    
    光彩を紡(つむ)ぐ金盞花や向日葵の刻
    泪芙藍(サフラン)がその黄金を浪費する時
    
    微風に展(ひら)く頁を押へて指そむる蒼翠(みどり)の……
    御身、額の白く香ぐはしの病めるさ。
                                                            (『海の聖母』より)


 陽を浴びた日時計の上でじっと動かぬ蜥蜴は、さっきまで闇のへりを食べていた。かすかに発光するかのような暗がりから出てきて、背中を曲げ、油を流した背中はてらてらと赤銅色または青銅色に光っていた。優雅な蜥蜴はいつまでもぴくりともしない。


 ついさっき土方巽についての宇野邦一のエッセイ「土方巽の生成」を読みながら、肉体の生み出す軋轢について考えていた。土方の精神はその軋轢をほとんど楽しむほどの大きさと倒錯をそなえていた、と宇野邦一は言っていた。それならば、だからこそ肉体は肉体の軋轢をいたるところに生み出すのだと私には思われる。したがってこの精神とはまた肉体のことなのではないか。それはコレオグラフィーの外にある。精神から離脱した肉体は何度か私にそう教えてくれたのだった。



 そしてこの倒錯は肉体の彷徨い自体のなかにあって、はぐれてしまった肉体は、今度は、巨大な肉体に「わが肉体」それ自体を象嵌するように、自身の古い肉体を裏返しに拒否し、もう一度あらゆる肉体に命令するのだ。ダンスは明瞭な無為なのだから、それが苛烈な闇と接し、この暗黒に溶けてしまうのをとどめることはできないし、同時にいつもその手前に踏みとどまっていたのである。


 室伏さんを個人的に知ったのはわりと最近のことだが、見たのはずいぶん昔のはずだった。彼は1972年に麿赤児氏とともに「大駱駝艦」の旗揚げに加わった。見たといっても、たぶん「大駱駝艦」でのことなのだから、あの混乱のなかで、誰が、あるいはどれが、室伏鴻なのかは知る由もなかった。
 当時、私がまだ不良少年の頃のことだが、神戸の溜まり場だったジャズ喫茶に「大駱駝艦」のメンバーが勧誘にやって来たことがあった。君たち、舞踏やらないか?
 暗黒舞踏がどういうものであるのか何となくはわかっていたつもりのまだ生意気盛りの私が、即座に、丁重に、お断り申し上げたことは言うまでもない。……。自分の肉体のことなど何が何だかわからなかったし、ましてやそいつをどう扱うのかなんてわかるはずもなかった。私がこの肉体とは別の肉体を探していたことは確かであるが、当時、自分のことなどどうでもよく、いつも私はうわの空だった。
 実際に声をかけてくれたのは、ビショップ山田氏か天児牛太氏かのどちらかだったと思うが、はっきりとは思い出せない。そのことを室伏さんに話したら、少しは驚いてくれると思ったのに、彼はちっとも驚いた顔を見せなかった。ただ優しく笑っただけだった。ほんの少しだけはぐれた肉体がかつてどのような体たらくであったのか、それがどんな風に自分を殴りつけていたのか、自分の皮膚をどんな風につまんだのか、そんなことなど彼は熟知していたからだと思う。


 急いで室伏鴻の舞踏公演の映像を見直してみた。2003年にアスベスト館で、故土方巽夫人の元藤燁子さんと一緒に即興で踊った映像がある。元藤燁子と踊るのは始めてのことだったらしいが、この土方の未亡人であった舞踏家はその同じ年に死去することになる。
 帽子と蜘蛛の巣の踊り。舞踏家たちの背後には三枚の真鍮の板がぶらさがって揺れていた。その一枚は師土方巽のためのものである。その舞踏の後半、室伏の踊りはいっとき激しくなり、声を発し、真鍮板をなぐりつけ、蹴り、ときには優雅に、ときには暗黒舞踏を忘れたように背中を伸ばし……、それを見ながら私は感動を覚えるのをどうしてもおさえることができなかった。最後のほうで、室伏鴻の目に涙が光っているのがわかった。映像を前にして、明るい残酷な鏡に自分を映すみたいに、思わず私もまた椅子に座ったまま手と上半身だけで踊っていた。ひとりで、室伏鴻とともに。彼岸の室伏さんはきっと失笑していたことだろう。君は今頃になって僕と一緒に踊るのかい。そんなひどい病んだからだで……。


 去年の十二月、京都でお会いしたばかりだった。四月の終わりになると花水木が白い花をつける狭い通りにある地下のレストランに入った。ビールとワインを飲んで、食べた。われわれは五人だった。室伏さんとマネージャーのWさん、丹生谷貴志、Hと私。私は何度も彼の顔と目をまじまじと見た。室伏さんの目は優しい。何となくまた一緒に何かやれると思った。


 じゃあまた、と言って通りで別れた。振り返ると、Wさんと一緒に遠ざかってゆく彼の後ろ姿が見えた。コートの下から白いズボンが見えた。世界とズボンがあり、世界のなかに白いズボンが見える。舞踏家のズボン。それが世界のなかを、雑踏を通り過ぎていった。


    鳥は落ち、マントーは黙り込み、ティレシアスは何も知らない。
    無知、沈黙、そしてじっと動かない青空、そこに謎かけの答え、ごく最近の解答が   あるのだ。
                                             (サミュエル・ベケット「世界とズボン」)

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                                                            第63回 2015年6月




 ペスト、ルネッサンス




                                                                        鈴木創士





イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還




 ダンテ
 詩人ダンテが地獄へ旅立ったのは1300年4月8日の夕刻であり、「地獄篇」の執筆は1304年頃から始められたようだから、友人であったルネッサンス芸術の最初の真の革新者であるジョットは、もうフィレンツェで絵筆を縦横に走らせていたことになる。この友人をダンテが自分の作品のなかに登場させたのが、「地獄篇」でも「天国篇」でもなく「煉獄篇」だったことは、ジョットへの一種の称賛か、ユーモアたっぷりの微妙な揶揄だと受け取ったほうがいいと思われるが、どのような絵であれ、絵画が地獄をしたがえていたことにかわりはない。
 すでにわれわれの知るルネッサンスの時代は始まっていた。それどころか、いうところの「春の謳歌」と「人文主義」の新しい時代は、この世とあの世のどちらにも地続きだった地獄とともに始まっていたのだ。思想は思想としてはつねに何ほどのものでもない。地獄もまた絵画と同じように幾つもの時代をしたがえていたが、物質的にして非物質的なこの酸鼻の極みは、見て見ぬ振りをするわれわれにつねに冷水を浴びせかけてきたのである。

 

 地獄の門
 この初期ルネッサンスの時代にダンテはすでに道案内のウェルギリウスにこう言わせている。
 「望みの絶えた叫び声が聞こえ、呵責を受けるいにしえの亡霊たちが見え、すでに死んでいるのに、もう一度死にたいとさえ願う輩たちのたむろする所へ君を案内しよう」、と。
 こうしてルネッサンスの時代にいるわれわれはすでに地獄の門をくぐり抜けていたのである。どこへ向かって? 「嘆きの町」、「永劫の苦患(くげん)」、「滅びの民」のほうへ、である。
 ものぐさな「煉獄」さえもまだ遠いところにあったし、あれらの星々にまみえるのはまだまだ先のことである。花は地獄に咲いた。ルネッサンスが何百年にもわたって続いたというのは、私にとっていかにもおかしなことに、異常なことに思えるのだが、どうだろう。花の命は短いのだし、秘すべきものであるし、それ以外には狂い咲きするほかはないのである。

 

 死と生
 いかなダンテであっても、地獄の番犬ケルベロスの三つの頭を眠らせることはできなかった。一つが眠っていれば、二つが起きていた。ダンテ自身がまだ地獄にいたからである。
 ルネッサンスの時代、ケルベロスの三つの頭は「三位一体」を表しているとも考えられたようだが、こんなことはいかにも馬鹿げている。それにこの犬は一説によると五十の頭をもっていたとも言われているのだから、「三位一体」も、眠りと覚醒の話もよしたほうが身のためかもしれない。眠りは、ましてや眠りの眠りなど、とうぶん訪れることはないだろう。
 ダンテは出発したばかりだった。だがどうしてまた生きている身空で地獄に旅立たねばならないのか。だから冥府の河アケロンの渡し守カロンは、ダンテに当然のことながら腹を立てたのだった。
 「禍いなるかな、おまえら獄道の亡霊ども!」
 こいつらはどいつもこいつも死のうにも死ねない境遇にあるというのに、おまけにそれが掟であるというのに、そこのおまえはまだ死んでもいないじゃないか!

 

 混乱
 統一されたイタリア国家はまだ存在してはいなかった(それどころか国家の態をなすのは19世紀である)。この長靴のような半島はいわば戦国時代にあり、ルネッサンスの都フィレンツェでも、皇帝派と教皇派が血みどろの戦いを繰り広げていた。
 ダンテは政治闘争に敗北し、フィレンツェを追放となり、再びこの都に足を踏み入れるなら、火刑台での火炙りが彼を待っていた。『神曲』全体はまだ完成してはいなかった。ダンテはあちこちを転々としていた。後に神学者ジョルダーノ・ブルーノがそうすることを余儀なくされたように。だがブルーノは最後にはとうとう火炙りの炎に焼かれることになる。彼は火刑に処せられるときも堂々としたままだった。世界は無限である。これだけは撤回できない。「この場に及んで、地獄の業火をもって私を断罪する君たちのほうが、どうしてそんなにも震えているのか」。ガリレオはそれを見て、逡巡せざるを得なくなった。彼は情けないことにもぐもぐ言うしかなかったのである。「それでも…地球は廻っている…」、と。
 カトリック教会もまた腐敗のなかの腐敗に陥っていたと言わざるを得ない。歴史のなかに何度も押し寄せるこの腐敗の極みにあった教会に対して、真の意味で対抗した聖人、彼自身にとっても民衆にとっても、また小鳥たちにとっても、あらゆる点で何もかもが裸であった聖フランチェスコは、すでに一世紀ほど前に生まれていた。そして聖フランチェスコを崇拝するフランチェスコ派は、それが「天国」を準備したのかどうかはわからないにしても、最も優れた最も過激な神学者たち、ボナヴェントゥーラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアムをすでに輩出していた。
 普遍論争どころではない。ルネッサンスは最初から「一」と「多」の完璧な闘争状態のなかにあったのである。

 

 綺想
 ルネッサンスの「春の謳歌」のイメージの大部分をわれわれにもたらしたと考えられる「春」や「ヴィーナスの誕生」の作者サンドロ・ボッティチェリでさえも、晩年の傑作『神秘の降誕』の銘文にギリシア語でこう記していた。「1500年の終わり、このイタリアの混乱のなかで、わたくしアレッサンドロはこの絵を描いたのである」。



 当時のボッティチェリはサヴォナローラ派だった可能性がある。かつてメディチ家を批判し、激烈な説教を続けていたドミニコ派の修道士サヴォナローラが、フィレンツェのシニョリーア広場で焚刑に処されたのは数年前のことだった。サヴォナローラへの賛否をめぐって市民も二つに分かれた。ボッティチェリはこの修道士の影響のために華麗な絵を描くのをやめてしまったと言われているほどである。
 では翻って、さかしまに考えるなら、いうところの「春の謳歌」とは、それはそれで終末論を準備する、つまりその場限りの一種の終末論的綺想だったということになりはしまいか。同じく後の作品であるこの『神秘の降誕』が不安に満ちたひとつの綺想であったように。それはむき出しにして深遠な不安であったはずである。この不安を心に刻み込んでおかねばならない。

 

 老ミケランジェロ
 ミケランジェロの美しい「ピエタ」。だがピエタにもいろいろある。新プラトン主義はどうなったのか。パノフスキーは、ミケランジェロだけが幾つかの局面ではなく全体においてこの新プラトン主義を採り入れた、と言っているが、それにしてもミケランジェロが晩年に迎えたのも奇妙な「秋」ではある。このことを文字どおりにとれば、学者パノフスキーが予想以上に軽々しく見えるほどである。優れた学者も時にはつまらないことを言うものだということを覚えておくべきかもしれない。
 ミケランジェロ自身だけが秋を迎えていたのではない。春から秋へ。中世ではなく、ルネッサンスの秋。メディチ家礼拝堂の秋。霊廟はアレゴリー以上のものである。「しかもなんと厳しい冬を後にひかえた秋だろう」と詩人で美術評論家のイヴ・ボヌフォワは言っていた。
 ミケランジェロは八十一歳であれらの偉大なる「ピエタ」のひとつを彫ったのだから、彼は何を見たのだろうか。大理石の肌理(きめ)からもう汗が滴ることはなかったかもしれない。汗は彼の手のひらの皺、彼の困難な手相の脈絡をつたっていただけだった。ああ、ミケランジェロの最期の日々。
 ミケランジェロは一体の「ピエタ」に取り組んだ二日後、具合が悪くなった。神秘的統一は可能だったのか。それは「夜」の像だったのか。いや、彼にとって、像はあったとしても、ないも同然だ、あるのは飛び交う、絶えることのない、しつこいイマージュだけである。ミケランジェロはかつて「昼と夜はかく語りき…」と書いたことがあった。統一は次第に夜の暗がりのほうへ明らかにずれ込んでいたのではないか。私にはわからない。

 

 綜合と逆説
 ルネッサンスのジンテーゼ。綜合はありえないからこそ、それに具体的な形を与えるために、矛盾は矛盾として生きられなければならない、と先のボヌフォワは言う。それはひとつの逆説である、と。
 この逆説はグレコのような画家にあっては顕著である。だがその名のとおり天使のような修道士であったフラ・アンジェリコは、ボヌフォワが言うように、はたしてこの逆説を念入りに避けたというのだろうか。修道士として? 天使のような? だが、そのようなものがあるとして、倫理的完全さの裏面は恐怖で満たされているのではないか。フラ・アンジェリコの描いた、あれらの聖人たちの無惨に切り落とされた首を目を凝らしてよく見てみるがいい。頑な否定はそのためにあったし、いつも観念のなかでは、否定の否定は成功したかに見えた。ヘーゲルよ、ほんとうにそうなのだろうか。

 

 天使の恐怖
 イヴ・ボヌフォワが言うように、それほどグレコとフラ・アンジェリコの芸術は対極にあるのだろうか。グレコの実在性はそれほど不安定で、フラ・アンジェリコの理想主義はそれほど安定しているのだろうか。人間離れした(ほんとうなのか?)天使のような修道士は、それなら、あらゆる点であれほど堂々たる人間を思わせるマザッチョとは対極にはいなかったのか。そんなことはあり得ないではないか。
 信仰は何をもたらしたのか。だが芸術は物語の外部に出て行くことによって信仰すらも外への出口と化すのではないのか。内面化など起こらない、というかそれが起こったと同時に内面化は厳しい外面化の裏地にすぎなくなる。フラ・アンジェリコの絵画が、フィレンツェで若き日のピエロ・デッラ・フランチェスカを魅了したというのはたしかにそうなのだろう。だが道は幾度となく複雑に分岐し、すべての道はフィレンツェに通じてはいなかった。



 それに、例えば、きわめて美しい作品と言えるフラ・アンジェリコの『聖母戴冠』ですらも、この美のなかに恐怖が入り込む余地はなかった、起源のなかにぱっくり口を開けたひとつの裂傷はなかった、と断言できるのだろうか。とにかくほぼすべてのルネッサンス絵画において、私にはそれ自身の外にまったく逆の絵画的効果を必ずや期待できるように思われるのである。絵には別の細部があり、時と場所は選ばれることがない。その意味であらゆる絵画には素晴らしい不完全さがあるのではないか。

 

 ルネッサンスのメドゥーサ
 だがベンヴェヌート・チェッリーニのようなルネッサンス人もいる。この超絶技巧の芸術家は、スタンダールを驚嘆させたらしいかの有名な『自伝』で恐らくは誇張気味に語っているとはいえ、スキャンダルに満ちた生涯を送ったことはたしかである。16世紀フィレンツェ。少年の頃から、喧嘩、傷害、決闘、盗み、殺人、男色を繰り返し、投獄、逃亡、追放、自宅軟禁の憂き目をみる。こんなキャリアはカラヴァッジョ以上である。



 若い頃、ミケランジェロの壁画を模写していたと言われているが、彼の彫刻のポジティヴな「恐ろしさ」、畏怖すら感じさせる積極的「恐怖」と言いようのない「憤怒」は、明らかにミケランジェロの作品に深刻に対抗しうるものだと言っていいだろう。これは彼の自伝の文章の破天荒さから予想されるユーモアとはほとんど関係がない。
 メドゥーサの首を掲げるチェッリーニの傑作『ペルセウス』の冷淡さは、ほとんど時の権力者に対する神の最後の審判の残酷さに匹敵するかもしれない。この残酷さは万人が当然のことながら怖れを抱きつつ待ち望んでいたものである。ルネッサンスはいずれにしても厳しい冬を迎えたのである。

 

 ペスト
 ジョットも壁画に描いているハレー彗星がヨーロッパの夜空を横切った1347年に、クリミア半島にペストが発生した。ダンテと同郷であるボッカチオの『デカメロン』によると、このペストはヨーロッパの人口の四分の一を死滅させたと言われる。1351年には、ロシア。1502年、南仏プロヴァンス。このときには病気平癒のために医者でもあったノストラダムスが大活躍する。1576年、ミラノで大流行。同じ頃、フィレンツェに蔓延。1628年、ロンドンの住人の約半数が死亡し、都市は壊滅状態に陥る。1630年、ミラノで八万人、ヴェネツィアで五〇万人の死者を出す。1655年、再びロンドン。1666(666!)年、ペストはまたたく間にヨーロッパ全土に拡がる……。
 この簡略年表を見ても、クワトロチェントのイタリアだけはペストの影響下になかったなどとはとうてい言えないことは明らかである。ルネッサンスとバロックの時代はまさにペストが勝利した時代であった。死の勝利もまた結局のところ時代をしたがえてきたのである。

 

 ルクレチウス
 紀元前ギリシアの詩人ルクレチウスの『物の本性について』の写本が最初に発見されたのは15世紀イタリアにおいてだったが、面白いことに、この本はウェヌス(ヴィーナス)への讃歌から始まって、最後はペストのむごたらしい描写で終わっている。春から秋へ。いや、たしかにそんな生易しいものではないかもしれない。この本こそは、時を越えて、ペストにおいて、世界の終末において、ルネッサンスの寓意のひとつになったとしてもおかしくはない。
 「苦痛のやむときはなかった。へとへとに疲れ切って肉体たちは身じろぎせずにずっと横たわったままだった。病人は熱でほてり、あらゆる眠りを奪われたその目を大きく見開いてそれをしきりに医学のほうへ向けるのに、医学のほうは無言の恐怖にかられて、ただもぐもぐと口ごもるばかりであった。
 「かりに彼らのうちで万が一死と葬式をまぬがれる者があったとしても、おぞましい腫瘍に蝕まれ、腹から流れ出る黒い液体によって疲労困憊し、それでもやがて衰弱と死が彼を待ち受けていた。さらにしばしば腐った大量の血が、頭痛をともなって詰まってしまった鼻孔からほとばしった。そして人間のあらゆる力、物質のすべてがそこから流れ出した。そしてこのむかつくような血の恐ろしい消失をまぬがれる者があったとしても、病はさらに神経や関節、とりわけ生殖部位に向かうのだった。ある者たちは自分が死の敷居にいるのがわかって怖れ戦き、自らの性器を切除して延命をはかった。手や足を失って、それでもまだ必死で生きようとする者たちもあった。さらに目を失った者もいた。それほどまでに烈しい死への恐怖が彼らに襲いかかっていたのだ! 何もかも忘れてしまった、忘却に冒された者たちさえ見られた。彼らは自分が誰なのかもわからない有様であった…
 「そのうえすでに牧者も、羊の群れの番人も、逞しい鉤型犂の使い手も、みな全員が憔悴し切ってしまい、貧困と病によって死の手に委ねられた彼らの動かぬからだは、掘っ立て小屋の奥に山と積まれて、そこいらじゅうに散らばっていた。命を失った子供たちの上に時おり彼らの両親の死体が積み上げられるのを、そしてまた子供たちが父と母に折り重なって息を引き取るのを時おり見ることができた。
 「神々の聖域にいたるまで、ついに死によって命のない肉体で埋め尽くされていないところはなかった。そしていたるところで、天上の住人たちの神殿はあらゆる主人の死骸でふさがったままになっていた。その番人たちが神殿を主人たちの死骸でいっぱいにしていたのだ。というのも宗教も神々の権威も、このような時にはほとんど重きをなさず、現にある苦しみのほうがずっと強力だったからである。都市においては、死者たちの埋葬のためにそれまでこの民衆が執り行ってきた葬儀はもう見られなくなっていた。半狂乱になった市民たちは動揺のあまり混乱をきたし、誰もが悲嘆に暮れて身内の者を成り行きに任せて埋葬するのだった。幾多の恐ろしいことがなされた。差し迫った時と貧困のためにそうせざるを得なかったのだ。そして大声で泣き喚きながら、他の人たちのために積み上げられた薪の山の上に近親者の死体を置いて、燃え盛る松明をそれに近づけるのが見られた。彼らの死体を捨ててしまうよりはむしろ血みどろの戦いに絶えて…」(ルクレチウス)

 

 アルトー
 演劇はペストである。アントナン・アルトーはそう考えていた。20世紀のルネッサンス人であるアルトーは(私はそう思っている)、『演劇とその分身』のなかにアウグスチヌスの『神の国』第一巻、第三十二章から直接引用する。
 「肉体を殺したペストを鎮めるために、おまえたちの神々は舞台の戯れを己れのために奉納するように要求し、一方、おまえたちの司教は魂を腐らせるこのペストを避けようと舞台の建設そのものに反対する。もしおまえたちにまだ幾ばくかの知性の光が残っていて、肉体よりも魂のほうを好むのなら、どちらがおまえたちの崇拝に値するかを選ぶが良い。というのも悪霊どものたくらみは、肉体における感染がいまにも収まろうとしていることを見越して、肉体ではなく風俗を蝕むが故にはるかにずっと危険な災いを、このときとばかりに招き入れる機会を嬉々としてとらえるからである。はたして見世物によって魂にもたらされた腐敗ぶりや盲目さときたら、ごく最近でさえローマの略奪を逃れてカルタゴに身を寄せた者たちが、不吉な道楽の虜になって、毎日劇場に通っては我先に道化たちにうつつを抜かしていたほどなのだ」。
 どん底の人々が開け放たれた病気の家になだれ込む。彼らは他人の富に手をかけるが、それが何の役にも立たないことを思い知る。アルトーは、そのとき演劇が生まれる、と言っていた。現状のあれこれに対して無益な、まったく無駄な行為に人を駆り立てる無償性。そこは劇場である。ルネッサンス、つまり再生はひとつの無償性である。蘇った死体にとって、この無償性は現実化したあらゆる感情の作用よりもはるかに価値あるものとして現れるのである。第二次大戦中にアルトー自身の身体のなかで同じことが起きたように、外の異変や事件はそのまま身体の次元のあらゆる諸力の放電となって身体自身を組成する、というか一挙に皮膚の外にまで身体を外在化するのである。
 「なぜなら演劇は、不可能なことが現実に始まらない限り、また舞台で起きるポエジーが現実化した象徴に養分を与え、それを加熱しない限り、存在しないからである」。
 もしかしたらルネッサンス芸術、絵画にとっても、これと同じ事態が起きたのではないか。そもそも、アルトー自身が「演劇と形而上学」のなかでフランドルの画家ルカス・ヴァン・デン・ライデンの『ロトの娘たち』に言及していたように、アルトーの演劇の形而上学的イメージはもともとルネッサンスにあったのである。

 

 ウッチェロのマゾッキオ
 「どうあっても自らを見分けることができないひとつの絵画のために身体(物体)を組織すること」。
 ジャン・ルイ・シェフェールは『パオロ・ウッチェロ 大洪水』(第一版は『大洪水 ペスト パオロ・ウッチェロ』と題されていた)という本の冒頭近くで、いきなり奇妙なオブジェに言及している。「マゾッキオ」である。フランス語にも英語にも訳語はないらしい。したがって日本語にもこの言葉を指す訳語はない。
 ウッチェロの『大洪水』の左の前景部分に描かれたこの物体「マゾッキオ」を、恥ずかしながら私はずっと海水浴で使う「浮き輪」のことだろうと思っていた。絵が洪水を描いているのは本当だし、溺れかけている人がこれを首につけているのだから、なおさらである。つい先日のことだが、ルネッサンス学者の芳野明氏から、これはターバンを巻くための「芯」のようなものであると教えられて、自分でもあきれてしまったばかりだった。そういえばルネッサンス時代のイタリア半島の人々はターバンのようなものを頭に巻いている。



 私の無知にもかかわらず、それでもやはり「マゾッキオ」は、絵を見る限り、やはりウッチェロによってこの溺れつつある身体に「浮き輪」として与えられていることにかわりはない。換喩にとっては、無知も時には役に立つことがある。大洪水の際に、手綱を持つ手もまた流されてしまうのだから、泡を食った人間にたぶんターバンはほとんど役に立たないではないか。洪水のさなかにアケロンの河をダンテのように渡るとき、三途の川の冥銭、六文銭は支払われたのだろうか。そうなるとマゾッキオは一種の手形のようにも思えてくる。
 そして当時のフィレンツェの芸術家たち、ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョたちと同じように、最も早い時期にウッチェロは三度の飯よりも遠近法に深く取り憑かれていたのだから、この物体がいかに奇妙なものであるとはいえ、ウッチェロによって、絵画空間のなかの一種の幾何学的事物として描かれたことも事実である。幾何学的手形。ウッチェロは何を考えていたのだろう。いわば数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカによると、「マゾッキオ」は「固有の形態のうちにある図像(フィギュール)」であって、ルネッサンスの洪水=ペストは、すべてのアルカイズムとは無縁の未知なる新たな場所において、「新しい物体」、新しい形象を必要としていたことになる。
 だがやはりこのウッチェロのマゾッキオはピノッキオのように謎の本性を備えているとしか言いようがない。それはうれしいことに、そして残念ながら確かな絵画的事実なのである。

 

 大洪水
 歴史は繰り返された。真実はフィクションであるだけではなく、フィクションは真実である。過去と現在の科学の想像界、つまり妄想の否認をもって任ずる滑稽な妄想のことはこの際どうでもいい。
 『大洪水』と呼ばれるその名高いフレスコ画は、フィレンツェのドミニコ派の教会サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「緑の回廊」と呼ばれる回廊に描かれているのだが、ペストが病気の隠喩であると誰かが言っていたように、旧約聖書のノアの箱船はそのときペストの隠喩と化したとでもいうのだろうか。
 そう、洪水はペストである。
 土左衛門、なかには子供の溺死体も見える。絵の左手には神の怒りによってあてどもなく漂うノアの箱船。落雷で木は裂け、我勝ちに救われんとして箱船に殺到する人たち。箱船には乗せてもらえなかった人たちがしがみついている。
 右手には洪水後の箱船。水は静まり、空は晴れている。穏やかな日差し。だがここにもペストの隠喩がある。鳥が水に浮かんだ土左衛門をついばんでいるのだ。
 ノアは箱船の窓から身を乗り出し、誰かに話しかけている。絵の前景では、たっぷりとした襞のある、ゆったりとした法衣を身に纏い、聖職者かと思われる、そしてなんと五百年前のアルトーのようにも見えるひとりの人物が、東を向いて右手をかざし、おりしも祈りを唱えているところである。
  ここには明らかに新しい神学があった。
 われわれは祈っただろうか。アルトーに似たこの人物も祈ったし、われわれも祈った。まあ、さしあたっては、それで良しとしようではないか。

 

 ペストにもその前とその後があった。われわれが生きているのは、その前なのか、その後なのか、どちらなのだろう。

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                                                            第62回 2015年5月






笠井叡の何もないテーブル




                                                                        鈴木創士




V・ニジンスキー『ニジンスキーの手記』、ロモラ・ニジンスキー『その後のニジンスキー』、G・ウイットウォース『ニジンスキーの芸術
笠井叡『銀河革命』『天使論』『聖霊舞踏



 「私は生き抜いてきたことを書くのであって、何も想像していない。何もないテーブルに腰を掛けている」。
 これは『ニジンスキーの手記』の「死」と題された章からの言葉である。ニジンスキーは、「死は不意にやって来た。私は死にやって来て欲しかったのだ。生きたくないと自分にいいきかせた。私は長生きしなかった」と書いているが、この文章を記したとき、無論、ニジンスキーは生きていたし、恐らくは狂気と正気の狭間で普段の生活を送っていた。彼はバレーをとっくにやめて、というか踊ることを放棄し、狂気の淵に沈み、絵や文章を書く以外、30年以上にわたって何もしていなかった。
 だが動きをやめない肉体にとって、つねにテーブルの上には何もないのである。
 ニジンスキーは一九五〇年四月八日(この四月八日という日付は私にとって重要である。ダンテが地獄に旅立った日であり、釈迦の誕生日であり、ちなみに、ほんとにどうでもいいことではあるが、私が何十年か前に生まれた日でもある)に病院でほんとうに死ぬことになったが、病床で意識を失ったまま、かの有名なバレー「薔薇の精」の手の仕草を繰り返していた。だが栄光も挫折も過ぎ去りなどしない。かつての舞踏の仕草はいま現在の仕草であり、肉体は、それが自分であっても、何かを模倣したりはしない。肉体の肉体が滅びることはないからである。敗北するのはわれわれであって、肉体ではない。
 ニジンスキーの時代はたぶん彼の舞踏をまったく理解できなかった。共産主義ロシアとナチス・ドイツがあった。いたるところで精神病院の患者たちはほとんど根絶の憂き目にあっていた。彼が精神病院に出入りしていた時期とアルトーが精神病院に監禁されていたのはほぼ同じ頃である。ディアギレフがいようとストラヴィンスキーがいようとココ・シャネルがいようと、どうすることもできなかった。クレペリンもフロイトもユングもニジンスキーを診察したが、彼は病院を盥回しにされた。

 ああ、なんという優雅、なんという神経症的優雅、優美な遅延、遅れてきた、あるいは早すぎた跳躍だったろう。これはほとんど物質の恩寵と呼んでもかまわない何かであった。肉体が微動だにしなかったのであれば、すべてがスローモーションのように過ぎたというのか。第二次世界大戦はニジンスキーにとっても「第二幕の始まり」にすぎなかった。ニジンスキーは建物に入ってきた兵士たちに向かって「静かにしろ」と叫んだ。そして死の床のニジンスキーは、頭の上で何度となく両腕を交差させたのである。眠ったままで……。
 私はこのエピソードに思いを馳せる度に、大野一雄の最期の舞踏を思い出す。アルツハイマーを患っていたからなのか、もうちゃんと一人では立つこともできず、腰を支えられ、ほとんど鬼籍に足を踏み入れかけた百歳の舞踏家は、それでも手をひらひらさせていた。手のひらはこっちを向いたり、かろうじて天井のほうへ、天空のほうへ向けられ、しんとして、手は手から放たれることもなく手を離脱していた。鳥は殺されはしなかった。今度は鳥の言葉を聴き取る番である。

 
 つい先日、京都芸術劇場・春秋座に笠井叡の舞踏公演を見に行った。題して『今晩は荒れ模様』。笠井氏がいまでも怖れを抱いているらしい(失礼!)白石かずこの詩集から借りたタイトルである。笠井叡のファンキーさは、60年代のフーテン族などに特有のものであるが、白石かずこのファンキーさもそれほど絶大なものだったのか、と言えば非礼にあたるだろうか。

 今回は錚々たる女性ダンサー六人を従えていたので、ニジンスキーよりもイサドラ・ダンカンを援用しなければならないのだろうが、イサドラ・ダンカンのことはよく知らないし、勿論見たこともないので、いまは余計なことを言わないでおく。ただこれらの素晴らしい女性ダンサーたちとの、笠井叡の言う「振付け関係」は、一見して、肉体の関係とはまた別に、非常に独特な色合いを作品に与えたのだと思う。それは無論エロチックで闘争的な関係にとどまらないはずである。

 

 それはそうと、私が生で(なま!)笠井叡さん自身の舞踏を見るのは実に七十年代の終り、私の記憶違いでなければ、なんと有楽町の古いホールで行われた『ソドムの百二十日』以来のことである。『ソドムの百二十日』はそれまでの笠井叡の舞踏と比べてもじつに印象的な舞台だった。思い出す限りでは、何もない舞台、舞踏家が一人、椅子が一脚、舞踏家の衣装はGパンとTシャツだけ。バックの音はなぜか俳優ミシェル・シモンによるセリーヌの『夜の果ての旅』の朗読。音楽評論家の間章がひそかに百部だけ限定販売していた海賊版レコードが、当時はそれしかなかったのだから、音源だったはずである。この頃は、誰が何を持っているかまで、なぜか手に取るようにわかったものだ。客席には澁澤龍彦がいた。舞台の上の笠井さんは、私だけの感想だろうか、激怒しているように見えた。

 
 今回は京都である。白いスーツの笠井が客席から舞台に上がる。笠井さんはこんなにも小柄な巨人だったのかと思う。私は怒ったような彼の表情が好きだ。この表情には、とても古い、どこか古代的なものがある。「頭上の太陽は燃え尽きて…」。足が床をこすり、腕が空気を切る音がする。「地面が割れて、黒い太陽が出現する」。言葉が肉体であり、肉体が言葉であることを証明しなければならない。何もないテーブルに黒い太陽が昇る。テーブルの上には黒い太陽が置かれている。リュートがそれを宿すより先に、言葉をこの太陽で焦がさねばならない。この太陽とはひとつの此性でありこの世である。

 テーブルはない。何もないテーブルすらない。だがやはりテーブルの上には何もない。黒い太陽が出現する。舞踏家は仕事中である。


 笠井が叫ぶ。女性ダンサーの最初は黒の衣装の黒田育世。黒いチュチュ、ブラックバード。鳥が殺しにやってきたのだろうか。鳥の言葉をしゃべる聖フランチェスコはまだここにはいない。いや、そもそも男などお呼びではなかった。操り人形のように、糸に引かれるように舞台の奥から登場したこの女性は、次第に大地母神の使いか、デルポイの狂った巫女のように見えてくる。根太い怒りの予言が唱えられる。ぶつぶつ呟かれる。言葉はなしで。口にされた言葉は消える。この大地が強力なものであることにかわりはない。空間は鷲掴みにされる。黒鳥、猛禽類、黒焦げの大地。われわれが最近経験した太陽の怒り。ラフマニノフの音楽が始まる…。



 黒田と入れ替わるのは寺田みさこである。衣装は裸体を思わせる。骨格と化した機械仕掛けのディアーナ。最初は、昆虫の手足、それが突然優美な手足となる。完璧な佇まい。踊り子とは、ドガの絵から飛び出したり、ルノアール描くところの、女の子のように振り返ったあの裸の背中を見せた男の子のように見えるものなのだろうか。水浴びしていたディアーナは優雅な裸体を見られてしまったのである。黒田のソロダンスの後、もう一度水色のドレスを纏った寺田が登場する。空気の精のような、あるいは軽い水のような動き。オフェリア。水には陽が上から差し込み、水泡ははじけ、水底はゆらゆらと揺らめいている。

 黒田と寺田の戦い。バレー・リュジール。バレーが遠くで轟く。対照的な二人はほんとうに素晴らしい。クラシカルに互いが互いを否定し、それから肯定する。ブラックバードと水の精。振付け師とダンサーたち、笠井叡の「振付け関係」はこの時点ですでに感動的な成功をおさめたのだということがわかる。


 上村なおかと森下真樹のデュオ。南米のサボテン。音楽はアルフレット・シュニトケ。南米は、突如、ワイマール共和国のユダヤ人共同体となるのだろうか。カフカの家のように、小さな家々。空間が区分けされる。踊りながら、動きながら、言葉が発せられる。「・・・サボテン・・・」。熱帯の亀。黒髪と金髪。ダンスは、突然、物語の切れ端を見せ始める。だが物語は始まることも終わることもない。「物語はもうなしだ」。ポップな反古典主義。



 白河直子。長く細い手足が不思議な直線と大きな飛び散る曲線を描く。長い裾のドレス。現代絵画のような肉体の大きな動き。額縁がいたるところに落ちている。われわれは絵を見たことがあっただろうか。予測不能な動きのなかで、空間は回転し、見えない汗が飛び散り、何かが放出される。逆光の中に浮かび上がるのはルシファーでもリリトでもない。深さのある、そのことを知らせにやって来る空間は、おおきく息をせざるを得ない。



 山田せつ子。白い衣装の人形が歩いてくる。歩くことはダンスであり…。子供が歩くのは…。遊んでいるのは…。プラハのユダヤ人共同体の外縁はどこで消えるのか。子供が応答する。今度は、ほぼドイツ表現主義の映画だ。カリガリ博士はいくつもの分身を必要としていたではないか。再び笠井叡が登場する。表現主義的デュオが演じられる。空間は縮み、積み木のようなものとなり、幾筋かのライトに照らされる。荒い粒子は縞模様を作り出すかもしれない。歩行はこれまた目には見えない荒い粒子を舞い上げる。



 暗転。六人の女性ダンサーたちが再び登場し、踊り、跳躍し、倒れ伏す。

 舞踏会はこれで終しまい、と思いきや、突然赤い垂れ幕が落ちて来る。ドラッグクィーンの笠井叡! 悪い冗談のように、君たちの物語をぶち壊すように、彼はやって来る。彼はやって来る。トランス系の音楽に身をよじって。失礼ながら、私は笑ってしまった。笠井さんの茶目っ気はいまなお健在である。
 「すべての被造物を通して、自己愛の無知の眠りに、深く沈んでいる神よ、願わくば、読者がこの錯乱と矛盾と悪意とに充ちた、「地球」という名の「獄舎」に幽閉されている一徒刑囚の哀歌に惑わされぬよう、彼等をして、聖霊によりて正しき道につかせ、やがて来るべき、あなたのその傲慢な眠りの覚める、薄明の光の淵まで導き、至福に充ちたその光の中へ彼等を解き放ち給わんことを」、と、そんな風に若き笠井叡はロートレアモンのように大著『天使論』を始めたのだった。


 舞踏会が終わった後、なんとなく京都が落ち着かず、夜も更けて、神戸の友人のバーに戻った。少し飲んでから、一緒に公演を見に行ったHも疲れて帰った。彼らと彼女たちも帰った。バーにはその主人と客ひとりになった。テーブルには何もなかった。夜の二時半をまわった。行こうか? すぐ近くの地下に若者の(?)クラブがある。彼と一緒に、ステッキをついて、踊りに行った(ほんとうはわれわれの音楽ユニットのライブのためにひそかに箱の下見を兼ねてのことでもあったのだが…)。

 踊りになんて行くのはほんとに久しぶり。テーブルにはやはり何もない。笠井さんに当てられた。舞踏会は素晴らしかった。今宵は荒れ模様。音楽はラフマニノフではないが、まあ、DJのクラブ・ミュージックもいいさ。


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第61回 2015年4月


                                        
                                        
                          ある公演中止の余白に

                                        
                                        
                                                                        鈴木創士


                                        


ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還




 私もかかわっている、結城一糸率いる江戸糸あやつり人形座による芝居『分身残酷劇 カリガリ博士』が、ここでみなさんに詳らかにする気にもなれない理由で、急遽中止になりました。青天の霹靂というか、どちらかといえば寝耳に水という感じでしたが、ハムレットが耳に毒水を流し込んだのさ、などと嘯いて知らんぷりを決め込んでいることができればいいけれど、そんな恰好の良いものではありません。芝居は今年の九月に東京の高円寺で上演の予定でした。
 

 すでに原作脚本:鈴木創士、演出・上演台本:才目謙二、人形演出:結城一糸、音楽:佐藤薫+BANANA-UG、舞台美術:島次郎、照明:斉藤茂雄、音響:幸田和真、人形・衣装:小林ともえが決定していて、もうこんな時期なのだから、言うまでもなく私の脚本もとっくに出来上がっていました。
 俳優陣はといえば、十貫寺梅軒、笛田宇一郎、木下智恵、吉田朋弘、人形遣いは、結城一糸、結城民子、結城敬太、結城栄、金子展尚、他が決まっていたし、私自身、若い頃に見に行っていた状況劇場の役者だったあの梅軒さんにもお目にかかることができて喜んでいました。演出家と音楽家は私の友人であるし、本はできたし、後は高みの見物、人形、俳優、演出、音楽、舞台美術、等々、さあ、お手並み拝見という気楽な立場になるはずでした。




 こんなことになったのはあまりに突然のことで、その経緯をここに書くつもりはありません。勿論、人形座、演出家、俳優、音楽家、その他私も含めて、このまま終わらせるつもりは毛頭なく、来年の上演実現に向けて、新しい形態も含めた模索がまもなく開始されるはずです。そうしなければならないのです。
 

 それにしても、なぜ分身残酷劇「カリガリ博士」なのでしょうか。なぜなら、と言うことはできません。この場合は、作品の説明など阿呆のすることだと言いたいのではありませんが、たとえそもそも作品というものが恐らく半分以上は批評でできているとしても、上演も出版もされてもいない自分の作品を批評したり解説したりする気になどなれませんし、そういう芸当については能力も忍耐も私にはもともと完全に欠如しているからです。もし「カリガリ博士」の脚本をまだ書いていなくて、もともと書く気もなく、それがまったくの幻、でっち上げの架空の作品であれば、ボルヘスのように、ありもしない本について言及することはできるでしょうが、いまは悠長にそんな話をしている場合ではないことはわかっています(その代わりと言っては何ですが、この戯曲のための趣意書めいたものがあるのでそれを後で掲載しておくことにします)。
 

 だが、どうしてロベルト・ウィーネの無声映画『カリガリ博士』に登場するカリガリとチェザーレのイメージが必要だったのでしょう。ジャン・ルイ・シェフェールが『映画を見に行く普通の男』の冒頭で言っていたように、私にとってこの映画が、映画が始まると世界が不意に一種の無時間のなかに消えてしまう、そのような映画の最たるものだったからです。






 無時間と時間の間でそれこそ一瞬にして事物と身体の縮尺が狂ってしまう。たとえ映画が時間の芸術だとしても、記憶をめぐる何かしらがそこから派生し、延長され、ワープするにしても、私にとっては、そこから映画のなかの新しい時間が始まるわけではありませんでした。そうではなくて、事はただイマージュのさまざまな出現、出現の仕方だけにかかわるのです。この事態のもつ貧しさ、唐突さは一種の原動力です。カリガリのドイツ表現主義風イメージの超越性は私にとってそれほど強烈だった、としか言いようがないのです。私はそれに対して愛情すら覚えているのですから。
 勿論、私の戯曲が、アントナン・アルトーの影響のもとに書かれていることは認めざるを得ません。それが目に見える形かどうかは別問題ですし、アルトーが色んなことをいままで私に教えてくれたわけでもないですが、それでもアルトーは私の梯子を急に外したりし続けてきました。私は墜落を楽しんでいたのでしょうか。そんなことはあり得ない!
 

 それはそうと、私はカリガリのイメージを「自身の身体なのに僕自身には見ることのできない部分のように」(シェフェール)用いた、というか用いるつもりで、ある無手勝流の使用法を戯曲のなかに解き放ってみたくなったのかもしれないですが、いずれにしろこの映画からは、カリガリに限らずとも、「分身」のイメージが最初からふんだんに発散されていて、それを黒い太陽の見えない光線のように、つまり何かの固定されたイメージ群とイメージ自体がもつ時間の反映を穴だらけにするように、浴びないわけにはいかなかったのです。分身という、光への回帰を果たせない者たち。遅れてやって来たのか、先にいたのかわからない者たち。このほの暗い影の底を、世界の断片が、叫びが通り過ぎ、言葉、すでにわけのわからぬものとなったそれらの言葉、誰のものとも知れぬ、どこから来たのかもわからぬ言葉が、その底にひらひらと舞い落ち、積み重なって、腐り果ててでも繰り返し誰かの口から再び発せられることになるかもしれない……と。そのためには、そしていくつもの声がそれぞれ語り始めるには、戯曲が必要だったのです。

                                      *

                      分身残酷劇「カリガリ博士」趣意書

 始めにあったのは、そして始めから終わりまで度し難く居座り続けるのは、ロベルト・ウィーネ監督による映画『カリガリ博士』の、突飛としか言いようのない、いまでも色褪せることのないイマージュ群である。ヴェルナー・クラウスによって演じられたカリガリ博士、コンラート・ファイトによって演じられた夢遊病者チェザーレの完全無欠のイマージュである。そして、言うまでもなく、アルフレート・クービン、ヘルマン・ヴァルム等によるドイツ表現主義風の舞台美術、映画内における、つまりスクリーンの内側に、ボール紙の黒いお日様もかくやと思われる、エドガー・アラン・ポーの黒猫さながらに塗り込められた書割りである。それらは一種の謎の光源から射す影のように機能した。これらの美術的効果はカリガリとチェザーレの全存在、全イマージュの一部をなしている。
 

 舞台という現実のなかに大股で侵入するこれらの実現された幻影は、すでにして決定的である。劇場の闇と同じように暗いわれわれの脳髄のなかのスピーカーは、記憶に頼らずともそんな風にわれわれの耳元でわめいているのだし、大声で教えを垂れにかかっている。いかにしてカリガリ博士は、三角形の家、歪んで閉じたままの扉を出たり入ったりするのか。いかにして箱のなかのチェザーレの恐慌(パニック)は、蓋も閉まらない棺桶に憧れるのか。世界が、われわれの世界が、20世紀初頭このかた斜めに傾いているのであれば、いかにしてさらに傾き続ける一本道を、糸巻きオドラデクの断末魔のきりきり舞いのように、迷宮のなかの眩暈がするほど急傾斜した細道をよたよたと行けばいいのか。ねじ曲げられ、ばらばらにされ、崩壊し、へしゃげた幾何学は、われわれの舞台のために何を語るのか。それらをついでに見てみなければならないのである。
 

 とはいえカール・マイヤーとハンス・ヤノウィッツの原作脚本も、フィリッツ・ラングによって後に手直しされた脚本も、もはや部分的にしか、いや、まったく問題とはならない。語られた物語は、すでにカリガリとチェザーレというこれら二人の登場人物のイマージュの片側だけを反射する残骸にすぎない。反射されたイマージュの光は、われわれの散漫さのあまりズタズタになってしまった世界の散文にも似た断片の上に映し出されるだけである。そしてこの映画をめぐって後にドイツで巻き起こった論争、カリガリがヒトラーのような人物であるかどうか、などということにわれわれがほとんど関心がないことはあえて言うまでもない。ヒトラー自身も人類の歴史の死んだ傀儡(くぐつ)にすぎないからであり、一方、カリガリは、ご存知のとおり、フィルムのなかで永久に動き回り、生き続け、そしてわれわれ自身は崩壊後の、断片化された後の世界をいまも生きているからである。
 

 すでにカーニヴァルはおひらきだ。引き潮の後に舞台は成立するかもしれない。地面の上には紙屑しか落ちてはいないけれど、まだ風くらいは吹いているだろう。少しの仕草、大仰でギクシャクとした身振り、そこには天地創造にも比すべきものがある。カリガリ博士と夢遊病者チェザーレは殺人を犯したのだろうか。カリガリは薄闇のなかに血がほとばしるのを、ほんとうに笑いながらチェザーレと一緒に見ていたのか。カリガリはチェザーレを愛しているのか。チェザーレはカリガリを憎んでいるのか。カリガリの、チェザーレのからだは何でできているのか。なぜガリガリでなければならないはずのカリガリが太っていて、なぜ箱のなかでじっとしているチェザーレが痩せているのか。カリガリが診察室のなかでひそかにチェザーレを食っているからなのか。
 夢遊病者などというのは仮の姿である。ではチェザーレのからだは煙でできているとでもいうのか。そもそも、ここはどこなのか。夢遊病者が夜を彷徨う人であれば、彼は黒焦げになった回文のようにそこをぐるぐると廻り続けているだけであり、夜が、暗闇の囁く文章が、チェザーレを生かしているのである。カリガリ博士は狂人なのか。精神科医とはどこの鼠のことなのか。カリガリが機関車の運転手であってもバナナの叩き売りであっても自転車乗りであっても私はいっこうに困らない。診察室のなかでは博士の愛情の末路などどこ吹く風。人に裁きを下す墓場に愛などない。観客に愛がないように…。おっと、話題を変えよう。
 では、どうして映画のなかのカリガリはメタ・レヴェルの物語をすいすいと泳いでゆくのに、夢遊病者チェザーレはチェザーレのままで居続けることができるのか。実のところ彼はとっくに死んでいるのかもしれない。舞台に構造はない。構造は構造が降り立った街路のものだということになっている。少なくとも舞台の上では映画のように階層的幻覚を一瞬のうちに実現することはできない。積み重ねられたメタ・レヴェルは一巡して元に戻るだけである。そのことはわかっている。
 もう物語はなしだ、と20世紀フランスのさる前衛作家が言っていたが、そのことに私も同意しよう。物語はもうなしだ。あるのは、さっきも言ったように、イマージュを反射する散文の黒焦げになった残骸だけである。だが厚顔無恥な物語はいつまでもしぶとく強靭である。物語はわれわれと同じように始めから破綻していたはずだというのに、いったい何が起こっているというのか。物語というこの化物は、別の物語の末路を装いながら、向こうに見える洞窟のように真っ黒い口を空けてわれわれの方をじっと見ているだけである。
 

 カリガリ博士とチェザーレ。彼らは一種の「概念人物」、人物としての「概念」に成りおおせることができるのか。舞台は物体でできているのだから、映画風のイマージュなどと言っても何も始まらないのは承知の上である。われわれが行うのは演劇なのだから、映画のイマージュはちぐはぐな身体を得て、ここ、舞台の上で立ち往生しなければならない。映画のイマージュ? いや、ほんとうのことを言えば、そのようなものはどれも映画のイマージュですらない。私がここで言っているイマージュは、物理的意味においての、時たま光で出来ているようにも見える身体イマージュでしかない。演劇や美術、そしてそもそも映画は、それを偽装し、仮構するものなのか。それは嘘っぱちなのか。数々の留保がつくとはいえ、勿論、そうではない。われわれは喜んでそうではないと考えるほうに賭けることができる。なぜなら現実のなかで汗し、愛し、あくせくし、あくびし、あそび、あやまちを犯し、それでいて現実を手玉に取っていると、丘の上の阿呆のように思い込んでいる愛すべきもしくは憎むべき実在のわれわれ自身もまた、イマージュで出来ているからである。
 

 そのことを最も哲学的に語るのは、あやつり人形自身の確固たる存在である。これは厄介であると同時に、喜ばしいことである。とりわけここでわれわれはそう考えることができる。儚い存在であるのは、その消息を風さえも知らないのは、そして砂まみれの、切れてしまいそうな一本のアリアドネの糸すらもはや手に握りしめていないのは、残念ながらわれわれの方である。一本の糸、無数の糸。重要なのはそれである。演出家と脚本家は途方に暮れざるを得ない。どこのどいつが無責任にそう言っているのか。大変なことになったものだ。あやつり人形は誰に操られているのか。操っているつもりの人形遣いを操っているのはいったい誰なのか。むしろ黒子に結わえられた見えない糸は誰に握られているのか。人形になのか。役者になのか。
 操り人形と黒子の関係は分身と分身の関係である。分身が分身を操っていたのか。分身と分身の関係に主人は介在することができない。ところで、主人はどこかにいるのだろうか。よくよく考えてみなければならない。私は私と出会うことはできない。少なくとも四六時中は。私が死んでも、私の中にいるあいつは死なないのと同じことである。舞台の外にまで広がる茫洋としたこの空き地にいるのは、結局のところ分身だけではないのか。生身の役者はどうなのか。彼はほんとうに生身などと言えるのか。彼の声は分身の声ではないのか。分身はかりそめのからだを持つだけだとしたら、役者もまた同じことではないのか。
 だから舞台の上であれどこであれ、神出鬼没であるはずの顕現としての身体は、栄光の身体の奈落の淵で、すでに瀕死の状態に陥っている。だが、われわれがすべての本を読んだとしても(それは嘘だ)、肉は悲しんでばかりいるわけではない。そもそも人形は肉を持たないではないか。人形たちはそれを喜んでいたのか。悲しんでいたのか。そうであれば、人形が黒子となりかわり、役者とすりかわり、今度は彼らを演じ続けているとでもいうのか。じつに美しく、恐ろしい事態ではある。はたしてわれわれ自身が誰かによって演じられているのか。われわれが息をしているなら、息を吹き込まれたのなら、人形はどこで息をしていたのか。われわれだって?
 そんな風にわれわれに言っているのはじつは人形の方だったのである。霊的なプロンプターを装う黒子は黒子であることをいつやめるのか。彼はいったい誰に科白を大声で伝えていたのだろう。人形になのか? 役者になのか? そうであれば、蘇ってはみたものの瀕死のままである栄光の身体が操っているのは、人形遣いである黒子自身の、役者自身の、つまりわれわれ自身と観客の、どう見積もっても悲惨としか言いようのない身体なのだろうか。
 

 われわれの師であるアントナン・アルトーが言う「身体の橋」とは、ひとつの幻想などではない。形而上学ではない。この橋が、現実の大盤振舞いとして、アリアドネの糸のあえかな結び目として、揺るぎない公理として、まずは人形と役者のあいだにいかに架橋されるのかをじっくりと見てみようではないか

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  第60回 沈黙の破裂 - 2015.03.04

    第60回 2015年3月




                                沈黙の破裂



                                                                      
  鈴木創士




ギー・ドゥボール『スペクタクル社会についての注解』『映画に反対して 上
フィリップ・ソレルス『セリーヌ






 フランスの詩人ジャック・レダはいまでは散歩詩人などと呼ばれているが、私には、いまやガリマール社の重鎮もかくやと思わせるような、もっといかつくて過激なイメージがある。とはいえ、いいかげんなもので、かつて『アーメン』という初期の本も持っていたはずだが、きれいさっぱり、内容についてはまったく思い出せない。だが私であれ誰であれ、人が勝手に抱いているだけのことなのだから、詩人のイメージなどどうでもいい。思考のイメージがどうでもいいかと言えば、こちらのほうはなるほど複雑な思考の往来を含んでいて、『差異と反復』のドゥルーズの議論でも事がすっきり済むというわけではなく、一筋縄ではいかない。
 ところで、ジャック・レダが徒歩で、はたまたソレックス(フランスの原付、日本の原付よりもっと自転車に近い)に乗って、パリ市内や郊外をあちこち歩き回ったり走り回ったりしているのはたしからしいし、ジャズ評論を書いているのもほんとうである。だが誰が発したにしろ、これらの言葉には、そもそも詩人の言葉も足取りもそう軽いものであるはずはないのではないかと思わせるものがある、と言えばいいのだろうか。誰かも言っているように、と人ごとみたいに言ってはおくが、何と言えばいいのか、そう、そう、その軽さには軽さはないらしいというのが、その重さと深遠さにおいてほんとうのところなのだろう。
 もう大昔のことだが、フランスの友人がサン・ジェルマン・デ・プレのドゥー・マゴーとカフェ・フロールの間にあったラ・ユンヌという本屋に勤めていたことがあった。今年中にそのラ・ユンヌのサン・ジェルマン・デ・プレ店がなくなってしまうらしいので、彼に三行くらいのそっけないメールを書いた。妙な紫色の煙が漂うなか、君が美術書コーナーの机にふんぞり返っていたのを思い出すよ、などとわざわざ事務的な伝言をしたら、そんなパリのどうしようもない移り変わりや引っ越し事情についての三面記事などどうでもいいから、ジャック・ルーボーやジャック・レダやアラゴンやレオン・ポール・ファルグがパリについて書いた本があるのでそれを読めという主旨の返事が来た。ずっと会っていないとはいえ、私は彼のことをフランスの唯一の親友だと思っているが、彼がいま何をやっているのか、あるいは何もしていないのか、何も言わないので詳しくは知らない。このフランス人は当時、つまり若い頃から驚くほど知的な男で、ユーモアに溢れ、彼のくれる手紙やメールの文章はいまでもあまりに名文で格調高く読むのにかなり難渋する。つまり返事を書くにはいつもはるかにもっと難渋をきわめることになるわけである。それで思い立ってジャック・レダの『パリの廃墟』という散文詩集をぱらぱら読み返していたのだが、この本には堀江敏幸氏による日本語訳があるのだけれど、柄にもなく、冒頭の一節を自分でも翻訳してみたくなったのだ。無謀にもそのように思わせる本なのである。


 「冬の六時頃、ともすれば私は大通りの左手を下って、公園を通るのだが、椅子や小さな茂みにぶつかるのは、愛のように理解し難い空が近づいてきて、私の目をすっかり吸い込んでしまうからだ。ほとんど消えかかっているその色を説明することはできない。たぶんひどく暗いトルコ石だろうか、目に見えるものから逃れ去り、自らが覆いつくす魂を焼けるように熱く氷のように冷たいものに変えてしまう光をぎゅっと凝縮している。湖の上を物音ひとつたてずに雲の隊列が流れてゆく、物音ひとつたてずに。稲妻でさえ、もはや終りのないこの静寂の爆発ほどには人を驚かさないだろう。しかも嵐の照り返しがお菓子でできた家々を揺さぶり、もっと遠くで、舞台はいまにも吹っ飛びそうな火薬庫のように一点に集中する。いたるところに愛がある、その繊細さとその猛火の揺れのなかに。いたるところに枝々がある、耳には聞こえないこの夜の火をことほぐために。つぶさに見れば、それは鬱蒼たる樹々の塊から身をほどく薄暗がりであり、その暗がりは歌い、そこで消え入ろうとしているのだが、一番細い先端でつまずいて、高音のなかで壊れてしまう。私には頭のなかに同じ声があり、同じ単調な厚みがあるのだ」(「異端者の忍び足」)。



 この同じ高音、急に途切れて次第に忘れてしまう他はないこの単調な通奏低音のことは私にも覚えがある。耳鳴りが止まず、ある不在の厚みが広がっている。あるいはそこで突然、凝縮されたようにそれはひと塊となる。風が何かを、錆びついた何かの鉄を軋ませているのではない。あるかなきかの期待と忘却が、水に濡れた光り輝く緑にあふれた、あるいは灰色の、肝心の絵が消えてしまって額縁だけになった四つ辻で立ち止まり、そこにいつまでもわだかまっていただけではない。それはこちら側とあちら側で同時に起きている。いや、熱や汗や震えや肉体をもったこちら側と、肉体を離脱しそこから何事もなかったかのように立ち去ろうとしているあちら側だけがあるのではない。暗い穴。ひとつの暗い穴であるこちら側と、こちら側がもうないという証にすぎない、雲にぽっかりとあいた穴のまた穴のようなあちら側で、どう言えばいいのだろう、それは起こってさえいないのだ。

 静寂の、沈黙の爆発。
 そこでは雲の隊列が薔薇色や橙色の光を照り返しながら少しずつ形を変えて流れ去っただけではない。ついさっき明るい光が雲間から斜めに射したばかりだった。何も照らすことなく。雲の理論は理論にはならない。ドゥボールの回想録の嵐の記述やソレルスの五月革命の描写を思い出す。あの大騒乱のさなかのあの静寂。前日の夜には敷石を剥がされて、車も燃えていた、早朝の、ひとっ子一人いない、がらんとした通り。静寂だって? 矛盾しているじゃないか? でも、それはほんとうだったのだと著者たちは言っていた。だが煮え切らない夜の光だけがあるのではない。誰もいない。そして同じことを考えている人がいるかもしれないとしても、けっして同じことではないその事柄を忘れてはならない。言葉と行いの両方を穢してはならない。いまやすっかり陽は落ちている。


 別の日がある。坂を上りつめたところにもう人の住んでいない家屋があった。窓は全部壊れてなくなり、雨と風が容赦なく吹き込んだからだろうか、家はひどく傷んでしまっていた。かろうじて家とわかるくらいと言えば少し大げさになるが、中には知られざる目には見えない行きずりの住人がいるようで、家自体がそれでも生暖かい息をしているようだし、とても中に入る気にはなれなかった。
 その奥には林があった。樹々の影がぼんやりと明るいぎざぎざの円を描いていた。すぐ向こうは山の斜面というか、(たぶん)切り立った崖になっている。絶え間のない風のざわめき。鳥の鋭い声がする。私は影でてきたこの円のなかには入らない。私の連れていた黒犬がいつもとは違う様子で林の奥に向かってひどく吠え始めたからだ。吠え声はいきなり唸り声に変わる。紅い舌が見え、牙を出すかのように、唇はめくれ上がっている。犬に引き摺られるようにして、腐りかけの湿った落ち葉を踏みしめる。濡れ落ち葉はぐしゅっという鈍い音を立てている。
 やがて私の黒犬の鳴き声は悲痛な高音になった。犬を抱き寄せ、叱ってみてもどうにもならない。私もすぐに気配を察した。こんな場合は誰も画家にはなれないかもしれない。顔を上げてみると、向こうに半分白骨化した犬が立ち上がった姿勢でいるのが見えた。私の黒犬はこの死んだ野犬に向かって吠え続けている。きっとこの辺の林や森に出没する、痩せて人相の悪い鳥捕り爺さんが仕掛けた罠にかかってしまったのだ。首には針金の輪っかがくい込んで、きっと苦しかったのだろう、その野犬はもがくような姿勢で半分立ち上がったまま絶命していた。折れ曲がった前脚が見えた。嘘みたいに平穏を取り戻したかのように、何の臭いもしてはいなかった。抜けてしまった毛があたりに散乱して、胸と腹のあたりから灰色の骨が剥き出しになって見えている。皮膚の下で犬のからだの形態はゆるやかに崩れていた。ここは避難場所ではない。私の黒犬は無邪気にも仲間を弔うように悲しげな声で鳴き続けていた。黒犬のそんな声を聞いたのははじめてのことだった。


 別の日がある。冬枯れの林を後にして、広い坂道を降りて右手に入ると、もう家屋がどこにも見当たらない、かなり広大な敷地がある。雑草と大きな樹々が生い茂り、昭和13年の神戸の水害で流れ着いた巨大な岩がごろごろしているだけである。葉っぱを落とし、怒ったように大きく突っ立った木を見ていると、空が絶え間なく震え、空気が目のなかで振動しているように見える。見上げると空はだいぶ翳っている。空の地図は作成できないだろうし、空には背後があるかのようだ。表面のその裏側の表面があれば、背後があるのと同じことである。このあたりは案外古い土地らしく、近所には酒船岩らしき巨大な岩が地面から半分顔を出していた。一帯の山々には、文化財などには指定されない、縄文よりさらに古いに違いない巨石群が散り散りになって眠っているはずである。太古の酒船岩らしき岩に彫られた紛れもなく人工的な浅い穴には、時おり雨だれが溜まっていた。私はそれを急に思い出したように見に行ったが、ここの敷地の岩はどれも明らかに水害で流れてきた岩だった。岩は取り乱した時間など気にかけてはいなかった。




 この敷地の正面にはなぜか木の扉だけが残されている。扉には真鍮の把っ手がついていた。このドア・ノブをいくら回してみても、扉は容易には開かないが、扉以外に壁も何もないので、中(中?)に入ることはできる。この中という観念は面白かった。外なのだから。この世には何かしら目的というものがあったのだろうか、とふと思う。扉は歳月にさえ耐えているようで耐えてはいなかった。出たり入ったりするものはもうなかった。気のきいた物語はなかった。
 木の扉の周りには野薔薇やら蔓草やら雑草やらが生い茂り、扉にまで覆いかぶさっている。木の扉の中というか後ろには、錆びた鉄製の椅子が一脚打ち捨てられているだけで、岩以外にたぶん何もない。たぶん、と言うのは、あまりに雑草が生い茂り、野薔薇や木の枝がちくちく肌を刺すので、くまなく探索することなどとうてい無理だからだ。中があったとしても、虚ろな目で空を見上げる死者の目の残像以外にそこには何もないことはわかっていた。それに死者の見たものはとっくに風化して形骸すらとどめてはいない。雨が降っている日にはけっしてそこには行かないので、扉はいつもからからに乾いて乾燥していた。
 私はここにかつてどんな人が住んでいて、どんな生活をしていたかなどとは思い描かなかった。ここにはそんなに長い時間いることなどできない。舞台装置はない。早々に立ち去るべきだ。そこにほんとうに静けさがあったのかどうかは思い出せないが、ただ破裂寸前の沈黙の音がほんの少し聞こえただけである。抗うべきものなど何もなかった。
 

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                                                        第59回 2015年2月





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